第三十章 血墨戦役
報復の始まり
ブーツの爪先が、すぐ目の前の砂を蹴散らした。足下は既に固い岩盤になっていて、その上にうっすら砂が積もっていただけだ。平らな地面の先には、すぐ大きな城門が待ち構えていた。微妙に錆びてはいるが、金属製の立派な門扉だ。
城壁の上にいた兵士が、俺の存在に気付いたらしい。
「何者だ!」
やはり既に臨戦態勢だった。馬で一日の距離にある集落が襲撃を受け、壊滅しているのだ。そこへフラフラと城までやってきた少年がいる。怪しいに決まっている。
「門を開けろ」
「なに!」
「門を開けろと言っている!」
だが、俺もまた、冷静ではなかった。荒れ狂う砂嵐のように、何かの衝動が体の中で蠢いていた。
「名を名乗れ」
「うるさい!」
殺気だった兵士が、無言で矢を番える。それが放たれる前に、城壁に火球が激突した。兵士が怯んで後ろに下がるうちに、俺は城門のすぐ目の前に立った。
押しても、当然ながら開かない。こういうのは普通、閂がかけてある。剣を引き抜くと、俺は観音開きの扉の狭間にそれを挿し込んだ。そして上下に振る。軽い手応えの後、支えを失った扉がひとりでに開いた。
「なっ」
「なんだ、こいつは」
門の前にも、数人の兵士が立っていた。全員、軽装だ。せいぜい革の鎧を身に着けているだけで、頭にはターバンを巻いている。手には曲刀と小さな金属製の盾。
俺は剣を腰に納めて、静かに言った。
「ティズはどこだ」
「なに」
「ティズ・ネッキャメルに会わせろ」
城門の内側は、ちょっとした広場になっていた。大勢の兵士が整列できる空間があり、正面には幅広の階段がある。壇上には横に列柱が建ち並び、その真ん中には謁見の間のような奥行きがあった。
あそこにいるのだろうか。返事を待たず、俺は前へと歩き出した。
「おい!」
「止まれーっ!」
目の前の兵士達が即座に抜刀し、俺を取り囲む。
邪魔だ。そうとしか思えなかった。
「あぐっ!?」
突然の激痛に、正面の男が体をくの字に折る。それを押しのけると、俺はまっすぐ進んだ。
「待て!」
後ろから二人ほど追いすがってくる。素早く身を翻して足払い、折り返してもう一度足払い。簡単に転倒した。
それを見て、残りの兵士達は顔を見合わせた。何人かは、開いてしまっている城門を押さえにまわり、誰かが口笛を吹いた。
「衛兵! 衛兵! 侵入者だ! 集合せよ!」
今度は槍を構えた兵士達が駆け付けてきた。そうして俺を扇形に取り囲む。
「邪魔をするな」
「何者だ」
「誰でもいい。ティズに会わせろ」
「貴様、族長に何の用だ」
どうでもよかろうに。
別に殺そうというのでもない。ただ、この苛立ちをぶつけたいだけだ。
「顔を見に来ただけだ」
「ふざけるな! 客人を名乗るのなら、その剣を預けよ」
「これは手放せない」
「捕らえよ!」
槍の穂先が突きつけられる。だが、甘い。殺す気でなければ。
手を伸ばし、あっさり槍を掴むと、手元に引っ張った。兵士がつられて引き出される。それを捕まえ、簡単にひっくり返して抑え込む。他の兵士が槍を突き出そうと身構えるも、同胞が羽交い絞めにされているのを見ては、やすやすと手を出せない。
「邪魔するなと言っている」
「ぐあああ!」
後ろから腕を捩じりこまれて、俺に捕まった男は苦悶の声をあげた。
それが耳障りだったので、俺は手を放した。
兵士達の包囲が、また自然と解けた。だが、それは更なる防衛線のためだった。
階段の前に、無数の兵士が駆け付けてくる。今度は、手にしているのは弓だ。これ以上進むなら射殺すると。好きにすればいい。
「やれ!」
隊長らしき男の号令で、一斉に弓弦が空気を震わせた。
俺の指先が、そっと剣の柄に触れる。身を翻しつつ、左右に斬り払う。それで命中する矢はすべて叩き落せた。
