影は大地に闇を記す

 血のように赤い夕陽だった。


 ジャンヌゥボンの北、小さな岩山を一つ越えた向こうは、まるで別世界だった。萎びた草一本生えていない。ひたすら岩と砂ばかりの荒涼たる景色が広がっている。今日は風もなく、何もかもが時を止めているかのようだった。

 振り返れば、小さな砂丘に残されているのは、俺一人分の足跡ばかり。他には一切、生命の痕跡は見られなかった。あるのはただ、無機質なコントラストだけ。砂丘の頂点は赤銅色に輝き、その影は限りなく黒に近い灰色に染まる。

 北側に目をやると、離れた場所に黒い影が見える。あそこが例の監獄だった場所だ。災厄の女神は、サハリアに住まう男達の憎悪を一身に受けた。そのまま更に北側に連なる岩山を超えると、そこはセミンの人々が暮らすオアシスになる。走竜が飼育されているそうだが、そこまで歩いていくとすれば、何日かはかかりそうだ。


 虚無そのものの世界。リント平原を目にした時にも感じた。これが俺の目的地なのだろうか。少なくとも、俺に相応しくはある。どこか腑に落ちるものはあった。


 この戦争で、俺はいったい何人殺したのだろうか。もう、今となっては数え切れない。虐殺に次ぐ虐殺だった。ブスタンでも、アーズン城でも、ハリジョンでも。フィアナコンで俺の手にかかったのは僅かだったが、それでも殺すときには何の躊躇もなかった。息を吸って吐くように、目の前に立ちはだかった相手を切り伏せた。バタンでは、戦闘が終わってからも、何かの衝動に駆られて捕虜を殺した。他の何より敵の血を欲した。

 何のために? 自分の身内を殺された。そう思った。だから復讐するのだと。

 理屈の上では、わかっていたつもりだ。ノーラの命と、黒の鉄鎖の兵士の命と、どちらも一人の命に過ぎない。復讐したからといって死者が甦るのでもない。にもかかわらず、俺にとっては身内の犠牲が殺戮の理由になった。

 俺が人であることから完全に手を離したらどうなるか。使徒はそれを見せつけるのに成功した。しかもそのきっかけは、ほかならぬ人としての情だった。


 しかし、きっかけでしかない。これは重要だ。

 俺は、心のどこかでこういう殺戮を望んでいたのではないか。


 ピアシング・ハンドという物騒な能力をもってこの世に生まれ落ちた。世界の欠片が、本人の望みに応じた力を授けるものだと仮定すると、まさにその力に振り回されて生きることこそ、あるべき姿ということになる。

 してみると、こんな理不尽はない。この世界の人間と、俺が前世から持ち運んできた無念や憎悪とは何の関係もない。なのに俺は、自分の怨恨を吐き出すためだけに戦争に便乗した。人を殺したいから殺した。そういうことではないのか。


 もう一つ。

 俺は、人の抱く「愛」という感情の価値に疑問を抱いてしまった。


 愛とは、人の抱く感情の中でも、最も尊いものではなかろうか?

 それは誰もが認めるところだ。俺もそのように受け止めていたからこそ、彼女の死をなかったことにはできなかったのだ。しかし、同じく故郷や家族を守るために戦い、死んでいったあのフマルの戦士達のことを思うと、いったい彼らと自分と、どれほど違いがあったのかと思う。

 どうやら、愛とはそれ自体、人の道標とするにはあまりにあやふやで、頼りないものらしい。では、何に縋って生きていけばいいのだろう? 金貨か? 力か? 規則か? 快楽か?


 使徒の目的は、少なくとも半分は達成された。俺はキースやガッシュを殺さずに済んだし、ノーラ達も無事、帰ってきた。

 しかし、俺はもう人ではない。人であってはならない。その思いはより強くなった。軽く腕を打ち振っただけで、誰かが巻き添えになって死ぬ。巨大なゾウが、小さなアリに友情を語るなどできようか? 身を揺するだけでアリ達は潰れて死んでいくのに。

