ティズの窮状
頭上に目を向ける。八本の細い木の板が撓められて結ばれ、頂点をなしている。色とりどりの布が支柱となるそれらの板の隙間を埋めている。カボチャの中から外の殻を見上げるような形だと思った。これは言うまでもなく、サハリア人の天幕を模した装飾だ。彼らにとっての「落ち着く我が家」とは、とりもなおさずこのテントのことで、厳めしい石の部屋なんかではないからだ。
四方の壁には、所狭しと棚がある。そこには巻物状の書物が山と積み上げられている。その臭いに、ふと前世を思い出した。紙の臭いは死の臭いだと、誰かが言っていたっけ。死んだ植物が素材になって、既に死んだ人々の記した記録が残される。なるほど、墓地に似ていなくもない。
床は一方を除いて座敷になっており、俺は靴を脱いで上がりこんでいた。サハリア風、というよりは前世日本風に足を組み、クッションの上に座り込む。真ん中には丸いテーブルがある。ちゃぶ台といったほうがいいかもしれない。座敷以外のところは廊下と同じ高さの床で、そちらにカーテンがかけられている。
そのカーテンの向こうから、扉を開ける音が聞こえた。そして、何事か話し合う声も。足音が近付いてくる。
「待たせたな」
「忙しいところ」
「ああ、そのまま」
ティズは、俺を押しとどめようとした。しかし、両手は埋まっている。右手には陶器のポット、左手には小さなコップが二つ。
「形だけでも客人を歓待したいのだよ。楽にして欲しい」
「では」
調子が狂ってしまう。今の俺は、茶なんか飲んで寛ぐ気分ではない。ただ、この話し合いは不可避だから、やむなく従っているだけだ。
「この城はほとんど実用一点張りでな。わしの好きにできる部屋も、ここくらいしかない」
「お気遣いいただかなくても」
「いやいや」
彼は慣れた調子で座敷に上がり込み、ポットとコップを置いた。そのコップの底には、バターらしきものがへばりついていた。
「口に合えばよいがな」
そのコップに、白い湯気の出るほど熱々のお茶を注ぐ。見る見るうちにバターは溶かされて、お茶と一つに溶け合う。不思議と濁ることもなく、深みのある琥珀色が美しかった。
「おっと、少し冷ましてからのほうがいいぞ」
「ありがとう……ございます」
なるほど、サハリア人の歓待か。ミルークはウォー家に、ささやかながらも気の置けない歓待を受けたと言っていた。立派な場所で、大勢の召使を侍らせて宴を催すのは、彼らの流儀ではない。もちろん客の数が多ければ、そのような催事とせざるを得ないが、本来はこうしてこじんまりと、打ち解けた空気で客人に寛いでもらおうとする。
だが、俺の内心はいまだ荒れ狂っている。こういう人間ゴッコが我慢ならないほどに。とにかく苛立ちが収まらない。ふとしたことで、声を荒げてしまいそうだ。
「どうかね、この部屋は」
「なかなか他所では見ないですね」
「ははは、確かに天幕の下に本棚がたくさんあるというのは、わしもここ以外では見たことがないな」
大きな腹を揺らしながら、ティズは言った。
「これらの書をどれか、覗いてみたかね」
「まさか。きっとどれも貴重なものに違いないのに」
「まぁ、そうだね。このサハリアでは、優れた詩人はまた、優れた書家であることが多い。自作の詩を、このように昔ながらの形式で、書にするものなのだ。目にも美しく、歌えば耳にも心地よい。仕事でアーズン城に留まらねばならないことはよくあったが、暇があればここで気持ちを落ち着けて過ごしたものだ」
では、ここは彼の私室なのか。
「客間ではないと」
「そんな気の利いたものは、この城にはないのだよ。申し訳ないがね」
顎髭をいじりながら、彼は歴史を語ってくれた。
