その一瞬に何が起こったのか。

 把握するのに、二、三秒を要した。


 突き飛ばされて横倒しになった俺の鼻先を、赤黒い何かが横切っていった。それは凄まじい勢いで左から右へと薙ぎ払われた。

 砕かれ、割れた岩の欠片が降り注いだ。大きな塊が、砂塵を散らしながら地面に突き刺さった。

 耳を聾する咆哮がこだました。そして並の個体より一回り大きい赤竜が、ゆっくりと浮上していった。


 天井の亀裂は、大穴になっていた。そこからは、星一つ見えない暗い空が広がるばかりだった。

 何が起きた?


 顔に何かついている。それを擦って目を向ける。指先が黒ずんでいた。


 はっとして起き上がる。

 まさか。


「ミルークさん!」


 やっと理解が追いついた。

 最初の赤竜を倒し、やっと追跡を振り切ったと安心した瞬間、あの天井の亀裂をぶち破って、特大の赤竜が俺達を襲ったのだ。間一髪、接近に気付いたミルークが突き飛ばしてくれたおかげで、俺とノーラは直撃を浴びずに済んだ。

 だが、彼自身は。


 凶器そのものの赤竜の尻尾を正面から受けて、彼の胸から腹にかけて、ひどい裂け目ができていた。見る見るうちに、固い岩盤の上に丸く黒い水溜りができていく。

 重さも威力もかなりのものだったに違いない。一発で内臓破裂までいったのではないか。ペルジャラナンが盾で受けただけでもあのざまだったのに、それをミルークは無防備な状態で食らってしまったのだ。


 どうする? どうしたらいい?

 俺は改めて天井の大穴から空を見上げた。赤竜はさっきの一撃に満足して、飛び去っていったようだ。まだ近くにいるかもしれないが。

 急いで詠唱して、指先に火を点す。視界が広がった。


「うっ!?」


 ミルークの怪我は、明らかに重傷だった。あの尻尾は、重さと怪力だけでも相当な破壊力があるのだが、更に敵を傷つけるため、固い突起が無数に並んでいる。それはまるで鋸の歯のように、狙った獲物をズタズタに引き裂く。

 俺の手元の小さな光に点された彼の状態は、明らかに急を要するものだった。場所によっては白いものが見えている。表面の皮膚ばかりか肉まで削り取られ、肋骨が露出しているのだ。しかも、見事にへし折れている。


 これでは生きられない。肉体、そうだ、別の肉体があれば。

 だが、今の俺の状態は……


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 (自分自身) (12)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク9)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク7)

・マテリアル プルシャ・フォーム

 (ランク9+、男性、11歳、アクティブ)

・マテリアル プラント・フォーム

 (ランク5、無性、1歳)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル サハリア語  5レベル

・スキル 身体操作魔術 9レベル+

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 剣術     9レベル+

・スキル 格闘術    9レベル+

・スキル 騎乗     6レベル

・スキル 料理     6レベル


 空き(0)

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 植物の体は駄目だ。人格までぶっ壊れる。人格どころか、自律して行動する能力そのものが失われる。それではアイビィと同じだ。

 動物の肉体が必要だ。となれば、奪い取るしかない。だが、ここには……


「そんな……」


 起き上がったノーラが、ミルークの状態を目にして絶句する。だが、すぐ気を取り直すとランタンを背負い袋から引き出して、こちらに差し出す。俺の手を自由にするためだ。

 ペルジャラナンも、よろめきながら上半身を起こした。幸い、直撃を浴びずに済んだらしい。ミルークに支えられてようやく立っていた状態だったので、新手の赤竜の一撃が繰り出されたときには、転倒するだけで済んだのだろう。


