恨みと誇りと責任感

 喉の奥から溢れ出てくる赤黒い血。そこに砂粒が混じる。一瞬、息が詰まって、血の塊を吐き出す。横になって丸まったまま、俺は苦しげに息を継ぐばかりだった。


「それで、残った雑兵どもは六人、か」

「タリアン様、あれは女では」

「そのようだな。生け捕りにできそうなら、お前達の好きにしても構わん」


 苦痛に埋め尽くされた意識を自覚した時、俺は我に返った。このままでは、ラークもジルも、フィラックもムフタルもディノンもタウルも……みんな死ぬ。


「野郎、もう勝った気になってやがるぜ」

「いい度胸だ。だが、その見た目からして、お前達は傭兵か? それなら忠義を尽くす必要もあるまい。その女を寄越して投降しろ」


 どうやらタリアンは、一番年嵩のムフタルを隊長格の人物と看做したらしい。

 だが彼は、この提案を聞くと、大笑いしてみせた。彼をそうさせたのは、誇りだろうか? それとも諦めか?


 あの黒い影にやられさえしなければ。解毒さえできていれば。

 俺を刺し貫いたタリアンは、なるほど一人前以上の戦士ではある。だが、万全の状態で迎え撃つなら、恐れる必要のない相手でしかない。雑兵など何十何百いようと、一度に焼き払ってしまえば済む。

 そんなの全部、甘ったれた考えだ。そもそも俺は、世界の欠片の異能に頼りっきりだった。与えられた力を十全に活用して何が悪い? だが、そう開き直るのなら、せめて全力を尽くしてでき得る限り、足掻いてみせるべきだ。


 今の俺に、かろうじてでもできることは……


「俺に言われても、そんなの決めらんねぇよ」

「ほう? では、誰がお前達の頭目だ?」


 ムフタルは無言で顎をしゃくった。その先にはもちろん、倒れ伏した俺がいるだけだ。


「形式上の話はしていない」

「本当のことなんでなぁ?」

「なるほど、あくまで意地を張るか。だが、死ぬぞ」

「うっせぇよセミンのクソが」


 どういうわけか、この状況にもムフタルは屈する様子を見せなかった。


「俺はてめぇらのことがな、世界で一番嫌ぇなんだよ」

「はて? 我らがお前に恨まれるようなことをしたか? 初対面だと思うが」

「へっ」


 戦斧の頭を向けながら、彼は吠えた。


「サオーの海賊、ムフタル様をご存じねぇかよ、セミンの御曹司はよ!」

「なんだと」

「てめぇらセミンは腰抜けのクソどもだ! 北はネッキャメルに、南はアルハールに押さえられて、ろくに縄張りもありゃあしねぇ。だから、対岸のたった一つの港に縋りついて、生き血をすするしか能がねぇんだ。ええ、そうだろがよ!」


 彼の一言にセミンの男達の顔色が変わった。


「この小汚ぇ海賊崩れを育てたのはな、てめぇらだ! 俺ぁ他の誰に頭下げても構わねぇけどよ、てめぇらセミンだきゃ別だ。言うこと聞かせたきゃ、まず殺してみやがれ!」

「ほう」


 タリアンは、さっと手を挙げた。


「いいだろう……やれ」


 周囲の兵士が、立てていた槍を一斉に横に構え直す。その瞬間だった。

 タリアンのすぐ足下に、小さな光球が滑り込む。その瞬間、乗騎の走竜が咄嗟に立ち上がった。爆音とともにタリアンの体は大きく投げ出され、周囲の兵士達も薙ぎ倒される。

 すぐに寝返りを打ち、左手に残った火球を反対側の兵士の足下に投擲する。同じように炸裂し、数人の兵士が弾け飛んだ。


 今、とばかりにジルとディノンは弓を構えると、周囲の兵に向かって射かけ始めた。それをラーク達が取り囲んで守る。

 俺も次を、と考えたところで、また大きく吐血した。ただでさえ力尽きかけているのに、腹に大穴も開いているのに、無理やり魔法まで使った。どうやら限界らしい。


「こ、こいつら!」

「やれ!」


 指揮官を吹っ飛ばされて混乱する兵士達だったが、それでもこちらを少数とみて、なおも戦意を失うことはなかった。

 しかし、その彼らの表情が急に変わる。遠くで誰かが叫んだからだ。その理由は、すぐに俺にはわかった。転がったまま、地面に片耳をつけていたからだ。無数の足音。軍馬が迫ってきたのだ。


