一つの体、二つの魂
雲一つない青空の下に広がるのは、ひたすらに過酷な、赤黒い大地だった。そのごく一部だけが潤され、農地になっている。だがその緑は、周囲の荒々しい岩山の狭間にあって、いかにも頼りなさげだった。
遠くを見渡せば、ここがちょっとした盆地のようなものとわかる。あの南側に見える岩山を乗り越えたら、西方大陸の南側にある未知の海が広がっているのだろうか。魔物が出没し、ろくに航行もできない危険な海域らしいとしか知らないのだが。
頭上に目をやれば、黒々とした椰子が色濃い影を落としてくれている。そうでなければこの場に立ち続けるだけでも苦痛だろう。既に昼近いこの時間帯、太陽はほぼ真上から、災厄そのもののような熱と光で地上の一切を打ちのめす。
振り返れば四角い貯水池に、今は汚れの一つも残っていない。僅かな血の跡もきれいに拭い去られ、つい先日、言葉にし難い悲劇があったことさえ思い出せないほどだ。
俺のすぐ後ろでは、仲間達が同じようにぼんやりと時を過ごしていた。
いろいろ思うところはあるのだが、誰もが何も言い出さず、ただただこの景色を眺めていた。ペルジャラナンだけは、さも心地よさげに大の字に寝転んで日光浴を楽しんでいたが。
戦いの終わった翌朝、ティズはまず、和平を宣言した。フマルの人々はほとんど戦死するか、自決してしまった。それで彼は兵士達に危害を加えないよう厳命して、市街地に派遣した。目的は、フマルの生き残りを見つけることだ。ごく僅かな、それこそ二十名に満たない数が見つかっただけだったが、彼は大仰に振舞った。ただの一般人に過ぎないその中年男をフマルの臨時族長として扱い、衆人環視の下、大天幕の前で講和を宣言したのだ。
それから埋葬が始まった。市街地の従属民にも協力を要請して、急遽、東側の岩山の麓に多数の墓穴を掘った。その作業が済むと、ティズは大勢の人の前でわざわざ膝をつき、永眠した人々に対して深く頭を垂れた。
今は、やっと訪れた休憩の時間だ。
これで戦争が終わるのだろうか。あとはアラティサールがジャンヌゥボンを攻略するか、そこまでいかなくてもアルハールを打ち負かして講和に持ち込めば、すべてが終わる。そうなって欲しい。
だが、俺の頭の中は、別のことでいっぱいだった。
あの黒い影。剣も魔法も一切通用しなかった難敵。
今回、タフィロンを巡る戦いでは、あれが顔を出すことはなかった。おかげで無事、勝利できたのだが、あれ自体がどこかで殺されていたり、俺を狙うのをやめてくれていたりする可能性は低い。今後とも俺に付き纏って、命を狙ってくるのではないか。
もう一つ。この戦争の黒幕もはっきりとは特定できていない。使徒は恐らく便乗しただけだ。とすれば、誰がいったいこの状況を作り出したのか、それは何のためなのか。可能性としてはもう、いくつも候補があるのでもないが、いまだに確定には至っていない。
まだ何も終わっていないのだ。
「済まなかった」
背後で沈黙を破ったのは、ジルだった。
声をかけられたラークは、あからさまに戸惑う様子をみせた。
「あ、いや、な、なにが……だ?」
謝罪されるような理由があっただろうか? むしろ今回もまた、彼女はラークを庇ったのだ。
しかし、ラークの既存の価値観においては、穢された娘への接し方など用意がない。ましてや凌辱され、痛めつけられたとはっきりわかる姿を目にしてしまっている。気まずいことこの上なかった。
「お前を理由にした」
「理由、とは?」
一呼吸おくと、彼女は自分のあさましい考えを、澱みなく述べた。
「お前はネッキャメルの頭領だ。それに誰からも愛され、必要とされる人間だ。だから生きる値打ちがある」
「そんな」
「もちろんいいことだ。恵まれた立場を後ろめたく思うことなんかない。ただ、私の方にはそんな値打ちなどない。だから、ああした」
「何を言い出す。だからといって、お前が死ぬ理由にはならないだろう」
瞑目し、彼女は静かに首を振った。
「いや。私は死ににいったんだと思う」
それは許されるべきではない過ちだった。少なくとも、彼女はそう考えている。
「なぜだ」
