赤竜の脅威

 狭い谷間に時折、強い風が吹き込んでくる。風向きが変わって、一気に砂塵が雪崩れ込んでくる。そのたびに赤い峡谷の岩壁が濁った黄土色に覆われる。

 足下にだけは気をつけねばならない。視界が利かないからといって足を踏み外したら、もう助からない。


「止まるな! 走れ!」


 先頭を行くミルークが叫ぶ。五十一歳という年齢で、よくもこれだけ体力が続くものだ。いや、気力もだ。既に谷の中を逃げ回ること数時間、日も翳りつつある。何度か物陰に隠れつつ、赤竜の目をやり過ごして休みを挟んでいるとはいえ、俺達はもう疲労の極みにある。

 彼の使命は、南北の開戦を食い止めること。命と引き換えにしても、その成功率は限りなくゼロに近い。うまくいっても称賛を浴びるのでもなく、ただただ恥辱の末の死が待つばかりだ。いったいどうしてそこまで頑張れるのだろう?


 今は、しかし、それどころではない。

 砂塵に霞む空に、五つほど、黒い点が浮かんでいる。かなりの距離があるように見えるが、赤竜にとってはただの一歩分でしかない。


 強力な腐蝕魔術と精神操作魔術を操り、高い知能と耐久力を誇る黒竜。

 巨体とそれに見合う圧倒的なパワーで知られる緑竜。

 船に絡みつき押し潰す長大な体と驚異的な潜水能力、そして水魔術の力を有する青竜。


 それらに比べて赤竜は一回り小さく、個体としての戦闘力では他の竜種の後塵を拝すると言われている。しかし、そんな赤竜には二つ、他にはない強みがある。

 一つは協調性。獲物を狩るときには、必ずといっていいほど群れをなす。たとえそれが小さな人間どもに過ぎなくても。そしてもう一つ。あらゆる竜種を凌ぐ絶対的な飛行速度だ。そして昼間の捕食者の例に漏れず、視力には優れている。遥か上空から、正確に狙った場所へと舞い降りることができるのだ。

 これらの特徴があればこそ、赤竜は陸上においては、他のどんな竜種よりも広大な生息域を獲得した。黒竜がムーアン大沼沢に、緑竜が大森林にのみ存在する一方、赤竜はサハリアだけでなく東方大陸中部にも棲息し、かつその変種も幅広く存在する。人形の迷宮で見かけた窟竜もその一種だが、人間が使役する飛竜も、赤竜の遠い子孫だという。


 そういう相手なのだ。開けた場所を走ってはいけない。降り立つスペースがある場所では、簡単に奴らの爪牙にかかってしまう。狭い谷間、翼をすぼめなくては入り込めない場所だから、奴らも強襲を躊躇うのだ。それでも立ち止まれば、今度は真上から炎の息を浴びせられる。

 狭い場所、奴らに見つからず、長時間とどまることのできる空間を見つけなければ。しかし、ほとんど休みなく逃げ続けている今、それがなかなかできない。


 せめてベタ足での接近戦になってくれれば。

 左足がやられている以上、直接には戦えない。だが、仮にペルジャラナンが一分ほど足止めをしてくれさえすれば、倒せる保証はないものの『即死』の魔法を使う余地もある。また、ノーラが腐蝕魔術で奴らを殺すという選択肢も出てくるだろう。しかし、今はそれすら難しい。単純に、奴らが遠くにいるからだ。あまりに遠距離では、魔術が有効に機能しない。そして魔法を使える距離に達する頃には、コンマ何秒で爪牙が迫る。


「もう少しだ。夜になれば、逃げきれるぞ!」


 優れた視覚を有する赤竜だが、一般に夜目が利かない。暗くなると劇的に視力を失うので、俺達を追跡するのも難しくなる。それまでの辛抱だ。

 既にノーラもへばっている。なんとかついていくのがせいぜいだ。もちろん、俺も抱えられているだけで何もしていないわけではない。せめて少しでも力になれるようにと『活力』や『鼓舞』の魔法を繰り返し行使している。しかし、それにしたって限度がある。

 今は赤竜の谷を構成する岩山に、網の目のように刻まれた峡谷を駆けずり回るばかりだ。


「あっ、あそこ!」


 小さな暗い入口が見える。あそこに転がり込めば。

 本当に安全かどうかはわからない。だが、じっくり考えている暇はない。


「あそこまで走れ! もう少しだ!」


 とはいえ、どれだけ時間稼ぎできるか。既に何度かこういう穴に身を隠したのだが、その都度、赤竜に発見されては襲われて、やむなく逃げ出している。ただそれも、夜になれば。