 見れば、乗騎から放り出されたタリアンが、配下の兵士に助け起こされていた。やはりというか、爆発を走竜が身をもって引き受けたせいで、重傷を負わずに済んだらしい。その代わり、走竜のほうはそれなりの火傷を負ったようだが。


 そこに伝令が駆けつけた。


「敵か!」

「三方から! こちらの小休止を狙ってのことかと」

「数は」

「わかりません。この砂嵐では」


 数秒間、タリアンは考え込んでいたが、すぐ決断した。


「ならばやむを得ん! 退け!」

「軟弱なフィアンの兵など、我らだけでも」

「功を焦るな。街のすぐ下まで戻れば、増援の用意もある」

「では、こいつらは」


 横たわったままの俺を一度見下ろすと、タリアンは言った。


「捨て置け」


 配下の兵が差し出す別の馬に跨ると、誰かが彼の元の乗騎の手綱を引いて、歩かせようとする。


「撤退!」


 この命令に、兵士達は急いで自分の走竜のところに駆け戻り、そのまま疾風のように走り去ってしまった。


「た、助かったのでしょうか……」


 ディノンが信じられないというように嘆息する。


「だったらいいけどよ」


 ムフタルはあくまで冷淡だった。

 一方、フィラックはすぐさま膝をつき俺の様子を確かめようと仰向けにした。


「ファルス! 生きてるか! 返事を……」


 その声が尻すぼみになる。

 他の仲間も、当然予期された結果を確認しようと壁を作って立ち並び、そして一様に眉を顰めた。


「なんだぁこりゃあ」


 ムフタルが呆れて声を漏らす。他の仲間も、どことなく気味悪そうにしていた。

 そこにあるのはファルスの死体のはずだったのだから。


「さ、さっき、槍で貫かれたばかり、ですよね?」

「ど、どうなっている」


 ラークも目を回していた。

 無理もない。さっき貫通した腹部の傷は、もはや塞がりかけていたのだ。血と肉の塊がひしめき合って、ぽっかり開いたはずの風穴をしっかり埋めていた。


「これはどういうことだ。ジル」

「わ、わからない」

「ファルスの知り合いなんだろう」

「父なら……知っていたかもしれない……」


 知り合いとはいっても、奴隷収容所では彼女は主として女子の担当だった。俺との接点は限られていたし、言葉を交わしたこともほとんどない。ミルークも、俺の秘密について、娘には教えなかったのではないか。

 ただ、傷だけ塞がれても、俺の体調は相変わらず最悪だった。いや、むしろ消耗し尽くしたというべきか。もう指一本動かせない。


「お、おい」

「傷は塞がっても、毒まで治ったのでもないようだが」

「そんなことより」


 寡黙なタウルが注意を他所に向けた。三方から大勢の足音が近付いてくる。


「ああ、今度こそ友軍ですね。これで救われる」


 ディノンがほっとしたような笑みを浮かべてそう言った。

 だが、ムフタルはボソッと吐き捨てた。


「どうだかな」


 砂塵を巻き上げる騎兵の集団が地響きをたてつつ迫ってくる。それが突然、俺達の目の前で足を止めた。無言のまま。

 彼らの目は、砂漠の太陽のように俺達を焼き尽くした。さっきまで敵を追っていたのだ。殺気立つのも無理はない。だが、どうもそれだけではなさそうだった。奇妙な沈黙が場を覆っていた。


「我々は」


 ラークが一歩踏み出したところで、彼らの旗が翻った。橙色の、フィアン氏族のものだ。

 そこに、馬に跨った一人の人物が姿を現した。その旗と同じく、橙色の長衣を身に纏っている。彼は俺達を目にすると、無言で馬から降り、こちらをじっと見た。


 ハーダーンの目にも、他の男達と同じく、地獄の業火が宿っていた。彼らの視線はただ一点、俺にのみ向けられていた。

 ラークはもとより、他の誰もが何も言い出せなくなった。この沈黙を破ってはならないと、全員が察していた。


 フィアンは確かに友軍だ。しかし、なぜ彼らがネッキャメル氏族と共に戦うかといえば、フィアナコンに留め置かれたままの家族がいるからだ。同盟と言いながら、事実上は服属させられているようなもの。いくら先の族長が実父を毒殺して赤の血盟を裏切ったとはいえ、仮にも自分達の代表だったアールンを、あのような屈辱的なやり方で処刑させたのは、ティズだった。

