フマルの切り札

 アラワーディーを離れて西に進むと、やがて右手に赤竜の谷が見えてくる。その辺りで、左手に分岐する街道が目に映る。南側に見えるのは、赤竜の谷から千切れて引き離されたかのような岩山の陰だった。

 赤茶けた大地の上には、ポツポツと丈の低い草が生えている。その上にきめの細かい砂が、粉が噴いたみたいに散らばる。この僅かな植生を支えているのは、時折発生する、あの谷からの洪水なのだろう。そして、この先に広がる岩山の光景を形作っているのも、同じ水の力だ。

 最初の岩塊に辿り着いて、俺はその認識を新たにした。驚かされたのは、その曲線美だ。鋭利な彫刻刀で表面を削り取ったような。明るいサーモン色の岩壁が天然のトンネルになっている。母なる自然はまた芸術家であるというが、あながち外れてはいない。ただこの世界には、まさしく母なる女神が実在するのだが。

 その雄大さでは比類ないこの街道、平時であれば素晴らしい旅の名所でもあるのだろう。しかし、俺は別の心配をしている。このような岩山が無数にあるのだとすれば、防衛側にとってみれば使い勝手のいい遮蔽物になる。地の利はフマルにあるのだから。


「ここはな」


 俺は中軍を率いるシジャブの横で馬上に身を置いていた。


「昔、フマルの奴らに大恥をかかせてやった場所なんじゃ」


 さも嬉しそうに、彼は思い出を語った。


「大恥、と言いますと」

「奴らは弓の腕前を誇っておる。その奴らがな、ここから先、一歩も進めなかったんじゃ」


 俺が首を傾げると、彼は言い足した。


「なんじゃ、ミルークの奴は何も言わなんだか」

「え、ええ」

「まぁ、難しいことではない。あやつ一人に、軍勢全体が足止めされてしもうたのよ」


 なんと、そんなことをしていたのか。

 そういえば、アラティサールも最初の会議でフマルを侮っていた。誰か一人送って黙らせればいいとか言っていたっけ。


 シジャブの言うところを纏めると、要するにこういうことだった。

 当時のミルークは年若く、膂力に優れてもいた。人並外れて弓の腕に秀でていた彼は、南北の戦争の際にはしばしば単騎で目立たないように側面に身を伏せ、不意をついては指揮官を射殺してきた。

 だが、彼の砂漠の戦士としての名声を決定的にしたのが、このタフィロンに通じる街道での戦いだった。


 バタンの南西でセミンとアルハールの陸上戦力が集結して、まさに赤の血盟との決戦に臨もうとしていたとき、フマルもまた兵を率いてタフィロンから出撃しようとしていた。その出口に当たるこの付近に、ミルークが立ちはだかった。

 彼の弓は、誰より遠くに届いた。敵はただ一人、一気に押し潰せばいいのだが、それができない。近寄るより先に次々射殺されていく。多少距離を詰めても、彼は駱駝を巧みに操って少しだけ引き下がる。そうして岩山の狭間の狭い通路の向こうから、また矢を放ってくる。

 自慢の弓で対抗しようにも、当時のフマルの戦士達は誰もミルークほどの遠間では、的に当てることができなかった。こうしてついに、恐怖に心を折られたフマルの軍勢は、そこで足を止めざるを得なくなった。


 たった一人の射手に、一軍が足止めされたのだ。そのせいでフマルは南北の決戦に遅参し、黒の鉄鎖は大敗を喫した。これはフマル氏族にとって、忘れがたい恥辱になった。


「それから支族にも背かれ……奴らなど、辺鄙なところで威張っているだけの連中よ。岩山に守ってもらってようやく生き延びておるだけのこと」


 シジャブは敵を侮りすぎてはいないだろうか?

 現場の事情を知らなければ、ティズの連戦連勝に気が大きくなるのもわからなくはないが。まだ、俺を襲ったあの黒い影の正体もわかっていない。そして俺が倒されでもすれば、一気に戦況がひっくり返される可能性だってあるのに。


「まぁ、一つだけ心配事があるとすれば、あれじゃな、先鋒を引き受けたハーダーンが先にタフィロンまで落としてしまわないかどうか」

「落とせたのなら、いいことではないですか」

「よくはない。辺鄙なところではあるが、ここも我らネッキャメルのものとせねばな」

「では、フィアンの人々はどこへ行けば?」


 彼は鼻で笑って吐き捨てた。


「どこにでも行けばよかろう。荒野を彷徨えばよい。だいたい一度裏切っておいて、人並みに扱ってもらおうなどと、虫が良すぎるわい」


 やはり賛同はしかねる。といって、下手に意見をしても癇癪を起こしそうな相手だから、俺は言葉に窮した。

 確かにフィアンは裏切ったが、切り捨てるような真似をすれば、今度は何をしでかすかわからない。対話が成立するのは互いに取り分があるからだ。完全に排除された側には、取り決めを守り、秩序を維持するインセンティブが失われてしまう。

