絶望の大穴
平たく固い大地の上に、萎びかけた暗い緑色の草が点々としている。黄色い地表が陽光を照り返すので、いじけた草がまるで小さな穴みたいに見えた。
地平線の向こうを眺めやると、時折、視界が揺らいで見える。陽炎だ。早朝からの行軍だが、そろそろ昼に差し掛かる。今日は風もなく、日差しはいつにもまして厳しかった。だが、中途半端なところで足を止めたくはない。三千人近い兵力にまで膨らんだこの集団には、絶対に水場が必要だ。
今、目指しているのは、フィアナコンに最寄りの水場で、それなりの広さの草地も広がっている場所だ。普段はネッキャメルやジャニブ、フィアンの遊牧民が譲り合って利用している。
もちろん、そこに敵が待ち構えている可能性もある。それでも、避けて通るという選択肢はない。一つには水の供給源を確保したいから。もう一つには、そこに味方の家族が居残っているかもしれないからだ。
しかし、ティズは当面の危険は小さいとみている。アーズン城を包囲する敵は、ほぼ全滅した。ほとんどが足腰立たない状態で、天幕ごと焼き殺されている。僅かに生き残った連中も、たまたま退路を絶ってくれたジャニブの戦士達に討ち取られている。つまり、逃げ帰って異変を告げる者がいない。
ニザーンの族長がいない以上、最大勢力を率いるネッキャメルの族長が総指揮官になるのは、自然な流れだった。それでティズは、駱駝に跨って全軍の前を進んでいた。近くには、駱駝の体臭に慣れた、僅かな数の騎兵が付き従うだけだ。わざわざ目立とうとするのは、些細な気遣いだが、要するに敵を恐れていないというパフォーマンスだ。
ティズには軍事面での実績がほとんどない。先の三十年前の戦争では若年でもあり、既に成人していたミルークと違って、最前線で戦う機会はなかった。族長にして長兄のクリムが病弱で子も期待できず、ミルークが一族の代表として前面に立つ以上、血が絶える危険を避けるためには、後方支援にとどまらざるを得なかったという事情もある。だが今回は、そんな人物が戦争の陣頭指揮を執る。兵士達を不安にさせてはならないのだ。
ティズは馬より駱駝を好んでいるらしい。実際、乗りこなすさまを見ると、よく似合っている。
サハリア東部のステップ地帯は、ドゥミェコン周辺ほどには過酷ではない。だから馬を戦場で活用できる。それでも、うまく扱えるなら、やはり駱駝の利点は捨てがたい。気性は荒いし揺れも大きいが、飢えにも渇きにも強く、しかも体高があるので、騎兵相手に接近戦を挑む場合、より高所から武器を振り下ろせる。
そんなティズのすぐ後ろで、俺達三人もまた、それぞれ馬に乗りながら、周囲に目配りしていた。
何かあれば俺達が飛び出してティズを守らなくてはいけない。といっても、斥候が先行しているし、周囲にはこれといった障害物もない。遠間からの一矢を恐れなくていいのであれば、この状況で護衛も何もないのだが。
俺のすぐ横で、ラークは難しい顔をしていた。ここ数日、不機嫌がずっと持続している。ただ、その理由は少しずつ、違ったものになりつつあるのだが。
「ラークさん」
「旗にはもう慣れたぞ」
「そうではなく」
今、彼が手にしているのは、ネッキャメルの旗でもなければ、赤の血盟の同盟旗でもない。白地に黒い剣が斜めに描かれた、ククバン氏族の旗を掲げている。フマルの支族なだけあって、一応デザインは似せてあるのだろう。単純な図柄で助かった。白旗に黒く墨で剣を描けばそれっぽくなるのだから。
ネッキャメルの貴種が、他の支族の旗をこうして捧げ持つというのは、やはり大変不愉快だったらしい。それに、今は近くにジルしかいないから丁寧な言葉遣いをしているが、人前では、俺はラークを呼び捨てにすることになっている。一応、アネロスの嫡男、つまりはククバンの族長という触れ込みなので、ネッキャメルの貴種とはいえ、傍系に過ぎないラークにへりくだったのでは、不自然だからという理由だ。
なので進軍が始まってから、彼はずっとむっつりしていた。しかし、今の彼の苛立ちには、また別の理由がある。
「あまり気に病まないほうが。どこかにうまく隠れているのかもしれません」
「気休めはいい」
言葉遣いが荒くなるのも無理はない。
ここまで数日かけて、多少遠回りになっても、あちこちの水場を経由しながら南下してきた。そこでネッキャメル氏族やその他の同盟氏族に属する避難民を収容し、後方に送ってきた。だがいまだに彼の妻子には出会えていない。次の水場にもいなかったら、いったいどこにいるのか。
