郎党達の選択

 橄欖石の月の上旬に、俺は一人、またもやティズの執務室に呼び出された。

 立ち入ってみると、そこには先客がいた。


「よぉっ」

「お久しぶりです」

「皆さん」


 この一ヶ月間、ほとんど顔を合わせることのなかった「郎党」達。みんな元気そうだった。

 ただ、その横に見慣れない男が別に二人ほど控えている。


「やぁファルス君」


 ティズも最近になってようやく少し余裕が出てきたらしい。顔の色つやが戻ってきている。


「やっといろいろ片付いた。待たせて済まなかったね」

「いえ」

「しかし、いい骨休めになったんじゃないかと思うよ」


 本当にその通りだ。一ヶ月間、ほぼ何もしないで過ごした。一度呼び出されてからは退屈を感じ始めていたが。

 こういう時間がないと、どんどん精神的にも余裕がなくなって、冷静な判断ができなくなる。俺は危険な存在だ。だからこそ、普通の人以上に自分を律する努力をするべきだと思う。


「それで、出発はいつでもいいということだったね」

「はい」

「船を用意した。南方大陸側のキト、それからカリに寄港する予定だ」


 変なことを言う。

 なぜ二箇所もまわる必要がある?


「ああ、つまりね」


 彼は落ち着きなく足踏みし、それから自分の椅子に腰かけた。そして、執務用の机の上にある書類を引き寄せた。


「今回の戦争で、序盤、赤の血盟は敗北寸前だった」

「ええ」

「そうなると、真珠の首飾りの港湾都市は、勝ち組に靡くんだ。でも、ひっくり返ってしまっただろう?」


 ティズは人の悪そうな笑顔を浮かべた。


「その分、彼らは多くを差し出さなくてはならなくなった。特に、元々こちらの味方だったはずのティンプー王国は、もう立場がね」

「また戦争なんてしないでしょうね」

「まさか」


 しかし、彼は書類を取り上げると、内容を確認してから俺に突き付けた。


「この通り、ティンプー王国は実質的に領土の半分を失った。読めるかね?」


 近付いて内容を確認する。

 この半月間、さすがに暇を持て余した俺は、シュライ語の辞書を手に入れて、勉強し始めていた。もちろんスキルも移植した。だから読めるのだが、そこにはとんでもないことが書いてあった。


『ティンプー王国はキト港及びキト区全域の統治権を、ティズ・ネッキャメル並びにその後継者に対して、無期限に譲渡する』

『カリ港については従来通り、関税の三割を、ティズ・ネッキャメル並びにその後継者に対して支払う』

『ティンプー王国は、ティズ・ネッキャメル並びにその後継者に対して、自国の統治状況について、求められた情報を速やかに開示する』


 ボコボコにされた。もう、そうとしか言えない内容だ。

 なくしたのは領土の半分でも、奪われるのは半分以上の税収だ。敗戦国も同然なのだから、これくらいの扱いは当然なのだが。


「やりすぎ、じゃあないんでしょうか」

「一人も処刑しないんだから、まだ優しいものだ。それに、彼らが重税を課すのを食い止める意図もある。統治状況について知らせよ、とはそういう目的も考えてのことだ」


 ティズから重い負担を要求されたティンプー王国側が、必要な費用を捻出しようとして庶民から度を超えた収奪をする可能性がある。それは阻止するつもりらしい。あくまで黒の鉄鎖側に乗り換えようと判断したのは王国の首脳部なので、彼らが責任を負うべきなのだ。


「前は三割、しかも港の関税だけだったんだが、今回はキトを丸ごといただいた。もっとも父の時代には、二割だったんだがね」


 裏切るたびに締め付けが厳しくなる。これでもまだ温情ある措置だ。本気で怒らせたら攻め込まれて皆殺しにされる。サハリア人はこれだから怖い。


「それで」


 もう一枚の紙を取り出した。


「こちらはフォレス語だから、読みやすいと思う」


 差し出された書類には、しかし、片方しか署名がされていなかった。もう片方は、ティズ自身だ。

 内容はシンプルそのものだった。


『甲及びその後継者は、乙の生存中、甲及びその後継者が統治権を有する限りにおいて、キト港及びキト区から得られる税収のうち、キト区の統治に必要な経費を除く全額を乙に支払う』