「結局、私は生きる意味を見つけられなかった。私の生家……ウォー家も今はない。意味のあるものは、父以外にはなかった。その父が、どうして命を捨ててまでネッキャメルを守ろうとしたのか。それがわかれば、或いは私も生きる意味に辿り着けるのではないか。そんな考えがあったのだと思う」
しかし、そうした希望は早々に打ち砕かれた。フィアナコンで怒りと欲望に駆られて生贄とされた女達を犯す兵士達の姿を見た。守るべき価値や気高さのようなものは、どこにも見当たらなかった。
「無意味なら無意味なりに、怒りや憎しみ、欲望のままに生きればいいと思った。でも」
彼女の視線が俺に向けられる。ジルは微笑んでいた。それは皮肉げな、毒々しい微笑だった。
「ふふっ……何も持ってなかったのは、私だけだったんだと、そうわかった」
バタンでノーラに再会した時の、あの俺の取り乱しようを目にした。憎悪だけで剣を手に取る俺の姿は、皮肉なことに、ジルにとっては救いだったのだ。この地獄にいるのは自分一人じゃない……ところが、トカゲを連れた黒衣の女神が現れるやいなや、ジルはまた一人、取り残されてしまった。
「もうすぐ戦争が終わってしまう。ニザーンがアルハールに勝ったら、もう戦うことはない。平和になる。そうなったら」
彼女は振り返る。岩山の狭間に見えるのは遠い北の空。
「私はまた、ブスタンのあの小さな家で暮らすだけだ。今度こそ一人きりで。ただただ老いていくだけの人生を続ける……それくらいなら、ここで華々しく戦って死にたかった」
ラークは、何かを言い出そうとして唇を震わせ、しかし、結局何も言い出せなかった。思いついたことのほとんどには意味がない。
例えば、この戦争での奮闘を評価されて恩賞を貰う。できなくはないだろうが、得られるものには限度がある。金貨の山に埋もれることはできても、例えばどこかの太守になるとか、そういう目立つ何かは与えられない。一つには、サハリアでは女に相続権がないということ、もう一つには、彼女がウォー家の血を引いていることがある。
また、そうして恩賞を受け取ったところで、どんな使い道があるというのか。うんと贅沢でもすればいいのだろうか。夫もいなければ子もいない。親族もいない。友人すらいないも同然なのに。
「思えば、お前にきつく当たったのも、わざわざ言わなくていいことを言ったのも、私の勝手だったな。お前が持っているものを、私は持っていなかった。こんなのは、ただの醜い嫉妬だ」
そんな彼女からすれば、最後に力の限りを尽くして戦死するというのは、悪い死に方ではなかった。ただ、フマルの男達はキスカの件を覚えており、復讐のためにあえて生かして連れ帰った。それでも、俺達がすぐさまタフィロンを攻め落とさなければ、望み通り死んでいただろうが。
「それで、お前が敵に捕らわれそうになった時、今なら納得して死ねると思った。お前の生き死にはお前のものなのに、勝手に私の理由にしようとした。だから……謝りたかった」
話を聞いたラークは、じっと考えた。それから彼女に尋ねた。
「これで戦いが終わったら、どうするつもりだ」
「どうもしない。ブスタンに帰る」
それ以外、どうしようもないのだから。
「ふん……ウォー家とネッキャメルと……この一つの体に、二つの魂がある。本当に困ったことだ」
一つの体に二つの魂、か。言い得て妙だ。
しかし、どうにも引っかかる表現だが。
横でノーラがボソッと呟いた。
「なんだかマルトゥラターレみたいね」
聞き咎めたラークが振り返って尋ねた。
「なんだ、それは」
「あっ」
教皇との約束がある。出自をすっかり喋ってしまうわけにはいかない。とはいえ、守るべき秘密はあくまで廟堂の地下の件だけであって、その他は問題ではない。
俺が代わりに答えた。
「ああ、その……ピュリスのほうに、うちで預かっている亜人がいまして」
「亜人? 随分と珍しいものを飼ってるんだな」
「え、ええ。それで、その亜人が言うには、自分の中にはもう一つ魂があるから、この体は一つだけど、魂は二つ……」
そこまで言いかけたとき、頭の中を電流が突き抜けた。
「どうした!?」
その瞬間、俺の中ですべてのピースが噛み合った。
バタン以来、俺の悩みの種だったあの黒い影。なぜあんなものが存在し得るのか。
実体がないのにこちらを傷つけることができる?
