殺人の実感

 どれほどの時間が過ぎたのか。夜空の月を見上げる余裕もない今、確かめる術はない。

 乾き切った冷たい風がそよぐ。俺達は地に伏したまま、ひたすら物音に注意を払っている。夜だから敵が休んでくれるだろうとか、そういう甘い期待は抱かないほうがいい。


 シジャブが狙撃されてからの戦闘は、一方的な展開になった。岩のトンネルの切れ目の外側、左右からフマルの弓騎兵が殺到し、ネッキャメル側もまた、後退を余儀なくされた。もちろん、俺も対応はした。つまり、密集している敵に対して火球を叩きこんだ。だが、それで目前の敵は始末できても、フマルの戦意を挫くことはできなかった。

 弓矢と違って火球は炸裂する。それは大勢の敵を一度に葬るには有用だが、至近距離では使えない。自分自身や味方を巻き込むからだ。それと悟った彼らは散開しながら被害を減らして接近し、乱戦に持ち込むことで俺の火力を封じる作戦をとった。

 ならば剣で斬り殺すしかない。あちらも同じ考えだったらしく、最初は俺を討ち取るために大勢が殺到した。ところが、どうあがいても倒せないとなると、また方針を変えてきた。俺の動きを封殺するために、長い槍で取り囲んで時間稼ぎするようになったのだ。その間に、背後にいる俺の味方を狙う。

 それも日が沈むまでの間だった。日没と同時に、いったんフマルの騎兵は撤退した。これで一息つける、と思ったが、それも甘かった。完全に日が没してからもフマルの戦いは終わらなかった。今度は馬から降り、こちらに忍び寄る作戦に切り替えたのだ。一定の距離まで近づいてから、視界は不確かながら、いきなり矢を放つ。松明などの灯りがあればそちらを狙い、なくても気配や物音のある方に一斉射撃。そして速やかに撤退する。

 暗視能力を有する俺はよかったが、それを声で警告すると、まさしく俺のところに矢が降り注ぐ。俺自身については、それだけで即死したりはしないのでいいのだが、周囲の仲間が危険にさらされる。それだけでなく、物音が手掛かりになるこの状況では、迂闊に詠唱もできない。

 これによる被害は小さくなかった。負傷者も大勢出たが、多くの馬が失われた。かろうじて無事だった者は矢の的にならないよう、地面に突っ伏して物音を探るようになった。


 フマルからすれば、これも当然のこと。敗れれば皆殺しだ。男なら子供でも殺され、女は片っ端から強姦される。積み上げた財産は一つ残らず略奪される。自分一人の命を惜しんでいる場合ではない。

 死に物狂いの抵抗が、これほどまでに厄介だとは。停戦を考えたティズの判断は、適切だったと言わざるを得ない。


 俺の後ろで充分にリラックスして冷静さを保っているのは、どうやらムフタル一人らしい。あとはそこまでの戦場経験もない。これと似た危機なら、他の仲間も経験している。だが、あの時は俺がすぐに土の賢者を爆殺したので、自分では何も解決していない。

 騒ぎ出さないだけましだが、さすがのノーラも緊張を隠せない。周囲すべてが危険ということなら、例えばシュプンツェの脅威に直面したときもそうだったが、あれとは少し違う。知性のない怪物がうろつきまわるのも怖いには怖いのだが、今回、全力の殺意を向けてくるのは、同じ人間だ。今のところ、彼女はただの置物だった。

 なお、ペルジャラナンはというと……よくわからない。表情が読めないからだが。


 前方に目を向ける。南に向かって口を開けた岩のトンネルの向こうが、暗い藍色に見えた。とすると、夜明けが近いのかもしれない。

 これは朗報ではない。ほとんど休めもしないままに夜を過ごした。それはフマルも同様だが、あちらは今、戦いの主導権を握っている。攻撃にまわっている間はともかく、いったん引き下がれば、そこで休養をとっているはずだ。