 だからこそ、俺は不死を手にしなくてはならない。この砂漠のように、何もない場所に一人佇み続ける。今度こそ永遠の静寂を、まどろみを手にする。


 だが、聖女の伝説も、人形の迷宮も、不死を与えてはくれなかった。

 残る候補は三つあるが、そのうち二つは望みが薄い。神仙の山に不死を得た人がいるのならアドラットがそう教えてくれただろうし、龍神モゥハが俺を見逃してくれるとも考えにくい。だから、もし不老の果実も望みを叶えてくれなかったら……


 シーラは今の俺をどう思っているだろう。

 自分では、今度ばかりは免罪され得ないと感じている。これが仮に、飢えた俺が食べるものを欲して動物を殺したというのなら、まだ赦免の余地があった。或いは問答無用の殺戮者を前に、身を護るために戦った結果であれば。だが、人と人との戦争である以上、そのような言い訳はできない。巻き込まれただけではなく、憎しみから参加を希望したのだから。

 実はしばらく、あのゴブレットの蓋を開けていない。開けるのが怖いのだ。多分だが、中には何もない。わかっているが、確かめたくない。


 彼女が俺をノーラやペルジャラナンと同じく、不可視の羽衣で守ってくれれば、こうはならなかった。だが、それは不可能だったのだろう。

 一つには、俺が赤竜を脅威とみなし、傷つける可能性があったこと。もう一つには、使徒はまさに俺に注目していたのであり、それが急に確認できなくなったら、今度こそ何者かの介入にはっきりと気付いてしまう。


 シーラが許さないからといって、それならと開き直って殺人を重ねる気にはなれない。そんなことは望んでいない。それでも生きるために否応なく他の命を奪うことはある。

 今、これからも……多分、俺はあと一人、殺す。


 小さな足音が聞こえた気がした。


「プノスさマ、お呼びでしょウか」


 もう東の空は、濁った藍色に染まりつつある。そんな中、足下の砂山を踏みしめながら、ハビはこちらに歩み寄ってきた。そう、奇妙なことに西からではなく、彼は東から歩いてきた。