そんなはずがないじゃないか。
実体はある。ただ「分離」しているだけなのだ。
だからこそ……
あれだけ圧倒的な能力を持ちながら、ムフタルに抱えられ穴に落ちただけの俺に追撃を浴びせることもできなかった。その気になれば、あの場にいた全員、それこそ俺を抱えていたムフタルから殺せば足止めもできたし、近くにいたラークやジルも、みんな纏めて殺してしまえばよかったのに。
あの不自然さの答えも、きっとそこにある。
だが、思考を整理して言葉にする前に、背後の通路から橙色の長衣を身に着けた男がやってきた。
「ここにおいでか、プノス殿」
「あ……ハーダーン様、どうなさいましたか」
会話は中断され、全員の視線が彼に向けられる。
彼は貯水池の脇をずんずんと大股に歩いて、すぐ俺の目の前までやってきた。そして真剣な表情で俺をじっと見つめると、いきなりガバッとその場に身を伏せた。
「な、何をしているんですか」
「頼む! せめてタフィロンだけでも譲ってくれ! この通りだ!」
「ちょ、ちょっと……とりあえずそんなことをされても困ります。立ち上がって訳を話してください」
「抜け駆けで手柄を独り占めとは、あんまりではないかぁ!」
必死過ぎて、むしろコミカルに見えてくる。
「説明を」
「わかりきったことを! ハダーブは私が今日、説得するはずだった! そうすれば、手柄に応じて私はティズ殿にフィアナ……ミルーコンを返していただくよう、お願いするつもりだった!」
ああ、そういうことか、と俺は納得する。
「バタンでも一番手柄はプノス殿! ここタフィロンでもそうだ! あんまりではないか。バタンとタフィロン、二つも分捕るなど、強欲もいいところだ!」
「あっ、ああっ、そういう」
「頼む! 頼む! 一族のよるべき土地がなくなってしまう! これで戦が終わったら、功名をたてる場もなくなる! そうなったら私は一族の者達にどう申し開きをすればいいか」
また土下座しながら、彼は必死で申し立てる。
だが、俺はその姿に苦笑しつつも、好感を覚え始めていた。
「でも、確かこんなことおっしゃっていませんでしたっけ? 天幕こそ我が家だ、いつからお前達は泥の家に留まる怠惰な輩に成り下がったのか……だったような」
「そ、それは方便だ! いいか、いいかプノス殿、よるべき土地を失い、零落した一族というのは、今でいうここのタフィロンの従属民と同じようなものだ。しかし、それどころではない! 彼らは血の繋がりはなくとも、土地に根付いている。それに比べてすべてをなくしたばかりの一族というのはな、それはそれは悲惨なものだ。土地に根付く前の従属民、これだ! 仮にも族長である以上、同胞をそんな貧困の中に放り出すなど、絶対にできん!」
また立ち上がって、まるで掴みかかろうとするかのように身を乗り出し、彼はとにかく一生懸命、俺を口説き続ける。
「お話はわかりました。でも、僕に何ができるんですか。こちらの総大将はティズ様ですし、赤の血盟の盟主はアラティサール様でしょう?」
「そこをなんとか! どうせタフィロンもプノス殿のものになるのなら、せめて、せめて一つだけでも」
「横から済まないが」
ラークが溜息交じりに言う。
「手柄は手柄だろうし、ファ……プノスがそれを譲る理由がないと思うが」
「そ、それもそうだ!」
それで彼は頭に指をあて、僅かな時間、何かいい考えがあれば捻り出そうと奮闘する。そうしてすぐ、俺にくだらない話を持ち掛けた。
