出口を求める者
彼は穏やかに微笑みながら言った。
「人間の本質は、取引だと……昔、言ったと思う」
「はい」
「なぜだと思う?」
手厳しい。カンニングなんてさせてもらえないか。
思わず苦笑した。
「同じことを陛下に尋ねられて、答えられませんでした」
「はっはっは! そうか。じゃあ、それから少しは考えたのかな」
「考えました。でも、難しいです」
「考えたのなら、何でもいい。言ってみろ」
自信ないのに……
でもまぁ、口に出してみてもいいか。
「協力と対立が一緒になったもの、それが取引なのかなと」
「ふむ?」
「相手を助けたいのなら、対価を求める必要はないじゃないですか。逆に利益が欲しいだけなら、殺して奪えばいいじゃないですか。でも、しない」
「そうだな」
「動物ならそうします。でも、人はそれを取引の形に落とし込む。全部をとるか、全部を失うかでなく、相手を取引の場から追い出さない……でも」
俺は俯いた。
「これでは全然足りない、と自分でも思っています」
「なに、構わん。漠然とした問いだ。答えなど、いくつあってもいいのだから。それに答えることも大切だが、よりよい問いをたてるのはもっと大切だ」
「ミルークさんなら、どう答えますか」
「そうだな……時間、と答えようか」
「時間?」
彼は頷くと、指を一本、焚火にかざすようにして突き立てた。
「取引は、時間の中のある一点でしか成立しない。その一瞬だけ、私と彼との間で、奇跡のように意志が通じ合う。この瞬間こそが、人の本質だと、私は直感した」
「直感、ですか。でも、理由は説明できるんですか? どうして一瞬なんですか?」
「価値というものが常に流動的だからだ。私達人間は、常に未来を予測し、過去を評価している。見通せている。少なくともそう考えている……だから取引をする。過去に役立ったものを思い返し、未来の出来事を予想して売買をするのだ。もっとも、予想ほどあてにならないものなどないのだが……さぁ、そうなると、取引にも良い取引と、悪い取引が出てくるな? お前はそれを買うことで、どんな未来を得ようとしている?」
今日、スーパーの総菜コーナーで出来合いの料理を買うのは、忙しくて自分で料理をする時間がないからだ。或いはカップラーメンでもいいかもしれない。しかし、先々を考えて健康な体でいたい人は、栄養バランスよく野菜を買う。完成する料理の形を思い浮かべながら、必要な材料を揃える。
売るほうだって、未来を予測して値段をつけている。今年は日照時間が足りないからキャベツの出来が悪い。じゃあ品薄になる。去年の倍にしてやろう。
カップラーメンと野菜。どちらがよりよい取引であるかなんて一概には言えない。けれども、どれだけ未来をしっかり考えたかの違いなら出てくる。毎日毎日、目先のおいしさと手軽さだけを追い求めてジャンクフードを食べ続ければ、やがてお腹周りに過去が蓄積されていく。
「お前が今、思い浮かべたことが、そのまま入口であり、出口であるとしたらどうだろうな」
「見た目では、していることは同じなのに、意味が違う……」
これは重大なことだ。ある種の奥義といってもいい。
人間はみんな、二本ずつの手足、二つの眼球、一つの口をもって生まれる。話す言葉も同じで、できることも大差ない。なのにどうして、誰かが宮殿のような豪邸に住まい、また誰かがダンボールハウスに身を縮めるのか。
外見的には似たり寄ったりの行動なのに、その本質が異なっているからだ。それが長い年月のうちに蓄積されて、結果になって表れる。
「そうだ。今、お前はとある部屋の中にいる。そこにある扉を開ければ家の外だ。ではお前は家から出たくて扉を開けるのか、それとも中庭の花々を楽しみたくて外に踏み出すのか。しかし、ただ外に出ただけでは、そこには何もない」
出口とは、過去からの出口だ。
入口とは、未来への入口だ。