 それにしても、改めて見るに、なんとも手足の長い男だ。背も高い。それによく鍛えられている。これほどに至るまでに、彼はどれほど努力を積み重ねてきたのか。


 まだ互いの距離は数メートルほど離れている。

 彼は平坦な場所に立っている。俺との間に小さな砂山がある。彼の膝に届く程度の高さがあるが、なぜかそこを乗り越えようとはしなかった。


「ああ、ハビ。ラークから聞いたのか」

「はイ。おメでとうゴざいまス」


 覆面の向こうからでは表情はわからない。だが、彼は明るい声色で俺の出世を祝った。


「ティズ様がプノス様をククバン氏族の長と認メ、正式にバタンの領有権を授けルトのこト。サオーの徴税権も与エルそうでス」

「伝わっているならいい」

「そレでこのハビにも、お役目を下さルとカ」

「そうだ。お前には赤の血盟の参謀になってもらおうと、俺からティズ様に進言した」

「おォ」


 彼は手を合わせて喜びを体で表した。


「金貨も使いきれないくらい与えよう。名誉もだ。嫌いでなければ良家の娘との縁組も面倒を見よう」

「身に余る幸セ」

「だから」


 俺は、身を震わせて喜びを演じる彼を、手で制した。


「本当のことを教えてくれないか?」

「ハて? 本当のこととハ」


 すっとぼけるに決まっていると思っていた。だが、この戦争の本当の決着は、ハビをなんとかしないことにはつけられない。


「この戦争を企てたのは、誰だ?」


 もう、ほぼすべてわかっている。

 あのタフィロンの貯水池で、俺の中ではすべてが繋がった。もうこいつは逃がさない。


「ソれは、四賢者の力を得て増長したムナワールではなイですカ? ソれとも、ネッキャメルへの復讐を望んでイたハダーブでしょうカ」

「どちらもそうだが、それは表向きのことだ」

「でハ、誰ガ」

「お前だ」


 この真正面からの指摘に、さすがの彼も沈黙した。

 だが、さすがに認めてしまうわけにはいかないらしく、声色を和らげると、言い訳を始めた。


「確カに私はアラティサール様に仕えておリましたし、あの密書の件もあリますので……」

「それは重要じゃない。お前はアラティサールが思い通りにならない場合には、暗殺する役目も負っていた。そうだろう?」


 この指摘に、彼はまたもや黙り込んだ。


「いカにプノスさマとイえども、このような言いがカリは」

「言いがかりじゃないと言ったら?」


 彼の視線が険しさを帯びる。


「土の賢者アルタラバが口を割ったぞ」


 彼は、かろうじて言葉を発した。


「アルタラバは、プノスさマが討ち取ったそウですガ」

「そうだ。殺す前にまだ息があったから、問い詰めた。あっさり白状したよ」


 俺はいまやハビを睨みつけながら、はっきりと言った。


「奴もお前も……パッシャの一員である、とな」

「事実無根にござイまス」


 そう答えると思った。


「なぜそう言い切れる?」

「知らなイものは知らなイからでス」

「違うな。お前は知っているから言い切れるんだ」

「何をでシょうカ」

「アルタラバがそんなことを言っていないと」


 俺の滅茶苦茶な言い分に、彼は目を瞬かせた。


「直前まで、お前は神通力でアルタラバとやり取りしていたんだろう? ティズとその部下達は岩山の奥に誘導した、あとは崖崩れを起こして生き埋めにするだけだ、と」


 さすがに彼もここまで言われると、もうしらばっくれるのは難しいと感じたようだ。じっと黙ったまま、こちらを見つめている。


「お前はあのバタンに布陣した日の夕方、わざわざアラティサールについて、ネッキャメルの陣営にやってきたな。その目的は、最初から俺だった。なぜなら」


 俺は自分を指差しながら、言った。


「お前の千里眼では、俺の姿を見つけられなかったから。そうだな?」


 相変わらず、彼は微動だにしない。


「だから、見分けやすい目印を探した。女だてらに戦場に立つジルは、探しやすかっただろう」


 俺が同行する人物の顔を覚えておけば、俺自身を神通力で発見できなくても、だいたいの位置を把握できるようになる。そのためだった。


「黒の鉄鎖の賢者達……確かに一流の魔術師ではあったが、彼らだけであの地震と雷を引き起こすのは難しかった。だから応援を呼んだはずだ。アーウィンあたりに手助けしてもらったんだろう」


 でなければ、あの桁外れの威力は説明できない。


「あの混乱に乗じてアラティサールは撤退した。一方お前は、大事な仕事のために居残った。その仕事とは」

「もういい」


 腰から黒塗りの短剣を引き抜き、逆手に構える。


「お前は知りすぎた」

「知らなくても、どうせ俺を殺すつもりだったんだろう? お前達パッシャの目的は、誰にも知られない形でサハリアを支配下に置くこと。お前達の素性が明らかになれば、世界中が黙っていない。それこそワノノマからセリパシアまで、あらゆる国々が討伐のために立ち上がる。だが、ティズみたいな男は操りにくい。知恵がまわるくせに欲も野心もないから」


 精神操作魔術は便利だが、万能ではない。短期的には人を自由自在に操れるものの、長期的には信頼できないのだ。特に、本人の思考や価値観から逸脱するような行動をさせようとすると、かけたはずの魔法が解けてしまうリスクが高まる。

 ムナワールは精神支配されていなかった。その必要がなかったからでもあるが、数年間にわたって魔術で支配し続けるのが現実的ではなかったためでもある。だからこそ、四賢者は彼にへつらった。

 赤の血盟の主要人物のうち、どうしてアールンやファフル、アラティサールが選ばれたのかも、これが理由だ。アールンにはフィアンの置かれた不利な状況からの焦りが、ファフルには族長になってすべてを支配したいという野心が、アラティサールにはネッキャメルへの妬みがあった。

 本人の意識や願望に沿う形でなければ、魔術の効果も限定的になる。数日で魔法が解けて、悪意を見抜かれてしまうくらいなら、そもそも何もしないほうがましだ。その意味で、ティズは本当に操りにくい相手だったのだ。


「だからいずれ殺すが、どっちにしろ俺がいたら元の木阿弥だ。すぐにタジュニドやらラークやらを担ぎ出して、お前らが手を出せないようにしてしまうから」


 だから、ハビは……毒塗りの短剣で俺の命を狙った。

 そう、黒い影の正体は、ハビだ。こんなの、他にいるわけがない。


「なのに……俺が死にかけているのを見て、確実に片付けたはずだったのに、生き延びてしまった。こんなはずではなかった。いくらアーウィンの助けがあるといっても、その存在を俺に知られてしまったら意味がない。だから赤の血盟がバタンを攻め落とした時、お前達は方針を変えた。もうムナワールには期待しない。アラティサールも駄目だ。ティズをファルスが助けているうちは、どうにもならない。どうせサハリアを直接支配下におけないのならいっそ、大きな力を持った族長が現れないよう、混乱させたままにしておこうと。だからお前はアラティサールを始末した」

