砂漠の災厄

「ファルス」


 驟雨に半ば声がかき消される。それでもなんとかノーラの声が耳に届いた。


「大丈夫?」

「そんなこと言ってる場合じゃない」


 雨脚は強くなる一方だった。もはや視界すら掻き曇るほどの激しさだ。

 砂漠の大地は、水を吸わない。水を必要とする植物も存在しない。植物の根が大地を深く穿つこともなく、岩盤は乾燥しきったまま固まり、雨滴を弾く。ちょうど陶器が水を貯めおくように、砂漠の土もまた、水に溶かしこまれたりはしない。

 それに何の問題があるのか。水を吸わないということは、降り注いだ水はそのまま地表に留まる。一滴の雨は僅かでも、空から降り注ぐのは数えきれないほどの雨粒だ。天然のコップの役目を果たす砂漠の谷の岩山に、水が溜まる。その水には重さがある。重さは圧力となり、風化で脆くなった岩盤を崩し、押し流す。

 砂漠の雨は、天の恵みではない。赤竜をも怯えさせる、恐るべき災厄なのだ。


 全員、いまや限界に達している。俺は左足を負傷したままだし、ノーラも疲労の極みにある。ペルジャラナンは一番体力があるが、さっき赤竜の一撃を受け止めたせいで、いまだにダメージを引きずっている。

 もう、谷から出るのは無理だ。間に合わない。だからすべきは、少しでも高台に登ること。遠からず押し寄せる洪水の脅威に備える。


 風が強い。横殴りの雨が視界を遮る。これでは赤竜達も、気軽に空を飛び回って洪水を避けるとはいかないのだろう。だからこそ、事前に声をあげて仲間に警告していた。彼らが興奮していたのも、間近に迫った天候の変化のせいだ。そして、追撃があれで止まったのも、降雨がまさに始まろうとしていたからだ。

 いまやフマルの戦士達も、赤竜達も、こちらを追ってなどいない。俺達の命を脅かすものは、この豪雨の他にない。


「ああ、もうあんなに」


 既にところどころで、天然のダムの決壊が始まっているらしい。俺達がよじ登っている岩山の遥か下、形状からすると入口に近いあの浮島のある辺りか。その崖下のところに、激しい水流があるのが認められる。より高所に溜まっていた水が、一気に吐き出された結果だ。もし俺達があそこに留まっていたら、どうなっていたか。地底湖の水位も上がっているだろう。最悪の場合、そのまま濁流に飲み込まれていてもおかしくなかった。


 どこが安全地帯なのか。確たることはわからないが、過去に水に削られたことのない地点であれば、今回も安全であろうと想定できる。岩の形や色合いで、それを見分ける。

 けれども、高所の岩がそれだけ頑丈であるという保証もない。だから、避難といっても確実性などない。


 背後でノーラが息を呑んだ。それで思わず振り返る。

 どうやら、次々決壊が進んでいるらしい。昨夜の宿営地だったあの地下の空洞に、大きな波が打ち寄せていた。浮島が水流に飲み込まれる。考えられないほどの早さで、どんどん水位が上がっている。

 大きな通路ですらこれだ。視界の隅には網の目のように広がる狭い通路が映っているが、そこにも波打つ水が垣間見える。


 今登っている岩山も、手近だから取り付いているだけ。どれだけの高さがあるか、ちゃんと確かめたわけではない。もしこれで駄目だったら……


「掴まれ」


 歩くというより、よじ登るといったほうがいい状況だ。おかげで、足の負傷の影響も小さいと考えられる。手足すべてを使って遮二無二上を目指しているのだ。

 ノーラを引っ張り上げる。その後を、ペルジャラナンが追いついてくる。


 少し平坦な場所にでて、俺は周囲を見回した。まだもう少し登る余地がある。ここに留まってはいけない気がする。平坦というのは、自然な地形ではない。大昔、ケッセンドゥリアンの時代に作られた見張り塔の一部なのかもしれないが、もしかすると過去に濁流がここを洗った結果かもわからない。


