二度目のアラワーディー
火星の地表を思わせる不毛の大地を踏破した先にあったのは、この世の終わりのような景色だった。
昼下がり。灼熱の太陽は今日も容赦なく照りつける。フマルの主要な支配地域は、海に近いバタンより内陸にある。だんだんと岩だらけの砂漠が砂だらけのものとなり、足下に生える草もまばらになっていく。風が運ぶ僅かな水分も失われていくからだ。その乾燥はドゥミェコンの周囲で最も過酷になるが、既にここアラワーディー付近でもかなりのものだ。
赤の血盟の兵士も、その馬や駱駝も、暑さと渇きを堪えながら、ようやくここまでやってきたのだ。それなのに、目の前に広がる村落の様子ときたら。
誰が攻め込んだわけでもないのに、家屋という家屋が、どれも焼け焦げている。これでは宿舎として使うなどできないし、厩を利用することもできない。無論、納屋には一粒の麦もない。そればかりではない。
「報告します」
「うむ」
中軍を率いるシジャブが頷いた。
「フィアンからの報告にあった通り、井戸の水には毒が投げ込まれておりました」
「フマルの愚か者どもが。こざかしい真似を」
赤の血盟が攻め込んでくる。それを知ったフマルの決断は、荒涼たる砂漠に負けず劣らず過酷なものだった。彼らは焦土作戦を選んだ。
これがフォレスティアの平野部であれば、まだこちらの苦労も小さかったかもしれない。だが、ここは水を得るのがずっと難しい砂漠地帯だ。補給を絶たれることの困難は大きい。
「奴らには後先考える頭がないのかもしれんな」
シジャブが嘲るのを、俺は白けた気持ちで聞いていた。
もしフマルの人々が後先考えずに行動しているとすれば、それこそ脅威ではないか。井戸に毒を投げ込めば、仮に戦に勝ってこの村を奪い返せたとしても、しばらくは生産力が失われる。もともと黒の鉄鎖の大氏族の中では決して裕福とはいえない集団だった。最悪の場合、戦いの後に餓死者すら出るかもしれない。
そこまでのリスクを負ってでも戦う。まさしく窮鼠猫を噛む、だ。ティズが懸念した事態が起きつつある。
「ん? どうしたファルス殿。しけた顔をして。ハッハハハ!」
そんな俺の懸念など、彼のハゲ頭にはないらしい。馴れ馴れしく彼は俺の肩を叩き、大声で笑った。
横合いからタジュニドが口を挟んだ。
「恐れながら」
「なんだ」
「ここで水が得られないというのは、痛手になります。シジャブ様もご存じでしょうが」
「わかっておる。ミルークの奴が暴れまわった土地じゃからな」
俺が二人の顔を見比べると、タジュニドが説明してくれた。
「この先は、岩山の狭間を縫って南方へと進軍することになる。既にフィアンが先行しているが、道が悪いのもあって、どうしても時間が」
「些細なことなど気にせんでもよかろう。ファルス殿がおられれば、戦いになりさえすれば、敵などすぐに散り散りになろうて」
恐らく、正しい意見を述べたのはタジュニドのほうだ。
地形が急峻で、複雑に入り組んでいる。敵には土地鑑もあって、こちらは奇襲を受けやすい。そしてフマルはこちらの補給線を破壊する動きに出た。まず間違いなく我慢比べの持久戦を挑んでくる。
正面切っての会戦となれば、確かに俺が火の球でもぶち込んでやればいい。だが、彼らはそのような状況になるのを、なるべく避けようとするだろう。
「こうしてみると、ティズ様が東側にまわったのは、運がよかったとも言えるしのう」
しかし、小さな心配など、シジャブにはなかった。いや、そんなことより、仇敵だったフマルを滅ぼせることの方がずっと大きい喜びなのかもしれないが。
ティズは、実は今回、ここにはいない。ファフルに後方を任せて、バタンからまっすぐ南方に向かった。もちろん、ニザーンの軍勢と一緒にだ。いろいろ思うところもあろうが、アラティサールが何をしでかすかわからず、信用できなかったからではないかと思う。