『上記については甲は明細を乙に提出する』

『乙の生死が不明な場合は、生存しているものとみなす』

『支払先は、特に指示がない場合、ピュリスのリンガ商会とする』

『甲及びその後継者は、乙と乙が定めた代理人に対し、甲及びその後継者が統治権を有する領域内において、一切の課税を行わない』


 呆けながら、俺はその文面を眺めていた。


「あの」

「支払いが少なくて済まないね」

「そういうことではなくて」


 頬がヒクヒク痙攣する。


「僕、いらないって言いましたよね」

「必要なのはわしの方なのだよ」


 椅子の上で肩をすくめ、ティズは言い訳を始めた。


「幹部達は君のことを知っている。それでいて何も支払わないと、どう見られると思う?」

「吝嗇ですか」

「それだけならまだいい。もっと怖いのは」


 彼は自分の首を掻っ切る仕草をしてみせた。


「このわしが、君という後ろ盾をなくしたと思われることだよ」


 そう説明されると合点がいった。


 今回、ネッキャメル氏族は戦争に一人勝ちしたが、別にそこまで突出して強かったわけではない。単に俺が、復讐のためとはいえ、進んでティズの手駒として立ち働いたからだ。そのことをハーダーンも、ネッキャメルの頭領達も、いやというほどわかっている。

 そうなると、今回の勝利は一応ティズの実績とはいえ、ティズ自身についてはそこまで偉大な族長という評価はできない。少なくとも、戦争を一方的に勝利に導いた強い指導者という見方はされ得ない。

 しかし、ティズが得たものはあまりに大きい。これによってネッキャメル氏族は、真珠の首飾りの利権を独占した。これまで東部サハリアの諸豪族がなし得なかった地域全体の統一を初めて達成したのだ。


 つまり、ティズを殺して成り代われば、そのすべてを手にできる……


 この誘惑を断つには、大きな力が必要だ。ティズが、東部サハリア統一を達成した武力をいまだに保持していることを、同胞の頭領達、また他の族長達に知らしめる必要がある。仮にもしティズに反旗を翻したら。勝利を手にしても、必ずファルスが復讐にやってくる。フィアナコンを、バタンを、タフィロンを陥落させた男が舞い戻ってくる。

 それには、その武力そのものがティズと友好的な関係を維持しているという事実が必要だ。ティズ自身が腰を低くして金品を貢いで、なんとか受け取っていただけているという、その具体的な形が欲しいのだ。

 だが、俺はこれから南方大陸の奥地、あの大森林に挑む予定だ。直接睨みを利かせることができないだけに、余計にこういう約束が重要になってくる。


「これより値切ると、多分、わしは甘く見られる」

「いらないって言っても、通用しないんですねぇ」

「欲しがらない君の方がおかしいんだよ」


 そこは否定できない。

 郎党達も、俺の言い分に半ば呆れ顔だ。


「だから今日はここに署名が欲しくてね」

「はぁ……気が進みませんが……これ、だいたいどれくらい儲かるものなんですか」

「キトはそんなに大きな港じゃないが、後ろの農地含め全部ひっくるめると、毎月だいたい三十万弱くらいはいくんじゃないかな」


 三十万。三十万って、いくらだ?

 思考が停止した。


「いろいろ経費を差し引くと、実際に君に支払えるのは、そのうちの三割くらいになるが」


 金貨が三十万枚。それが毎月だから、一日の収入が一万。ただ経費もあるから、純利益は三千。前世の大富豪の顔が頭の中にチラつく。

 単純計算で、毎日三千万円ずつ使っても困らないという生活水準。イメージできない。それもそうだ。これは国家予算のお話だ。個人のお小遣いではない。が、その国家予算を俺の財布に直接紐づける、というお話だから……

 王様? 王様か? 王様だった。少なくとも貴族並み。これが格差社会か。

 こんにちは。僕、ファルス・リンガっていいます。不労所得で年収百億円の男です。


「……ルス君? ファルス君? 戻ってきたまえ」

「はっ!?」

「まぁ、わしはもっと大きな金を扱ってきているからね……ただもちろん、私財というより、まわりまわって一族を活かすためにだが」


 根本的に庶民な頭をしている俺だ。この辺、センスがない。ピンとこなくて、ひたすら怖い。

 俺は破格だろうが、なるほど、これじゃあキースも「戦争のが儲かる」というわけだ。


「それで、そんな大金の管理など、したこともないだろう」

「はい」

「だからこの二人を呼んだ」


 彼の視線は、俺が初めて出会う二人に向けられた。

 一人は堂々たる雰囲気の、長く白い髭を伸ばした年嵩のサハリア人。もう一人は人種がよくわからない。ハンファン人なのか、サハリア人なのか。黒髪に眼鏡、そしてどことなくオドオドしているように見える。