「疲れてると思うけど、もう一度強化する」

「無茶よ」

「今、無理をしないで、いつするんだ」


 一日中、魔法ばかり使っている。『活力』『鼓舞』『怪力』『苦痛軽減』……だが、過剰な魔法の使用は、本人への負荷になって跳ね返ってくる。そしてもちろん、魔法をかけられた側も、無限に力を引き出せるわけではない。


「ウッ!?」


 何度目かの詠唱を終えた時点で、胸がドキンと跳ねた。突然の激痛に、俺はうずくまる。


「ファルス!」

「大丈夫、これで終わった。登ろう」


 この洪水も一時のこと。ここを乗り切れさえすれば、あとは何とかなる。万全の状態なら、赤竜だって撃退できる。あとちょっとだ。

 それから間もなく、俺達は岩山の頂点に辿り着いた。見通しの悪い谷間の中で、適当に見繕った岩山だった。だから、残念ながら最高所とはいえず、もっと高い位置に聳える岩が見えてしまっている。だが、また降りて登り直すのはもう、難しそうだった。

 足場と言えそうな足場はほとんどない。不規則な形の岩のあちこちを手掛かりにして、俺達はそれぞれしがみついていた。一応、最悪の場合に備えて、命綱も結わえてある。最悪、濁流がここまできても、岩場に巻き付けたロープが引っかかるので、流されずに済むはずだ。


 またどこかが決壊したらしい。ごおっ、と重量を感じさせる音がして、すぐ下を濁流が突き抜けていく。

 危なかった。下の平坦な場所にとどまっていたら、やはり助からなかったのだ。


 と一息ついていたら。


「うわっ!?」


 更なる水流が押し寄せてきた。浮遊感の後、俺達は岩の裏側に流された。いきなり嵩が増して、もう肩まで水に浸かっている。

 上流からは、岩の破片なども勢いよく流れてきている。あれに当たったら大変なことになる。


「大丈夫だ。この岩が崩れなきゃ……溺れないよう、しっかり浮かべ!」


 そう声をかけたときだった。

 ふっ、とノーラの体が浮いた。


「あっ! おい!」


 俺より手の長いペルジャラナンが、素早くノーラのローブを掴んだ。

 なんだ、いったい。急いで結んだから、ロープが解けてしまったんだろうか。危なかった。


「ギィ」

「ありがとう、助かった……」


 その瞬間、ペルジャラナンの体が揺れた。


「えっ!?」

「ギッ!?」


 まさか、ペルジャラナンのロープが、切れた? なんでこうも立て続けに!


「掴まれっ!」


 俺は手を伸ばした。

 ペルジャラナンも、手を伸ばし、確かに俺の手を握った。


 その瞬間、ぬるりとした感触が掌に伝わった。


「あっ……!」


 するりと手が抜けたかと思うと、あっという間に二人は俺から引き離され、水中に没した。


「ノーラ! ノーラァ!」


 俺の絶叫も、荒れ狂う風雨の中に掻き消されるばかりだ。

 だが、叫ぼうが足掻こうが、できることなどない。一瞬、赤竜の肉体になって水中に……と思ったが、それでなんとかなるなら、赤竜達が高台に避難するはずがない。ピアシング・ハンドのクールタイム中でもあり、新たにできることは何もなかった。

 何もできない。それを受け入れることができず、思考がループする。


 もはや天に轟く雷鳴も、渦巻く濁流も、何もかもに実感をおぼえなかった。

 ただ流れに体を揺らされながら、呆然と彼らのいなくなった方向を見つめるばかりだった。


 夜が明ける頃には、雨も止んでいた。自分でも眠ったのか、眠っていなかったのか、わからない。時間の経過を感じなかった。高台にあってなお全身を浸した濁流も、嘘のようになくなって、今では谷の奥底を見下ろすこともできる。