どちらも同じ、扉を開けるという行為なのに、時間は一方向に流れ続けるだけなのに、意味も結果も全然違ってきてしまう。
「私もお前も、他の誰であってもただの一個の人間だ。なのにどうして、これだけ差が出てきてしまうのか。毎日やっていることにそれほどの違いなんてない。コップを手に取り水を飲む。ドアノブをまわして扉を開ける。夜になれば眠る。誰もが平凡な毎日を過ごしているのだ。だが、形のないところで大きな違いが生じてくる。その違いとは、つまり……物事を把握しているか、ということだ」
微妙な解釈を要求される話だ。
これは学問にもいえることだろう。漠然と学ぶのか、具体的な目標を胸に秘めながら習うのか。できる人間というのは、これはかくかくしかじかのことをするための学びである、或いは何をする遊びである、またはこういう目的の技術である、と定義づけている。漫然と人の手習いをしたりはしない。常にそれをすることが、自分の未来に取ってどんな意味付けをするものなのかが見えている。少なくとも、見出そうとしている。
いや、学問でなく、遊びであってさえそうだ。本当に楽しめる人、没頭できる人というのは、それがいったいどんな遊戯であるかを理解しようとする。これは何をするためのゲームなのかを、決して忘れない。
「そこにどれだけの意味があるか。どんな世界が、どんな物語が見えているかなんだ。それが目に浮かんだ時、私は取引を持ち掛ける」
彼は取引という言葉を使っているが、どちらかといえば、これは投資の心得ではなかろうか。
「もちろん、未来は予測できない。見誤ることもある。いや、大抵の予測などあてにならん。だからこそ、未来の金貨は今の金貨より価値がない」
「はい」
「それでも、取引を巡る物語を何度も心の中で繰り返していれば、何が起きても掌の中だ。このように、不確かな時の流れの中で世界に自ら意味付けし、未来のために行動を選択して手を取り合うのが人だ。取引はそのもっともわかりやすい形だ。これなしでは人とは言えない。私はそう考える」
未来を思い浮かべ、その不確実な部分を埋め合わせるのが人であり、人のなし得る業だ。人はただ人なのではなく、主体的に人たらねばならない。それができるからこそ、彼のような富者になれる。
「手掛かりになるような言葉は、以前にも口にした覚えがあるがな」
「おっしゃる通りです」
「だが、この答えをタンディラールに聞かせてやるつもりか?」
「いいえ」
さすがにそこまで俺も間抜けではない。
「彼が求めているのは、もっと違う言葉だと思います」
「それでいい」
ミルークなら、タンディラールの求める正解にも辿り着いているだろう。だが、俺にはあえて言わない。これくらい、自分で答えを出せと。いや、正解を見つける自由を残しておいてくれたのだ。
だが、俺は少し落ち込んでしまった。
では結局、俺は出口を探す旅から逃れられない。入口なんて見えない。未来はこの、目の前に広がる底なしの闇のようにしか思えない。
俺が今、求めているのは、扉の外に出ることだ。その向こうにどんな花園があるかなんて、考える気にもなれない。
「わかってはいましたが、再認識しました」
「なに?」
「僕はやっぱり愚か者です」
「ほう? では、どうする? さっきも尋ねたが。愚か者でも、問いに答えなければ間違えたりはしない。お前にはその選択肢もあるぞ?」
何もしなければ、間違うこともない……
「いいえ」
「ふむ」
「それでも僕は、行かなきゃいけない。何のためかはわからなくても……道がおぼろげにしか見えなくても」
彼は頷いた。
それから、彼は姿勢を崩して、岩壁に凭れ直した。
「眠れないのか」
「どうやらそうみたいです」
「ふふっ、なら、眠くなるまで聞かせてくれ。お前がどんな旅をしたかを」
「聞いてどうするんですか?」
「ただ聞きたいだけだ」
そういう彼の眼は、まるでおとぎ話をせがむ子供のように、澄んだ輝きを宿していた。まったく、ここをどこだと思っているんだろう?