陽炎の向こうに、白い衣服と茶色の馬体がぼんやり浮かぶ。偵察に出した騎兵が戻ってきたらしい。
それがすぐ近くまでやってきた時点で、素早く下馬する。
「報告! 敵兵の姿は見えません!」
「うむ」
ティズは立ち止まらない。早速、下馬した彼のところに、護衛が寄っていく。俺達に取り囲まれると、彼はまた急いで馬に跨った。
報告は重要だが、進軍を止めたくもない。しかし、ティズは総大将だ。一人一人の顔を覚えているのでもない。うっかり敵に暗殺されてはたまらないので、斥候には一度下馬することを義務付けている。もう一度騎乗する時点でティズの護衛に取り囲まれているので、万一の事態も防げる。
「続けよ」
「天幕多数、但し無人」
「なんだと」
声をあげたのはラークだった。
今までに聞いたことのないほど低い声。しかし、そこで周囲の視線に気付いて、押し黙った。
「どこの天幕か」
「は、ネッキャメルだけではありません。ジャニブ、サマカット、マジュフのものも」
「なんと」
奇妙なことだ。
いずれも赤の血盟の一角を占める氏族集団だ。ネッキャメルを除けば、どれも小規模なものばかりだが。しかし、異なる氏族の天幕が密集しているというのは、平時ではあり得ない。水場の権利争いを起こさないため、同時期に複数の集団が一ヶ所にひしめきあうような状況を避けるものだからだ。
もちろん、今は非常時だから、避難のために複数の集団が合流することもあり得る。だがそれなら、なぜ無人なのか。
「家畜は」
「いません」
「死体は」
「見つかっていません」
おかしな状況だ。それで天幕だけ?
では、襲撃でも受けて、急いで逃げたのだろうか? しかし、近くに死体がないとは。
「ティズ様」
「慌てるな」
彼は、これまで見たこともないほど暗く険しい表情で、短く溜息をついた。
「もうじき着く」
しばらくして到着した宿営地には、確かにいくつもの天幕が建ち並んでいた。足下は硬い岩盤で、緩やかな斜面の頂上に位置している。その真ん中に湧き水の池がある。
しかし、報告にあったように、どこにも人影がない。天幕の内側にも、ほとんど物がなくガランとしていた。内部に砂が入り込んでいるのをみると、どうも結構な日数が経っていそうだ。
俺達三人も、ティズの横を離れて、天幕の入口に潜りながら、中を確かめていた。ずっと落ち着かない表情のままだったラークだったが、急に彼は体を硬直させ、天幕の布をしっかりと掴んだ。
「ラーク」
周囲に大勢の兵士がいるので、俺は呼び捨てにした。
「どうした。何を見ている」
「これは、私の」
では、これはラークの妻の天幕? だが、残念ながら、見間違えるようなものでもなさそうだ。
「落ち着け。確かなのか」
「ああ、ここに」
しゃがみ込んで、彼は天幕の裾を引っ張り上げた。
「間違いない。娘がここに落書きを」
天幕の裾の目立たないところに、黒い墨のような汚れがあった。
「慌てるな。誰もここにいない。大方、フィアンかフマルの連中に見つかって、ここから逃げたんだろう。仮にも頭領の一人だろう。しっかりしろ」
口では厳しく言った。周りに味方の兵士がいるのに、まだ若いとはいえ、一族を代表する頭領が取り乱していたのでは、兵の士気にも影響しかねない。だが、彼が不安になるのもよくわかる。
「あっ、ああ」
頼りない、尻の青い若僧が……と吐き捨てるのは簡単だが、俺も人のことは言えない。ノーラとペルジャラナンが赤竜の谷の洪水に呑まれたとき、一週間も探し回った。他のことは一切考えられなかった。
なんとか立ち上がったラークを従え、俺は天幕を出た。その後ろで、ジルはいつものように何も言わず、それでいて何か言いたげな表情を浮かべるだけだった。
「心配いらない。ティズにとっても、同胞の救出は最優先だ。どれだけ手間取ろうが探すはず」
ちょうど外に出て、そこまで言いかけたところだった。離れたところから、大きな声があがった。
俺はまず立ち止まり、足下を確かめるように一歩ずつゆっくりと歩いた。後ろでラークがそわそわしているのはわかっている。だが、急いだところで何かが変わるわけでもない。
男が騒いでいた場所には、何もなかった。水場の周囲には固く平らな岩場があり、まるでコンクリートに囲まれたプールみたいになっているのだが、むしろそこからは離れた場所だ。足下も普通の乾いた土になっている。ただ、よく見るとわかるが、少しだけ色が違う気がする。
既に現場にはティズやタッサルブ、それにタジュニドも駆けつけていた。ティズは頷くと、タジュニドに言った。