 東の空から赤茶けた砂漠を朝日が照らしている。それが皮肉にも美しかった。何事もなかったかのような朝だった。

 俺はロープを解き、地面に降りた。生乾きの服のまま、痛む足のまま、よろよろと歩き出す。


 ノーラとペルジャラナンを見つけなくては。

 生存は絶望的だと頭の中で声がこだまする。わかってはいるが、確かめずにはいられない。


 他のことは何も考えられなかった。食欲も眠気も何もなく、谷のあちこちを俺は彷徨い歩いた。日差しがあって、視界があるうちは、そうした。

 一日中歩き回って、夜になった。何も食べていないことに気付いて、ゴブレットを取り出した。まだ一日だ。明日見つければ、二人が餓死することはない。ノーラ自身も少しは食料を持っていたはず。まだ猶予はある。多少の怪我はしていても、少なくともノーラだけは回復するはずだ。

 少し迷ったが、効率が悪くなっては仕方がないので、能力を組み替えた。『魔導治癒』を自分に付与して、使い道のない赤竜の肉体はバクシアの種に収めた。


 翌日も、夜明け前に目が覚めた。既に矢傷は完全に治っていた。幽鬼のように俺は谷間を彷徨った。この頃になると、頭上に赤竜の影がちらつき始めた。

 夜になるまで谷間を歩き続けたが、やはり二人を見つけられなかった。荷物もなかった。


 三日目。相変わらず放心状態のまま、俺は谷間を彷徨い続けた。俺に気付いた赤竜が威嚇のためか、あのやかましい鳴き声を浴びせてきたが、俺はそれに火の玉で応じた。当てると狂暴化して面倒なので、手近な岩山を吹っ飛ばした。それでそいつは帰っていった。

 四日目。見つかるのは赤竜だけだった。あまりにしつこく纏わりつくので、一匹消してやった。

 五日目。また一匹、赤竜が追いすがってきた。こいつも消した。

 六日目。今度は数匹の群れが俺を取り囲んだ。もう一匹、赤竜を消した。すると、残った竜は今更ながらに俺の危険性に気付いて、遠くへと飛び去って行き、二度と近付いてこなくなった。


 七日目……


 ここに至って、俺は現実を受け入れざるを得ないと悟った。

 いくらノーラでも、飲まず食わずでそう何日も生きられるはずがない。或いはどこかの地底湖の横で、食料なしに水で命を繋いでいるのかも、と思ったが、探しても探しても見つからない。赤竜に遠慮することなく、喉を嗄らして返事を求めたが、自分の声がこだまするばかりだった。


 いや、谷の外に押し流されたのかも。淡い期待を抱いて、俺は南へと向かった。

 数日前に駆け込んだあの谷間の入口を、今は昼の光の下、潜り抜けた。俺は倦むことなく、何か手掛かりになる物を求めて、炎天下の砂漠を歩き続けた。そしてようやく、小さな手掛かりを見つけた。


「これは」


 半ば砂に埋まっていたのは、ノーラの小さなリュックサックだった。見覚えがある。じゃあ、この近くに、彼女の遺体が?

 死んだノーラを見つけて何の意味があるのか。そんな冷淡な声が頭に響いたが、苛立ちをもって退けた。地面を掘るのに適した道具がなかろうと、そんなのはお構いなしだった。俺は犬のように手で砂を掻き出し、当たり構わず掘り続けた。

 それから二、三日ほど、俺はひたすら周辺を掘り返し続けた。だが、他には何も見つからなかった。


 わかったのはつまり、あの洪水の時に、ノーラは手にしていた保存食を失っていた、という現実だった。

 そしてもう、十日ほどが経過した。


 生存は絶望的。その現実が、俺に重くのしかかった。

 だが、もはやこうなってはできることなどない。


 どこへ行こう?


 とりあえず、南には行かないほうがいい。黒の鉄鎖の連中がいる。俺の顔を見たら、また襲いかかってくるかもしれない。

 北へ。なんとなくだ。具体的に何をどうするという考えが纏まったわけでもなく、俺はなんとなく北を目指した。

 歩き出すと、また風が強くなってきた。次第にそれは砂嵐になり、視界を遮った。それでも俺は、淡々と歩いた。迷おうが野垂れ死のうが、構わなかった。


 自分はどこへ向かっているのだろう?

 ふとそんな問いが浮かんだ。どこでもいい。どこにでも行けばいい。


 抜け殻のようになったまま、俺はただ、砂漠の真ん中を彷徨い歩いた。

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