わからない心

「どうして?」

「今、説明しただろう。もう中途半端は許されない。ここで放り出したら大きな迷惑をかけることにもなる」


 かなりの豪邸だ。大きな広間の真上に陽光を取り込む窓がある。四角い広間の真ん中が、また小さく四角に囲われ、そこが中庭になっている。草花が植えられているだけでなく、小さな噴水まで据え付けられている。サハリア人の理想を形にしたような作りだ。いつも水に不足し、潤いを求めている彼らのこと、好ましい場所とは水や緑が溢れている空間だ。

 その四隅に、それぞれ椅子とテーブルが置かれている。なぜかこの辺はフォレス風で、サハリア風の座敷ではない。思うに、四つもテーブルがあるところを見ると、ここは商談スペースだったのではないか。


 その一角で、俺とノーラは向かい合っていた。ペルジャラナンもいるが、彼はぼーっとこちらを見ているだけだ。話したところで、どうせ「ギィ」としか言わないのだが。


「でも、もう、勝ったようなものなんでしょ?」

「アラティサール……ニザーンの族長が、敵を滅ぼすまで戦いを続けると言った。族長達の半分以上が賛成した。だから止められない」


 ノーラの考えは、確かめるまでもない。こんな戦争にこれ以上関わらず、安全なところに移動したい。厄介なことに、俺自身もそう感じている部分はある。あの黒い影がもう一度襲ってきたらどうなるか。

 ただ、だからこそという部分もある。俺の命を脅かしたあの強敵を、そのままにはしておけない。といって、ここでノーラを連れ歩くとなれば、ますます不安は大きくなる。あのバケモノはミスリルの刃と、強力な毒を備えている。ノーラもあれにやられたら、多分、助からない。最悪、俺とノーラが両方傷つけられた場合には、どちらかの命を諦めるしかなくなる。


「僕としては、ノーラは一度、ピュリスに帰るべきだと思う」

「いや」

「サグィまで、既に赤の血盟の艦隊が制圧している。ネッキャメルの艦船もあったはずだから、それに乗って」

「帰らない」


 これだから……

 しかし、ゴーファトに処刑されそうになったり、シュプンツェの天変地異に巻き込まれたり、キースにぶちのめされたり、レヴィトゥアに全身の骨をへし折られたりしても、いまだに意志を曲げないのだから、こんな説得一つでどうにかなるわけない。


「本当に、今回はどうなるかわからない。剣も魔法も通じなかった。つまり、その……黒い蝶の力も通じない」


 腐蝕魔術のことはあまり大っぴらに話さないほうがよさそうだ。これでもノーラには通じるだろう。


「もともとないものと思えばいい。それより、ファルスこそピュリスまで引き返せばいいじゃない」

「言っただろう。ここではもうプノス・ククバンだ。急にいなくなったらティズの立場がなくなる」


 この言い争いを、ラークは不安げに見守っていた。ジルは表情を変えずに、というよりあえて感情を押し隠して、なんでもないかのようにしていた。


「どうしても、というのなら」


 では、ノーラをなるべく安全な状態におくには、どうすればいいか?


「戦争についてくるしかないんだぞ」


 本当はバタンに置き去りにしたい。だが、その選択肢はとれない。

 なぜかというと、あの黒い影の正体や目的が不明なままだからだ。もしあれが、俺ではなくノーラを優先して狙った場合、俺が傍にいないと守ることさえできない。といって、俺がいればあれを倒せる、撃退できるというのでもないのだが。


「戦場は悲惨だ。どんどん人が死ぬ。殺さなければ殺される。戦闘が終わっても、終わりじゃない。今度は捕虜を痛めつける。男だけじゃない、女も子供もだ」


 俺が厳しい態度でノーラに接するのを、ラークは難しい顔で見つめていた。しかし、さすがに彼も理解はしている。それもこれも、ノーラを追い返すためだ。


「どうしてそんな」

「どうもこうもない。問答無用、話し合いが通じない場所に行くんだぞ。やるかやらないかしかないんだ」

「わかった」


 唇を震わせつつ、ノーラは答えた。


「それなら、私も行く」


 最善ではないが、こうなれば俺が全力でノーラを庇うしかない。そういう結論になった。


「いいんだな」

「うん」


 シーラの加護も、戦場となれば期待はできない。殺人は彼女にとっての禁忌だ。それに人目があるところで神の力を見せびらかすわけにもいくまい。

 こうして不本意ながら、ノーラをピュリスに送り返すという俺の考えは、またしても却下された。


「それなら……ラーク、ムフタル達は?」

「宿舎にいる」

「紹介しないと」


 彼らはジルの看護などに手を貸してくれていたが、宿舎は別に割り当てられた。しかし、よくよく思い出してみれば、俺がそちらに出向いたことはなかった。よって場所を知らない。


