墨は血、筆は槍

 二日後、ハルブ砦の背後の水路に沿って、ティズは手勢を率いて前進した。

 南東方向に続いていた水路がやがて真東を向く。その頃には、周囲の大地にうっすらとまだらにだが、緑の絨毯が敷かれているのを目にした。南側にある丈の低い山々も濃い緑色に染まっている。荒涼とした砂漠の景色に、僅かながらでも彩りがあると、まるで別世界にやってきたような気分になる。

 ジャンヌゥボンを挟んで南北に、割と湿潤な地域がある。あの南側の小山を抜けた辺りがアルハールにとっての穀倉地帯だ。その向こう側にもポツポツと小さな村落があるのだが、特にルークの世界誌に名が挙げられているのがタラフ村だ。今ではどうということはない、百人も住んでいない寒村でしかない。しかし、かつてはこの世界の歴史に激震を起こした場所だったのだ。そのことを昨夜、ムフタルが話題にした。


 俺が右を向いてそのことに思いを馳せていると、横合いから、からかうような声がとんできた。


「なんだ、行ってみたいのか」

「いや、さすがに」


 西方大陸最南端の村。そこからあの災厄の女神が生まれた。

 彼女は人間の娘として生まれたそうだ。住んでいた人種も今でいうところのサハリア人ではなかったらしい。縮れた長い黒髪に白い肌というから、まるで古代ルイン人のようだ。言うまでもなく絶世の美女だったという。

 村にいた頃は気立てのいい娘を演じていたそうだが、程なく彼女が数々の災害を招き寄せると、人々の憎しみが向けられるようになる。それからは人目を避けるようになったらしいが、最後にはここジャンヌゥボンから程遠くない場所で捕らえられた。

 それからどうなったかって? 今も昔も人間のやることなんて変わらない。不老の美女を手に入れた彼らは、石の監獄を拵えて女神を監禁し、慰み者にした。数百年もの間、大勢の男達に汚され続けた彼女だが、今からおよそ一千年前、あの英雄ギシアン・チーレムの手によって救い出され、その罪を許されたという。

 その陰鬱な牢獄は、現存する。ジャンヌゥボンの城市の北側、岩山を一つ越えた砂漠の中に、崩れかけたのがそのまま放置されているのだとか。


「いい女がいるかもしれんぞ」

「フィラックまで、何を言ってるんだか……」


 恐らくもう、戦いにはならない。俺のすぐ横で大人しく馬に乗るアルカンに確認を取った。彼は都市の防衛力について口を割るのは拒否したが、投降を呼びかける使者を送る件については肯定的だった。まだまだ十分に抵抗できるだけの戦力があるなら、また違った態度をとっただろう。

 それでティズは、ラークにその使者の役目を任せた。


「見えてきましたね」


 手で庇を作りながら、ディノンが言った。

 暗い灰色の尖塔が見える。それがいくつも。城壁も見えた。なだらかな曲線を描く南北の石壁が、ちょうど真西に向かうところで繋げられている。西側からこうして近付くと、まるで巨大な石造りの帆船が迫り出してくるみたいだ。


 前方に小さな影が現れる。勢いよく馬を駆けさせてきたラークは、手前で馬から飛び降りた。そのまま跪いて、足を止めたティズに報告する。


「お伝えします。ラジュルナーズは内城の入口でティズ様をお待ちするとのこと」

「ご苦労」


 どうやら抵抗するつもりがまったくないようだ。内城ということは、今目の前にある巨大な城壁の内側となる。内城の周囲には市街地もあるから、そこまで敵軍に侵入された上で戦闘になろうものなら、被害は甚大だ。ラークを通して、ムナワールが殺害された件も既に伝えてある。だが、ラジュルナーズはなんとか冷静さを保ったらしい。


 水路の脇に正方形の石畳が敷かれている。もうすぐ目の前に巨大な石の船の舳先が見える。実際にはちょうどそこで城壁の切れ目があって、その狭間からハルブ砦に通じる運河が続いている。俺達は右手に折れて南西の城門から城市の内側に入った。

 日差しの遮られる冷え冷えとした長い城門を潜り抜けると、壁際にはいくつも組み立てられた投石器が並んでいた。抵抗しようと思えば、まだ一踏ん張りする余地はあったのだろう。だが、ラジュルナーズはそれでも投降を選んだ。


 街の東西を貫く大通りに出た。敷石は真っ白で、照り返す陽光が眩しい。馬車が四台は並んで走れるほどの幅広の通路、そのまた左右に歩道とみられる補助的な通路があった。その向かいには陸屋根の、これまた白い石材で建てられた家々が並ぶ。これだけでも、他のサハリアの街とは格が違う豊かさだ。だが、今はどこも固く扉を閉ざしている。そんな中を、俺達はティズを先頭に、列を作って静かに進んだ。