「ところでプノス殿、私にはそれはもう美しい娘が三人もいる。もちろん母もフィアンの高貴の血に連なるものだ。教養から針仕事までしっかり仕込まれた自慢の娘達だが、どうだ? 長女は少し年上だが、この際、三人ともプノス殿に娶わせようかと思うのだが」
「いえ、結構です」
「言っておくが、うちの娘はサハリア一の美女達だ! 女神に誓ってもいい!」
「そういうことでは」
「た、足りんのか! じゃあ、他の家にも声をかけよう! フィアンの中でも選り抜きの、もちろん良家の娘を十人ばかりは」
滅茶苦茶言っている。四の五の言っていられないのはよくわかるのだが。
先日の矢傷も癒えていないだろうに、元気なことだ。
「いやいや、あの、ハーダーン様? 僕がお兄様のアールンを捕らえてティズ様に引き渡したこと、みんな知ってますよね? 恨まれてるに決まってるのに、どんな顔をしてフィアンの娘と結婚するんですか」
「そこは黙らせる! 絶対黙らせる! 私の命を盾にしてでも文句は言わせん!」
「いえ、そんなことを言われても……」
そこでふと、彼の視線が俺の隣に立つノーラに向けられた。
奇妙な沈黙が場を占めた。
「……そういえば、こちらの少女は?」
「ノーラと申します」
相手の身分に敬意を示すべく、彼女は深々と頭を下げた。
「なぜこんな戦場に、このような少女が? プノス殿とどんな関係が?」
「幼馴染です。今は傍に立って助けるために、ここにおります」
何の役に立つ? という疑問が顔に出たので、ディノンが付け足した。
「一見、ただの少女ですが、途方もない力の持ち主です。先日の峡谷の戦いでも、彼女がフマルの騎兵を大勢倒してくれていなければ、私達は敗走していました。それになんでも、ピュリスで商会を営んでいて、それはもう大変なお金持ちだとか」
ハーダーンはその説明を聞くと硬直し、それから俺の顔とノーラの顔を交互に見比べ始めた。二度、三度と繰り返し……
そして無言でその場に崩れ落ちた。
「ええと、ハーダーン様?」
「なにか」
そのままの恰好、沈んだ声で彼は力なく答える。
「まだ、タフィロンまでいただけるというお話は、ティズ様からは聞いておりませんが……バタンならくれてやろうと言われています」
「知っておる」
「でも、僕、バタンは欲しくないんですよ」
何を言われたのか、即座に理解できなかったらしく、そのまま数秒間、彼は呆けていた。
だが、意味を理解すると、また勢いよくガバッと立ち上がった。
「で、で、で、では」
「プノスが受け取らないと言っていたと……僕の方からもティズ様に口添えしてみましょうか?」
じわじわと、しかし彼の顔に満面の笑みが浮かぶ。
「ぜ、ぜひ! ぜひっ! おお、女神よ、龍神よ、プノス様よ! この幸運に感謝します!」
「ただ、ティズ様がなんというか」
「こうしてはおられん! 早速お願いせねばっ! で、では、失礼させていただく!」
そういうと、彼はバタバタと貯水池の横を駆け抜けようとして……足を滑らせて転落し、盛大に水飛沫をあげた。それにもめげず、すぐさま水際から這い上がると、まったくそのままの勢いで、通路の向こうへと走り去っていってしまった。
やれやれ、と俺達は彼の去っていったほうを微笑ましく見つめていた。
だが、さっき気付いた可能性に照らせば、最悪の事態がまだ起き得る。
この戦争、もう少しだけ続くのかもしれない。
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