疑惑と書状

 風が強い日だった。砂塵が巻き上げられ、視界は霞んでいる。頭上の陽光も、今日ばかりはどこか朧だ。


「状況は」


 馬上から挨拶もなしに、ティズは重苦しい声で尋ねた。


「芳しくありません。ニザーンの兵のうち、半数が逃亡しました」


 対するファフルは馬を降りている。その表情からは、やはり深刻さが読み取れた。


「そうであろう。こちらは既にマジュフとサマカットに追捕を任せてある。それより」

「はっ……ハビはもう、我らが手に捕らえられております。本人も抵抗はしませんでした」


 話はそれだけだった。


「本陣へ案内せよ」

「直ちに」


 ファフルが馬に飛び乗り、配下の兵と共に先導する。行先はジャンヌゥボンの出城の一つ、ハルブ砦に面する、赤の血盟の陣地だ。

 ティズに従う兵達の顔色を見る限り、疲労は隠せない。タフィロン陥落の後、与えられた休みはたった一日。それでまた、過酷な砂漠の街道を、大急ぎで東進しなくてはならなかった。

 それでも、ティズに立ち止まるという選択肢はなかった。これほど深刻な事態が立て続けに起きるとは、彼は想定していなかった。


 主のいなくなった本陣の大天幕に、代わってティズが踏み込んでいく。やけに薄暗く感じる。真ん中に残された椅子に腰かけると、俺やハーダーンもまた着席した。空いた椅子はあるが、埋める族長達の姿はない。


「連れてきました」

「通せ」


 誰もが黙りこくる中、縄で縛られた黒衣の男が引き摺られてきた。彼は大人しくティズの正面に膝をつき、頭を垂れた。

 それをティズは、不満げに見つめた。


「顔を検めよ」


 左右の兵が歩み寄り、乱暴に彼の頭巾を剥ぎ取った。


「ゴ容赦を……この醜イ顔をお見セしたクなク」

「よい。戻してやれ」


 ハビの顔は、一目見たら忘れられない。いわゆる「三つ口」……口唇裂や口蓋裂と言われるものだ。上唇のところから斜めに裂け目が入っている。しかも、その顔に傷がある。もともと裂けている唇をどうにかしようとした結果なのか、右側から唇自体が剥ぎ取られたみたいになくなっており、一部の前歯が剥き出しになっている。

 肌の色は闇に溶け込めるくらい黒い。髪の毛も黒いのだが、あちこち禿げている。その毛のない部分には火傷のような痕が見て取れた。いったいどんな人生を歩んできたのだろうか。


「今日、ここにお前を引き出したのは、辱めるためではない」

「承知しテおりまス」

「顔を検めたのも、本人と確かめるため。では、ありていに申せ」


 ティズはかつてないほど厳しい空気を漂わせながら言った。


「アラティサールのこの書状は、本物か」

「はイ」


 その書状なるものを持つ手は、小刻みに震えていた。


「我々が西に向かってより何があったか、逐一説明せよ」


 ティズは俺達より少し遅れて、タフィロンに向かって出発した。その後、アラティサールはニザーン氏族だけを率いて、アルハールの都であるジャンヌゥボンを陸海より挟撃した。

 それは必勝のはずの戦いだった。アルハールにはもはやまともな海軍などない。陸上戦力もこれまでの戦いで目減りしており、キジルモク支族のアルカンが抱える傭兵も半減していた。かろうじて居残っているのはムナワール率いる直属の騎兵部隊と、水の賢者マーノンだけだった。

 陸海ともそれぞれ四千以上の兵力を投入した上で、陸上に残る千五百にも満たない相手と戦うのだ。攻城戦ともなればともかく野戦で敗れる余地はなかった。そして、無理に城市を陥落させる必要もない。海上からの補給を断ち、陸上も封鎖すれば済む。既に援軍の見込みがない相手だ。必ず根負けする。

 ところが、最初の激突でニザーンは大敗を喫してしまう。まず海から攻め込んだニザーンの艦隊は、水の賢者率いる魔術兵によって次々沈められてしまった。陸上の戦闘でも、ジャンヌゥボンの出城の一つに攻撃を仕掛けた際、優勢でありながらもなかなか攻め落とせずにいるうちに、アラティサール自身が流れ矢に当たって討ち死にしてしまった。