「悪いけど、案内してくれると」

「済まないが、私はこの後、ティズ様から一度顔を出すようにと言われている。で、多分、すぐに出陣の準備に追われる」

「じゃあ」

「私が行こう」


 ジルが凭れていた壁から背を離して、こちらに向き直った。

 なお、ジルだが、土の賢者とその配下が放った石弾には、それなりの威力があった。だが、そこは俺が『魔導治癒』と適当な魔術核を移植したのもあってか、短期間で急激によくなった。今ではこうして出歩くにも不自由はない。


「そろそろ昼時だ。ここでみんなで食事をするのもいいだろう」

「そうですね。ノーラ、少し待ってて」


 ジル一人に迎えに行かせてもいいのだが、さすがにちょっと悪いかなとも思い、俺も行くことにした。ここ二、三日ほど、あまり顔を合わせていないのもある。形ばかりの主従関係とはいえ、協力し合って戦う仲だ。軽んじられていると思わせたくない。


 一歩外に出ると、そこは入り組んだ街路が不規則に続く路地だった。これは一人で歩き回ったら、まず間違いなく迷子になる。白い漆喰の壁に、陽光を照り返す黄土色の瓦屋根が美しい。上から見るとフォレス風の建築に見えたのだが、こうして間近にすると、似て非なるものなのかもしれないと思う。実際、内部構造はサハリア人の理想に合わせている。いろいろな地域の好みが混じり合った、まさに真珠の首飾り固有の文化とするのが適当だろうか?

 ジルは無言で前に立って歩き出した。心なしか元気がないように見える。思わず俺は、声をかけていた。


「そういえば」

「なんだ?」


 気にはなっていたが、聞きそびれていたことを思い出し、口にする。


「他のみんなはどうなったか、知ってる? ジュサとか」

「ああ」


 収容所の職員の行方。先生と呼ばれていた老人は亡くなったらしい。では、他は?


「ジュサは、父から纏まった金を受け取って、帝都に向かった」

「帝都? どうしてまた?」

「医者を探したいと言っていた。左腕を治すと」


 そうだった。彼は右手に剣、左手に盾を構えて戦うスタイルの戦士だった。しかし、左腕に古傷があり、どうしても握力が不足するという問題があった。俺と戦った時にも、一撃を受けそこなって盾を手放していたっけ。しかし、日常生活に支障をきたすほどではなかったはず。


「じゃあ、冒険者として復帰するつもりだと?」

「さぁな。どうしてもやっておきたいことがある、とは言っていた」


 すると、心当たりは一つしかない。

 上級冒険者になるための指名依頼。あそこで彼は、すべてを失った。場所はどこか聞かなかったが、貴族の息子を遺跡から救出するために迷宮に挑み、そこで正体不明の魔物に仲間達を殺された。その中には、彼の最愛の人も含まれていた。

 もう若くもない。全盛期の力は取り戻せないだろうに、やるつもりなのか。


「守衛さんは?」

「ああ、いたな。二人ほど。一人は故郷に帰って実家の仕事を継ぐつもりだと言っていた。確か仕立て屋だとか」

「もう一人は?」

「さぁ? 冒険者を続けるから、ムスタムに行くとか言っていたが……」


 なら、割と近くに引っ越したのだろうか。


「連絡を取ったりとかは?」

「ん? いや、ない」


 俺はブスタンにあった、あの手狭な家を思い出した。ミルークは最初はアーズン城、続いてジャリマコンに張り付いたまま、滅多に帰ってこない。余所者のジルは、出自もあって偽名を名乗って暮らしていた。他人との接点も最小限だったはずだ。

 それでいて、昔馴染みとの付き合いも何もない。手紙のやり取りさえも。

 ミルークと再会する前の彼女の人生まで遡っても、やっぱりろくな繋がりなんかない。ウォー家の人間は彼女を冷遇したし、生き残りもいない。次に出会ったのは彼女を勝手に奴隷扱いした盗賊まがいの連中だ。これは強姦されそうになって反撃して逃げたそうだから、やはりポジティブな繋がりはない。最後に、ミルークを探しつつ、年齢をごまかして冒険者をしていた時期があるが、この時も人間関係なんてろくに構築していたはずがない。仇討ちを済ませたら死んでも構わないと考えていたのだから。