ただ、それも途中までの予定だという。あるところでジャンヌゥボンからアラワーディーに繋がる街道を辿って、こちらに西進することになっている。シジャブが運がよかったと言ったのは、おかげでセミンの支配地の豊富な水源から、水や食料の補給を受けられるからだ。既にこちらの物資欠乏については、使者が伝えにいった。
そんなわけで、タフィロン攻撃軍の臨時の総大将はシジャブが受け持つことになった。本当は、最初にティズが指名したのはファフルだったのだが、打ち合わせの場にいたシジャブが怒り出してしまったのだ。いつもいつも留守居とは何事か、と。ティズはシジャブに、経験豊富な功臣を失う危険は避けたいと、それこそ彼を立てつつお願いをしたのだが、聞き入れてもらえなかった。
俺がここにいるのも、その辺の関係からだ。本来ならティズに随伴して動くところ、特に彼の頼みを受けて、こちらの不安を解消するためにやってきた。
「ほれ、タジュニド。ぐずぐずするでない。天幕を張らせよ。今夜はここで宿営し、明日からタフィロンを目指す」
「はい」
「なに、恐れることはない。一番広い街道を南に進めばいいだけのことよ」
シジャブは終始、上機嫌だった。
アラワーディーの夜は、いつにも増して闇が濃かった。欠けた月が寒々しい光を放つのみで、あとは何もかもが真っ黒に塗り潰されてしまったかのようだった。
サハリア人にとっての宿場町でもあり、以前見たようにここには天幕を張るための用地がある。俺達の居場所は、シジャブの本陣からさほど遠くない一角だった。
「大所帯になったものだ」
ラークがポツリと言う。
最初、ブスタンの救援に出向いたときには、ティズから与えられた手勢を除けば、ラークと俺だけだった。そこにジルが加わり、フィアナコンではフィラック、ムフタル、ディノン、タウルと、ミルーク子飼いの男達が四人も同行してくれることになった。更にバタンでは、ノーラとペルジャラナンが追いついてきた。合計九名だ。
今は夕食を済ませたばかり。真ん中に小さな焚火を囲んで、のんびり過ごしている。
「この調子なら、そのまま族長になっても家臣には不足しないな」
「何を言ってるんですか」
「うん? 戦いの後の話だが」
家臣って。ティズはどういうつもりなんだろう?
最初からこの戦争は無給で手伝うつもりだったし、今もその考えのままだ。家来なんかいらないし、俺は人の上に立つような器ではない。族長とか頭領とか貴族とか、まっぴらごめんだ。能力だけならそれこそピアシング・ハンドであれこれ引っこ抜けば役目くらいはこなせるかもしれないが、とにかく気苦労で胃に穴が開きそうだ。
じゃあ今までの俺の生活ならストレスがないのかと問われると、言葉に窮してしまうのだが。
「ファルスの功績は確たるものだ。これだけ結果を出したのに、ティズ様が報いなかったら、恥になる」
「それは僕以外の、ほら、形ばかりの郎党やってる皆さんの手柄ってことにして、そっちに金貨でもばら撒いてくださいよ」
「そんなけち臭いことをしたら、それこそ物笑いだ。サハリア人が軽蔑する悪徳が何か、知らないのか? 吝嗇だ」
寛大で物惜しみしないのが美徳とされる世界だ。これも逆説的だが、資源に限りのある社会ならではの気風なのだろう。来客や恩人には限度なしに精一杯のもてなしをする、感謝を示す。ないからこそ、与えることの意味がより大きくなる。
「僕はタンディラールに金の腕輪をもらったんですよ」
「いいんじゃないか? 騎士に相応しい人物として認めることと、公職に就くこととはまったく別だ」
「建前でしょう、そんなの」
「いっそ赤の血盟とエスタ=フォレスティア王国の中継ぎ役になってもいいんじゃないか?」
「勘弁してください」
ティズが何か言い含めておいたんだろうか。わからなくもない。
結果だけ見れば、彼は勝ちまくっている。ブスタンとハリジョンとアーズン城、三つの拠点を一度に攻撃されたのに、ニザーンの援軍もなし、フィアンの裏切りにもかかわらず、ほぼ独力ですべて撃退。そのまま返す刀でフィアナコンをたった一日で陥落させた。バタンでも、到着した日の夜に強烈な夜襲を受け、一度は壊滅状態に追い込まれたのに、結局、三日後には街を占領している。