 バタバタと駆けこんで、俺達は岩壁の向こうをそっと窺う。灰色の空には、依然、黒い点が浮かんでいた。


「ふうっ……」


 さすがに全員、疲労困憊している。俺だけ、ほとんどペルジャラナンに抱えてもらってばかりで、情けない気分だった。


「せめて見張りくらいは」

「気に病むな」


 ミルークが首を振る。


「私のこだわりにお前達を付き合わせた。その結果がこれだ。確かに、あのアサールの言う通りだな。私の貪欲さが危険を招いてしまった。だが、命ある限り、これは譲れないものだ」


 力のない苦笑いだった。


「先の戦争がどれほど東部サハリアに不幸をもたらしたか。理屈ではない。あれを避けるためなら、八つ裂きにされようとも安いものだ」

「そこまでですか」

「いや、もっとだ。お前が今、どんな想像をしたとしても、それよりもっとひどい」


 いつの間にか真顔になっていた彼は、静かに言った。


「お前はもしかしたら、こう思っているかもしれん。ミルークはどうしてこうも弱腰なのかと。戦争になったら勝ち目が薄いから。それは理由の一つに過ぎない」

「他に何があるんですか」

「さっきのアサールを見ただろう。狂っている。完全に」

「ええ」


 見逃してもらっておいて、何をしてくれたんだか。見つけたら、今度こそ始末してやろうとさえ思う。


「溜めに溜めた憎悪を吐き出す機会を目前にして、もう他に何も見えないのだ。奴とて妻も子供もいように。それでも私を殺すことしか考えられなかった。憎しみというのは、そういうものだ」

「何の恨みがあるんですか、ミルークさんに。初対面でしょう?」

「先の戦役に加わったにしては若すぎるが、或いはネッキャメル氏族の襲撃を受けた経験があるかもしれない。集落や居留地を奪われたなら、母や姉妹が犠牲になった可能性もある。それと恐らくアサールは、戦争に加わった父や兄から赤の血盟への憎しみを教わったはずだ。年上の親族や友人が戦死していてもおかしくない」


 なるほど、個人的な怒りだけではない。身近な人がひどい目に遭ったのであれば。


「そして多分、その恨みを子供達にも語り伝えているはずだ。こうしていつまでも憎しみが居残り続ける」


 語り継がれる憎しみが、やがて集団の存在意義そのものにすり替わっていく。お前はあのネッキャメル氏族に一矢報いるために生まれたのだ、と。


「まぁ、この武器もよくなかった」


 彼は左手に持つ弓を見下ろした。


「武器? その弓が何か」

「この弓の話ではない。私は若い頃から弓術を得意としていたが、これはよくない武器だ。戦場で一番恨まれるのが、これだからな。私の首が欲しいのも無理はない」


 溜息を一つ。

 勝利の記憶を、彼は苦々しい思いで語った。


「若い頃は、私は英雄だった。戦場では名の知れた戦士を次々射殺し、交渉の場では高貴な族長達を説き伏せ、味方につけた。自分で言うのもなんだが、私の活躍があればこそ、ネッキャメルは諸部族の盟主の座を保てたのだ。だが、今になって私はその代償を支払おうとしている。この命で足りてくれればいいのだが」


 話しながらも、ミルークは岩壁の向こうを見上げた。

 頭上に黒い点は見えない。諦めて去ったのだろうか。


「追ってこないようだ。奥へ進もう」

「ギィイ」

「どうした?」

「ギィッ、ギィッ」

「谷から出なくていいのかって言ってる」

「ああ」


 ミルークは頷き、ペルジャラナンに意見を求めた。


「どっちが出口だ? もし赤竜の谷から出られるのなら、なんとか抜け出したい。もうフマルの連中も振り切れたのだから」


 そう言われて、彼は周囲の岩壁に目を向けた。古代の目印がないかを探しているのだ。

 ややあって、あまり自信なさげにある方向を指差した。


「ギィ……」

「そっちか。わかった。進めるだけ進もう」


 といっても、他に通路があるのでもなさそうだった。松明の光に照らされて見えた限りでは、あとはすぐ行き止まりになりそうだったからだ。

 進むにつれ、洞穴の幅は広くなっていった。あのスーディアにあったフリンガ城の一階のホールを思い出す。天井もやたらと高い。そんな広間のような通路が、途中で外の淡い光に照らされた。右側の岩壁が崩れて、まるで建物の渡り廊下みたいに、そこだけ外に繋がってしまっているのだ。

