矢傷

 その形を何かに喩えるとすれば、顔の前に広げた両の掌か。頭上の岩のドームには、ジグザグに切れ目が入っている。その狭間から、ぼんやりとした朝の光が差し込んできている。

 雨を思わせる細かな衝突音が聞こえるが、これは全部砂粒だ。どうやら今朝も砂嵐らしい。まったく、これがあと一日早ければ、俺達の足音を消すのに役立ったろうに。フマルの戦士達がこの谷に入り込んできた以上、もうあまりありがたみもない。

 ホー、ホー、とあの薄気味悪い声が、風に乗ってここまで聞こえてくる。そう遠くないところに赤竜達がいるのだ。


 俺達はなんとなく目覚めた。そしてぼんやりと薄暗い頭上を見上げている。どうしたものか、決めあぐねているからだ。

 疲れもきれいにとれていない。それもあって、考えを纏められない。


「とりあえず」


 ミルークはしゃがれた声で言った。


「別の出口を探そう」


 俺達が入ってきた入口は、きっとフマルの戦士達に見張られている。だから、違うところから谷を出る。


「その後はどうするんですか」

「お前達はドゥミェコンに引き返して、そこからムスタムを目指すべきだ。南方大陸に行くなら、急いだほうがいい。海峡が臨戦状態になったら、一帯の海はすべて危険になる」

「と言われても」

「ピュリスから一度、トーキアを経由して帝都に出るといい。そこから北東岸のカークの街あたりを目指せ。そこからでも西に向かう道を辿って内陸のウンク王国に入ることはできる」


 大きく迂回するルートにはなるが、それが現実的か。乗っている船を沈められたのでは、さすがの俺も生き延びられるかわからない。俺一人ならいいが、ノーラやペルジャラナンまで一緒となると。


「ミルークさんは」

「東に向かう」

「結局、やめないんですか」


 彼は頷いた。


「可能性が低くても、ラジュルナーズ……アルハールの頭領ならば、話を聞くだけは聞いてくれるだろう。あれも本心では戦を望んではおらん」

「なぜそう思うんですか」

「仮にも私の義父だった。よく知っている」


 ということは、ミルークの最初の妻の父親、か。結構な高齢らしい。


「それに先の戦のあと、ティズはジャンヌゥボンに行き、そこでラジュルナーズを師と仰いだ」

「えっ?」

「詩の師だ。一年ほど、傍で仕えて学びを乞うた。気心は知れている。だが、周囲の重臣達はまた違う。先の戦の恨みを忘れられないのだな」


 だとすれば逆恨みであろうに。もともと力の均衡があったところ、ウォー家の甘言に乗って赤の血盟の背中を襲ったのは、黒の鉄鎖の側だったのだから。


「ファルス、だから私が仮に討たれようとも、捨て置いてくれ。恨みなど、百害あって一利なしだ。私自身、恨めしい思いなど何もない」

「そんな」

「むしろ私一人の命で済むのなら、安いものだ。また何年間もの戦になれば、どれほどの血が流れるか」


 ともあれ、ここを出なくては始まらない。

 相談を打ち切ると、俺達はペルジャラナンに目を向けた。


 いくら古代の標識を読み取れるとはいえ、すべての施設が昔のままに残されているのでもない。ペルジャラナンも迷いながら、次から次へと洞穴のトンネルを抜けていく。

 俺は歩きながらも考えていた。いっそ、俺がミルークについていくというのはどうだろう? 帝都まで大回りして南方大陸に行けと彼は言うが、どちらにしても海上の安全は大きく損なわれる。だったら、そもそも戦争なんか始めさせないほうがいい。

 そのラジュルナーズとやらと二人きりになれさえすれば、肉体を奪ってなりすますという手もある。いや、彼は主戦派ではないようだが、それならそれで、アルハールの強硬派のトップを見つけて、なり替わってやればいい。やっぱり戦いません、とか宣言してから肉体を捨てれば。

 そういうダイレクトな手段をとらないにせよ、まだやりようはある。俺がミルークの横にいる限り、よほどの戦力をぶつけるのでなければ、彼を殺すのは難しい。しかも、俺が十分に準備を整えて報復に出た場合、ジャンヌゥボンに壊滅的な被害が出るだろう。

 仮にあちらが話し合いに応じたとしたら、どうしようか。あちらはミルークに、可能な限りの恥辱を与えるだろう。例えば、離婚した元妻の奴隷にするとか。毎日毎日、彼女の足下で、床に雑巾がけをする。足蹴にされる。俺としても気分はよくないが、それで話が纏まるなら、異議を唱えるべきではないと思う。彼はただの個人ではない。氏族を代表する貴種なのだから、それに見合う責務も負っている。