「ば、ばかな! 無傷だと!」
「ええい! かかれ! 絶対にここを通すな!」
面倒臭い。
もういいか。戦争の当事者というのなら、こいつらだって同じ。近くの集落は防衛できないくせに、こんなところで威張ってばかりで、どうせ役立たずだ。雑草のように抜いてやろう。
そう思った時、兵士達の背後から大声が響いた。
「どうした! 静まれ!」
よく通る、若い男の声だった。
自然と真ん中に道が開ける。そこに姿を現したのは、一人の美丈夫だった。背は高く、胸板は分厚く広く。鎧は身に着けていないが、戦いには備えているらしく、上下に簡素な白い服を身に着けている。肌は一層浅黒く、黒い巻き毛が印象的だった。
「ラーク様、侵入者がここまで」
「この少年か」
それなりに身分のある男らしい。態度からも自信のようなものが漲っている。
彼は改めて俺に問い質した。
「何のためにここにやってきた」
「ティズに会わせろ」
「なぜだ」
「ミルークは死んだぞ」
この一言に、兵士達はどよめきながら互いの顔を見合わせた。ラークもすぐには次の言葉を紡ぎ出せずにいた。
「君は誰だ」
「ファルスだ。ミルークに言われてティズを訪ねるはずだった」
「はずだった?」
俺の前提と、彼が考える前提には、大きな食い違いがある。
恐らくラークは、俺がミルークの死を看取ったか、それに近い状況に立ち会ったと考えている。そこで死にゆくミルークの伝言を持ち帰ったのだと。そう想像するのも自然ではあるか。
「しばし待て」
ラークは取り次ぐべきと考えたらしい。それで兵士達も俺に矢を向けるのをやめた。
しばらくして、彼が戻ってきた。身振りで壇上に上がるようにと促した。
足下には絨毯すらない。装飾のない青白いアーチの下を俺は黙って歩いた。左右に柱が並び立っているが、その奥はすぐ壁だった。そして大した距離を歩くこともなく、突き当たりに辿り着いた。
「案内しました」
「うむ」
中央の玉座に腰かけていたのは、初老の男だった。ミルークとは似ても似つかない。すらりとした印象の、細身で背の高い男だったミルークと違って、彼はむしろずんぐりしていた。重そうなターバンの真ん中には赤いルビーが輝いている。顔は丸っこく、鼻の下には野太い髭が生えていた。それと顎にも短い髭がある。顔は浅黒く、兄と違って美貌には恵まれていなかった。服装だけは似ていた。サハリア風の貫頭衣の上から、赤い長衣を身に纏っていた。
脇には数人の長老や書記官らしいのが佇んでいる。選りすぐりの兵士達も槍を手にしていた。
「ようこそ、ファルス君」
怪訝そうな顔で、それでも彼は歓迎の言葉を口にした。
「我らが居城、巌のアーズンへ、ようこそ」
サハリア人の美徳は、友情と歓待にある。客人をもてなすのは彼らの喜びであり、名誉でもある。だから、俺の身元がわからずとも、彼はそう述べた。本当は用向きを尋ねたいのだが、いきなりそこから始めるのは、礼を失した振舞いなのだ。相手を軽んじていることにすらなる。
「余裕がないのはわかっている。用件からで構わない」
だが、俺はピシャリと言った。戦いに備えている彼らに、詩を吟じて客をもてなす余裕など、あろうものか。
「ティズ・ネッキャメルだな」
「いかにも」
「どうして兄を見殺しにした」
俺の詰問に、彼の左右は色めきだった。ティズはというと眉根を寄せたが、さすがに平静を保っていた。
「それは誤解だ。兄は、和平の使節として南方に旅立つと言った」
「たった一人でか」
「供はつけた。送り返したのは兄自身だ」
それは俺も見ている。ミルークは最初から、自分の仕事の成功率の低さを理解していた。だから無駄な犠牲を出すまいとして、彼らを追い返した。