 それに、視界が開ける日中ともなれば、またあの矢の雨にさらされる。といっても、雑兵の矢は、そこまで恐ろしくない。


 盾の狭間を縫ってシジャブを射殺したあの腕前。どう考えても一流だ。

 そこに「男のような女」という前情報がくっついてくる。これが気になって仕方がない。


 俺には、そういう知り合いがいる。そして、この戦争に便乗した使徒は、明らかに俺とキース、ガッシュとの殺し合いを望んでいた。もしかして、考えたくはないがもしかして、フマルの側に手を貸しているのは、ウィーではないのか。

 どんな理由でそうなったかは、想像するしかない。男の体を得てから各地を彷徨ううち、タフィロンで召し抱えられたとか。ないとは言えない。

 一つわからないのは、男のような女という言い回しだ。彼女は今、どこからどう見ても男の体を持っている。なら、表現は逆になりそうなものだ。女のような男。ただ、その辺はどうとも判断できない。


 俺の想像が見当違いであることを祈るしかないが……

 もし、これがウィーだったら、どうするのか? 殺すのか、それとも逃がすのか? それはどんな正当性があって?


 俺はノーラを殺されたことに対する復讐として、この戦争に参加した。だが、ノーラは生きていた。だからといって、もう戦争からは降りられない。あの黒い影の正体も不明な今、中途半端な選択はできない。だから今は赤の血盟を勝たせるために戦っている。

 その復讐という目的がないのに、身内を殺されたという理由で戦いに身を投じたのに……その理由をなくしてから、別の友人をこの手で殺すのか?

 といって、逃がすこと、これも許されるのか。俺の横では、ラークやジル、他四人の郎党が命懸けで戦っている。シジャブを殺して一軍を危機に陥れた敵を見逃すのは、彼らに対する裏切りではないか。


 答えは出ない。ただ、とにかくこの状況は乗り切らなくてはいけない。

 ティズがこちらに合流するまでに、まだ二、三日はかかるだろう。ラークが率いるシジャブの中軍の残兵と、後詰めのタジュニドの兵だけで、この猛烈な攻勢を凌ぎきる必要がある。


 しかし、俺という強力な手駒があっても、勝ちを拾えない。これが主導権というものだ。

 こちらが攻撃にまわって、敵が城塞に篭っている状況なら、俺はその能力を惜しみなく活用できる。火球で城門を吹っ飛ばし、中に乗り込んで敵兵を八つ裂きにする。防御塔の上から矢を放つ敵がいたところで、俺はそんなものではまず即死しないし、逆に火球でお返しするだけだ。

 今は逆に、敵がこちらを攻めている。そして俺という強敵をはっきり認識し、即座に火球を無力化する対応をとってきた。白兵戦でも強いとわかると、犠牲を許容しつつ、その消耗をなるべく遅延させるという対応をした。驚くほど的確な対処だが、それを淡々と実行できるのは、フマルが死兵と化しているからだ。

 とにかく、今、この戦場をコントロールしているのはあちらであって、こちらではない。


 この局面を打開するには、敵の中核を打ち砕く必要がある。戦意の中心には、男のような女と呼ばれている、あの射手がいる。どうあれ、そいつを捕まえなくては……


「チッ」


 後ろでムフタルが舌打ちした。


「やっこさん、早起きしたみてぇだぜ?」


 俺も気付いた。地面に突っ伏しているおかげで、遠くからの馬蹄の響きが聞き取れる。大地が揺らされているとわかる。

 しかし、この状況はまずい。夜間のゲリラ射撃はこちらにそれなりの被害をもたらしている。死者、負傷者はそこまででもないが、体の大きな馬は矢を避けられず、今は横倒しになっている。流れる血の臭いは不快だが、これが遮蔽物となって、敵の矢から身を守ることができた。