しかし、俺としては更に気持ちが沈んだ。
「どうした」
「報告することがあります」
「なんだ」
「ドロルが死にました」
スーディアでのことだ。最後はシュプンツェに飲み込まれて、体を溶かされて死んでいた。
「ゴーファトに陰部を切り落とされて、僕のことをずっと恨んでいました。僕は、ピュリスに連れ帰って、裕福な暮らしをさせてやると……確かにそうするつもりでした。でも、ドロルの恨みは消えなかった」
「何があった」
「僕を殺そうとして……魔物に捕まって殺されました」
正直なところ、彼の気持ちは痛いほどわかる。立場が少し違っただけ。俺にはまだ、不死の探求という可能性が残されているから、生まれたときから恵まれていたから。
ドロルを絶望させたのは、なんだったのだろう。痛みだろうか。屈辱だろうか。それもあるが、中核的な理由はまた他にあると思う。俺だって、同じ立場だったら、同じことをしただろうから。
愛されないことではない。富を与えられないことではない。守られないことではない。
彼にとって最も耐えがたかったのは……
恐らく、愛せないことだった。
切り落とされたのは体の一部でしかない。だがこれで彼は、いつかどこかで出会えたかもしれない愛する妻も諦めねばならず、子供達の顔も見られなくなった。
俺の飼い犬になって何不自由ない暮らしを得られても、それでは貰うばかりだ。与える側にはなれない。受け取るだけの人間には、愛も誇りも残らない。
あれだけ憎しみに囚われて、歪みに歪んだ魂であってさえも、なお愛する誰かを必要としていたのではないか。
「タマリアを商人のサラハンという方に預けたそうですね」
「どこで聞いた」
「スーディアにいました。彼女の目の前でサラハンさんも殺されて、本人も無数の兵士に汚されて」
「なんということだ」
さすがにこの報告には、ミルークも顔色を失った。
「生きているのか。今、気に病んでも私にできることなどないが」
「今は無事なはずです。信用できる騎士の方が身柄を預かってくれましたから。それと、ご存じかどうかわかりませんが、ゴーファトは」
「ああ、少し前に知った。今は甥のジャンが領地を引き継いだらしいが……では、お前が関わっていたのだな」
人形の迷宮に辿り着いてから、たっぷり二ヶ月半もあの街に滞在していたのだ。迷宮攻略はごく最近のことだから知らないにしても、大貴族の代替わりくらいは知っていても不思議はない。
「僕は、調子に乗っていたんだと思います。収容所にいた時にも。だから、あんな風にドロルのしでかしたことを……」
「それは違う」
ミルークは首を振った。
「初めから思い返してみろ。すべては私の失態だ」
ドロルがタマリアにあの手紙を投げ渡したのが事件のきっかけだった。しかし、その前は? そもそもデーテルをヨコーナーに預けたのはミルークだった。ヨコーナーがミルークの信頼を裏切って、ゴーファトにデーテルを引き渡したせいだ。ということは、相手の人間性を見抜けなかったミルークの落ち度ともいえる。
もっと遡れば、頼りないデーテルは引き取らないという選択をしたかったのに、それにもしくじっている。何より、ドロルやウィカクスといった、あまり先のない少年を引き取ってしまったのも彼の判断ミスだ。
そう片付けることはできる。
「お前に何ができた? 濡れ衣を着せられたままでいればよかったのか? だから、はじめから私の不始末だったのだ。お前が気に病むことはない」
「でも……」
俺は、自分の掌をじっと見つめた。
「この手の中で、この先何人死んでいくのか。それを思うと」
俺が不死を求める旅を決心した理由。そこに遡る。
「僕は。僕も」
一度は人として生き、人として死んでいくのも悪くないと思いかけていた。エンバイオ家で泣き言をこぼしながら主君に仕えるのもいいが、いっそピュリスの酒場のオヤジでもよかった。あの小さな家の軒先で、焼き鳥でも売りながら静かに暮らす。それで十分だった。