「掘らせよ」
駱駝に引かせてきた荷物の中に、多くはないが、クワやツルハシがあった。早速、何人かの兵士が道具を手に駆けつけてきて、慎重に掘り始める。決して乱暴に叩きつけたりはしない。そもそもそこまでしなくても、どうやら足下はそこまで固くないらしい。つまり……
結構な幅と奥行きがある。掘り出すたびに、土の山が荷車に載せられて運び出されていく。作業は遅々として進まない。不吉な予感しかないが、俺達はただ、照り付ける太陽の下で、待ち続ける以外になかった。
だいたい一メートル半ほど掘ったところで、兵士の一人が手を止めた。と同時に、数人の男達が坂になっているところから穴の中へと飛び込んでいった。ラークもその一人だった。
彼らはクワも何も持たず、手で土を掘った。それくらい柔らかかったのだ。
俺もティズも、その様子を上から苦々しい顔をして、見下ろしていた。もう、何が見つかるかは予想できている。
ほどなく、男達の手が、着衣の断片と思しき布を引っ張り出す。ほとんど水気のない砂漠の砂だ。払い落とせば、まだ元の色を見いだせる。
彼らは丁寧にそれを掘り出す。誰かが運び込まれた物資の中から勝手に大きな麻袋を取り出してきて、丁寧に包む。そうして、二人一組になって、取り落とすことがないよう、慎重に穴の外へと運び出していく。
平らな場所に並べられた遺体の数々。全部で百体近くある。それなりの日数、地下深いところに埋められていたのもあって、萎びかけてはいたが、元の顔かたちがわからないほどではなかった。どれも女のもので、高齢者から子供まで、年齢層は幅広い。外傷はないので、刀剣の類で殺されたのではない。生き埋めにされたのだ。また、特に若い女性には、着衣の乱れがみられた。
心当たりのある男達が、犠牲者の顔を覗き込んでは立ち上がる。自分の家族が含まれてはいないか。誰もが気が気ではない。見つけたくもないものを必死で探すのが、皮肉でならなかった。そしてついに、離れたところから慟哭が響き渡る。
「タジュニド」
「はっ」
「手の空いているものに、他の穴を掘らせよ」
墓穴を用意せよ、ということだ。
余計な手間だろうか? だが、死体はただ埋めればよいというものではない。掘り出した穴に遺体を戻すなど、考えられないことだ。そこは処刑場であって、死者を葬る場所ではない。
ラークの代わりに旗を預かっているジルは、この悲劇の様子を、やはり静かに眺めていた。家族の死に嘆き悲しむネッキャメルの人々を、しかし彼女は冷淡な目で見る。自分の身内を奪うことにした連中が、同じように身内を失ったら、やっぱり人並みに悲しんでみせるのか、と。だが、そこにはかつての加害者の受難を喜ぶ様子もなかった。あるのはただ、この世の無常だ。
「リヤ! ああ、なぜだ!?」
離れたところで金切り声があがる。見つけてしまったのか。
歩み寄ってみると、そこには若く顔立ちの整った女性と、まだ三歳か四歳くらいの小さな女児の遺体が横になっていた。
「ああ、あああ」
最初の衝撃が収まると、彼は脱力して、膝をついてしまった。
「なんという……この世にはもう、何もない」
ここで何が起きたのか。どうして死体が地表になく、女ばかりだったのか。
難しいことは何もなかった。つまり、彼女らは全員、別の水場にいたのだ。一族の女性を守っていた男達はその場で殺された。だからここに死体が残らない。生き残った女性はそのまま連れ去られ、フィアナコンに間近なこの水場に留め置かれた。人質として扱われることを期待するしかなかったが、結局、最後には纏めて強姦され、例の選択を迫られた。つまり、ここで一族の一員としての死を選ぶか、奴隷に身を落とすか。
彼の妻、リヤは、死を選んだ。彼女らは命じられるままに穴を掘り、自ら中に降りた。
「ラーク」
驚愕に続いてやってきたのは絶望と無力感だ。しかし、彼には気の毒だが、その段階に長くとどまってもらっては困る。
「ラーク!」
俺は鋭く怒鳴りつけた。
「立て。ティズが穴を掘らせている。妻子を弔え」
彼は、膝をついたまま振り返り、恨めしそうに俺を見た。だが、何を言われているのか、どうすべきかがわからないのではない。ただ、この世での最後の別れを惜しんでいるのだ。それをほんの数分で済ませなくてはいけない。それでも、どうしようもないのだ。彼は最後に、ものを言わぬ妻を抱え、強く抱きしめた。
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