「ミルークさん、しっかり! 聞こえますか!」


 彼はかろうじて生きていた。瞼を震わせながら、やっと彼は目を開け、こちらを向いた。


「無事……だったか」

「今、助けます! 少しだけ待っていてください!」


 俺がそう叫ぶと、彼は首を起こそうとした。だが、自分がどんな状態かわかったのだろう。苦笑いして、力を抜いた。


「無念は残るが……これも運命か」

「まだ諦めないでください。僕ならなんとかできます。忘れたんですか。僕は虫になれる人間なんですよ」


 代わりの肉体がない。問題にはならない。なら、バクシアの種から怪鳥の肉体を取り出す。後は変身をイメージしてもらいさえすれば、アクティブな肉体が切り替わる。最悪、今のミルークの体は、治療しても無駄かもしれないが、それならそれで、フマルの連中からでも体を奪ってやればいい。その間の中継ぎができれば。

 俺は、そう言いながらバクシアの種に手を触れた。騎乗スキルを戻して、鳥の肉体を取り出して与える。こんなのすぐだ。しかし、まだクールタイムが終わっていないのか、怪鳥の肉体を取り込むことができなかった。

 あと少し、ほんの少し待てばきっとできるはずなのに。


「だから、これからミルークさんを動物に変えます。別の体を与えますから」


 必死で言い募る俺の顔に、そっと手が触れた。


「慌てなくていい。こういうこともある」


 自分の死が迫っているのに、彼はあくまで淡々としていた。苦しげに息を継ぎながらも、穏やかに微笑んでいた。


「望外の喜び、ではないか……私はただ、おのれの過ちを償うために……それがこんな」

「ミルークさん、今は」

「大きくなったお前達の顔を見られた……これ以上、何がある」


 そう言いかけたところで、ミルークは一度、咳きこんだ。血の塊を吐き出す。


「ファルス、お前は自分を愚かだと、そう言ったな」


 静かに頷く。


「そう、愚かだ……世界で二番目に」

「二番目?」


 彼は皮肉な笑いを浮かべた。


「そうだ。一番愚かな人間というのはな……何もしない奴らのことだ! 悩みからも苦しみからも目を背け、誤ることを恐れてばかり。笑ってごまかして不満を垂れ流す。そのくせ自分では何もしようとしない。だが、世の中の人間は、ほとんどこれだ。お前は違う。誇れ! 先の見えない砂嵐の中、あえて前に進もうとする自分自身を、誇れ!」


 ミルークの手が、力を失ってずり落ちる。

 か細い声で、彼は呟いた。


「迷ってもいい。間違ってもいい。倒れてもいい。立ち止まるな、歩き続けろ……」


 それきり、言葉が途切れた。

 まさか……いや、まだ生きている。だが、意識を失ったのだ。


 このままでは。肉体の交換をするには、本人がそれと意識して、イメージできなければいけない。怪鳥の肉体を与えるにしても、鳥になってくださいというだけでは、うまくいかなかった可能性もあるが……

 とにかく、意識を取り戻してもらわないと、本当に死んでしまう。

 あと一分、いや、三十秒あれば助けられる。


 そう思った時、頭上にまた羽音が響いた。


「来たか」


 さっきの赤竜だろう。

 ちょうどいい。あれなら説明も不要だ。赤竜になるとイメージしろと、そう伝えれば済む。見たこともない怪鳥の肉体を思い浮かべるより、ずっと簡単なはずだ。


「ファルス」

「起こせ」


 俺は短く言った。


「なんとしてもミルークさんを起こせ。あの赤竜の肉体を奪って、ミルークさんに差し出す」


 左足の違和感を押し殺しながら、俺は立ち上がった。

 赤竜は、まだ生きている俺達を確認すると、ゆっくりと着地した。さっきの大穴の縁に後ろ足をかける。不安定な岩の一部が割れて砕ける。そいつは前のめりになりながら、俺達を見下ろした。既に日はとっぷりと暮れており、はっきり見えないのだろう。


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 <ドラゴン> (36)


・マテリアル ドラゴン・フォーム

 (ランク7、男性、325歳)

・マテリアル 神通力・飛行

 (ランク9)