「もともとこのアーズン城は、世界統一前にあった城塞を元にしている。人形の迷宮や赤竜の谷、それにわしらサハリア人を支配しようとするセリパシア帝国と、西からの脅威には事欠かなかった。諸国戦争後の暗黒時代に今の形になったのだが、それはもう余裕のない時代のことだったから、実用的ではあるが美しさという点では残念なものになってしまった」
世間話、か。なんとも礼儀正しいことだ。この非常時において、ここまで目をかけてもらえるとは。しかし、今はそれどころではあるまいに。うまいこと戦争の件に話題を変えないと。
適切な言葉を探したが、気の利いた一言が出てこない。俺は少し迷ったが、はっきり言った。
「ティズ様」
「なにかね」
「ティズ様は仮にもネッキャメルの族長で、この非常時に、こんなところで俺の相手なんてしている余裕などないのでは」
「そうとも。多忙を極めるね」
と言いながらも、彼は余裕たっぷりの表情を浮かべていた。実に人懐こそうな笑顔だ。
「確認すべきことをすぐ確認して、問題を解決したほうが……気遣いには感謝しなければならないとはいえ」
「いいや」
彼は手を広げて俺の主張を受け入れた。
「わしとしては、君が気楽に話してくれるのが一番だからね。それで、何を言いたいのかね」
「軍使を勝手に斬った件は」
どうもネッキャメル氏族は、まともに戦える状態にないらしい。ならば、俺の選択はこれだ。
「すべてこちらが引き受ける。当然ですが」
「ふむ?」
「こういう言い方は……いや、つまり……黒の鉄鎖に降りたい場合には、という意味になる」
俺の言葉に、初めて彼は顔を引き締めた。
「では、その場合、君はどうする。我々が捕らえて、あちらに引き渡すのかね」
「いや」
無駄死にするつもりはない。
「一人で戦う」
「なに」
「まず、タフィロン……ミルークや、俺の身内を奪ったフマルは滅ぼす。セミン氏族のバタンも。それからフィアンも裏切ったのなら、フィアナコンも廃墟に。降らなければ、ジャンヌゥボンまで焼き払う」
俺の言葉に、彼は険しい視線を向けた。
ややあって、やっと言葉を紡ぎ出した。
「それだけ君が、身内の死に怒り狂っているというのは、よくわかった。だが、一人の人間にできることには限りもある。それに君は若い」
「歳なんてどうでもいい」
「シジャブはああ言ったが……気にしなくてよい。わしらが黒の鉄鎖に降るなど、あり得んことだ」
「では」
「待ちたまえ」
ようやくコップを取り上げると、彼は俺にも勧めた。
「そろそろ飲み頃だ」
「……いただきます」
俺が飲み始めるのを確かめて頷くと、彼は静かに言った。
「恥じることはない。君はただの被害者だ。むしろよく兄を看取ってくれた。感謝しかない」
「いえ」
「誰にも言い訳などしなくてよい。アーズン城を去って、安全なところに行くのがよいと思う」
「お断りさせていただく」
だが、そこは受け入れられない。
むしろなぜ戦えと言わない? 何ができるか、どれだけ殺せるかを知りたくはないのか。じれったくて暴れ出しそうになる。
「俺は、ネッキャメルが戦うかどうかにかかわらず、戦うと言った……言いました」
「ファルス君、ここは確かにサハリアだが、君までサハリア人の流儀に染まることはない」
彼は苦々しげな表情を浮かべて、ゆっくりと首を振った。
「むしろ、わしが謝罪せねばならん。我々の争いに巻き込んでしまった」
「いや、あちらが争いを起こした。しかも、あえて。ミルークは、投降すると言った。俺も白旗を掲げた。それなのに襲ってきた」
「ふぅむ」
顎に指をあて、彼は考え込んだ。
「戦う力がないと?」
「いや」
じっと考えながら、彼は答えた。
「実は、兄から君のことは軽く聞かされたことがある。普通でない少年がいた、というくらいだがね。それを抜きにしても、並みの少年が数人の大人の戦士をああもやすやすと葬り去れるものではない」
