ミルークの人生

 一呼吸おくと、彼は口を開いた。


「戦争の当事者は黒の鉄鎖だけではない。だから私は、クリムの名代として、トーキアにも出向かなくてはならなかった」


 事実上の族長には、戦争が終わった後にも、外交関係を修復する仕事が残されていた。形式上は身軽な立場でもあり、彼はフットワークも軽く、内海を渡った。


「二代目の男爵は、表向き平和的な態度を選んだ。海峡の交易に関わるつもりはないと明言したし、赤の血盟との友好関係を維持したいとも言った。それで兄の代理としてやってきた私を、食卓に招いた」

「接待ですか」

「そういう言い方をすると意味が変わってしまうな。サハリア人にとっての食卓、いわゆる饗応というのは、もっと打ち解けたものだ。心から来客を歓迎し、互いの誇りを傷つけず、即興の詩を朗誦して気持ちを通わせる……恐らくは彼も、そのような意図をもって私を食卓に着かせた」


 そこで彼は、出会ってしまった。


「本当のもてなしとは、真心からするものだ。だからウォー家の当主は、自らの邸宅の中庭で、彼と彼の家族だけを呼んで、私が気楽に過ごせるようにと配慮した。サハリア人の考え方をよく弁えた対応に、私は頷いた。そしていよいよ仕事も片付いたと、気を抜いたその時だった」


 彼の正面に座るのは男爵だったが、そのすぐ隣に身を置いていたのは、娘だった。


「忘れもしない瞬間だった。途端に中庭の草花が、バーゴラに絡みつく緑の蔦が、白い居館の壁が、花壇を囲む赤い煉瓦が。どれもこれも命を宿した。彼女、ベレーザは私を見てもまったく物怖じしなかった。恥じらいもせず、取り繕ったりもしなかった。そしてよく笑った。私は今まで、そんな女を見たことがなかったのだ」


 無理もない。ミルークは上流階級の人間だ。少し前まで平民だったウォー家の娘には、開けっ広げな庶民的魅力があったのだろう。


「えっ、でも、帝都には留学していたんですよね?」

「そうだ。ただ、私の一族は代々、形ばかりとはいえ、古伝派のセリパス教徒だった。私の身分に興味をもって近付いてくるのもいたから、女達と触れ合う機会はなるべく避けたし、どうせ帰国すれば政略結婚が待っている。だから、今にして思えば、女をろくに見たことがなかったのだ」


 彼自身、思ってもみなかった弱点が露呈したわけだ。

 気が抜けた瞬間に、飾り立てしない素の笑顔を見て、心が大きく揺るがされてしまった。


「この私が、どんなもてなしを受けたかも思い出せないくらいだった。それからはもう夢心地で、なぜかその場を立ち去りたくないと思ったが、自分でも理由を説明できなかった。ブスタンに引き返してから、やっとそのわけに思い至った。それまで私は、自分を少しは賢い男だと考えてのぼせ上がっていたのだが、とんでもない思い違いだった。とにかく、あのベレーザの笑顔を思い出すと、途端に手が震え、目が見えなくなった。気が付くと、私はまた新たな用事を作り出して、ハリジョンから船出していた」


 なんという。彼はもっと落ち着きのある男だとばかり思っていたが。しかし、俺の知るミルークは、この事件のずっと後に出来上がったのだ。


「意外か」

「は、はい。まさか恋ごときで」

「私もまた、サハリア人だったということだ」


 どれほど知的で温厚に見えようとも、サハリア人の中には、目に見えない炎が点されている。その情熱は時に詩となり、時に敵を貫く槍となる。そして愛によっても憎悪によっても、あっさり正気を擲ってしまう。その感情の発露は極端で、ヒステリックでさえある。

 ピュリスに残した知人の一人、リーアのことを思い出す。学もあり、目端も利いて、ピントのズレた冗談を好む彼女だが、あれでも怒りに身を任せて人を殺している。幼馴染の許嫁を殺され、騙されてその仇と結婚していたのだと知ってしまったからだ。


「夢のようだった。空に浮かぶ雲を踏んでいるような心地だった。その時私は二十五歳、ベレーザは十六歳だった。紛争から手を引いたばかりということもあり、ウォー家の懐事情は厳しかった。だから、彼女は帝都の学園には通えなかった。だが、そのおかげで私は、思いの丈を打ち明けることができたのだ」

「えっ……で、でも、それはまずいんじゃ」


 俺の指摘に、彼も頷いた。


「争ったばかりの敵同士、それに父を殺したのはアルハールの暗殺者ではあったが、そもそもの争いのきっかけを作ったのはウォー家だ。こうなると、なかなか話はややこしい。私は彼女を娶ることを夢見ながら、束の間の逢瀬を待ちわびるばかりだった。そんな日々が二年も続いた」