「二つに一つだ、ファルス」


 ハビは俺に決断を迫った。


「今、ここで死ぬか。それとも組織に加わるか」


 彼は俺に提案した。


「お前が頷くなら、今すぐ東部サハリア全域の支配者にしてやろう。組織は助力を惜しまない。だが、断るというのなら」

「ここでお前が殺す、と」

「そうだ」


 ハビは、俺に判断材料を追加した。


「お前は大した戦士だ。だが、もはや組織には敵うまい」

「アーウィンには手こずりそうだな」

「それどころではない。サハリア東部を手にするこの作戦は、組織の大いなる計画のあくまで末端……最悪の事態を防ぐためのものでしかない。我らの計画が完遂されたその日には、ファルス、お前であっても、誰であっても……たとえ龍神が牙を剥こうとも、もはや世界の修復を食い止めるなどできはしないのだ」


 だが、結論は最初から決まっている。


「本音を言っていいか」

「勝手にしろ」

「俺は、お前らなんかどうでもいい」


 この発言に、ハビは再び目を瞬かせた。


「サハリアの支配者が誰とか、魔王がどうとか、本当にくだらない。俺には関係ない話だ」

「だから、どうする」

「これ以上、俺の周りの人間を巻き込むな。どこか俺の知らない世界でいつまでも勝手に殺し合いでもしていろ」


 動かない砂漠の空気の中で、俺とハビもまた、動きを止めて睨みあった。


「なんにせよ、秘密を知られた以上」

「殺す、か」


 俺は剣を引き抜き、身構えた。


「忘れたのか、ファルス」


 その時、ハビの体がグニャリと歪んだ。


「お前は私を殺せない! お前の剣は届かない!」


 そのまま、まるで洗濯機の中に放り込まれた衣服のように、ハビは黒い円形の渦になった。


「愚かな奴! 哀れな奴! 今度こそ砂漠に骸をさらすがいい!」


 絶対無敵の力。剣も魔法も通じない。それでいて、一方的に敵を攻撃することはできる。

 だが、そんな都合のいいものが、この世にあるものだろうか?


 なぜなら、俺の目には……ピアシング・ハンドには、さっき彼の姿を目にした瞬間から、既にして表示がなかったのだ。それが意味するところはただ一つ。


 黒い渦から、鋭い刺突が繰り出される。それを俺は小さな動きで避けていく。

 思った通りだった。いざとなったらピアシング・ハンドで始末する。そのためにとハビの魂に砂漠の草を放り込んでおいたのだが、やはり無駄になった。彼自身、意図せずではあろうが、俺の認識を避ける方法を備えていたのだから。

 もう一つ。達人の動きというには、やや鈍い。どうしてこんな風に渦巻いて形をごまかさなくてはいけないのか。理由はいくつもある。一つには正体を隠すためだったが、今回、それはない。もう一つの理由、それは……まさにその体術の不自然さを悟らせないためだ。


「チョコマカと! 逃げるな!」

「動きが鈍いな、ハビ」

「ぬかせ!」

「考え直すつもりは、ないんだな」


 なら、もう手を下すしかない。


「死ね!」


 ハビが渾身の一撃を繰り出したその瞬間、俺は身を翻し……自分の背後の『何もない空間』を切り裂いた。

 その瞬間、黒い渦は消え失せ、今しがた剣を振り抜いたその場所に、赤く胸を切り裂かれたハビの姿があった。


「ア……カ、カカッ」


 小刻みに震えながら言葉にならない短い呻き声を漏らした後、彼はその場に横倒しになった。

 剣がかすったせいか、頭巾が切り裂かれ、火傷だらけの頭も、その三ツ口も、すべて剥き出しになった。


 なぜ見抜けたのか。

 マルトゥラターレのことを思い出したからだ。彼女の体には、スヴァーパというもう一つの霊魂が宿っている。しかし本当はもう一つの体もちゃんとあって、それが霊樹だ。あれがないと、彼らスヴカブララールは繁殖できない。

 では二つの魂にちゃんと二つの体があるじゃないか、と言いたくなるのだが、実はそうではない。なぜなら、彼女の霊樹は既に刈り倒されているからだ。ではなぜスヴァーパは消失してしまわないのだろう?