「無理な仕事だとは思わなかったのか」
「責任を取らせた」
「責任だと」
「南方の動向を調べよと。それを怠っていたために、我らは今、窮地に立たされている。収拾するのは彼の役目だ」
「なんだと?」
俺が睨みつけても、ティズは動じなかった。
頭の隅で、彼の言い訳が不自然なものであるとは感じ取っていた。うまく説明できないが、これは本心ではない。そういう建前だ。
「先ほどラークから聞いた。兄ミルークは死んだと」
「そうだ」
「どこでどのようにして死んだのか。知っていることを教えて欲しい」
「アラワーディーでフマルの奴らに捕らえられていた。助け出しはしたが、追われて赤竜の谷に逃げ込む以外になくなった。最後は赤竜に襲われて命を落とした」
歯噛みしながら、俺は事実を述べた。
ティズは、俺の説明を聞いて、しばらく黙り込んでいた。
「では、君はそのことを私達に伝えに来てくれたのか。ありがとう。だが、何のためだね」
「ヌクタットが壊滅した」
「知っている」
「貴様の無能のおかげで、これだけの犠牲者が出たぞ。俺の身内も死んだ。どうしてくれる」
無礼な物言いだとは百も承知だ。それでも、怒りの衝動を抑えられなかった。
さすがにこんな言い方をされては、周囲の臣下達も黙ってなどいられない。口々に「無礼な」と叫びながら立ち上がる。曲刀の柄に手をかけているのまでいる。
「申し開きもできない」
「なに」
「言い訳などできないし、しないと言ったのだ」
ここに至って、やっとティズは語調を強めた。
「我々は今、存亡の淵に立たされている。ヌクタットが攻め滅ぼされたというのは、そういうことだ」
「あんな寒村一つで、この城が揺るがされるのか」
「君はサハリアの地理には詳しいかね」
唐突に何を言い出すかと思ったら。
黙って首を横に振った。
「東部サハリアはよく、砂時計とか、スカートを穿いた婦人の姿に喩えられる。左上にはこの城やブスタンが、右上にはハリジョンが。その間、天辺にあるのがジャリマコン。左下がタフィロンで、右下がジャンヌゥボン。そして中央の砂漠に、大きなオアシスが二つ」
右手と左手で、それぞれ人差し指を突き立てながら、彼は説明した。
「黒の鉄鎖に属するセミン氏族の都、バタン。これに対するのが、我が方のフィアン氏族の街、フィアナコン」
右手の人差し指を握り込み、手を下ろす。
「敵がここまで北上してくるということは……フィアナコンが既に陥落したことを意味している」
「敵の進軍が速いということか」
「それだけならよかった」
「なに?」
「どんな大軍に囲まれようとも、普通なら、たった一週間で落とされるような街ではない」
それはどういう……
「ティズ様!」
背後から、息を切らして駆け込む若者がいた。
「急使です! フィアンより書状が」
俺の横をすり抜けて、彼はティズの前に跪き、それを手渡した。
無言で受け取り、ティズはざっと目を通す。そして大きく頷いた。
「これで裏付けられた」
「なにが」
「読み上げよう。……我が父は貴殿に格別の友誼あり、ゆえに伝え述べん。ハリジョンの他に手放すものなし。直ちに城を出て、ジャリマコンに参集せよ」
そう言うと、ティズは片手で書状をひらひらさせて、椅子の上にふんぞり返った。
ネッキャメル氏族の主要な支配地は、このアーズン城、近くにあるオアシス都市ブスタン、そして遠く離れた東側、真珠の首飾りの北西端を占めるハリジョン。そのうち、特に収益の大きい港湾都市を手放せと言っている。
それだけではない。ジャリマコンに参集せよと言っているが、これはおかしな話だ。敵は南にいるはずなのに、どうしてブスタンの北東にある港湾都市に向けて進軍するのか。そこは同じく赤の血盟の一員である、ニザーン氏族の所領ではないか。