 やがて視界を圧するのはアルハール氏族が代々受け継いできた内城だった。まず目を引いたのが林立する尖塔の数々だ。蝋燭の炎を象ったようなその頂点は緑がかった青色で、いかにも目に鮮やかだ。その下に広がる居城はやはり白一色なのだが、そこにところどころくっきりと着色されている。赤とか、茶色とか、緑とか……そのコントラストが目を引くのだが、胸壁のギザギザの部分がなんとなく、レゴブロックで組み立てたような風にも見えた。


 内城の周囲は濠に囲まれており、そこは水に満たされている。ただ、西門の手前には石造りの橋がかけられており、馬に乗ったまま通ることができる。その向こう側には大きな門があり、すぐ上に目を引く優雅なバルコニーがあった。

 ティズは、そこに黒い長衣を身に着けた老人の姿を認めると、表情を引き締め、そっと下馬した。手綱をラークに預けると、一人、前へと踏み出した。


 自分達の族長が敬意を払っている以上、目下の人間が馬上にあるわけにはいかなかった。誰もが自然と馬の背から降り、成り行きを見守り始めた。

 老人は、相当な高齢だった。もう八十歳になろうとしている。足腰が弱っているらしく、杖をついていた。顔立ちも年相応で、深い皺が刻まれている。けれどもその表情は柔和そのものだ。ただ一人の息子を失ったばかりの父親とは思えないほど、落ち着き払っている。自然と品位を感じさせるところがあった。


 ティズはその老人、ラジュルナーズを見上げ、彼もまた、かつての弟子を見下ろした。そのまま、しばらくが過ぎた。


「ようこそ、我が眼の慰めよ」


 旧知の友を迎えるかのように、ラジュルナーズは穏やかな笑みを浮かべてそう呼びかけた。


「知恵と魂の柱たる我が師、あなたを片時たりとも忘れたことはありませんでした」


 ティズの返答に、彼は苦笑しながら小さく首を振った。

 俺は察した。なんというやり取りだろうか。今しがたまで敵味方に分かれて争っていたのに。年月を経ても、なお師弟の情は失われていないのだ。これがサハリア人の美徳だ。過ぎ去った歳月など無きに等しい。遠方にいようと何があろうとも、一度繋いだ友愛は消えない。


 最後のラジュルナーズの仕草は、見ていて俺まで苦笑いしそうになった。なんと楽しそうな。あれは弟子の不出来を指摘するものだ。もっと言葉を節約せよ、言い回しを工夫せよと。

 ティズも考えて受け答えはしているのだ。ラジュルナーズが「眼の慰め」と言った。これに対する応答だ。いいえ、あなたは私の心の慰めなのですよ、ただ目を喜ばせる以上のものです、と暗に述べている。けれども、少々大仰に過ぎた。それにまた、その後に続く言葉に工夫がまるでない。いつも師のことを心に思い描いてきたのだと、それを何か形あるものに託したり、仕草に移し変えて表現するべきだった。


 唐突に、ラジュルナーズは呼びかけた。いや、見当外れな言葉を呟いた。


「我は書を愛せり」


 硬直したティズは、やや間をおいて神妙な表情で応じた。


「父祖皆書に名を連ねたり」


 頷いたラジュルナーズは続けた。


「風荒ぶ沙漠彷徨いて。寄せる波濤越えて」


 即興の詩句を継ぎながら、二人は対話を始める。


「かの地に礎築きしは我が祖。見よや黒の岩船、白の大路」


 ティズはこう応じた。

 ラジュルナーズの父祖はこのジャンヌゥボンを支配下に置いた。城市の外郭を黒の岩船に喩え、この純白の大通りにその繁栄を讃えてみせた。


「幼くして筆を墨に染め、箱庭の花の優美に嘆息す」


 ラジュルナーズのこの一句にどう応えたらいいのか。彼の幼少期など、誰が知るものか。

 けれども、今は詩人となった彼も、幼い頃は勉強嫌いだったらしい。サハリア特有の箱庭を脇に備えた上品な書斎。筆にインクを染みこませるだけで、一向に書き取りを始めようとしない怠惰な姿が思い浮かぶ。