 だが、そんなにうまくいくだろうか。プライドだけで戦争するほど、世の人は非現実的ではない。黒の鉄鎖は、今の赤の血盟相手なら勝てると思って動いているのだろうから……


「ギッ」


 先頭を進むペルジャラナンが短く声を上げた。そして、斜め上に繋がる狭い出口から顔だけを出す。キョロキョロと左右を見回すたび、尻尾も左右に揺れる。


「ギィー……」


 何を言っているかはわからないが、思わしくはなさそうだ。

 それで俺も、少しだけ顔を出してみた。


 這い上がった先は、地上の通路に繋がっていた。大人三人が肩を組んで歩けるほどの幅があるのが、まっすぐ続いている。だが、踏み出してみたいとは思えない。なぜなら、その左右は断崖絶壁だったからだ。

 首を回すと、左右にも同じくらいの幅の通路が続いている。この出入口を除くと、ドーム状になった岩の周囲を、丸く囲む通路があるようだ。つまり、ここは空中に浮かぶ島みたいな場所になっている。唯一の橋がまっすぐの方向に続いているわけだ。

 では、その「島」の外側はどうなっているかというと……


「います」

「ここまで手が回っていたか」


 目の前に続く通路の向こうは、左右からせり出す赤茶けた岩壁に挟まれている。それが右手の壁沿いにある通路と繋がっていて、そこには小さく数人の人影が見えた。


「弓は届きますか」

「腕前次第だな」


 ではミルークなら当てられる距離だろう。それに、こちらには遮蔽物もある。決して不利ではない。火魔術だって届く。ただ、大きな音をたてると赤竜がやってくるかもしれないが。


「どうしましょうか」

「何か考えがあるのか」

「何でもいいから逃げたい、助かりたいというのなら、話は簡単です。彼らを殺せばいい。でも、ミルークさんは何とか和平交渉に出向きたい」

「そうだ」

「なら、彼らがそれに応じるなら、こちらも大人しくついていくという条件で話をしてもいいとは思いますが」


 横目でノーラを見ながら、俺は続けた。


「そうなったら僕も同行します。ノーラは」

「私も」

「だめだ。心配しなくても無事にミルークさんを届けたら、必ずノーラのいるところまでは戻る。だけど今回は」

「それも、フマルの連中が話を聞いてくれればだがな」


 望みは薄いか。実際、ミルークはいきなり街の地下牢に放り込まれたのだし、開戦準備も進んでいる。ミルークは、失敗を前提になお義務を果たそうとしているだけなのだ。

 しかし、あの時とは状況が違う。今は彼らもリスクをとって赤竜の谷に踏み込んできている。条件付きのミルークの「投降」を受け入れても、恥にはなるまい。


「ねぇ、ペルジャラナン、他に出口はないの?」

「ギィ、シュウシュウ……」

「今、なんて?」

「あるけど、水没してるって」


 ケッセンドゥリアン達がここを拠点にしていた時代から、少なく見積もっても一千年以上が経過しているのだ。その間に岩は風化し、地下水も噴き出し、谷全体が少しずつ形を変えていった。ここに来る途中で見かけた地下水の湧出地点の一つが、そうした古代の通路だったのだろう。