・マテリアル 神通力・怪力

 (ランク6)

・マテリアル 神通力・鋭敏感覚

 (ランク7)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク9)

・アビリティ 炎熱耐性

 (ランク7)

・アビリティ 魔導治癒

・アビリティ 痛覚無効

・アビリティ 狂化

・アビリティ ビーティングロア

・スキル 火魔術     8レベル

・スキル 爪牙戦闘    7レベル


 空き(25)

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 蠢く俺達の存在を確認して、ついにそいつは大声で喚き始めた。


「うるさい!」


 その瞬間、ピアシング・ハンドが発動した。

 植物の種に変わったそいつは、小さな物音を立てて岩盤の上に転がった。そして、俺の中には、赤竜の肉体が取り込まれる。あとはこれをミルークに移植して、変身してもらうだけだ。


「ミルークさん」


 俺はよろめきながら駆け戻り、傍らに膝をついた。


「今……」


 彼は返事をしなかった。


「ミルークさん! 起きてください!」


 本当はもう、わかっている。


「ノーラ」


 彼女は静かに首を振った。


「起こせと言っただろう。何をしている」


 もう一度、首を振った。肩が小刻みに震えている。

 わかっている。


 ピアシング・ハンドは、それがただの物体であることを告げていた。


 遅かった。

 これがあと五分後のことだったら、死なせずに済んだのに。


 何が世界の欠片だ。神の力だ。人一人救えない。


 真っ白になった頭のまま、俺はその場にしゃがみ込んだ。ノーラも、ペルジャラナンも、無言だった。

 二匹の赤竜を殺したのに、更なる追手はかからなかった。暗くなったから、もう獲物を追い立てるのはやめにしたのだろうか? しかし、しばらくすると、遠くからあの、ホー、ホーという特徴的な鳴き声が聞こえてきた。

 不吉を告げる声。これ以上ない不運が訪れたのに、まだ何かあるとでもいうのか。


 そう思った時、耳慣れない音に空気が震えた。

 空間を引き裂く轟音。眩い閃光。これは……


 思わず俺は立ち上がった。そして音のした方向を見上げる。

 そこには赤竜の群れがいた。そう遠くはない。彼らは尖った岩の先端に足をかけ、翼をすぼめて上を向いている。そうして、ホー、ホーと泣き続けている。そこに時折、写真撮影のフラッシュライトのように、雷光が走る。灰色の雲と、岩山の上に陣取る赤竜達の黒いシルエットが、一瞬だけ目に映る。少し遅れて、轟音が足下から響いてくる。


 こんな砂漠の真ん中で、雷?

 感情的な混乱を、純粋な疑問が少しずつ押しのけていく。雷って、なんだ? そういえば雲? こんなに分厚い雲が? ここはサハリアの砂漠のど真ん中なのに?


「あっ……」


 ノーラが小さく声を漏らす。

 冷たい雫が頬に触れる。久しく味わったことのない、これは……


「雨?」


 これは嘆きの雨だろうか。

 天の涙なのか。


 最初は音もなくまばらに降るだけのそれが、どんどん勢いを増していく。やがて周囲の岩盤に落下し、弾き返されて音をたてるようになる。

 俺は我に返って、小部屋の内側に落ちた、あの赤竜の種を拾って、ポーチの奥へと押し込んだ。


 小雨が五月雨に、やがて土砂降りに。あっという間に激しいスコールになった。

 横たわったままのミルークの遺体にも、容赦なく水が降り注ぐ。

 遠くで泣き続ける赤竜達。彼らのあの特徴的な声も、今は途切れ途切れにしか聞こえない。


 俺はなんとなく、水を弾き返し続ける岩盤を、そしてすぐ近くにある青い地底湖を見つめていた。

 そこで突然、気付いてしまった。明らかに地底湖の面積が増えている。この短時間に、なぜ?


「ノーラ。ペルジャラナン」


 俺は声を押し殺して言った。


「逃げるぞ。一刻も早く」

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