「なら問題はないはず。いっそ、ただの駒として使ってくれても構わない」
「いや、いくつも問題があるとも」
軽く鼻で笑いながら、彼は腹を揺らした。兄と違って横に広い体型だから、そういう仕草もさまになる。
「例えば」
「君の身分だ。さすがにわしの立場ともなれば、いろいろな噂を耳にすることもあるが、なんでも君は、あのタンディラール王に腕輪をもらったそうじゃないか」
「こんなものが邪魔とは」
「こんなもの……だが、どちらかといえば険悪な関係にあるこのネッキャメルの族長が、フォレスティア王の騎士を顎で使うのかね?」
俺ははっきりと頷いてみせた。
くだらないことで躊躇するものだ。これは戦争だ。殺し合いだ。何を言っているのか。
「まったく問題ない」
「おお、おやおや……だが、何かあればタンディラールから苦情がいくかと思うが」
「構わない」
何かと思ったら。本当にどうでもいい。
「君の先々にとってもよくあるまい」
「別に仕官したいとも思っていない」
「わしにとっても、エスタ=フォレスティア王国は無視できる相手ではない」
「この件でもし何か嫌がらせでもしてきたら、王も斬る」
感謝するほどの恩義はない。もしあっても、ゴーファト討伐で十分以上に借りは返したつもりだ。あとは好きにさせてもらう。
俺のあまりに過激な返答に、彼はやや面食らいながら、しかし理由を挙げていく。
「サハリア人からも恨まれるぞ」
「敵対した相手からの恨み……」
「そうとも。執念深いのがサハリア人だ」
「全滅させればいい。一人残らず」
やる。
本当にやる。
今までは、自分なりに筋が通っている場合でなければ、手を出したりはしなかった。だがもう、知ったことか。
話が通じない相手に、こちらが配慮してやる理由などない。女子供でも容赦はしない。
「む……」
だが、彼はなぜか難しい顔をしていた。
「問題がそれだけなら、話は終わりに」
「いや、他にもある。今回、正直、ネッキャメルは負け戦だ。勝つ見込みがそんなにあるわけじゃない。巻き添えにするのは本意でない」
「それこそ問題にならない」
「問題だろう」
「勝たせる」
俺の自信たっぷりの一言に、彼は目を丸くした。
「相手が龍神か、魔王の使徒か……でなければ、だいたい勝てる。それ以外だと、パッシャの最高幹部を見たことがあるが、あれは勝てるかわからない。あとは、なんとでもなる」
俗界の戦だ。恐らく贖罪の民も介入はしないだろう。しかも地域の紛争だから、偽帝のときのように龍神が首を突っ込む気もしない。また、あの使徒が俺の邪魔をするとも思えない。
「滅茶苦茶だな」
「もし俺が死んでも、気に病む必要は全くない」
強情な俺に、彼は深い溜息をついた。
「しかし、言っておくが、勝ち目が薄い分、恩賞の見込みもないと思って欲しいのだが。タダ働きになるかもしれん」
「逆にいくら払えば戦わせてくれるのか」
「よしてくれ」
苦笑しながら手を振ると、彼は深い溜息を一つ。
「そんなに武勇に自信があるのかね」
「強いというのとは少し違うかもしれないが……とにかく、敵は倒す」
俺はじっと彼を見据えて言った。
「それより、どうしてもっと戦うことを考えないのか。いっそこの件を利用してタンディラールを戦争に巻き込んでやるくらいでなくて、どうするのか」
「わしは驚いておるよ」
首を振りながら、浮かない顔で呟いた。
「……君がこんなに戦好きとは、聞いてなかったが」
「時と場合による。今度ばかりは……!」
俺はもう、作法をかなぐり捨てることにした。コップを取り上げると、一気に飲み干した。話の決着をつけようと、そういう意思表示だ。