 それが夜が明けて、また前日のような白兵戦になったらどうなるか。昨日の夕方と違って、こちらは騎乗していない。あちらは高所から遠い間合いの武器を振り下ろすことができる。歩兵が騎兵より弱いとは限らないが、馬をなくしただけのこちら側には、騎兵対策になるような歩兵用の武器などない。単純に高低差や間合いが有利不利の差となってしまう。かつ、人間よりずっと大きく重い馬の突撃がくる。今度はもう、支えきれない。


 地平線が真っ白に染まる。


「来た、な」


 後ろでフィラックが呟く。ディノンとジルが黙って矢筒から矢を取り出し、そっと番える。


「前に出る」


 俺はそう宣言した。


「なんとか持ちこたえて欲しい」


 後ろでラークが頷く。彼はいまや最前線の指揮官だ。しかし、だからこそ、彼が下がれば、本当に総崩れになってしまう。兵は指揮官の振る舞いで戦況を判断するものだからだ。

 俺が前に立って戦う限りにおいては、相手も俺を仕留められない以上、突撃の勢いを殺すことになる。


 遠くから無数の甲高い弓弦の音が聞こえてくる。こちらからはまばらだ。横たわる馬体に矢が突き立つ。当てるつもりというより、こちらの射撃を邪魔して白兵戦に持ち込むための牽制なのだろう。

 通路の入口が暗くなる。陽光を照り返す岩盤が、騎兵の影に覆われたからだ。それは驚くほどの速さで迫ってきた。その馬蹄の響きは、そのまま胸の鼓動のようだった。


 予め詠唱しておいた分の火球を叩きつける。放てるのはこの一撃のみ。爆音が轟き、二、三の馬が仰け反りながら弾け飛ぶ。その他にも、薙ぎ倒されたのがいくらもいる。だが、直撃しなかった騎兵は、それを跳び越えながら、なおも足を止めずに迫ってくる。


「突っ切れ!」


 敵の先頭に立つ指揮官らしき男が叫ぶ。

 通路の壁となる岩山すれすれのところを、フマルの騎兵は全速力で駆け抜けていく。俺は前に出たが、その流れすべてを妨げるなどできっこない。かろうじて、正面に迫った敵を斬り払うのみだ。


「囲め! 囲め!」


 またこのパターンか。槍を持った歩兵で俺を取り囲み、時間稼ぎをする。その間に、俺の背後にいるネッキャメルの兵を押し潰す。


「くそっ、何度も何度も!」


 苛立ちはするが、どうにもならない。腕を振れば槍の穂先は落ちる。戦えばいずれは勝つ。しかし、俺の動きは制約される。


 その時、視界の隅に黒いものが映った。はっとして目を向ける。ノーラだった。

 味方を守るムフタルの盾の向こうから顔を出して、何事かをしている。あれは詠唱だ。そうして、俺の横にいる敵兵の一人が意識をなくして倒れ込む。


 馬鹿な、何をぬるいことをしている。眠らせてどうするのだ。

 ここは戦場……


 目の前を何かがよぎった。


「ノーラ!」


 一瞬、ビクンと身を震わせ、倒れ込む。すぐ後ろにいたジルが反射的に抱きかかえた。さすがに驚いたのか、ペルジャラナンは盾を持って前に出る。

 矢は、見事にノーラの鎖骨の近く、ローブから顔が出ているところに突き刺さっていた。黒竜のローブがあるから、もしこれが胴体を狙ったのなら、矢は通らなかった可能性が高い。こんな芸当ができるのは……


「おら、こっち向けぇ!」


 フマルの兵が槍を突き出す。俺は乱暴にそれを払いのけた。


 これだから。

 戦争だというのに、甘ったれているから、こういうことに。

 視界の隅で、ジルとフィラックがノーラに取りついているのが見える。矢を抜こうとしているようだが、下手をすると大出血になるのを恐れているのだろう。だが、ここは抜いてもいい。ノーラには治癒能力がある。ミスリルの鏃なんてまずあり得ないから、抜けば徐々に治っていく。


「ギッ!?」


 ペルジャラナンが膝をついた。またか!?

