報復の夜

『誰のものにもならぬ』


 いつともわからない時、どこともわからない空間で、誰かの声が響く。


『思い通りにはさせぬ』


 どちらかといえば女性的な声。理由が思い当たらない……いや、思い出せないのだが、どことなくこの声を聞いていると底のない闇の中に落ちていくような恐怖をおぼえる。


『忌まわしい者どもが我が手足を持ち去ろうとも、これだけは、これだけは譲るものか』


 暗闇の中に、仄白い光が広がる。そこに、ほとんど色彩のない暗い映像が浮かび上がった。

 砂漠だった。俺が毎日目にしているような、岩と砂ばかりの不毛の大地。そこを黒い杖をつき、黒いローブに身を包んだ誰かが横切っていく。吹きすさぶ砂嵐にフードが剥ぎ取られ、長い黒髪と白い頬が見えた。

 俺は彼女が誰かを知っている。今はどこを彷徨っているのだろうか。しかし、俺が知る通りなら、彼女は今、あの紫色の大広間にいるはずだが。或いは前世の死後、意識を取り戻していなかっただけで、もしかするとこの世とあの世の狭間には、こういう不毛な通路があったのかもしれない。


 俺についてきたばっかりに、こんなことになった。せっかく美貌を備えて生まれてきたのに。せっかく努力を積み重ねてきたのに。

 何度も危険にさらされてきた。そのたびに俺は恐れたのに、結局、追い返すことができなかった。なんとかなってしまったから、そのせいで。


『お前の望みを述べよ……そう、本当の望みを』


 俺の望みは……


 あれ? おかしいな。

 望んだのに。彼女の無事を願ったのに。何か違うような気がする。俺はもう、願いをかなえてもらった後。そんな気がしてならない。


『憎しみを思い出すがいい』


 その声と共に、俺の体に牙が突き立てられたような感触が走る。不思議と痛みはない。そして冷たい血液が流し込まれる。


『さぁ! さぁ! さぁ! 数多の魂の嘆きを! 恨みを! おのが内に受け入れよ!』


 血の凍るような、それでいて同時に血が沸騰するような。

 意識がズタズタに切り刻まれるような感触に、俺は思わず叫んだ。


「あっ……」


 気が付くと、周囲は暗くなっていた。

 ここは、どこだ?


 椅子の上だった。城塞都市バタンの最上階。族長のための謁見の間。

 そうだ。ここでティズと話をした後、俺はあれこれ考え始めていた。なぜこの戦争が起きたのか。けれども、どうやら相当に疲れが蓄積していたらしい。いつの間にか眠り込んでしまっていた。

 ということは、さっきのは夢だ。それにしてはあまりに生々しかったが。


 しかし、夢は幻に過ぎなくとも、今、ここに残る胸の疼きは本物だった。どうにも落ち着かない。冷えた指先に汗が滲む。どうしても、何かが欠乏しているような気がする。

 椅子から降りて、窓の外を見下ろす。かなりの暗さだったが、どうやら南の城壁の向こう側から、あかあかとした光が見える。焚火でもしているのだろうか。

 この胸のむかつきはなんだろう。俺はわけも分からず、無駄に広い謁見の間をうろつきまわった。何かがあれば気持ちが落ち着くはずなのに、その何かがわからない。ああ、どこを探せば……


 俺の目は、市街地に点在する光に吸い寄せられた。

 光、そうだ。俺が欲しているのはもっと純粋な……


 俺は自分の腰に提げた剣に気付いた。そしてそれを引き抜く。ああ、これだ。

 殺さなければ。なぜかはわからないけど、殺さないと、気が済まない。戦いは終わった? 関係ない。殺す。


 酔っぱらったような気分のまま、俺は謁見の間から這い出た。そのまま塔に繋がる渡り廊下を歩いた。塔には見張りがいたはずだが、用事でもあったのか、誰もいなくなっていた。俺はそのまま階段を下りた。

 陸橋の終端、中央市場の真上まで降りてくると、下には小さな灯りが見えた。人影はまばらで、彼らの話声が軽く反響して聞こえる。


 三人組の兵士が、俺に気付いたらしい。


「あっ、おい、英雄様ぁ! 英雄プノス様じゃありませんかね!」


 赤の血盟の兵らしい。俺に用事だろうか?