 つまり、イーヴォ・ルーがもたらすこの手の変化は、空間だけでなく時間をも超越する。そして、世界における何かの因果関係を、まるで違った形で結び直す。

 ハビが得た能力もイーヴォ・ルーに由来するなら、似たような性質があって然るべきだ。


 俺が気付いたのは、この一見して無敵に見える能力は、実はものすごく使い勝手が悪いのだろうということだった。

 もっとも、それだけは最初からわかっていた。穴に落ちた俺とムフタルにトドメを刺さなかった、いや、刺せなかったところからしても、どれほど制約の大きな能力だったかは、明らかだった。


 ハビの能力の正体、それは「特定の条件で空間を歪曲する」力だった。


 要するに、俺から見れば彼は二人いることになる。外見があって触れることのできない仮初の姿と、こちらを認識し、また触れることのできる実体と。だが、実際には単に空間を歪めているだけなのだ。

 恐らく、実体の位置が俺に近付くほど、幻影も俺に近付く。そして俺に触れそうなくらいに距離が詰まると、空間は反転する。つまり、実体のない黒い影から、いきなり実体の腕が生えて出てくる。この能力を使用しているハビにとってだけ、空間が他の人とは違った形で連続しているのだ。

 問題は、何を基準に空間を歪めるか、だ。しかし、ピアシング・ハンドが示す彼の能力の名前は『鏡像散身』だ。鏡、つまり何かをレンズに見立てて位置関係を設定する。そして、その対象は、まさに殺害の標的……俺だった。

 その根拠だが、やはりあの時の襲撃が手掛かりとなった。俺が物陰から姿を確認したときには、ちょうど頭の大きさくらいしかなかったのに、俺が全身をさらすと、いきなり大きくなった。俺がレンズだから、俺の姿が見えないと、まともに形を構成できない。ムフタルに抱えられて穴に落ちたとき、彼から見て完全に俺の姿が見えなくなった。

 俺を中心にして、一方に見える影、他方に見えない実体がある。だが、一定以上に接近すると、急に実体の座標も切り替わる。つまり、黒い影の中から腕だけ瞬間的に実体化する。その瞬間だけ、視認できない反対側の空間にも、体の残りの部分が実体化しているのだ。まるで鏡が姿を映すように……但し、鏡とは正反対に、消えたり現れたりするのは実体の方なのだが。

 そしてその対象設定や能力のオンオフは、そうコロコロ変えられないものなのだろう。できるのなら、俺を抱えて逃げたムフタルを即座に殺せばいいのだし。

 そしてこれが、あの黒い影のゆっくりとした接近の説明にもなっている。ハビほどの身体能力と技術をもってすれば、一瞬で距離を詰めて飛びかかるくらい簡単だった。しかし、あの時あの場には、ジルもラークもいた。

 彼の動きにキレがなかったのも当然だ。俺に突きかかると同時に、透明な、しかし実体化させた部分がうっかり何かに触れてしまわないように配慮する必要があったのだから。だが、それだけではない。

 ハビの視界は、きっと不自由極まりないものに違いなかった。後ろから俺を見つめているのに、前から突き出される自分の腕を操作しなければならないのだ。さながらマジックハンドを、テレビモニター越しに動かしているようなものなのだから。


 こうした制約がなかったのなら、それこそバタンの城壁をぶち抜くために前に立っていた俺を、見境なく襲えばよかったのだ。だが、それはしなかったし、できなかった。

 俺の後ろには無数の兵士が並んでいた。ムフタルに抱きかかえられて逃げる時、あの黒い影は形を崩していた。障害物の多い場所では、しっかりとした鏡像を構成することができなかったのだろう。