 体全体を覆えるほどの大きな盾など持っていない。正確無比な射撃は、彼の右足を狙って撃ち抜いた。

 既に俺の背後にもフマルの兵が雪崩れ込んで乱戦状態になっているのに、よくもこんな狙撃ができるものだ。いったい、射手はどこにいる?


 俺の知る限り、こんな腕前の射手は、ミルークを除けばウィーしかいない。そして使徒がこの戦争に介入している以上、彼女があちら側の味方をしている可能性は排除しきれない。


 だけど、もしウィーだとしたら。

 なぜなんだ。思い知ったはずじゃないか。復讐のために何もかもを失った。仲間に入れてくれたガッシュ達も。最愛のクレーヴェも。元々の肉体すらも。

 そんな思いをしてまで、どうしてまた、憎悪の連鎖に手を突っ込んでしまったんだ。


「チックショオオォッ!」


 必死で斧を振り回すムフタルが絶叫する。

 フマルは勝負をかけてきている。犠牲を省みず、続々と俺の横をすり抜けて、背後で戦闘を繰り広げている。損害が出ようがなんだろうが、この最前線、ラークごと倒してしまえば、赤の血盟の侵略は防げてしまう。だからこそ、なりふり構わず突っ込んできているのだ。


 打つ手がない。このままでは、守り切れない……


 そう思った時だった。急に俺を囲んでいた兵士達が、まるで糸が切れたみたいにフラリとよろめき、静かに倒れ込んだ。

 周囲の喧騒が、いきなりまばらになり、止んでいく。兵士が、馬が、また一人、また一頭と、前触れもなく力を失って転がり、そのまま二度と起き上がらない。


 まさか、と思って振り返る。

 矢を引き抜かれたノーラが、浅い呼吸を繰り返しながらも杖を手にし、その目で周囲を見回していた。

 岩のトンネルの向こう側には、第二波の敵兵が押し寄せてきていた。それもまた、いきなり前のめりになって落馬し、そのまま一人、また一人と死んでいく。やがて正面方向は、人馬の死体で埋まってしまった。


 フマルの襲撃は途切れた。静寂が訪れた。


 誰もが、何が起きたかを理解できずにいることだろう。俺を除いては。

 やっとノーラは踏み切ったのだ。腐蝕魔術で、容赦なく敵兵を殺した。用いたのは『変性毒』だろう。空間に向かって行使する『腐蝕』と違って対象を選ぶ必要はあるものの、一秒かからず一人を殺せる。よほど遠くにいるのでもない限り、視界の中に敵がいれば、その場で呪い殺される。


「もう、平気」

「えっ? き、傷が?」


 ディノンが上ずった声を漏らす。


 杖をつきつつも、ノーラは一人で立ち、俺の横まで歩いてきた。それから、無表情なまま、改めて死体の山を見渡した。

 このほとんどは、彼女がたった今、死に追いやった。その認識が追いついたのか、いきなり杖を取り落とすと、その場に膝をつき、自らを抱きながら、ガタガタ震え始めた。


 スーディアでは、兵士を操って処刑から逃れた。

 人形の迷宮でも、レヴィトゥア派のリザードマンを倒した。

 だが、ここに至ってついに殺人に手を染めた。


 人を、殺した。

 その実感が、説明のできない恐怖のようなものとなって、今、ノーラを苛んでいる。

 彼女もまた、この世界の憎悪の連鎖の中に、荒れ狂う血の海の中に……その身を浸した。


 俺よりはましだな、と冷めた頭で考えた。俺が初めて家族を殺したときには、こみ上げる感情のままに言葉にならない叫びをあげて、走り去るしかできなかった。


 だからついてこなければよかったのに。

 この心の傷は、きっと一生消えない。


「ラーク」


 俺は振り返った。


「命令を。追撃だ」

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