 彼らは既に酒を飲んでいるらしく、緩み切っていた。俺が昂ぶりを抑えられずにいるのに、まったく気付いていない。

 意識して暴れ出しそうになるのを抑え込みながら、俺はゆっくりと下まで降りた。


「やーやーやー、やっぱりそうだ! おかげさんで、また勝ちましたよ! 俺らの英雄だ!」


 男達はまだ若かった。二十代前半か。


「今まで何してたんすかぁ?」

「休んでいただけだが」

「休んでたぁっ!? もってぇーねぇっ! ねぇねぇ、楽しみましょうよ、俺らだけじゃ悪いっしょ!」


 彼らは笑顔で俺を取り囲み、酒臭い息を浴びせてきた。


「何を楽しむと」

「女っすよ女ァ! ちょっとちょっとォ! 俺らの英雄様がまだ抱いてねぇのに、こりゃダメっしょー!」

「若いのまだ残ってたよな」

「ヤられた後のじゃまずいでしょ。未開封じゃなきゃ。キレイどころ、残ってっかなー?」

「順番待たなくても、プノス様なら最優先ですよ! 俺ら声かけてきますんで、行きましょ! ね!」


 何かと思えば。

 だが、今はそれどころではない。俺は彼らの手を振り払っていた。


「あ」


 急に空気が白ける。


「済まないが、まだやることがある」

「えっ、そ、そーなんすか」

「あ、ああ……その、仕事だ。捕虜はどこにいる?」

「捕虜? んー」


 一人が首を傾げたが、別の一人が答えた。


「それなら、東の市街地の女神神殿に集められているかと。大きな建物なので、すぐわかりますが、案内しますか」

「いや、いい。お前達は気兼ねなく酒と女を楽しんでいてくれ。助かった」


 俺は軽く手を振り、また階段を登って陸橋の上に立った。

 すっかり暗くなった市街地に、ポツポツと灯りが点る。時折、男達の野卑な笑い声が響いてくる。

 フィアナコンのときには、ティズは兵士達の欲望を抑制した。引き続きフィアンの男達を戦力として組み込むためだ。だから犠牲となる者は限られた。しかし、ここは初めから敵だったセミン氏族の街だ。彼としても、兵士達に自制を呼びかける理由がなかった。

 男達はほとんど殺されたに違いない。女達は、年齢で仕分けられたはずだ。年老いたのは殺され、若すぎるのは奴隷用にとっておき、ちょうどいい年頃のは……

 財物はほとんど略奪された。ティズは再分配のために、奪ったものを可能な限り回収するだろう。ただ、それは保存性の高いものに限られる。金貨とか、そういう類のものだ。軍需物資として有用な保存食や軍馬なども接収されるだろう。しかし、例えば酒のような嗜好品は、むしろ兵士達の好きにさせたほうがいい。


 陸橋の上から街を見下ろすと、暗いながらも建物の形が見える。目指すは大きな建造物だ。大体の場所が分かれば、迷わずに済む。

 手掛かりはまだある。女神神殿ということは、地元用ではない可能性が高い。地元のサハリア人なら、ミルークやティズもそうだが、古伝派セリパス教徒が大半を占める。だから、外港のサグィからここまで馬車でやってきたような、外部の人間が礼拝するための場所だ。つまり、陸橋沿いになるべく東側を目指せば、見つかるだろう。

 果たして、東の城壁の近くに小さな広場が見つかった。その一角に、割合大きな建物が見つかった。長方形の真ん中にドームが乗っかっている。目標を見定めると、俺は階段を下りていった。