傍には、家族がいた。友人がいた。みんなどこか欠点はある。ガッシュは大雑把で無神経だし、リンは高慢で男嫌いだし、イフロースは口うるさかったし、ジョイスはエロガキだったし、アイビィは悪ノリがひどすぎたし……それでも幸せだった。
「この手で、大切な人を、殺しました」
「なに」
「リンガ村から逃げてきた、とは言いましたよね」
「覚えている」
「あの時、初めて人を殺しました。最初は同じ村の男、それから、多分実の父親ではないのですが、母の夫と、母も」
さすがのミルークも、表情を引き締めた。
「虫になる人間ですから、他の人間にもなれたんです。でも、村から出るところで、アネロスに見つかって、斬り殺されました」
「で、シュガ村まで流れてきたのか」
「今にして思えば……いいえ、あの頃にも思いましたが、奴隷になれて、むしろよかったくらいでした」
俺は頭上の岩壁の狭間を見上げた。そこにはただただ真っ黒な空が垣間見えるばかりだった。
「三歳から六歳まで……三年間も、僕は殺しもせず、殺されもせず、静かな暮らしを続けられたんですから」
だが、すぐにまた、殺し合いの世界が迫ってくる。
「もうすぐ七歳ってときに、イフロース……執事の命令で、ムスタムに行けって言われて。行きはよかったんですけど、帰りに暴風雨に巻き込まれたんですよ。で、漂着した小島で海賊に襲われて、そこでまた、六人くらい殺しました」
「なんだと」
「崖の下に落ちた相手がもう死んでるのがわかって……なんと言ったらいいか」
「だが、海賊なのだろう? お前は身を守っただけではないのか」
俺は頷いた。
「最後の一人は、すぐには死にませんでした。それで大怪我を負ったまま、船で運ばれて……僕が看取りました。彼、言ってました。海賊なのに、今まで一度も人を殺したことはないって。でも、僕は殺した。何人も」
そして記念すべき十人目が、あのティンティナブリアのシトールだった。
「それからは毎年、誰かは殺しています。おかしいでしょう? こんなの」
シーラが言った通りだ。俺は……
「僕はたぶん、呪われてるんです。ピュリスで暮らしていたとき、僕の傍にはアイビィがいました。明るくて楽しい、姉のような母のような人で。でも、最初からわかってたんです。グルービーがアイビィを送りこんだのは、僕の秘密を探らせるためだった。だから……三年前、グルービーがピュリスに疫病をばら撒いたとき、僕はコラプトで彼と戦いました」
「では、グルービーが死んだのも」
「僕です。そしてアイビィもこの手で」
俺は首を振って下を向いた。
「もちろん、僕を拾ったミルークさんは悪くない。だけどもし、あそこに来なければ。僕に巻き込まれて死ぬ人はいなかった」
「なるほどな」
腕組みをし、彼は岩壁に背中を預けた。
「だから、お前も出口を探すのか」
「愚かですか。愚かでしょう」
彼はしばらく目を閉じ、じっと考えているかのようだった。それからおもむろに口を開いた。
「……話が逸れたな」
「えっ?」
「私は、お前の旅の話を聞きたいと言ったんだ」
俺はキョトンとして彼の顔を見つめた。彼はニヤニヤと笑っていた。
この会話の流れで、それを今、言い出すのか。
「お前がなぜ旅をしているのかはわかった。それも大切な話だろう。だが、私の評価が必要か?」
「えっ、あ、あの」
「私は、お前が何を見たのかを知りたい。なぜ旅をしているかだけでなく、どんな旅をしたかを知りたいんだ」
彼は人差し指を突き立てた。
「これは大切なことだ。本当に大切なことなんだ……さぁ、集中しろ。息を吸って吐け。お前が最初に見たものはなんだ? その時、空の色はどうだった? 地面に転がる石ころ、砂粒の一つまで、ひとつ残らず思い出せ。お前の世界を教えてくれ」
俺の中の小さな混乱が騒ぎ立てるが、穏やかな夜の海の波がそっと砂浜から引いていくように、静けさが戻ってきた。
「どこまでお話すれば?」
「そうだな。お前が眠くなるまでだ」
俺はゆっくりと頷いた。
「いいですよ」
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