「俺がここで話をしているのは、単にネッキャメル氏族に迷惑をかけまいと思っているからだ。あの時、フィアンの連中を殺したのも、門を閉ざせとあなたが命じたから、戦う意志があると思ったからだ。それが今、仮に考えが変わって戦いを避けようとしていたとしても、責めないし、巻き込まない。またもし、断固、黒の鉄鎖相手に戦うということなら、出来る限り味方はする。それだけだ」
ここまではっきり言われては、彼も正面から受け止めざるを得ない。
「わかった」
やや俯きがちになりながら、やっと彼は言った。
「だが、好き勝手をされては困る。さっきも言ったが、これは黒の鉄鎖と赤の血盟の間の争いで、君は身内を失ったとはいえ、傍から見れば巻き込まれただけの部外者だ」
「む……」
「ここで戦おうというのなら、わしの指示には従ってもらう。それでよいのだね?」
「わかった」
といっても別に、ティズに対して忠誠心があるのでもない。ネッキャメル氏族が黒の鉄鎖と戦う以上、俺としても協調するほうがメリットがあるというだけだ。いくらピアシング・ハンドがあって、またこれまで奪ってきたスキルがあっても、体は一つしかない。食事も睡眠も必要だ。疲労もすれば、判断を誤る場合もある。仲間が多いに越したことはない。
「具体的に、何から解決すればいいのか。どうもさっきの会議を見た限りでは、ブスタンが危ういように聞こえたけれども……」
俺の指摘に、じっと顔を見つめてきた彼だったが、軽く首を振りながら、また苦笑いを浮かべた。
「ははは……順番で言えばそうだが、全部危うい。そう思ったほうがいい」
「この城も?」
「そうとも」
よっぽど敗色濃厚といった状態なのか。
「この土地のことをそんなには知らないだろうから、簡単に説明しよう。まともな農地はオアシスの近くにしかない。あとはみんな、散らばって遊牧生活をしている……」
岩と砂ばかりの砂漠の狭間を、多くの氏族集団が行き来している。小さな水場、草地などの利用権は、彼らの命綱だ。
そんな砂漠の世界だから、生産性はフォレスティアより遥かに低い。人口密度も低い。しかし、戦士の数は多い。遊牧民がそのまま騎兵になるからだ。海沿いの都市部に暮らすのは定住化した同胞だが、彼らは彼らで、その多くが商人であり、船乗りであり、つまりは海兵である。
ネッキャメル氏族としての動員力は、やはりというか、エスタ=フォレスティア王国に比べると、かなり小さい。タンディラールが四万人以上の常備軍を運用しているのに対し、ティズが氏族内の男達に最大限の召集命令をかけても、その兵力は一万人にも満たない。現実的には、すぐさま動かせる兵力はその半分以下だ。
もっとも、この辺の事情は他の氏族も同じだ。東部サハリアの六大氏族……ネッキャメルの他はニザーン、フィアン、そして黒の鉄鎖側のアルハール、セミン、フマルは、だいたい似たり寄ったりの動員力を有しているとみていい。その他の小規模な集団が全部寄り集まれば、それぞれの陣営で、これら大氏族程度の頭数が揃うと言われている。
もし、東部サハリアの諸侯がすべて同盟して兵力を結集させると、だいたい七万人くらいの兵数になる計算だ。エスタ=フォレスティア王国が諸侯の兵力を借りれば十万人の兵を用意できることを考えると、やはり規模では及ばない。
だからといって、フォレスティア側がサハリアの征服に乗り出すなど、まず考えられない。砂漠を熟知し、機動力に優れた騎兵を擁し、小規模の行軍なら補給線も柔軟で、遊撃と撤退を自由自在にこなすサハリア兵は脅威だ。海兵も熟練度が高く、南方大陸西岸の都市国家の多くを事実上の属国にしているところからしても、侮れる戦力ではない。
ただ、スイキャスト二世がウォー家を通じてサハリアに介入できたのも、やはりこの規模感の差ありきではあるのだが。
「我が方の状況だが、拠点が大きく隔てられているのが問題だ。しかし、これはサハリアでは普通のこと」