 一つには、資源が常に不足し、利権が重要なこの砂漠という土地柄もあるのだろう。サハリア人の心は、砂漠の昼と夜のように、寛容と不寛容がくっきりと切り分けられる。だからこそ、その争いはいつも凄惨で、限度のないものになってしまうのだ。


 後ろにはラークやジル、その他郎党達がいるのだが、誰もこの会話に参加しない。敬して遠ざけるというやつか。

 俺一人に押し付けないでくれ、と言いたいところだが……


「むっ?」


 前方から、人影が駆けてくるのが見えた。

 シジャブの前を進む騎兵が、手早く盾を掲げる。敵であれば、矢を放ってくるかもしれない。総大将たるシジャブを守るためだ。といって、完全に視界を遮るほどの大きさもないし、またそれではシジャブが状況確認できないので、隙間はある。


「下ろしていい。あれはフィアンの腰抜けどもだ」


 それで盾を掲げていた男達は、それを下ろした。


「何事じゃ!」


 そう言いながら、彼は馬を前に駆けさせた。隊列は足を止める。俺は彼を無防備にしないため、慌てて後を追った。


「何があった」

「おお、我らの恥辱をお伝えしなければなりません」

「手短に申せ」

「我らがフィアンは敗れました。族長が敵の矢に射落とされ、総崩れに」


 そら見たことか。

 功を焦って先行したハーダーンが、この険阻な地で敵の罠にかかった、といったところか。


 シジャブは振り返り、叫んだ。


「聞いたか! 友軍は敗れた! 我々は急行して敵を破るぞ!」

「お待ちください、シジャブ様」

「なんじゃ?」

「まずはフィアンの生き残りを収容すべきでは。フマルは備えています。無闇に急げば却って敵の思うつぼでは」


 すると彼は不機嫌を顔に表した。


「グズグズしておっては水が尽きよう。わしらをフィアンの者どもと同じにするでない」


 その「水が尽きる」という心理的圧迫こそ、敵の狙いではないか。だが、本当のところは、功を焦るその気持ちだ。不足がちにはなるものの、水は尽きない。今頃、ティズが補給部隊を急がせて、こちらに向かっているからだ。


「進軍!」


 だが、総大将は彼だ。

 この声に、兵士達は従った。


 しばらく進んだ先に、無残としか言いようのない光景が広がっていた。

 岩のアーチの途切れた開けた場所、大きな三角錐の岩山の陰に、傷ついたフィアンの男達が横たわっている。だが、彼らはまだ死んでいない。一敗地に塗れた後、なんとかここまで逃げ延びてきた。それでも体のどこかに矢傷を負っていて、ついに力尽きてしまったのだ。

 俺はその中心に、やはり着衣が血に染まったハーダーンの姿を見つけた。馬首を向け、急いで駆けつける。

 馬から降り立ち、彼に歩み寄ると、彼もこちらを認めて顔をあげた。橙色の長衣は、血に汚されていた。左腕を射貫かれ、また右の脇腹にも矢が突き刺さったらしく、赤い染みができている。


「ご無事ですか」


 彼はじろりと俺の顔を見上げたが、力がなく、口を開きかけたが、唇が震えるばかりで言葉にならなかった。

 代わりに、脇に立っていた別の男が答えた。


「待ち伏せにあい、矢の雨を浴びせられました」

「勝敗は時の運です。しかし、備えはなかったのですか」

「それが」


 彼は顔を伏せた。代わりにやっとハーダーンが声をあげた。


「思いもよらないほど、遠くから矢が」

「えっ?」

「兵に盾を持たせて備えはした。ここはと思うところでは、常に身を守りながら先に進んだのだ。だが……」


 彼は恥辱に唇を噛んだ。


「話してください」

「岩山の陰から身をさらして矢を放ったのがいた。届くまいと思ったが、思わず腕で顔を庇った。でなければ」


 彼は射貫かれた左腕に視線を落として言った。


「あの一矢で討ち取られていた」

「そんな腕前のが」

「それで私を殺せなかったと悟って、更なる矢が……この二つ目の矢傷で、落馬した。それからフマルの騎兵が寄せてきて、矢の雨を降らせた」


 まず指揮官を狙撃し、それから一気に強襲を浴びせたのだ。周到な用意があったのだと察せられる。


「あれは」


 彼の声に怒気がこもる。


「女だった」

「女?」

「バタンを落としたときに、フマルの捕虜が言っていた。我々には切り札がある。男のような女だ。あのミルークにも劣らない、凄腕の射手がいるのだと」


 男尊女卑の傾向が強いサハリアで、女の戦士? それだけでも相当に珍しい。

 それでいて、一流の射手……男のような女? それはただの比喩なのか?