 もう既に日没の時間だった。北に向かって走っていたつもりが、いつの間にか通路を辿るうち、南向きになってしまっていたらしく、右手には既に日輪はなく、その残照だけがあった。それに背中を照らされた真っ黒な奇岩の数々が、沈黙の裡に佇んでいる。砂塵の舞う空が夕陽の輝きを乱反射するのだろう、ぼんやりとした輪郭のない赤い光が居残っていた。

 思いもしなかった絶景に、ふと今の状況も忘れて、俺達は見入ってしまった。しかしその時、視界の隅に小さな黒い粒が映った。


「あっ……走れ!」


 ミルークも同時に気付いたらしい。赤竜は、或いは俺達がこちら側に抜けるしかないと知っていたのかもしれない。岩壁に覆われていないこの場所では、赤竜の目を避けることができない。俺達は駆け出した。救いがあるとすれば、足場が広いことか。

 俺達の逃走に気付いたのか、赤竜はあの分厚いシンバルを擦り合わせたような絶叫をあげながら、彼方から滑空してきた。


「急げ! 奥へ……」


 転がり込むようにして、俺達は通路の向こう側、岩壁の内側へと飛び込んだ。その後ろを、それこそ砂を巻き上げる勢いで赤竜が飛来して、壁際のすれすれのところでまた真上に方向転換した。前世の戦闘機だって真似できないような曲芸飛行だ。

 だが、まだ安心できない。赤竜が俺達を見つけたあの通路の裂け目のこちら側は、しばらく幅広のままだからだ。今、浮上した赤竜が、もう一度ここに着地し直せば、歩いて俺達を追い続けることができる。


「うっ」

「ノーラ、どうした!」

「ごめんなさい、足を」

「くじいたか」


 疲労を押して固い岩盤の上を無理して走り続けた。力の加減を誤って、足首を痛めてしまったのだろう。

 ノーラには『魔導治癒』の能力を付与してある。だから、多少の捻挫くらい、少しの時間があれば治ってしまう。だが、その少しの時間が、今はない。


「僕を下ろしてください」

「駄目よ、ファルス!」

「あの一匹は始末して、それから奥に逃げましょう。ペルジャラナン、悪いけど前に」


 もはや全員、疲労の限界に達している。

 正しく行動しなければ、犠牲は避けられない。ピアシング・ハンドは……もうすぐ使用可能になりそうだが。

 俺達は、少しずつ下がりながら通路の奥へと向かった。また道幅が少しずつ狭まってきている。更に進んだ先には岩壁に多少の亀裂があるようで、かすかに光が差している。といっても、それを見分けられるのは、そのすぐ下に地底湖があり、それが光を照り返しているからだ。

 あそこまで走るか? だが、入口側ならさっきの赤竜が着地するのも可能なので、奥に向かって逃げるのは怖い。通路が狭まっているということは、逃げ場がないということでもある。そこに炎の息が迫ってきたら。

 だから、うまく奥に誘導して、倒しきる。


 ややあって、風切り音が聞こえた。

 今回は倒すより、防御だ。前に立ったペルジャラナンには、赤竜の牙と爪、尻尾を引き受けてもらう。


 ふっ、と見事に音もたてず、赤竜が旋回してこちらを向き、短い前足まで地面につけて着地した。

 その姿はまったく均整がとれていた。ドラゴンといって人がイメージする姿そのものだ。とげとげしい赤い鱗。捕食者に相応しい強靭な顎。翼は大きく、広げれば十五メートルはあるだろう。体は黒竜よりはほっそりとしていて、見た目には筋肉質だ。爪は鋭いが、窟竜よりは前足が短い。体の比率で言えば、黒竜のあの小さな手よりは大きい。尻尾が特徴的で、牙のようにやたらと鋭い突起がいくつも並んでいる。全身これ武器といった外見だ。


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 <ドラゴン> (24)


・マテリアル ドラゴン・フォーム

 (ランク5、男性、216歳)

・マテリアル 神通力・飛行

 (ランク8)

・マテリアル 神通力・怪力

 (ランク5)

・マテリアル 神通力・鋭敏感覚

 (ランク7)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク7)

・アビリティ 炎熱耐性

 (ランク6)

・アビリティ 魔導治癒

・アビリティ 痛覚無効

・アビリティ 狂化

・アビリティ ビーティングロア

・スキル 火魔術     7レベル

・スキル 爪牙戦闘    6レベル


 空き(13)