 まだ若いミルークには、自分を抑えきることができなかった。そしてまた、ベレーザも情熱的な青年に心を動かされた。いつしか二人は、密会を重ねるようになっていた。


「徐々にネッキャメルとウォー家の和解は進んでいった。私がそうさせてきた。だが、二代目の当主が事故で急に息を引き取ると、また状況が変わってしまった」

「またちょっかいを出してきたんですか」

「人間、一度でもいい思いをすると忘れられないものだ。約束を破ってキトに船を送り、関税をごまかして積み荷を売り捌いた。それが発覚すると、ネッキャメル氏族の仲間達の間では、ウォー家への怒りが燃え上がった。私は、もう一度、話し合いに出かけたいと頭を下げたが」


 首を振り、溜息をつく。


「もうベレーザと会うのは許されなかった」


 そろそろ俺にも何の話を聞かされているかがわかってきた。

 彼のたった一人の娘、ジル・ウォー・トック。ネッキャメルの名を持たない子。ということは……


「どういうわけか、ウォー家はどんどん態度を硬化させていった。急速に関係は悪くなり、ジャリマコンにはこちらの息のかかった海賊船が多数出入りするようになった。西方大陸の内海は荒れ始めた」

「確か、その頃でしたよね」

「何がだ」

「セニリタート王が即位したのは」


 フミール王子がスイキャスト二世を毒殺したのが、ちょうどこの時期なのだ。


「……知っているのか」

「ウェルモルドが教えてくれました」


 ミルークは頷いた。


「その通り。反省をしない陰謀好きの王に退場してもらうことで、赤の血盟はエスタ=フォレスティア王国への報復は取りやめた。宙ぶらりんになったのは、今度はウォー家だ」


 それから五年間、トーキアはフォレスティア王家からも見捨てられ、赤の血盟からは睨まれ、貧困に喘いだ。

 その五年間は、俺の顔見知りの何人かの人生に、それぞれ大きな変化のあった時期でもあった。ウェルモルドがフミールの側近候補として副軍団長に昇任し、ジュサは武装商人の生活をやめて近衛兵団を目指すようになった。そして、アネロス・ククバンは遂に復讐の剣を抜き放ち、二年かけてフマル氏族の中心都市、タフィロンを陥れる。

 一方、ミルークはというと、関係を改善したフォレスティア王家、そしてウォー家以外の貴族相手に、宝石を売り歩きながら個人的な外交活動を繰り広げていた。


「だが、サハリア人の悪いところは、限度を知らないことだ。敵だからといって追い詰めすぎると、何をしでかすかわからない。そんな中、ネッキャメルの族長にして赤の血盟の名目的な盟主であった兄のクリムが、死の病に倒れた。これを好機と考えたウォー家が、また南方に手を伸ばした……」


 タマリア誕生の年のことだ。

 あの、ネッキャメル氏族によるウォー家への報復攻撃。あれでウォー家は断絶し、トーキアは王家の特別統治領になった。それまでも貧窮したウォー家のために負担を強いられていた開拓民達は、これで税率まで引き上げられて、塗炭の苦しみを味わうことになる。


「あとは前に語った通りだ。トーキアを襲撃したのは、ネッキャメルの戦士達だった」

「あっ……で、でも」


 じゃあ、ベレーザは。


「何を聞きたいかならわかっている。彼女は」


 彼は、左手の袖をめくってみせた。手の甲の下半分から手首にかけて、古傷が見えた。


「私が殺した」

「えっ!」

「私が攻撃隊の指揮を任されたのも当然だ。ウォー家の邸宅の敷地、その間取りを知り尽くしているのだからな」


 絶句する俺を、彼はじろりと見た。


「本当は、彼女だけは先に逃がすつもりだった」

「そ、それは、認めてもらえていたんですか」

「いいはずがない。ウォー家の人間は皆殺し。そう決まっていたのだから。だが、私は偵察してくると言って、一人先行して邸宅の中に入り込んだ。いつもベレーザと逢引するのに使っていた裏口から入り込んで、邸宅の裏庭に立つ木をよじ登って……窓から、彼女の居室に立ち入った」


 恋の思い出の道を辿って、殺し合いに行く。なんと残酷な運命だろう。


「私は暗がりの中で、彼女の名をそっと呼びながら、居室の中に立ち入った。そして」


 そこで彼は、一度言葉を切った。


「私は数年ぶりに愛する人を掻き抱いた。と同時に、階下の悲鳴を耳にした」


 ミルークの腹積もりなど、知れていたということだ。愛する人だけは逃がそうと。だが、それを許せばどうなるか。クリムには息子がいない。次期族長はミルークだ。このままでは次代のトップ自らが裏切り者になってしまう。先々を慮った配下が、ミルークの帰着を待たずして邸宅への攻撃を始めてしまったのだ。