 そして、そのような惨めな今の境遇をもたらしたのは誰か……


 戦況が安定している限りにおいては、何の心配もいらない。

 だが今は、昨夜の襲撃によってそれぞれの集団が寸断され、連絡も行き届かない状況だ。何をしてもティズには伝わらない。ムフタルが右翼を目指すのを躊躇った理由は、そこにあった。


「プノス・ククバンが負傷、か」


 ようやくハーダーンが声を発した。この事実を言葉にしてから、彼は唇を噛んだ。

 その表情に、好意を思わせるものは何もなかった。いちいち考えるまでもない。彼は今、胸を埋め尽くす誘惑と戦っているのだ。


 その背後から、無数の声が飛んだ。


「我らの故郷を奪った賊の倅めが」

「いい気味だ!」

「屈辱には屈辱を。死には死を」

「やっちまえ!」


 フィアンの兵士達は口々にそう叫んだ。


「そんな」


 ラークは信じられないというような顔をした。

 だが、彼は甘すぎる。この状況だ。俺はもとより、ラークを含めた全員を殺害したところで、フィアンの裏切りは暴かれようがない。噂にはなるかもしれないが、証拠がない。直前までセミンの走竜部隊に取り囲まれていた俺達だ。見つけた時には殺されていました、で済む話だ。

 たった七人。それを一千人以上で嬲り殺しにするだけ。


 今度こそ、万事休すだ。

 最後の力はさっき、絞り尽くした。さすがにこの数の兵士をどうにかするのは無理だ。そして、いかにトロールから奪ったこの再生能力があろうとも、全身をめった刺しにされようものなら、さすがに生きてはいられまい。