サハリアの戦争は、点在する拠点の奪い合いだ。だから、戦線という意識が薄い。拠点や街の間には、物資の補給に何ら益しない不毛の砂漠が広がっているだけだ。そして彼らの多くは騎兵で、軽装のままに素早く移動する。
ただ、それでもフィアナコンを失ったのは大きい。後方にあるからといって、ブスタンやアーズン城が必ずしも安全なわけではない。敵が前方に聳える大都市を放置して、より奥へと侵入する場合もある。ただその場合、同じく機動力に長けた敵の騎兵に背後を塞がれる危険も残る。だから、なくしたくない拠点というものはあり、それがフィアナコンだった。
それが敵方に渡ったことで、ネッキャメルの主要な拠点はどれも、味方勢力によって敵を牽制することのできない、裸の状態になってしまった。
「時間が経てば、こちらも徐々に戦力を立て直すことはできる。しかし、それには条件が付く。大きく負けないことだ。恐れれば、兵も寄り付くまい」
海沿いの重要拠点ハリジョンには、恐らく二千人前後の兵が集まる。少なくともティズはそう見込んでいる。時間が経てば、地上軍を中心に、もう千人くらいが参集するだろう。こちらはもう、同盟の他の勢力が援軍を寄越してくれると期待するしかない。
だから、ブスタンとアーズン城を防衛するのに動員できる最大戦力は、せいぜい五千人前後と見込んでおくべきだ。しかし、対応が後手にまわったのもあって、実は今、城下には二千人弱の兵しかいない。なんとか防衛する中で、同胞が援護に駆けつけてくれるのを待ちたいところだ。
援軍だが、まとまった戦力を期待できるのは、もはやニザーンくらいしかない。赤の血盟の北端を占める勢力で、海上戦力と地上戦力の両方を兼ね備えている。ただ、規模としてはネッキャメルと大差ないので、すぐさま集結させられる兵数はせいぜい四千人ほど。経済的にはあまり潤っていないのもあって、それすらなかなか厳しいところがある。
つまりは大きく二つの戦場で、それぞれ二千人程度の兵で持ちこたえ、後から駆けつけるこれまた二千ずつの援軍で敵を撃破する。そういう筋書きだ。
しかるに敵の状況はというと……
「海兵は、アルハールが中心だろう。セミンにも一応、それなりにはいる。十分に準備したとなれば、五千か六千は集めたはずだ。すべてを攻撃に振り向けたとは限らないが」
用意に用意を重ねた黒の鉄鎖側は、限界近くまで兵力を動員している可能性が高い。主要な氏族から五、六千ずつ、その他小さな集団からも召集、またドゥミェコンに駐留していた傭兵も加えると、だいたい合計で二万人近い兵数があるものと推測される。これが二方面に向けて作戦を展開する。
まず、海沿いのハリジョンを落とすために、海と陸の挟み撃ちを仕掛けるだろう。派遣される海軍の兵数は、ネッキャメル側が単独ですぐさま出せる海兵の倍以上になる。正面から戦って打ち破るのは難しい。ニザーンの援軍が来るまでは、海上封鎖が続くことになる。では援軍があれば勝てるかというと、それも簡単ではない。時間が経ち、赤の血盟の劣勢が知られるようになると、今度は南方大陸側の都市国家群が相手側に靡くようになるからだ。
陸上戦力も、大雑把に一万五千人ほどが見込まれる。そのすべてがスムーズに進軍できるかといえば、もちろん違うのだが。兵站の問題も出てくるし、占領地の確保も必要だ。
「読めないのがフィアンの動向だ」
フィアナコンはもう恐らく、黒の鉄鎖の占領下にある。
しかし、ティズが疑問に感じているのは、本当にフィアン氏族全体が黒の鉄鎖に寝返ることに同意しているかどうか、だ。
「今更、何が気になる」