「万事休す。何もかもを捨てて、二人で逃げようと。私はそのつもりだった」

「ベレーザさんは、断ったんですか」

「何も言わなかった。ただ、黙って短剣で、私の手を刺した」


 それが、この左手の傷だったのだ。


「すぐ近くの階段から、誰かが駆け上がってくる。ベレーザは引き抜いた短剣を逆手にもって振りかぶった。もうどうしようもない。生きたまま仲間に捕まればどうなるか。地獄の苦しみを味わった末に結局は……だから私は……手にした短刀で、一息に彼女の首を掻き切った」


 彼もまた、最愛の人を自ら手にかけたのか。俺と同じように。そしてウィーと同じように。

 それはこの世の地獄だ。


「結局のところ、本当のことはわからない。彼女は何も言わなかった。一言も。もしかしたら私を庇って、一族の裏切り者にさせないために敢えて刃を向けたのかもしれない。だが、そうでなければ、本当に私を恨んで、憎んでいたことになる」

「そんな」

「とにかく、後になってわかったのは……」


 めくった袖を元通りにしながら、ミルークは締めくくった。


「……カーテンの裏から、知らないうちに生まれていた私の娘が、母の死を目にしていたということだ」


 ジルにとっての母の仇は、父だった。

 彼女の幼少期は、どんなものだったろうか? 貴族の娘の私生児。さぞ居心地も悪かったに違いない。ベレーザはミルークのことをどう思っていたのか。いまだに愛していたのか、それとも憎んでいたのか。ただ、ウォー家としては娘を傷物にされたのだから、恨んでいてもおかしくはない。


「ブスタンに帰ると、兄が死んでいた。一族の者達は私に責務を果たすことを期待していたが……もう、この世のどこにも希望を見いだせない私は、何もかもを放り出して、旅に出た。そう、とにかく苦しみから逃れるために。出口を探しに」


 これがミルークの人生だった。

 しかし、ではいつ、ジルと再会したのだろう。


「出口は見つかったんですか」

「そうだな」


 彼は頷いた。そして皮肉げに言った。


「落とし穴に落ちた」


 俺がキョトンとして彼を見つめると、彼はまた笑い始めた。


「ふはっははは! そう、逃げられないと悟ったんだ。だから最初は、トーキアに孤児院を開いた。だが、数ヶ月で閉じたよ」

「それはまたどうして」

「前に話した気がするがな。条件なしに甘い顔をすると、人がさもしくなる。さして困窮もしていないのに子供を捨てに来る親までいたのでは」


 それからだ。彼が奴隷商人になったのは。


 どうして彼が、どんな気持ちでここにいるのか。それがよくわかった。

 氏族の頂点を占める貴種に生まれながら、彼の幸せは冬の日の日差しのように儚かった。短い新婚生活は愛情に乏しく、すぐその手は血に塗れた。戦争の後、生まれて初めての恋を体験したが、その最愛の人を自ら殺めてしまった。

 自分の舵取りがまずかったせいで、トーキアの人々を苦しみの中に放り出してしまった。せめてできることはといえば、行き場のない子供達を養い育てることだった。


 だが、それも簡単とはいかなかった。一族の仲間や傭兵に命令を下すことはできても、子供を育てるとなるとまったく別問題だ。組織の上層にいた人間らしい冷徹さもあって、彼はウィカクスやドロルのような悪意の人間を排除しなかった。しかし、子供相手にはもっと子供向けの対応が必要だったのかもしれない。


「あとは、罪を償うだけで人生を終えようと思っていた。だが、それさえままならんとは」

「そういえば、奴隷収容所を閉めたとか」

「一族の責務を放り出した私への風当たりは弱くない」


 本来なら、子を残さず世を去ったクリムに変わってネッキャメル氏族、そして赤の血盟を率いるべき人物が、勝手にフォレスティアの片田舎で子供達と暮らしているのだ。しかも、問題はそれだけではない。


「実はフォレスティア側と手を結んで、何かやましいことでもしているのではないか。そういう疑いもあって、ティズに圧力がかかるようになった」

「それは……」

「まったく、後先考えずに目先の怒りに振り回される愚かさときたら。だが、ブスタンに帰ってよくよく事情を調べてみると、それどころではないとわかってきた」

「戦争、ですか」

「私ももう、五十一になった。今更我が身を庇おうとは思わない。ただ、先々のために何ができるか、それが大切だと思っている」


 そこまで語ると、彼は一度、言葉を切った。


「なぜ、こんな話をしたんですか」

「お前も、出口を探しているようだったからな」

「自分と同じ間違いを犯すなと?」

「いいや? いいんじゃないか。少なくとも、私には後悔などない。だから同情もいらない」


 後悔していない? いや、罪悪感ならあるだろう。それなのに?


「出口を探すなというのなら、入口はどこにあるんですか」

「ふふふ……出口も入口も、実は同じ扉だと言ったら、どう思う?」

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