 これだけなら、ただの敗北であり、不運でしかなかった。もちろんそれでも重大事だが。しかし、問題はその後、ニザーンの本陣からとんでもない書状が発見されたことにある。


「アラティサールがなぜ、黒の鉄鎖に内通せねばならんのだ」


 最初、何を言っているのかサッパリわからなかった。赤の血盟の盟主、つまりトップはアラティサール自身である。南北の陣営に分かれて戦争をするのに、北のトップが南と内通するとか、そもそも戦う意味がないではないか。

 しかし、どうやらそういうことではない。あくまで彼はニザーン氏族のリーダーでしかなく、同盟の指導者ではあるものの、ネッキャメルやフィアンの財産に手を付ける権利はない。よって赤の血盟それ自体を勝利に導いたところで、それは自身の利益には繋がらない。

 彼が企てたのは、要するに背中から身内の利益をかすめ取ることだった。例えばブスタンやハリジョンはネッキャメルの支配地だが、それぞれ大きな利益を生む都市だ。ニザーンがブスタンを手にした場合、最寄りの海港都市ジャリマコンからデーツを積み出せる。ハリジョンは真珠の首飾りの北西端に位置しており、多額の税収が見込める。これだけ支配地域を広げられれば、たとえ黒の鉄鎖の一員に加わっても、そうそう軽んじられるものではない。

 そもそもジャリマコンは利益の薄い港湾都市だった。真珠の首飾りの通商ルートの外側で、せいぜい帝都からの商船が寄港する中継地でしかない。だから古くから海賊の拠点として用いられてきた歴史もある。アラティサールの気持ちを想像するに、長年同盟内で最大の利益を得ていたネッキャメルへの妬みもあったのではないか。


 しかし、これまでの状況は、この書状がまさに本物である可能性を強く示している。

 ニザーンの軍勢が正面から黒の鉄鎖と激突したことはない。彼らが最初に動いたのは、ハリジョンへの救援だった。しかし、アルハールの海上戦力は既になく、陸上の敵もニザーンの大軍を目にして、ほとんど戦わずして撤退した。逆にバタンでの戦闘では、あの地震と砂嵐、落雷があった直後に即座に撤退している。フマルの追撃もあったようだが、これまたまともに戦ったようには見えない。

 唯一、正面から戦ったのが今回だった。しかし、これは要するに、黒の鉄鎖の劣勢が明らかになったのと、ここまでの戦いでアラティサールが何も得られていない状況から、密約を反故にして敢えてジャンヌゥボンを落としにいったと、ただそれだけのことではないか。


「で、これだけの企みを、お前はこれまで知らなかったと、そう申すのだな」

「はイ」

「信じられると思うのか」


 さすがのティズも、これほどの話となると、そうですかと受け入れるわけにはいかない。

 だいたいアラティサールのこの謀略が事実となれば、その傍に仕えていたハビが関わっていないと考えるほうが不自然だ。


「ティズ様」


 ファフルが口添えする。


「一応、この書状はハビが見つけて届けてくれたものです」

「そんなものが信用する理由になると思うか」

「いえ」


 ファフルの言葉にも、ティズは取り合わない。

 アラティサールの戦死を目の当たりにして、忠実であることにメリットを感じられなくなったがゆえに、今になって裏切ったとみることも可能だからだ。というより、むしろそのほうが自然な受け取り方だろう。隠されていたこの書状はどこから見つけたのか。


「ただ、この書状を隠し持っていたのは別の側近、イッファーハです」

「それをどうやってハビが見つけたのか」

「先の敗戦でイッファーハが重傷を負って、ハビが本陣まで連れ帰ったそうです。その時、傷口を確認するために衣服を脱がしたところ、見つかったとのこと。それでバタンに待機する私のところまで、急いで駆けつけたのです」