 正面の扉の前には、守衛が二人、立っていた。俺の姿を見かけると、槍を構えて誰何してきた。


「何者だ!」

「プノス・ククバンだ。他にこんなのがどこにいる」


 彼らは顔を見合わせた。


「ここには捕虜を閉じ込めてあります。どのようなご用件で」

「ただの挨拶だ」

「挨拶といっても」

「フマルの人間はいるか」


 理由をいちいち捻り出さなくてはいけないのが面倒臭い。


「それはおりますが」

「であれば理由は充分だろう。通せ」

「しかし」

「しかし、なんだ」


 俺が睨むと、昼間のこともあってか、こちらの力量を知る兵士は、顔を強張らせた。


「許可もなくここをお通しするのは」

「逃がすと思うのか? この俺が」

「いえ、それはないと思いますが」

「どけ」


 俺が強引に押し渡ると、彼らは中途半端に手を伸ばしたまま、それでも何もできずに硬直していた。


 扉を開け、中に立ち入る。

 女神神殿の内部構造にはあまり一貫性がないが、それでも共通しているのは女神像の存在だ。ピュリスの神殿でも百八柱の女神のレリーフがあったし、スーディアの隠蔽されていた神殿でも同じような作りだった。ここはなるべく多くの会衆を受け入れるためか、余計な小部屋などはなく、入っていきなり四角く部屋が広がり、横一面に女神の浮彫が施されている。