つまり、これが意味するところとは……
ティズは立ち上がった。
「城門を閉ざせ。恥を忘れたフィアンの犬どもを一匹たりとも近付けるな」
裏切り、だ。
既にフィアン氏族は、或いは少なくともその指導部の一部は、黒の鉄鎖の調略を受けていた。だから彼らの進軍は妨げられることなく、やすやすと北部にまで侵攻できた。
そうなると、ヌクタットの壊滅についても説明ができる。あそこを攻撃したのは、敵方のフマルではない。味方だと思われたフィアン氏族の来襲を受けたのだ。
「こういう状況だ」
ティズは俺に振り返った。
「兄の訃報を届けてくれて感謝する。だが、この城には今、客人を歓待する余裕がない。大変失礼ながら、速やかにお引き取り願いたい」
それで収まりがつくはずもない。
俺は頷きながら言った。
「敵がすぐそこにいるということだな」
「そうとも」
それで俺は、無言で振り返った。
階段を駆け下り、兵士達を押しのけながら、城門に迫った。そこはまさに、新たな閂がかけられようとしていた。
「通せ」
「なにっ」
「またそれを駄目にされたいのか」
俺が閂を叩き切ってしまったせいだ。それを思い出したのか、兵士は黙って道を開けた。
そうして一人で門の外に出た。そこには、馬に乗った数人の軽装の兵士達がいた。
「なんだ?」
降伏勧告の書状を届けにきたフィアンの戦士達だろう。
ティズが不利を悟ってあっさり降伏するものだと思っているのか、表情には緊張感がなかった。まして、少年が一人で外に出てくるなど、想定していなかったようだ。
「お前はなんだ」
「フィアンの戦士だな。今すぐ武器を捨て、罪を詫びよ」
助命の機会はこれ一度。いや、多分、何を言っても殺すが。
だが、それとわからない男達は、目を見合わせた。それからすぐ、大笑いした。
「それがティズの返事か」
「勝ち目もない戦だと、なぜわからん」
だが、俺は問いを重ねた。
「ヌクタットを襲ったのも、お前達か」
「それがどうした」
非戦闘員を嬉々として犯し、殺し、略奪した。ならもう、慈悲など必要あるまい。
「どうする?」
「そのうち矢を射かけられるな。その前に帰るとするか」
「その前に、このガキを片付けていこう。景気づけにな」
「はっは!」
笑った男は、こちらに向き直った瞬間、何かに弾かれたように仰け反って落馬した。俺はそこに淡々と歩み寄り、剣先を突き立てた。
「なっ!?」
「てめぇ!」
左右から槍を手にした戦士が迫ってくる。俺は迷わず右を向き、駆け抜けざまに飛び上がった。
着地すると同時に、俺の横を切り落とされた首が飛んでいく。そして左に振り返り、念じるとそいつも落馬した。
「うおっ」
「いきなりなんだ、こいつは!」
立て続けに三人を失った彼らは、急に不安に駆られたのか、馬首を返して逃げ出そうとした。俺は黙って右手の人差し指を向ける。そこには、赤く輝く指輪が嵌められている。
馬の蹄の音が遠ざかっていく。その後ろから、一筋の赤い光が追いすがる。爆発の後に、なお生き残っている者はいなかった。
城門の上からは、無礼者に矢を射かけようとしていた兵士が、一部始終を目の当たりにしていた。
俺がそれに気が付き、城門を指し示すと、彼は上ずった声で叫んだ。
「開門!」
俺は、手元の剣に改めて視線を向けた。銀色に輝く剣。だが、まだ足りない。こんなものじゃ全然足りない。
殺す。もっと殺す。一人残らず殺す。滅ぼし尽くすまで殺す。
収まらない気持ちを無理に押さえつけ、俺は剣を鞘に戻した。
改めてアーズン城の門を潜りながら、俺は心に決めた。
復讐。それが俺のなすべきことなのだと。
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