「こちらがシックティル・コティブ、元々はマルカーズ連合国の諸侯の一人に仕えていた男だが、雇い主があちらの紛争でやられてしまってね。仕方なく逃れてきたんだよ。それをミルークが引き取った」


 つまり、この二人もまた、ミルークの郎党なのだ。


「財務に詳しい男だ。彼ならキトの管理を任せても問題ない」

「助かります」


 都合のいい人がいてくれて、本当に助かる。面倒ごとを押し付けられるという意味で、だが。

 ただ、そもそも俺に奪った領地の収益全部渡すとか、そういうことをしなければ発生しなかった面倒ではあるが。


「もう一人はビッタラク・ラヴォン、帝都出身だ」

「ああ、道理で」

「語学に堪能で、商売もよくわかっている。ミルークも資産の管理を任せていたことがあるほどだ」


 かつてミルークは、自分が所有していた資産の大半をサハリアに残したまま、フォレスティアの奴隷収容所に隠遁してしまった。彼のような裏方がいればこそ、それも可能だったのだろう。


「君のピュリスの商会も長いことほったらかしで、そろそろまずいんじゃないかと思う。わしが紹介状を書くが、君も一筆添えてくれんかね」

「それはもちろん……ただ」


 俺はビッタラクを見た。

 シックティルのほうはもういい歳でもあるし、表情にも落ち着きがある。しかし、ビッタラクの方はというと……前世の言葉でいうなら『挙動不審』『オタクっぽい』という印象がある。それに、何かはっきりとはわからないのだが、この世界で大勢の人間を見てきた経験からすると、どこかひっかかるものを感じる。


「こちらの方は、なぜミルークさんに」

「横領だ」

「えっ!?」

「帝都で美女に夢中になって、あちらで雇い主の金を使い込んだらしい。それで外国に逃げ出して彷徨っているところを、兄が保護した」


 アイドルにでも貢いだんだろうか?

 そんな男に大金を任せるなんて。


「心配はいらない」

「い、いや、そうは言っても」

「サハリア人は裏切りを許さない。そのことをよーく知っているはずだからね」


 ヒッ、とビッタラクは小さく息を呑んだ。

 大丈夫だろうか……


「まぁ、あちらにも一応責任者は残してありますので」

「うん、しっかり監督するのがいいだろう」


 ただ、あっちは女の園なんだよなぁ……

 特にリーアとかは美人だし、変なことにならなければいいが。ジョイスあたりがいれば、その辺、心も読めるし大丈夫な気はするが。マルトゥラターレがあのグルービーの魔法陣で心をスキャンすれば、まず間違いはないか。手紙に書いておこう。


「これで君は生涯お金に苦労することはないだろう」

「なんだか済みません。というか、やっぱり受け取っていいのかどうか」

「とんでもない。わしが顔を青くして必死で受け取ってもらっておるのだよ。君が本気になったら、赤の血盟なんか消し飛んでしまうんだろうからね」

「そんなことはしませんよ」


 こうやり取りしておいてから、ティズは向き直った。


「ビッタラク、そういうことだ。いいか、お前は今、わしを怖がっているようだがな……これから仕えるこのファルスという少年は、わしらサハリアの豪族が束になっても敵わない相手だ。わしなぞ裏切ってもお前が暗殺されるだけで済むが、もしどこかの馬鹿者が本気で彼を怒らせたら……街がいくつ廃墟になっても不思議はないぞ」


 また彼はヒッ、と息を呑んだ。

 それを見届けておいてから、また彼は俺に振り返った。


「キトには既に君の邸宅がある」

「はい?」

「どうせ住む気はないだろうがね。本来はキトの長官の邸宅だが、更に遡るなら、キトの元首の居館だな。街ごともらったものだから、ついてきてしまったんだ。実質的には、シックティルの仕事場になるだけだが、せっかくだから少しくらいはのんびり滞在して欲しいところだ。前にファフルが泊まったことがあるが、聞いた限りではそれなりに快適な屋敷だったとか」


 彼は悪戯っぽく笑った。


「これでタンディラールにピュリスから追い出されても、住む家は確保できるな」

「縁起でもないですね」

「そうデタラメな話ではないよ。今頃、彼はカンカンに怒っているはずだ。でなければ、悩みごとで胃に穴が開いている。先々代の頃から東部サハリアの豪族を結束させまいとして、それはもう苦労してきたのに、君が一人で勝手に全部ぶち壊しにしたんだから」


 そういえば、そうだった。あの時は頭に血がのぼっていたから……ティズが警告しても聞かなかったんだっけ。


「キトはカリほど大きな港ではないが、あちらと違ってとにかく景色がいい。ぜひとも楽しんで欲しいね。せっかく有り余る富もあるのだから」

「それなのですが」


 会話するうちに、だんだんと気持ちが落ち着いてきた。

 俺が不労所得で年収百億? そんなのもらってどうするんだ。これから不老不死を目指すのに、永遠に眠り続けることを覚悟しているのに、使いもしない金を庶民から搾り取って何の意味がある?