このデタラメな戦績を支えているのは、俺の存在だ。そのことはネッキャメルの上層部も知っているし、ハーダーンも承知している。となれば、ティズとしては、少なくとも外向きには、プノス・ククバンを名乗るこの人物が自分と個人的に親しいことを強くアピールせずにはいられない。
「何か言われたんですか」
「ん? 戦後はバタンの太守にするつもりだと聞いたが」
「僕はやりますとは言ってませんよ」
すると、フィラックが首を傾げた。
「なぜだ? バタンの太守ということは、対岸のサオーの徴税権もくれるということだ。真珠の首飾りの交易に一口噛める。言っておくが、フォレスティアの田舎貴族になるよりずっと儲かるぞ」
こういうところは文化の違いを感じて面白い。儲かるぞ、なんてフォレスティアの貴族はまず言わない。ただのものの売り買いでの金儲けを賤業と考えないサハリア人ならではだ。
だが、もし褒美をやろう、なんでもいいと言われたなら、バタンの支配権より、敵前逃亡する権利が欲しい。もうプノス・ククバンでいる理由は、半分くらいなくなってしまった。
残り半分が厄介なのだ。復讐の必要はなくとも、俺の身元を知られるわけにはいかない。戦死したのでもないのにククバンの後継者が戦線離脱なんてしたら、確実に注目される。そのせいで数年後に、俺の寝首を搔きにくる連中が出てきたらたまらない。
それにまた、あの黒い影の正体も不明なままだ。今、軍勢から距離を取って一人になるのは、危ない気がする。
ここまで来てしまったら、もうなんとか決着をつけるしかないのだ。
「ええ、大金持ちになれると思いますが」
「じゃあ、どうしてやりたくないなんて言うんだ」
するとムフタルも同調した。
「おいおい、俺達にもいい思いをさせてくれよ。お前が族長になってくれりゃ、俺らもバタンで威張れるってもんなんだぜ?」
「ええと、そっちはティズ様にお願いするけど」
「理由がありそうですね」
静かな声で、ディノンが確かめる。
「ファルス様はこの戦争が無事終わったら、何をなさるお考えなのですか?」
「それは」
ここにはノーラもいる。言葉は選ばないといけない。
「大森林に挑みたいと思っていて」
「あぁん? 大森林? あんなとこ、やめとけやめとけ」
ムフタルが乱暴に手を振る。
「割りに合わねぇだろがよ。お前、バタンにいりゃあ、ふんぞり返ってるだけでガッポガッポ財布に金が入ってくんのによ。大森林の奥地で金塊でも探すのかぁ?」
「あ、いや」
「ウンク王国の南から大森林に突っ込むバカどもなんざゴロゴロいやがるけどよ、どいつもこいつも食い詰めモンばっかりだ。わざわざお前が行くところかよ」
弱った。合理的な説明ができない。
「あの……ですね」
「おう」
「ドゥミェコンで聞いたんですが、大森林の奥地には、失われた古代の都があるそうで」
「ハァ?」
「ナシュガズっていうらしいんですが、聞いたことは」
「プッハハハ!」
ムフタルは腹を抱えて大笑いしてしまった。
「お前、そんな与太話信じて、あんなヤベェところ目指すのかよ」
「大森林も危険らしいですね」
「アブねぇなんてモンじゃねぇ。なぁ、タウル」
声をかけられて、タウルは頷いた。
「大森林の冒険者は、どんどん死ぬ。案内人も」
「危険なのは承知しているけど……ただ」
どんな魔物が出てきても、それこそ使徒とか龍神とかでもない限りは、そう怖くはない。
「これでも黒竜も窟竜も、それから一応、赤竜も倒したことがあるので。まさかそれより強いのがウヨウヨしてるなんてことはないんでしょう? 大森林にいる魔物がそこまで強いなら、ウンク王国もクース王国もとっくに滅んでいるかと」
だがタウルは首を振った。
「そういう危なさじゃない」
「どういう危なさですか」
すると彼は、右手で何かを摘まむような仕草をした。
「こんな指の間に収まるような小さな虫が、黒い霧のようになって迫ってくる。肌に取りつかれたらどんどん肉を溶かされて、吸われる」
「えぇ」
俺も変な声を出してしまったが、ディノンも顔を顰めていた。