 そしてこれが、俺をバタンの街中で襲わなかった理由でもある。


 そういうものらしい、というのも想像でしかない。ただ、そう解釈すると納得できる。仮にただの遠隔操作で反撃を受けずに一方的に攻撃できるだけの、ものすごく便利な能力があるのなら、こんな不自然な点は浮かび上がってこないだろう。

 少なくとも、ハビの本体は、この無敵の影のすぐ近くにある。そうでなければ説明がつかない。

 だから俺は、自分の直感を信じて戦った。


「ハビ」


 見えないままに剣を振った。だが、その一撃は胸を斜めに切り裂いている。さっきから赤黒い血が流れて止まらない。恐らくもう、助からないだろう。


「本当はお前を殺したくなかった」


 これを聞くと、倒れたままのハビは、明らかに皮肉な笑みを浮かべた。


「今更、何を」

「本音だ。お前がパッシャを捨てて、幸せな人生を歩みたいと、本当に願っているのなら……いや、今でもそう望むのなら」

「バカバカしい。ファルス、ミルークを死に追いやったのは、我々組織だ。憎んでいいぞ」

「憎んではいない。憎いから殺すんじゃない」


 そうするしかないから、殺す。

 俺が手を下さなければ、ハビは俺の周りの人達も手にかける。サハリアにも再び戦乱が巻き起こる。だから、やらずには済まなかった。


「ファルス、この気違いめ」


 だが、彼は俺を罵った。


「憎いから殺すんだ。傲慢なサハリア人、強欲なサハリア人、俺を痛めつけたサハリア人、母を殺したサハリア人……」

「それは、お前が殺した人達と同じ人達だったのか?」

「関係ない! サハリア人は海峡を我が物にしてきた! 奴らがいる限りっ……グッ」

「そうか」


 彼の憎悪を、俺が否定できるだろうか?


「でも、お前はたくさん殺した。仕返しをしたんだ。もういいんじゃないのか」

「よくない。もっとだ。もっと殺す……一人残らず」

「ハビ」


 なぜだろう?

 急に言い知れない悲しみがこみ上げてくるのを感じる。


 そうだ。ハビだって人間だった。

 今、その証拠を彼自ら口にしたじゃないか。母を殺したサハリア人。愛するがゆえに、憎まずにはいられなかった。そのせいでパッシャの一員となる人生を選んでしまった。


「でも、それだけじゃないだろ?」


 彼の胸から流れる血は、見る間に水溜りを作っていく。それは砂漠のきめ細かい砂には吸い込まれず、黒い泥水のようにその場に留まっている。


「他に何かないのか。お前は人間だろ! 何か一つでも……大切な思いはないのか。死ぬんだぞ! もうお前は、死ぬしかないんだぞ! それでいいのか!」


 ハビは苦しげに息を継ぎながら、そう訴える俺の方をぼんやりと眺めていた。


「聞かせてくれ、お前の……本当に大切なものを」


 彼はもはや身を起こすこともままならず、横倒しになったまま、指先で小さく砂を掻き毟った。

 その表情は虚ろで、何を考えているかもわからない。けれども、不思議とその眼差しには透明感があった。


「……イ……」

「イ?」


 俺は歩み寄り、彼の最期の一言を聞き漏らすまいとした。


「……イーヴォ・ルーに……称え、あれ……」


 だが、彼が口にしたその一言は、魔王への祈りでしかなかった。

 それを最後に、もはや彼が息を吐き出すことはなかった。


 俺は声をあげることさえできなかった。肩で呼吸するのがせいぜいで、それもやっとのことだった。

 いや、彼が救われることを望んだのは、俺のエゴでしかない。そもそも俺の考える救いと、彼の考えるそれとは違う。だとしても、こうなるしかなかったのか。無論、きれいごとを口にする資格など、俺にはとうにない。これだけ殺した俺が、今更どうして人間面できよう。それでも。


 人が人として生きるのに、何が道標になり得よう?

 心の中の愛着は、ときに人を救い、ときに人を地獄に突き落とす。それを知ればこそ、俺はこの旅路を選んだのだ。


 ハビの胸から流れ出た血が、ようやく砂漠の乾いた大地に吸い込まれた。赤かったはずの血は、いまや墨のように黒ずんでいた。世界を焼き尽くす赤い夕陽もいつの間にか姿はなく、代わって頭上を占めたのは、寒々しい暗い藍色の夜空だった。

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