「聞き知っておいて、こうなってしまうとは、情けない」

「見ると聞くとでは違います。今、我々は見ました。次は勝ちましょう」


 気のせいかもしれないが、どうにも嫌な予感がする。

 だが、それを形にする前に、背後から声がかかった。


「プノス! 先に進むぞ!」


 シジャブが俺を促した。


「では」


 俺は一礼すると、ハーダーンの前から去り、また馬に飛び乗った。


 タフィロンとアラワーディーを繋ぐこの街道は、フマルにとっての動脈だ。道幅は変わらず広い。だが、いくつもの天然のトンネルを経由する。それも完全に閉じた空間であればいいのだが、ときには林立する岩山に左右を囲まれた場所もある。自然、進軍速度は遅れがちになる。先行する斥候が伏兵の存在を確認しなければならないからだ。そのことにシジャブは苛立っていた。

 陽光に黄色いものが混じってくる時間帯になって、俺達はやや開けた場所に出た。左右の岩山が途切れ、遠く離れた場所にまた、新たな峡谷が続いている。


「もうあと少しじゃな。あの峡谷を抜ければ、宿営地となる場所があるはずじゃ」

「平時であればそれもいいかもしれませんが」

「何を言う。要するに水場があるということじゃからな。奴らとて、ここまでは汚すまい」


 こちらにとって便利な場所。だが、それはそのままフマルにとっても重要で、使いやすい拠点ではないのか。


「あと一息じゃ! あの向こうでわしらは宿営する! 明日はタフィロンを囲むぞ!」

「シジャブ様、油断は」

「わしは油断などしておらん!」


 彼が号令を下すと、また軍勢は前へと進みだした。

 それが岩山の切れ目の半ば、雑草も生えない硬い岩盤の上に差し掛かった時、轟音が響き渡った。


 俺達が進もうとしていた先にあった通路。それが大量の土砂によって埋め立てられた。街道の左右に仕掛けを用意しておいたのだろう。


「シジャブ様」

「慌てるでない。間抜けな罠よ」


 それから彼は、素早く命令を下した。


「盾!」


 前方に居並ぶ騎兵が、矢を避けるための盾をすぐ掲げた。


「まぁ、ハーダーンのことがあるゆえ、警戒はしておくか。いくらなんでもこの距離で矢が届くとは思えんがのう。届くにせよ、盾の隙間など拳ほどの幅しかない。まず当たるまいが……それにしても、こんな仕掛けを用意しておくのなら、もう少し考えればよいものを。わしらが通ってから道を遮れば、隊列を分断できように、なんとも考えの足りぬ……」


 そこで言葉が途切れた。耳のどこかで風切り音を聞いた。


「ウッ」


 見た。

 見慣れない細長い棒が、シジャブの胸から生えている。


 気付いて振り返ったとき、更なる矢が首元に突き刺さり、彼はそのまま馬上から滑り落ちた。


「シジャブ様!」


 俺は前を見た。騎兵は盾を掲げていた。なのにあの遠間から、岩山の向こうから、この狭間を縫ってシジャブを射貫いたのか。

 こんな芸当ができる凄腕は、そうそういるものではない。


 馬から降りてシジャブの横に駆け寄る。だが、既に事切れていた。

 俺はこの次に起きることを察して、声をあげた。


「ラーク!」

「ああ」

「指揮を!」


 周囲にいるのはネッキャメルの兵だ。号令できるのは今、ラークだけだ。タジュニドは後詰めを引き受けているので、ここにはいない。


「みんな、ラークを守って!」


 ノーラが尋ねる。


「ファルスは」

「敵が来る。足を止める」


 俺はまた、馬上に飛び乗った。足を止めてはいけない。あれだけの腕前の射手が高台から狙っている。ここから少し下がった場所であれば、防戦も不可能ではないだろう。


「あの岩山まで下がれ!」


 ラークが指示を飛ばす。そこに細長い影が迫る。反射的に俺は剣を抜き放ち、飛来した矢を叩き落とした。それと気付いたラークが振り返り、ぎょっとする。


「早く! なるべく防ぐ!」

「下がれ! 下がれ!」


 その時、左右から馬蹄の響きが迫ってきた。こちらの混乱に付け込もうとするフマルの弓騎兵だ。

 下がる軍勢が、迫る敵勢を支えられるはずがない。


 俺は叫んだ。


「殿は引き受ける! 早く下がれ!」

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