 ……俺は何しにここにいるんだろう? 不老不死を探しに出て、でもそれは、この世の苦しみから逃れるためで、でも結局、何より恐れていたものからは逃れられなくて……


「て……」


 喉がかすれる。

 だが、これだけは伝えなくては。


「どうした」


 俺を背後から支えるラークが訊き返す。


「て……いあん……が、ある」

「提案?」


 俺が何か言おうとしているのを察して、ハーダーンが一歩、近寄った。


「ここで、起きることを……なかったことに……ハーダーン、ここにいる、六人は、フィアンには逆らわない」


 俺は助からない。何をしようと、誰を犠牲にしようと、我が身を救う手段など、既にない。

 だが、俺は俺以外の六人を救う手立てを持っている。プノスを見殺しにすればいい。


「ム……フタル」

「おう」

「今度こそ、み、すてて」

「わかった」


 彼は斧と盾を放り投げた。


「俺ァもう、何も見てねぇし、聞こえねぇよ」


 これでいい。ジルもラークも、彼に倣えば命を落とさずに済む。

 この流れに、ディノンとタウルは目を見合わせた。ラークは左右を見比べながら戸惑っている。ジルは虚ろな目で一切を眺めるばかりだった。


「させんぞ」


 だが、フィラックだけは従わなかった。

 腰から曲刀を引き抜き、ハーダーンに向ける。それでも恐れはあるのだろう。肩も腰も固く強張っている。


「おい、フィラック」


 そこに横合いから声がかかる。


「お前、なにイッちまってんだよ。プノスの郎党っつったって、んなもん形だけだろが」


 だが、フィラックは微動だにしない。


「確かにそいつも仲間っちゃあ仲間だがな。てめぇのタマ張るほどの理由がどこにあんだよ」

「お、俺は!」


 まっすぐハーダーンを見据え、曲刀をまっすぐ構えたまま、彼は言った。


「まだ、何も恩返しできていない」

「ハァ? 何の恩があるっつってんだ」

「二年前にミルーク様に救い出していただいた! あれがなければ、俺は海で死んでいた! 奴隷のまま死んでいた!」


 その恩義に報いるために、彼は冷や飯食らいの立場を承知で、あえてミルークの郎党になったのだ。だが、目に見える結果を出す前に、ミルークはいなくなってしまった。


「あーあー、そうだったな。てめぇは。けど、見ろ。そいつはミルークじゃねぇぞ」


 ムフタルの現実的な指摘に、俺さえ頷いた。


「俺は後悔している」


 だが、フィラックは受け入れなかった。


「ミルーク様の命令だからと言われるままにした。一人でアラワーディーまで行かせてしまった! そのせいで」

「命令だっつうんなら、てめぇの責任じゃねぇだろが」

「うすうすは気付いていた! 危険なところに行くから、俺達を置いていくんだと! それとわかっていて、見捨てたんだ!」


 歯を食いしばり、力の限り柄を握り締め、彼は自分を奮い立たせていた。


「今度は……今度は! 絶対に見捨てない! 絶対に!」


 ムフタルは肩をすくめた。だが、その冷笑とは対照的に、ディノンは静かな笑みを浮かべていた。


「そうでしたね。どうせ私達には他に行く当てもなし。それに形ばかりとは言え、主従の絆を軽んじたとあっては、正義の女神も喜んではくださらないでしょう」

「正気か。正気じゃねぇな。バカが」


 吐き捨てたムフタルだったが、のっそりとしゃがみこむと、さっき捨てた盾と斧を拾い上げた。


「しょうがねぇなぁ」


 馬鹿な。何をやっている。

 一番まともな判断をしていた男まで、おかしな振舞いに出てしまっている。


「あんたらは逃げろ」


 後ろのラークとジルに、ムフタルは短く告げた。

 一方、獲物どもの様子が変わったのを察したフィアンの兵士達は、ますます目を血走らせた。


「やる気だ!」

「殺せ! 殺せ!」

「逃がすな! 一人残らずやれ!」


 ハーダーンは声を上げる同胞を顧みて、それからまた、こちらに向き直った。俺をじっと見下ろして……手を握りしめ、歯軋りした。


「静まれ!」


 片手をあげて、彼は男達を制した。


「お前達はまた恥をさらすつもりか!」


 振り返り、彼は驚いて口を噤む同胞達に怒鳴りつけた。


「それではお前達は、我が兄アールンの凶行を、実父を殺し同盟を裏切ったことを、追認するというのだな? だが、血で繋がる縦糸、友情で結ばれる横糸なくば、我らが旗は解れて散り果てよう。それでも目先の憂さ晴らしにこだわるのか!」


 死を覚悟していたフィラックが、ムフタルが、ディノンが、目を見開いてゆっくりと武器を下ろす。


「我らは砂漠の民! 天幕こそ我が家だ! いつからお前達は泥の家に拘る怠惰な輩に成り下がったのか。我らの生きざまを忘れたのか。なくしたのなら、新たに見つければよい。失ったのなら、新たに探し出せばよい。死ぬのなら、また新たに生まれればよいのだ! 砂漠の砂も、命の恵みも、何もかもが流れ去ってゆく! その都度、その手で望むものを掴み取るのでなくて、何がフィアンの民か!」


 俺にも、彼が何を言わんとしているかはわかる。

 既にフィアン氏族は、一度、赤の血盟を裏切っている。それがティズに屈して、もう一度同盟の仲間入りをした。しかし、更にもう一度寝返る……なんて選択肢はない。既にどちらの陣営にとっても、信用は最低最悪、逃げ場などない。どんなに惨めでも、赤の血盟の中で功名を立てて、もう一度、一族の拠点を獲得する以外にないのだ。

 だから、こんなところで一時の感情に囚われて、味方の兵を殺して楽しむような余裕はない。ぜひともこのバタンを攻め落とす。それ以外に生き延びる道はない。


 誰より俺を憎んでいるのは誰か。目の前で兄が捕虜になるところを見た。それを追認するしかなかった。こんな屈辱が他にあろうか。

 それでも、ここで恨みを晴らすわけにはいかない。表向きには誇りを口にしながら、ハーダーンの胸の内にあったのは、一族を守るという責任感だった。


「敵を追え! 名誉を取り戻せ! 行くぞ!」


 ハーダーンがそこまで叫ぶ頃には、誰もが不承不承ながらも表情を引き締め、矛を収めていた。

 彼はこちらに振り返り、そっと言った。


「恐らくネッキャメルは北の岩山に潜んでいよう。その深手で生き延びられるかどうかはわからんが、逃れる先を求めるなら探してみるがいい」


 それから彼は黙って馬に乗り手をあげて同胞達に指示を下した。

 こうして彼らは砂塵を巻き上げて騎兵の集団が東の彼方へと去っていった。


 いまだ身動きもままならないながらも、俺は九死に一生を得たのだ。

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