 もともとここの備品と思しき燭台には蝋燭が据えられ、室内は必要以上に明るい状態だった。捕虜のためというより、監視する側が視認しやすくするためだろう。

 捕虜の姿を見渡した。明らかに戦士とわかる男達が少なくない。


「プノス様、あまりご無茶は」

「なぜ男が生き残っている」

「戦いの末、捕らえられたそうですが」

「明日、縛り首にするのは誰だ」

「そのような命令は受けておりません」


 手際の悪いことだ。俺がせっかく処刑する奴から前もって片付けてやろうというのに。


「なら、フマルの戦士はどいつだ」

「プノス様」

「俺だ」


 この騒ぎを見ていた捕虜の一人が、声をあげた。大柄な男だ。


「手間が省けて助かる。フマルの戦士か」

「カイグ、戦士長だ。縄目を受けるとは情けない」

「自由になりたいか」

「なんだと」


 俺は、見張りの兵士の腰にとりついて、強引に腰の剣を引き抜いた。


「これでいいか」

「プノス様! 何をなさるんですか!」

「どいていろ……カイグとやら、この剣で不足はないかと聞いている」


 彼は目を丸くした。


「どういうつもりだ」

「簡単な話だ。今からお前の戒めを解く。但し、条件付きだ」

「なんだ? ククバンの家来になって一族を裏切れというのではあるまいな」

「まさか」


 オロオロするばかりの見張りの兵を置き去りにして、俺は簡単に説明した。


「俺と戦え。俺を殺せば自由の身だ」

「プノス様! 勝手をされては困ります!」

「なら止めてみろ」


 硬直する見張りを置き去りにして、俺は剣を説教台の上に乱暴に置くと、カイグの傍に歩み寄った。剣を押し付け、縄を断ち切る。


「本気か」

「お前があの剣を手に取ったら開始だ。それとも、このまま捕虜のままのがいいか?」


 彼は何も言わず、黙って説教台に向かって歩いた。そして剣を手に取った。

 俺は軽く身構え、対峙する。それを見たカイグは、一瞬でこちらの力量を察しつつあるらしく、身を強張らせた。それでももう、戦わないという選択肢はない。


「プノスとやら」


 避けがたい死を知って、彼は苦々しげに言った。


「我らとて、ただでは敗れぬ。フマルにもとっておきの刃がある」

「ほう」

「いずれ貴様の首をとるだろう。覚えておくがいい……いくぞ!」


 それほど間を置かず、彼は身を乗り出した。直後、パッ、と赤い飛沫が散る。

 一瞬の交叉の後、カイグは横たわり、二度と起き上がることはなかった。


「次! ここから逃げ出したい者はいないか! 名乗り出よ!」


 気付くと、見張りが一人、いなくなっている。些細なことだ。

 誰も名乗り出ないので、適当にフマルの戦士と思しき男を指名した。


「お前だ」

「うぇっ!?」

「俺を殺せば自由、殺せなければ死ぬ。剣は説教台に置いた。手に取って俺に挑め」

「ま、待て! お、俺は」


 縄を切ろうとしていたが、俺は手を止めた。


「逃げるつもりがない?」

「そ、そうだ」


 不意に右手が前方を薙ぐ。一瞬でそいつの首が飛んだ。


「馬鹿な奴。戦えばまだ助かるかもしれなかったのに。名誉までなくして、無駄に死んだだけだ」


 他人事のように俺はそう呟いた。

 女神神殿の空気は既に張り詰めていた。当然といえば当然のこと。プノスという気違いは、捕虜は逃げていいという。条件は自分を殺すこと。但し負ければ死ぬ。断れば一方的に殺される。


「いや、哀れというべきか」


 俺は適当な男を指差した。


「お前」

「俺はフマルじゃないぞ。アルハールの戦士だ。お前はククバンの生き残りだろう」

「だからどうした。戦うか、戦わないか、選べ」


 俺は歩み寄り、返事を待たず縄を断ち切った。


「剣はいいぞ。生きるも死ぬも、すべてを与えてくれる」

「何を言ってるんだ、お前は」

「何を? 何をだって? 当然のことを言っているだけだ」


 何かが乗り移ったかのように、俺はそいつに語り続けた。


「剣を手に、全力で戦う瞬間。美しいと思わないか」

「それで死んだら元も子もない」

「いいや? 剣のもたらす死ほど、好ましいものなどない」


 俺は背を向けると、軽い口調で言った。


「さ、剣を取れ。生き延びてみろ」


 だが、次の瞬間そいつは、剣を取らずにいきなり後ろから跳びかかろうとしてきた。もちろん俺は振り返り、軽く腕を打ち振る。それでそいつの体は真っ二つになった。


「哀れな……いや、剣を持たずとも、これもまた剣か」


 ああ、いい。

 人を殺す。殺せば殺すほど、止まらなくなる。


「次はお前か」


 たまたま視界に入ったのは、年端もいかない少年だった。目を見開いたまま、ものも言えずに小刻みに震えている。


「ま、待って」


 その隣にいたのは、母親とみられる中年女だった。母子ともども、少しいい服を身に着けている。高貴の出だろうか。でなければ普通に殺して終わり、人質としての価値もないから、捕虜になりようもなかっただろうが。


「その子だけはお許しください。私の首は差し上げます」

「何を寝惚けている。そのうちお前も殺すぞ。みんな一緒だ」

「なんと無慈悲な」

「無慈悲じゃない。必ず剣を持たせてやる。俺を殺せば自由だ」


 話の通じない相手に彼女は顔色を変えたが、引き下がるわけにはいかないのだろう。なおも言い募った。


「いいえ、無慈悲です。この子の父親は、確かにこの戦で命を落としました。あなた方に剣を向けたのですから、討たれるのも道理です。ですが、この子が何をしたというのでしょう」

「よくないな。大人になったら、こちらを恨んで殺しにくるかもしれない」

「それはありません」

「なぜ言い切れる」


 ここが勝負どころと、彼女は決意を滲ませて人の情に訴えた。


「人は人と繋がっているからです。この子が大人になる頃にはどうなっているでしょうか? 私とこの子は見る影もなく落ちぶれ、砂漠の小さな水場でなんとか暮らしているだけかもしれません。ですが、私達はあなたに剣を向けることはできないのです。もし私が死ねば、この子が悲しむでしょう。この子が死んだら、私が苦しみます。私が既に死んでいても、この子に妻が、子供達がいれば、やはりその者達がつらい思いをするのです。それが恐ろしいから、何もしない、できないのです」