「もともとフィアンは、あちらの最前線に立つセミン氏族の真正面にいた。過去の紛争でも、少なからず犠牲を払ってきた歴史がある。それがこんなに簡単に降るものだろうかとな。もしかすると、裏切りはフィアンの一部の人間の策動なのかもしれん」
もしティズの読みがいい方に当たってくれていれば、あくまで黒の鉄鎖に積極的に手を貸したのはフィアンの一部で、今もフィアナコンに留まる多数の住民は、心ならずも占領を受け入れているだけに過ぎない。その場合、黒の鉄鎖はフィアナコンの維持のためにも戦力を割かねばならない。
「あちらがどう出るかは読み切れん。こちらは抑えにまわってハリジョンを優先するか、むしろこちらを落としにくるのか、フィアナコンの維持のために力を割くのか。それでも、少なく見積もってもアーズン城を取り囲む兵は、五千を下るまい」
「倍以上……」
「そうだ。だからファフルが言うことも道理ではある。このアーズン城なら、三倍近い兵力に取り囲まれても、そう簡単には落ちたりしない。だが、同じ兵をブスタンで戦わせたらどうなるか。あそこにはさして堅固な砦もない。遮るもののない平地でぶつかり合うことになる。目先の戦いだけを考えれば、ここでニザーンの援軍を待って挟み撃ちにするのがよいのだ」
そう考えると、相手方はやり放題だ。
ネッキャメルとニザーンの兵を合計しても、当面は四千程度にしかならない。なら、例えばそれと同数の兵をこのアーズン城に張り付け、残り二千の兵をブスタンに向けたらどうだろう? どう転んでも、黒の鉄鎖側は、どちらかの拠点を手に入れることができそうな気がする。
「ただ、ティズ、様」
「うむ」
「そんなに後手にまわってしまったのは、なぜなのか」
「誤報に惑わされたからだ」
黒の鉄鎖とは、一応停戦状態ではある。しかし、いつ争いが再燃しないとも限らないので、やはり多方面から情報を集め続けていた。相手方の勢力に近いところで活動する商人や遊牧民などが、そこで見聞したことを伝えてくれる。そして、一番の情報源はといえば、やはり同盟内で最南端の拠点を持つフィアン氏族だった。
ミルークは、同胞からもたらされる情報と、フィアン側から伝えられた話との小さな食い違いに気付き、大急ぎで対応にまわったのだ。もちろん、ティズも最悪の事態に備えて、大慌てで一族の男達を呼び集めた。その結果が今なのだ。
「状況の厳しさがわかったかね」
なるほど、俺を翻意させるために、わざわざここまで説明してくれたのか。その気持ちには感謝しなくてはなるまい。
「物見から聞いてはいる。君の剣術は鋭いが、それだけでなく魔法まで使ったそうだね。だが、あちらにもアルハールの四賢者がいるし、腕に覚えのある勇士も少なくはない。こんな戦には関わらないほうがいいのだよ」
「であれば、逆になぜ降参しない?」
「無条件で降伏するような弱虫など、サハリアでは生きられないからだ。せめて意地を見せねば、子供達の時代にわしらは消え去ってしまう」
戦争も交渉の一部だ。
ネッキャメルの勇武、なおここにありと思い知らせなくては、戦後の交渉もままならないと、そういうことなのだ。
「勝てないまでも、負けないこと。これがわしらの狙いだ。戦いを長引かせ、消耗を強いて、相手に妥協させる。わしらがそうであったように、奴らとて必ずしも一枚岩ではない。なかなかいい思いができないとなれば、足並みも乱れてくる。そこで、なるべく小さな損害で、戦いを決着させる。そういう考えなのだよ」
「うまくいくものなのか」
「今の大人達には、死んでもらう。それでも力は示さねばならん」
その、死んでもらう大人の中には、恐らく彼自身も含まれているのだろう。
「わかった」
俺は頷いた。
「それなら、まずはブスタンに行こう」
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