「もし僕の好きにしていいのなら、キトの人達のために使ってやっていただけませんか?」

「やれやれ。君はお金が嫌いなのかね? そこはあまりいい傾向ではないと思うよ」

「そういうことでは……ただ、その」


 脳裏に浮かぶのは、つい一月ちょっと前の、最後の殺人だ。


「……ハビは、サハリア人を恨んでいました」

「ふむ」

「どこでどんな風に生きてきたのかは知りません。きっとつらい思いをしたんでしょう。母を殺されたとも言っていました」


 少しずつ頭を整理しながら言葉にしていく。


「もちろん、海峡を守るサハリア人がみんな悪いとか、そんな風に考えているわけではないんです。ただ……」

「なるほどね」


 ティズは溜息をつきながら頷いた。


「そういう側面はある。そうだな、ムフタル」

「ああ」


 そういえば、彼もサオーの出身だった。セミン氏族の下で、相当な搾取に苦しんできたのだ。


「結局、金の出どころが海峡の交易だからよ。南北でドンパチやらかしゃあ、税金は東の港町にかかってくるわな。ただよ、サハリア人を全部追い出しゃあ、全部丸く収まるかっつったら、それはそれで違ぇんだぜ?」

「そうなんですか?」

「もしそうだったら、俺がこんなところいるかよ。シュライ人にゃあ、シュライ人の悪ぃとこがあんだ。ま、一括りにゃあできねぇけどな」


 タウルも同調した。


「実際に見るほうが早い。カリの街を歩けば、いやでもわかる」


 何があるんだろう?

 だが、その説明には立ち入らずに、ティズは言った。


「では、その辺も含め、シックティルに裁量を任せよう。搾取はせず、さりとて与え過ぎず……わかるな」

「お任せを」

「まぁ、赤の血盟がしっかり海峡を支配しているうちは、もはや争いもない。重税を課すこともなくなる。少なくとも、わしが生きている間はね」


 大勢の血が流れた戦争だったが、そこだけは救いなのかもしれない。サハリア人を恨んで闇の世界に身を投じたハビのような人物が、再び現れずに済むのなら。


「で、もう一つ話がある」

「なんでしょうか」

「君に預けたこの郎党だが、今日をもって解散だ」


 俺は頭を下げた。


「改めて、ありがとうございました。先の戦の最中には、いろいろと失礼もあったかもしれませんが、皆さんのおかげで戦い抜くことができました」


 実際、初回のハビの襲撃を受けた時には、彼らなしでは生き延びるなどあり得なかった。主君と家来というお芝居は終わったのだから、感謝するのが筋だ。

 それに、これも自然な成り行きだ。彼らはそれぞれ軍功をたてたのだし、ティズはもう以前のような弱い族長ではない。今後は赤の血盟の中でそれぞれ地位を得ていくのだろう。


「その上で、それぞれ今後の進路を選んでもらおうと思っているのだが」

「よぉっし」


 まずムフタルが声をあげた。


「おい、ファルス」

「はい」

「お前、南方大陸に行くんだよな?」

「はい。大森林に挑みます」

「だったら俺が」


 もしかして、手伝ってくれる?

 あんなに大森林は割が合わないって言っていたのに?


「済まんが」


 ティズが割って入った。


「ムフタル、お前だけは別だ」

「あ?」

「今は人手が足りん。海峡を守る仕事をしてもらう」

「なんだとぉ!」


 これは残念だ。

 ムフタルは頼りになる男なのに。彼を連れて大森林に挑めるなら、どんなによかったか。ただ、うっかり死なせるかもしれないし、これでいいのかもしれないが。


「熟練の船乗りはそうはおらん。今は手放せん」

「チッ……」

「引継ぎできるのが育つまでは我慢してくれ。赴任先はサグィかジャンヌゥボンか、選んでくれていいが」

「あー、へいへい、わかりましたよ」


 俺は、彼の態度が理解できず、少し戸惑っていた。

 でも、どうして?