「違うな」


 俺は首を振った。


「現にこいつの父親はこちらに刃を向けたじゃないか。こちらにも親兄弟のいるのはいくらでもいるぞ。これをどう説明する」

「それは……」

「第一、お前の言うことには、肝心のところが抜けている」


 俺はせせら笑いつつ、彼女の論理の欠陥を指摘した。


「なら、そういう身内がいなければ、どうなる?」

「はい?」

「俺にそんな身内はいない。俺が守るべき者も、俺を守る者もいない。死ぬどころか、明日世界が火の海に包まれようと、痛くも痒くもない。惜しむべきものが何もないのに、殺さない理由があるか?」


 今の俺に人の道理など通じない。まさしく狂人を前に、彼女も絶句した。


「剣、剣、剣……剣を取れ。老人でも、子供でも、女でも、もちろん歴戦の勇士でも、誰であってもだ。女神は誰にでも平等だ。そうだろう?」


 そう言った時、背後の扉が乱暴に押し開けられた。夜の冷たい空気がスッと流れ込んでくる。

 そこには大勢の兵士を連れたラークが、息を切らして立っていた。


「ファッ……プノス! 何をしている!」

「なに……明日の仕事を前倒しで片付けている」

「馬鹿なことを。ここにいるのは捕虜だ。処刑する予定はない!」


 面倒なことになった……

 だが、小さな正気が、冷たい空気と一緒に流れ込んできたようだった。俺はいったい今、何をしていた? 何をしようとしていた? 何のために?

 小さな、しかし刺すような頭痛を感じた。


「殺さないのなら、何に使う? 焼いて食べるのか?」

「講和だ」

「講和?」


 それは聞き捨てならない。


「人質の代わりに賠償金を取る。停戦も約束させる。それで終わりにするためだ」

「まだ戦争は終わっていない」

「これから終わらせるんだ。勝手に殺すな!」


 それは物足りない。

 まだフマルを滅ぼしていない。タフィロンを廃墟に変えていない。だが……


 急に頭痛と吐き気のようなものが襲ってきた。そして同時に、どこかに置き忘れた感情がうっすらと思い出されてくる。


「わかった。ここで剣を納めよう」


 ラークにも助けてもらったことを、小さな正気が気付かせたのだ。そのせいで興が削がれた。

 それに、赤の血盟が戦いをやめたのなら、あとは俺が一人で戦えばいいか。味方がいないのなら、どんな方法で殺戮しようが問題ないのだし。


「暴れるくらいなら、酒でも飲んでいてくれ。頼む」


 俺は黙って彼の横を通り過ぎ、暗い夜道に引き返した。


 あてどもなく歩くうち、また中央市場の近くに戻ってきた。

 すると、そこにはさっきの三人組の兵士がしゃがみ込んでいた。


「あー、プノスさまぁーっ、お仕事おしまいですかーっ」

「ああ、さっき終わった」

「じゃあ、女いきましょう、女ぁーっ……おっげぇーっ」


 立ち上がった瞬間、既に酒を飲み過ぎていたのか、そいつはその場にうずくまり、盛大に嘔吐した。


「一人で行ける。構わなくていい」


 それだけで俺は立ち去り、南の城壁の裏口をくぐった。


 城壁の外に出ると、空気が一変した。大きな焚火がいくつもあり、それがあかあかと周囲を照らしている。だが、その照らされる光景の凄まじさときたら。

 まず、壁に近い辺りには、女達が縛られたまま、転がされている。見ればわかる。まだ犯されていない娘達だ。そこから離れたところ、崖に近い辺りでは、大勢の男達がそれぞれ女を組み敷いているのがわかる。距離はあるが、すすり泣く声、時折大きな悲鳴が、ここまで届いて聞こえる。

 それとは別に、着衣の乱れた女達が、別の場所にしゃがみ込んでいる。彼女らは一様に魂の抜けたような顔をしているが、たった今、一人が何かにとりつかれた顔をしてゆらりと立ち上がると、不意に駆け出した。崖のある南の方へ。それを見ていたセミンの女達の一部が悲鳴をあげる。続いて起こるのは、近くにいた男達の歓声と嘲笑だ。