「花々皆乙女の如くに香り、書庫その老父のそれなり」


 ティズは諧謔をもってこれに応えた。少年時代のラジュルナーズが夢中になった花々は乙女、打ち捨てられた書籍と勉学は年老いた男に喩えられた。

 ラジュルナーズの顔に浮かぶ笑みが深くなる。


「黒い筆もて白い肌を刻む、語り伝えしは父祖の武勲」

「先人槍もて敵を平らげしが、我今ただ一枚の紙をも領せざるなり」


 けれども長じては彼も歴史を学び、父祖の偉大な業績を知るようになる。

 その末裔に過ぎない自分達は、その祖先のなしたことをただ書き表すことさえ叶わないのだ。


 だが、ラジュルナーズは次の一句でティズの喉を詰まらせた。


「一夜にして眼前覆うは銀の穂先。筆持つ手、如何にして槍をば持ち得よう」


 その銀の穂先をここまで持ち込んだのはティズ自身だ。

 師弟としての旧交を温めるこのひと時に、戦争の当事者としての現実が圧し掛かる。


「その高貴は父祖に劣らず。此は恥辱にあらず、ただ不運あるのみ」


 葛藤の中で、かろうじて捻り出したのがこれだった。

 ティズはアルハールを滅ぼしたいと望んでいない。ラジュルナーズを恥辱の中に死なせようとも思っていない。そういう意思表示だ。


 だが、それへの返答はこれだった。


「今の今まで悟り得ぬとは……墨は血、筆は槍」


 師が何を述べようとしているかがわからないではない。ティズは苦し紛れにこう応じた。


「梟雄倒れ地に伏し、紙面に黒き血を流す。童は武勲を笑みて口ずさむ」


 物語の中では、いつも暴君が打倒され、それが好ましい出来事であったかのように語られる。当然の正義として歌い上げられる。

 だが、当事者でもない人々が何を知ろうか。その無情を言葉にした。


「墨と筆あれば、ここに紙片あり。語るは血の赤、語られるは墨の黒」


 ラジュルナーズのこの一句で、ティズは完全に硬直した。もはや口を開くことができなくなった。

 さすがに俺でも意味がわかる。語る側とは、闘争に勝利して生き延びる側。語られるのは、滅ぼされた側だ。ラジュルナーズは、死を受け入れている。そのことを、互いの長衣の色と、それぞれの同盟のイメージカラーに合わせて述べたのだ。

 弟子が何も言えずにいるのを目にして、彼は続く詩句も口にした。


「赤きものとはなんぞや、其は赤き美酒。黒きものとはなんぞや、其は黒き定め」


 不吉すぎる宣言に、ティズはもとより、その後ろにいる俺達ですら、何も言えずにいた。


「ああ、我は書を愛せり、今将に我が身は書とならん」


 詩句の締めくくりも、ラジュルナーズが一人で片付けてしまった。

 そうしてやり取りを終えた彼は、そのまま背を向け、バルコニーに口を開けた暗い廊下の彼方へと静かに歩き去っていってしまった。その後ろ姿をティズは見送り、肩を落として俯いた。


 しばらくして、城門が静かに開かれた。その背後には、重苦しい表情を浮かべるアルハールの兵士達の姿がある。

 俺達は押し黙ったまま、内城の門を越えて進んだ。


 内城の広場に出た。向かい側には扇形に広がる白い建物があり、いくつかの尖塔が居並んでいた。その白い塔の壁面に、色のある影が映り込む。傍らでラークが息を呑んだ。

 あれはアルハールの女達だ。滅びゆく一族と運命を共にするため、自ら塔の上から身を投げているのだ。しかし、こうなってしまっては誰にもどうにもできない。


 まっすぐ歩くと、その眼前の扇形の宮殿の表の門が口を開けていた。中に立ち入ると途端に薄暗くなる。と同時に強烈な日差しが遮られて、肌寒ささえ感じるほど涼しくなる。

 目の前の大理石の階段を上ると、赤い絨毯の敷かれた謁見の間に出る。その奥には族長の椅子があり、そこにラジュルナーズは目を閉じて腰掛けていた。その右手の方に小さな卓があった。杖が立てかけてある他、小さなグラスが置かれている。その底の方には、僅かながら黒い液体が残されていた。

 一方、座っているラジュルナーズの向かいに、立ったままで手の届く卓があり、そこには赤い液体で満たされたグラスがあった。


 前に立つティズは、小刻みに震えていた。

 背後のラークの制止にもかかわらず、彼は前に踏み出すと、乱暴にグラスを取った。そして中の赤い液体……葡萄酒を、一気に飲み干した。


 承知してはいた。こうなるしかなかった。

 この戦争の責任を取れるのは、彼しかいなかったのだから。


 誰も何も言い出せない息詰まる空気の中、ティズは師の前へとよろめくようにして一歩ずつ歩み寄り、そして突然に膝を折ってその場にうずくまった。髪を掻き毟り、ターバンを打ち捨てて嘆きを露わにした。それはまるで実父を失った息子がするような振舞いだった。


 それから立ち上がると、目を赤くした彼は、従ってきた一族の者達に告げた。


「これより後、この地の何者であれ、害することは固く禁ずる。世を去った者達は、これより礼を尽くして手厚く葬る。伝えよ!」


 こうして二ヶ月半にわたって繰り広げられたこの戦い……後に血墨戦役と呼ばれることになった戦争は、終わりを告げたのだ。

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