「強いだけじゃどうにもならない。逃げ足が大事」
「ってことだ。いいことナシだぜ? そのナシュガズってのも、あるんだかどうだか」
「それは絶対にある。ありますよ」
ケッセンドゥリアンが言ったのだ。実際にそれを目にした人物の証言だ。間違いない。
「では、ファルス様はその失われた都を探しに行かれるのですか」
「はい。一応……他にも探し物はいろいろあるんですが」
不老の果実のことは、また後で話そう。勢いであれこれ言ってしまうのもどうかと思うし。
「ふーん」
俺の言葉を聞くと、ムフタルは腕を組んで考え込んでしまった。
「ま、わからなくもねぇか」
「何がですか」
「バタンの太守になりゃ、大半のものは手に入るけどよ」
「ええ」
「お宝見っける楽しみはねぇやな」
すると彼は、今まで見せたことのないような、どこか子供っぽい顔で笑った。それにつられて、ディノンもうっすら笑みを浮かべる。
「幻の都か……見つけたら、歴史に名前が残るかもな」
「行ってみたいのですか?」
「よせよ」
ムフタルは横を向いた、フィラックに言った。
「お前はやめとけよ。大森林なんか」
「なんでそんなこと言うんだ」
「そりゃあ若ぇからよ。俺みたいにガキどもも手ぇ離れたオッサンならまぁ、割り切って行ってみてもいいけどな」
フィラックは肩をすくめた。
そこでいつの間にか真顔になっていたラークが、つまらない話題を持ち出してしまった。
「ただ、目先の戦を乗り切らないと。フマルがこのまま、大人しく引き下がってくれるとは思えないしな」
「まぁ、そうですね」
フィラックも頷いた。
「他はともかく、水が尽きるのは痛い。こっちは先を急ぐしかない」
「シジャブ様は、中央の街道を一気に突っ切るつもりだとおっしゃっておいででしたが」
「そんな簡単に行くかな」
ムフタルも頷き、溜息をついた。
「あのジジィ、考えてるようでなーんも考えてねぇからな」
嫌悪感丸出しの口調に、俺は慌てた。ここにはラークもいるのに。
「ジ、ジジィって」
「ジジィはジジィだろ。あ、悪ぃ、クソジジィか」
「ちょ、ちょっと」
だが、彼は頓着しなかった。
「なーんで今までティズがずーっとシジャブを後方待機させてたか、わかるか? とにかく口うるさいし、出しゃばりだからな。自分じゃネッキャメルのためとか思ってんだろうが……ありゃあ老害だ。今回も、勝ち戦だと思ったから割り込みたいだけなんだ」
「いや、しかし」
ラークは口を挟んだ。
「シジャブ様は先の戦の前から、ネッキャメルを支えた重臣でもある。功績は確かな方だ」
「昔はな。昔は。ふん」
むしろそのせいで余計に発言力があり、ティズとしてもやりづらいに違いない。
「長引いたら地獄だぜ。んで、奴らは長引かせようとするに決まってる。ったく、誰がドンパチの続きをしようって言ったんだ?」
「それはアラティサールが」
「クソが。で、上に立つのが、よりによってあのジジィたぁな」
ジルが首を振った。
「先のことをあまり考えても仕方ない。明日も早い。そろそろ寝る」
「そうだな」
それぞれ、背後にあるテントに引き下がろうとする。みんなが慌ただしく腰を浮かせた。
女が二人になったので、ノーラはジルのテントに入る。
「ギィ?」
「もう寝るんだよ、ペルジャラナン」
人間の世界の話はなんでも興味深いのだろう。彼はいつも大人しく聞き役に回っている。
しかし、彼まで戦争に巻き込んでいいものか。人間同士の争いなど、関係ない立場なのに。
関係ないといえば、俺自身がそうだ。ノーラとペルジャラナンを殺されたと思ったから赤の血盟の味方をした。ククバンの生き残りも名乗った。
ところが、戦う理由がほぼなくなったところで、行先はというとククバンにとっての因縁の地、タフィロンだ。なんて皮肉なんだろう。
彼をテントの中に招き入れると、俺はすっきりしない思いを抱えたまま、テントの出入口を引き寄せて閉じた。
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