「詳細を知りたいところではあるが」


 ティズは深い溜息をついた。


「はい。イッファーハは先の戦いの傷がもとで、既に死んでおります」


 ことがことだけに、ファフルとしてもバタンに留まってはいられず、こうしてジャンヌゥボンの近くまでやってきた。族長を失い、またその側近も死んで不安が募っているところに、この件が降ってわいた。西からはティズも来る。恐れたニザーンの兵は続々と逃亡し、今、この場に居残っているのはおよそ半数のみだ。


「イッファーハの衣服から書状が見つかるのを目にしたのはハビだけではありません。ニザーンの兵の中にもおります。必要であれば」

「いや、いい」


 なるほど、これでは疑われる。証人がいるから、とあっさり信用できるような状況でもない。


「ティズさマ」

「なにか」

「私の首ヲ斬り落とシてくださイ」


 この言葉に、ティズは眉根を寄せた。俺もだ。


「疑わレるのモごモっとモ、そレに私はアラティサールさマに仕えておりました。もしスべてを知っていても、アラティサールさマが生きておいでであレば、とてもお伝えするなドできなかったでしょウ。ただ、アラティサールさマが亡くならレた以上、ニザーンと同盟の行く末を考えルなら、こうすル他ないと考えたしだイ」


 聞く限りでは主君の罪を進んで引き受けようとする殊勝な心がけのようにも思われる。だが、計算づくかもしれない。

 なぜなら、今この状況でハビを処刑するなど、ティズにはできっこないからだ。ここにはまだ、二千人近いニザーンの兵が居残っている。別にハビが殺されても悲しむ人はいないが、族長の側近が処刑された事実を知れば、居残った兵も恐慌状態になる。ティズが自分達も処断しようと考えるかもしれない。それならいっそ……

 逃げられるだけでも厄介だ。自暴自棄にでもなられたら、あちこちで略奪しながら遠方に逃げてしまうかもしれない。また、下手をするとそのまま目の前にあるジャンヌゥボンへの亡命まであり得る。ガラ空きのジャリマコンまで引き揚げてから、背面を狙ってくる可能性まである。

 ティズとて、ここに全軍を率いてきているわけではない。バタンに残した兵のうち、半分ほどはこちらに振り向け、後方に他の同盟氏族の兵を送った。けれどもタフィロンは制圧後間もないために、今もタジュニドが占領下に置いている。また、フィアン氏族の兵には、先の峡谷の戦いにおいて多くの負傷者が出ているため、頭数が半減している。よってここにいるのはせいぜいのところ、三千弱でしかない。

 できる限り平和的に戦争を終結させるにせよ、ここで二千の兵を疑心暗鬼の中に突き落とす選択など、最初からあり得ないのだ。


「私の命は差し上げまス。ただ、ドうかニザーンの者達には寛大であらレまスようニ」

「縄を解け」


 どうにもならない。いっそハビを拷問にかけて、本音を吐かせる? あの火傷の痕だらけの頭を見て、そんな考えを抱いたとすれば、よっぽど知恵が足りないに違いない。どう見てもアラティサールの密偵だったハビだ。ちょっとやそっとの拷問なんかに屈するような性根などしていない。


「ファフル」

「はっ」

「この者の身柄はわしが預かる」

「承知しました」


 信用はしていない。それでも、今は殺せない。不確定要素を抱えたまま、この状況を何とかする以外にない。


「ニザーンの者どもに伝えよ。当面のところ、ティズ・ネッキャメルが指揮を執る。アラティサールの過ちについては、他の者達は知らなかったことだ。罪には問わぬ、と」

「おォ、さすガはティズさマ」


 大仰に喜んでみせるこのハビの仕草に、どことなくわざとらしさを感じずにはいられない。俺だけではない。向かいに座るハーダーンも、その他この場に立ち会っているハビ以外の誰もが難しい顔をしている。


「それより態勢を整えよ。できれば我が軍の乱れを敵には」

「ご報告申し上げます!」


 そのとき、大天幕の中に、息を切らした若者が駆けこんできた。


「ティズ様! 南西より敵接近! 恐らくはムナワールの騎兵かと思われます!」

「こんな時に」


 まるで狙ってやってきたとしか思えないタイミングで、アルハールの軍勢がこちらに迫ってきていた。

 ティズはすぐさま立ち上がった。


「迎え撃て! この勝利をもって、今度こそ戦争を終わらせる!」

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