 民族浄化の現場、というやつか。前世でも、途上国の紛争なんかがニュースになると、よくこういう集団レイプが報道されていたものだ。

 性暴力は、兵器になり得る。次世代の再生産を断ち切って、アイデンティティを破壊し尽くす手段として、この上なく有効だからだ。

 セミン氏族自体がこれで絶滅するわけではない。ジャンヌゥボンまでの間に点在するオアシスには、まだ若干の生き残りがいるはずだ。しかし、そこにこの女達が合流することは、もうあり得ない。操を失い、敵の子を孕んだ女達には、この世での居場所など残されていない。


 俺が要求すれば、残った女の中から選り抜きのを譲ってもらえるだろう。だが、まるでそんな気にはなれなかった。直接殺せないのなら意味がない。

 興味をなくして、俺は城壁沿いに歩いた。そこで見慣れた人影に行き当たった。


「んー」

「ムフタル、か」


 立ち止まると、彼も手元の壺を置いて俺に振り返った。


「飲むか」

「いや、いい」

「そうか」


 すると彼はまた一口、壺に直接口をつけて飲んだ。


「気分はどうだ」

「あん?」


 俺が尋ねると、彼は首を傾げた。


「セミンに恨みがとか、サオーの海賊だとか、言ってなかったか」

「ああ、あれか」


 足を前に投げ出し、ムフタルは息をついた。


「ずーっと思ってたぜ。セミンのクソども、いつか殺すってな」

「今夜、夢が叶った。セミンはもうおしまいだ。さぞ気持ちいいだろう」

「どうだかな」


 なのに、彼はどこか上の空だった。


「あんまりにもあっけねぇ。なんだよ。三十年も恨んできて、一晩でこれかよ」

「願いが叶わないよりましじゃないのか」

「へっ……そうだな。そうだと思ってるから、ここで飲んでるんだがよ」

「女は抱いたのか」


 俺の問いに、彼は卵を殻ごと飲み込んだような顔をしてみせた。


「はっ、坊主、あのな。この歳になるとよ、あっちの方がいうこときかねぇんだわ」

「抱けばすっきりするかと思ったがな」

「そういうお前はヤッたのか」

「いや」


 すると彼は一口飲んだ。


「女といやぁ、一昨年死んだカカァが最後の女だ。あとはいらねぇな」

「結婚していた?」

「そりゃあな。ミルークに拾われてからのこったが。んで、ガキどもも大人になって、とっくに出ていっちまったわ」


 また一口。


「俺ぁいつかセミンにやり返してやるんだって、そのつもりでずーっと今まで生きてきたんだがな……いざ、こうなってみると、俺のやってたことってのは要するに、ネッキャメルの軍船率いて港を守ってカカァ養ってガキ育てて……何回繰り返しても、なんでかそればっかり思い出しやがる」


 間が持たないのか、気持ちの整理がつかないのか。とにかくまた一口。


「なんだか、空っぽになっちまった気分だ。これから何したらいいんだってな。途方に暮れてやがるぜ、ははっ」


 俺の復讐は終わっていない。

 この後、タフィロンを滅ぼし、ジャンヌゥボンも焼き払う。だが、それが終わったらどうする?


 南方大陸に渡って、不老の果実を手にする。そうして永遠に眠る。

 やることは決まっている。それがやるべきことだと、俺は考えている。だが、実際に成し遂げたら、どう思うのだろう?


 考えても仕方ない。


「おっ? なんだ、どこ行くんだ」

「今夜はもう……休む」

「そうか。気ィつけろよ」


 俺は返事もせず、半ばよろめきながらそこを去った。

 背後には、絶望の中で涙を流す女達、憎悪と欲望に身を焦がす男達の群れがいた。これもこの世界ではありふれたこと、あって当たり前なこと。そのなんと厭わしいことか。


 立ち去るのだ。

 とにかく、立ち去る。


 他に何ができるというのか。

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