「見つからないよう篭り続けるという手もありますが」

「連中が赤竜に追い回されるようになってから、そっと逃げ出すという案か。それも悪くはなさそうだが」

「ギィ!」


 しかし、これにペルジャラナンは異を唱えた。


「だめだって。赤竜のあの鳴き声は凶事の前触れだから、とにかく一刻も早く谷から出たい、って」

「具体的には、何が起きる?」

「シュウ……」


 それはわからないらしい。尻尾が力なく垂れた。

 とにかく纏めると……


 フマルは引き下がる気がない。なんとしてもミルークを捕らえるつもりでいる。

 出口は他にない。地下の空洞を彷徨いながらであれば、まだ時間を稼ぐことはできる。しかし、谷から出られるルートは見つかっていない。

 そして長時間、この谷にいるのは好ましくない。赤竜の様子がおかしいからだ。ただ、理由は明らかではない。


「最善は、フマルがミルークさんがジャンヌゥボンまで交渉に出向くのを認めること。但し、受け入れられなかった場合は戦いになります」

「その交渉をするか、しないで逃げ回るかだが……時間をかけるなと、そのペルジャラナン? は言っているのだな」

「はい」


 ミルークは一瞬、腕組みして考えた。だがすぐに決断した。


「では、投降しよう。最悪の場合は、私を見捨ててくれ」

「そういうわけには」

「事情はもうわかったはずだ。もともとお前達を巻き込むつもりなどなかった。だいたいおかしいだろう? 私はお前達を買って売り飛ばした奴隷商人だぞ?」


 そう言って、彼は一人外に出ようとする。それを慌てて押しとどめた。


「いきなり射殺されては元も子もありません。降伏するなら、意志表示しましょう」

「それもそうだな」


 俺は棒切れの先に白い布を結わいつけた。これを振って、いきなり矢が降ってきたら逃げる。

 これでいいんだろうか。迷いはある。だが、可能な限り相手を殺さないという条件もついてくるとなると、他にやりようがない。


「ただ」


 俺は条件をつけた。


「もし攻撃されたら、反撃します。交渉に応じるからこちらも武器を下ろすんです。でなければ、僕も手加減はできません」

「止むを得んな」


 旗を手に、意を決して洞穴の外に腕を突き出した。そして左右に打ち振る。相手は気付いただろうか。

 それから、様子を見ながらゆっくりと這い上がる。


 出口から右手の崖の向こう、深い谷を挟んで、大きな岩壁の下に同じような通路がある。そこに五人の軽装の戦士達が立っていた。こちらを見ている。

 一人は矢を番えているが、鏃をこちらに向けてはいない。すぐ殺すつもりではなく、こちらが妙な動きをしないか見張っているだけだ。


「投降したい! 代表は誰か」


 俺の声が谷間に響く。

 向かいの壁の下にいる男達は、顔を見合わせた。うち、真ん中にいた一人が手を挙げた。


「俺だ!」

「条件付きで、ミルーク・ネッキャメルを引き渡す!」


 頭上が砂塵で薄暗いからといって、朝からこんな声を響かせて話をするのは怖い。赤竜がやってこなければいいが。


「条件はなんだ」

「ミルークは、ジャンヌゥボンに出向いて、アルハールの族長ラジュルナーズとの面会を望んでいる! これが叶えられるなら、抵抗する意思はない! 気高いフマルの戦士よ、その誇りに相応しく、寛大さをもって望みを聞き届けよ!」


 条件付きとはいえ、抵抗をやめようという相手に、なおも武器を振るおうというのか。それで恥ずかしくはないのかと、一応相手の立場も考えて説得してみた。

 これでどう出るか。いきなり攻撃される可能性もある。目の前の五人のうち、弓を持っているのは二人。こちらまで届くかもしれないが、これだけ遠い間合いであれば、今の俺ならやすやすと打ち落とせる。

 男達は、顔を寄せ合って話し合い始めた。だがそれもすぐのことで、何やら無言で何かの合図のようなものをした。なんだ?


 風切り音が耳に触れた。

 二人とも弓に触れていないのに……


「あっ!?」


 ガクンと左の膝が揺れる。

 尻餅をついて、斜め後ろに倒れ込んだ。


「ファルス!」


 ノーラの悲鳴が聞こえた。


「あっつ……」


 いったい、この焼けるような痛みはなんだ?

 それで首だけ上げて足を見た。細長いものが、膝の少し上から突き出ていた。


 矢? しかし、これは膝の後ろから前に……まさか。


「くそっ」


 俺は無理やり起き直り、這ったままの格好で、さっきの連中の向かい側の壁を見た。やっぱり。二人の射手が立っていた。

 こちらの提案を無視して、後ろから殺そうとしたのだ。


 そっちがその気なら、こっちも遠慮はしない。

 右手の人差し指を飾る、大きな赤い宝石が光を帯びた。すぐさま輝きが増していく。


「食らえ!」


 指先から放たれた炎の槍が、信じられないほどの速さで、左手の壁に突き刺さった。二人の射手のうち、一人に命中し、壁を抉った。もう一人も爆風に巻き込まれ、足場から転落する。

 あと五人。話をしていた連中。こいつらも全滅させないと。


「危ない!」


 ミルークが俺を蹴飛ばした。その場所に矢が落ちて、石に跳ね返された。


「ええい!」


 ビーンと弓の弦が震える音がした。遠く離れた絶壁の向こうで、音もなく誰かが仰け反り、谷間に落ちていく。

 俺ももう一発、浴びせてやらなくては。


 短い詠唱の後に、またもや俺は指を向けた。一瞬の轟音の後に、二人が崖下に落ちていく。だが、俺からの攻撃を既に見極めていたのか、彼らは既に散開していた。一撃では全員を葬り切れない。


「くそっ、逃げられる」

「ファルス、もういい! ここから逃げるぞ!」

「あいつらに逃げられたら、このことが」

「ギィ!」


 抗議するようにペルジャラナンが声をあげると、無理やり俺を地面から引き剥がした。そして、上を指差す。


「えっ?」


 顔を上に向けると同時に、足下を揺るがすような咆哮がこだました。

 吹き荒れる砂塵の向こうに見える赤い影。あれは。


「走れ!」


 ミルークの号令に従って、ノーラも、俺を抱えたままのペルジャラナンも走り出した。一人、彼の肩越しに背後を見つめ続ける俺は、空中から伸びた幾筋もの炎の柱が、生き残った二人のフマルの戦士を丸焼きにするのを目にしていた。

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