 なんと孤独な人生だろうか。


「傷は、どう?」

「すっかり治ったようだ。案外、傷は浅かったのかもな」

「ならいいけど」

「ふん」


 そこで俺は、ジルが荒んだ空気を身に纏っているのをはっきりと認識した。


「今更気遣いか? お前に言うことじゃないのはわかっているが」

「えっ?」

「ファルス、お前はいったい何しにサハリアに来た?」


 それは、人形の迷宮に挑むついでに……


「ドゥミェコンで人形の迷宮に挑みました。その後、ミルークさんが弟に会えと言ったので」

「そう。覚えている。お前はティズに会いに来た」

「はい」

「つまり、私に用があったわけじゃない」


 それを言われると、確かにその通りだった。俺には目的があって、その途中にティズがいるらしいから、顔だけ見て通り過ぎようと、その程度の認識だったのだから。


「正直に言ってくれ。収容所を出てから、私のことを思い出したか?」

「それは、まぁ」

「思い出すだけなら、あったかもな。ただ、重要ではなかった。当然だ。そもそも私は、特に男児の相手をすることはなかったし……子供達には怖がられてもいた」


 そこで彼女は、皮肉げな笑みを浮かべた。


「別に責めてるわけじゃない。それが普通だ。だいたい奴隷商人の手伝いをしていた女と、売られていった奴隷が、どうして馴れ合わなくてはいけない?」

「で、でも」


 俺は戸惑いながら、例外中の例外としか言いようのない実例を挙げた。


「ノーラは、売り飛ばされてからも、僕のことを覚えていてくれたし。とっくに別々の人生を生きていてもいいはずだったのに」


 するとジルも頷いた。


「よかったな」

「はい?」

「あれはお前の家族だ。妻だろうと姉だろうと血の繋がりがなかろうと、そんなことは関係ない。見ればわかる」


 路地の真ん中で足を止め、俺の目を覗き見る。


「表情がまるで違う」

「表情? 誰の」

「お前のだ。鋸の刃みたいだったのが、今では池の水面に浮かぶ枯葉のようだ。形ばかり取り繕っても内心はオドオドしている。ノーラが心配でならないんだろう?」


 憎しみに突き動かされていたあの時と、今と。

 ジルの言う通りだと思う。


「私には……ないものだ」


 前を向いて歩き出し、彼女は暗い声で静かに言った。その表情は見えなかった。


「あの」

「なんだ」

「じゃあ、なぜ」


 俺は引っかかっていたことを尋ねた。


「あの時、ラークを庇ったんですか」

「どの時のことだ?」

「ついこの前、岩山の中で、土の魔術兵に囲まれたとき」


 ブスタンの戦いについては、説明は不要だった。あれでラークが討ち取られていたら、赤の血盟は敗北。ブスタンが黒の鉄鎖に蹂躙されていただろうからだ。

 しかし、あれからジルはラークと行動を共にしながら、だんだんと険悪な関係になっていた。フィアナコン陥落の夜には言い争いに発展し、バタンの夜襲の後、逃げ込んだ岩山の中でついに出自について口走ってしまった。

 にもかかわらず、ジルは俺だけでなく、ラークを庇って負傷した。


「わからない」


 立ち止まり、首を振る。それからしばらく彼女は無言のまま、歩き続けた。


「あまり深く考えてはいなかったが」


 だが、やっとポツリと言った。


「奴には先があるからな」

「先、ですか」

「末席とはいえネッキャメルの頭領だ。妻と娘を失ったのは不運だったがまだ若い。そのうちティズが後添えを見つけてきてくれるだろう。この戦争で死ななければ、誰からも愛される人生が待っている。それなら」


 肩をすくめて、彼女は力なく笑った。


「私の命よりは値打ちがあるだろう?」

「そんなこと」

「だから余計に腹が立つのかもな。あいつには……」


 だが、ジルはそこで口を噤んでしまった。これ以上、この話題を続けたくはないらしい。


「行くぞ。あんまり待たせると、ムフタルあたりが怒り出すからな」


 歩き出した彼女を慌てて追いかける。そこでジルは思い出したように呟いた。


「考えてみれば、怒ることなんか何もない」

「えっ?」

「ラークのことだ。あいつが私に本当に憎まれなくてはいけないほど何かをしたかといえば、そこまでのことは何もない。私は何にいらついているんだろうな」


 彼女は横目で俺の顔を見ながら、付け足した。


「ついでに言えば、憎むということが、そもそも無駄なんだろう」

「生産的でないとは」

「お前のためを思うなら、ノーラが見つかって本当によかった」


 そう言いながらも、彼女は本当に不愉快そうだった。


「……憎む奴は、弱い奴だ」

「それは、まぁ」


 強者なら、憎む前に相手を叩き潰すし、そもそもその強さを恐れて誰も憎まれるようなことをしないだろうし。

 だが、そういう意味ではないのだろう。では、心が弱いからつらいことを他人のせいにするとか?


「憎むと、弱くなると言ったほうがいいか」

「そうですか?」

「ああ……そういう意味じゃない。なんと言ったらいいのか……自分の足で立てなくなる」


 入り組んだ薄暗いバタンの裏路地を次から次へと渡り歩きながら、彼女は言葉を探した。


「私は父を……ミルークを憎んでいた。憎くてたまらなかった。だから、気付いたら、ミルークのいない人生なんて考えられなくなってしまっていた。それと同じだ」


 なんとなくわかる気がする。

 この現象、グルービーならなんと言い表すだろうか? とにかく、叱責されるのは間違いない。主導権を明け渡すな! と。

 憎悪には対象が必要だ。その誰かが傷つけば喜び、幸せなら苛立つ。自分の幸不幸、快不快が自分以外の誰かに握られてしまう。

 だからこそジルは、自分がミルークを憎んでいるのか、愛しているのかわからなくなった。気付けば彼無しでは生きられない自分に気付いてしまったのだ。


「つまらない話だな」


 すべては終わったことだ。

 深く考える値打ちもないとばかり、彼女は肩をすくめると、歩調を速めた。

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