「ファルス君」

「は、はい」

「あり得ないものを目の前で見てしまったらね……興味は抑えがたいものなんだよ」


 俺の気持ちを察したティズが言い添えた。

 俺自身はただの人間でしかない。自分でそう思っている。力はあるが、それは世界の欠片の賜物でしかない。しかし、周囲の人間からすれば違う。何か抜きんでたところのある天才。そういう目で見られても不思議はない。

 こいつはどこまで行くんだろう。そういう興味だ。


「そんなんじゃねぇよ」


 だが、ムフタルは首を振った。


「俺ぁただ、てめぇのケツを拭きてぇだけだ。もとはといやぁ」

「ムフタル、その話はするな」


 急にティズが険しい表情をみせて、話を遮った。


「何のことですか」

「なんでもない。君には関係ないことだよ」


 それでは納得できないのだが……


「ファルス様は不思議な方ですよね」


 ……そこでディノンが割り込んだ。


「確信したのは、あのバタンの戦いのときです。到底助かるはずもない傷が塞がったばかりか、誰が風の賢者かを的確に見抜きました。顔も見えないのに」

「あ、あれは……」

「そして、どうやって魔法を封じたのでしょうね」


 かなりやり過ぎた感じはある。あの時は、復讐のことしか頭になくて、後先を考えていなかった。


「だから気になる……というのは正直なところですが、ティズ様、私はネッキャメル氏族の下にとどまります」

「そうかね」

「仮にも妻子がいるのに、何もかもを捨てていくわけには参りません」


 既婚者だったのか。しかしディノンも三十代、この世界の常識に照らせば当然だ。


「であればディノン、仕事は用意してある。カリに駐留してもらう。ファフルがあのザマだからな。あちらで睨みを利かせるのに、腕のあるのがおらねば話にならん」

「承知致しました」


 ティンプー王国やその他の都市国家への抑えというだけでなく、彼らを守る役目もある。大森林からの魔物の発生に対処するためにも、サハリア兵の力が必要なのだ。残念ながら、特に南方大陸西部のシュライ人は、弱兵で知られている。


「フィラック、お前はどうする」

「もちろんファルスと共に行きます」


 彼は即答だった。


「大森林、面白そうじゃないか。ついていっていいか」


 死なせるかもしれない。

 そういう重荷を背負うのは……


 いや、違う。

 彼が自分で選んだことなら、構わないじゃないか。その上で、俺も最善を尽くすだけ。ただ、念を押しておくべきだが。


「いいんですか? 大森林はまた、戦争とは違った危険があると聞きましたが」

「いいんだ。これも恩返しだ」


 快活な笑顔で彼は言いきった。


「恩って……僕はバタンで助からないところを救っていただいたので、こちらこそ恩義があるんですが」

「それも含めてだ。元々、俺はミルーク様に救っていただかなければ、海で死んでいた。そのミルーク様のご縁があったから、ファルスも戦ってくれた。ネッキャメルも滅ぼされずに済んだ。だったら、その分俺が手助けになれるなら、それが恩返しの続きになる。そう思ってる」


 多少の躊躇はあったが、俺は頷いた。


「わかりました。これからもお願いします」

「では、タウルは」

「行く」


 彼は初めて白い歯を見せて笑った。


「でも、どうしてですか?」

「俺がハリジョンにいても、そんなに偉くなれない。でも、ファルスはこれからもっと偉くなる。俺はそう思う」


 なんと、彼は純粋に出世欲からか。それも悪くはないし、こちらも気負わずに済むというものだ。それに彼の経験と土地鑑はありがたい。


「大森林は、俺が案内する。その代わり、役に立ったら名誉が欲しい」

「名誉?」

「子供の頃はずっとひもじかった。ミルーク様に仕えてからは、それはなくなった。でもまだ、偉くなったことがない」


 俺が与えられるようなものだろうか。だが、できる限り報いよう。

 でも、言われてみると、そういえばあのカチャンも、実はしっかりプライドがあった。これも西部シュライ人の気質というやつだろうか。


「よろしい。では、ファルス以外は宿舎に戻ってもらおう」


 ティズが話を引き取った。


「僕だけ残る……ですか?」

「二日後に船が出る。明日の夜に見送りの宴を催すつもりだ。だがその前に、君に渡すものがあったからね」


 そうだった。

 二週間前にお願いした、魔術書の写本。今日、受け取れるのか。


 ティズが手を振ると、みんな大人しく部屋から去っていった。

 はて、しかし、なぜ人払いをする?


「さて」


 一息つくと、ティズは椅子から立ち上がった。


「では、君を我が家の宝物庫に案内しなくてはな」

「宝物庫? いえ、わかりますが、そんなところに保管しているんですか」

「ん? ああ、魔術書も貴重な品ではあるが、そういうことではない」


 そう言うと、彼は部屋の左手にある通路から、先に立って奥へと歩いていった。

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