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 どう見ても面倒な相手だ。こちらの火魔術はたぶん、ほとんど効かない。中途半端に傷をつけても回復する上、凶暴化して手がつけられなくなる。苦痛で怯ませることもできない。


「ノーラ! 毒だ! こいつには毒が効く!」

「わかった!」

「ミルークさん、矢は駄目です!」

「目を潰す」

「傷つけたら凶暴化するんですよ!」

「なに?」


 矢を番えたまま、彼は一歩下がった。そうはいっても、いざとなれば攻撃するしかない。


「僕は……魔法を防ぎます」


 既にノーラは『変性毒』の術を行使し始めているはずだ。しかし、赤竜は痛みを感じない。ワームのようにのた打ち回ったりはしないのだ。

 体調の変化に気付くことなく、そいつはのっそりとこちらに近付いてくる。


「ね、ねぇ、効いてないの? どうして?」


 答えてやりたいが、今は詠唱中だ。

 炎の息を止めきれなければ、俺達四人、仲良く丸焦げになる。


 不意に赤竜が口を開いた。


「くっ!」


 俺が印を組み、短い詠唱と共に手を突き出す。オレンジ色の炎が視界を埋め尽くすが、俺の立つ場所には丸く境界線が引かれでもしたかのように、火が燃え広がることはなかった。

 二、三秒の火炎放射の後、視界はまた暗くなった。いつの間にか迫ってきた赤竜は、俺達が誰一人焼け焦げていないのを見て、動きを止めた。それでも、縄張りを荒らす人間は殺さなくては気が済まない。そいつの長い首が天井にぶつかるくらいのところまで、にじり寄ってくる。あちらにしてみれば、俺達は、文字通り手の届かない狭い場所に滑り込んだネズミどもなのだろう。


「尻尾だ!」


 俺が叫ぶまでもなく、ペルジャラナンは前に踏み出していた。赤竜は体を揺らし、鋭く棘だらけの尻尾を横に滑らせていた。それをペルジャランは受け止めたが、支えきれなかったらしい。弾き飛ばされて、後ろの岩壁に叩きつけられる。


「ギ……」


 そのまま、よろめきながら膝をつき、横倒しになる。

 なんてことだ。怪力の神通力があるとはいえ、一発とは。竜種の恵まれた身体能力が更に嵩上げされているのだ。見れば攻撃を受けた盾には、大きな凹みができてしまっている。これではもう使い物になるまい。


「やはり、目を」

「間に合いました」


 俺の掌から、黄緑色の鏃が小刻みに回転しながら飛んでいく。それが赤竜の頭に突き刺さった。


「グガッ!?」

「弓を下ろしてください。魔術で目を潰しました」


 とはいえ、仮にも竜だ。多分、そう長くもたずに回復してしまうだろう。その僅かな時間があれば、こちらには十分なのだが。

 俺はノーラと肩を借しあい、ミルークを促した。彼は倒れたままのペルジャランに手を貸し、助け起こす。


「奥へ」


 苛立った赤竜は、周囲を見回しながら、見当違いな方向に尻尾を叩きつけている。その隙に、俺達は洞窟の向こう、すぼまった通路の向こう側に出た。天井の亀裂と、地底湖のある小部屋だ。奥にはまだ通路が続いている。まっすぐ進めば、赤竜の谷から脱出できるのだろうか。

 振り返ると、赤竜はよろめいていた。ようやく『変性毒』が効いてきたらしい。並の魔物なら即死するほどの猛毒なのに、よくここまで生き延びたものだ。だが、最上級の威力で繰り出された腐蝕魔術に耐えきれるはずもない。やがてそいつは、糸が切れたみたいに首を折り曲げ、岩盤の上に横たわった。

 死んでいる。惜しむらくは、毒塗れなので食用にはならないことか。赤竜の肉は珍味だというのに。


「やった」

「おお」


 これで俺達を追いかける赤竜を振り切れた。

 あとはペルジャラナンの回復を待って、今度こそ谷を去るだけだ。もう辺りも暗くなった。そろそろピアシング・ハンドのクールタイムも終わる。そうなったら俺も早速足を治して、ここからは自分で走る。


 やっと先のことを考えることができる……


「ミルークさん」


 振り返ったその瞬間、頭上で破砕音が聞こえた。


「危ない!」


 その声とともに、俺達は激しく突き飛ばされた。

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