人の眼差し

 一滴の水が、水面を打つ。その悪戯めいた囁きが、地下の空洞の空気を鈍く震わせた。

 赤茶けた固い岩盤に身を預け、目の前で音もなく燃える火を見つめる。その焚火の向こう側では、すっかり意識をなくして眠り込むノーラの姿があった。今はペルジャラナンも尻尾を丸めて地に伏している。


 谷の地下に広がる地底湖。崩れかけた古代の通路の合間を縫って歩いた先にあったその空間は、思った以上に広々としていた。足下は平らで、歩くのに不自由しない。だが、周囲を探索してまわる気にはなれなかった。空洞の向こう側はまったくの闇。頭上はあちこち、岩の狭間がジグザグに口を空けている。

 赤竜は砂漠の捕食者だ。夜のうちはいいが、昼になれば目を覚ます。奴らにとっては、俺達だって餌だ。見つかりたくはない。


 それにしても、驚くほどの肌寒さだった。谷の狭間、深い場所にいるだけあって、冷気が集まってくるのだろうか。昼間、日差しをほとんど浴びないこの地底湖は、今も冷え冷えした水を湛えている。

 疲れ果てていたノーラも、さすがにこの寒さでは眠るに眠れず、それでやむなく、こうして火を点したのだ。下は雑草すら生えてこないほどの固い岩盤なのに、温もりを感じると、彼女はあっさり夢の世界へと旅立った。それを見て、ペルジャラナンも先に休むことにしたらしい。俺達と話すには、ノーラが必要だからだ。


 まだ、俺とミルークは目を覚ましていた。

 疲れてはいるのだが、二人して眠り込んでしまうのは危険すぎる。ノーラだけは朝までゆっくり寝かせてやりたいが、どこかでペルジャラナンと交代して、俺も休まなくてはいけない。疲労の度合いでいえば、ミルークが一番少ないが、彼にも徹夜はさせないほうがいいだろう。もう、五十を過ぎた高齢者なのだから。

 ただ、そういう気遣いとか計算とかではなく、俺達はただ、所在なくそこに座り込んでいた。


「ファルス」


 だが、ミルークはこんな状況でも頭を働かせる余裕があるらしい。


「お前もここまで無理をしたはずだ。先に休んだらどうだ」

「もう少し起きていますよ。寝るときには、ペルジャラナンを起こします」


 そう言われると、彼はじっと焚火の向こうのトカゲを見つめだした。無表情なまま。

 それから急に、プッと噴き出した。


「ははは」

「どうしたんですか」

「愉快だから笑ったんだ」


 心底楽しそうに、彼は穏やかに笑っていた。


「私もこの歳まで、いろいろ珍しいものを見たが、人間の言うことを聞くリザードマンなんて、初めてだ」

「え、ええ。でも、ペルジャラナンは信用できます」

「それに赤竜の谷だって、今までは遠くから眺めるだけだった。それがまさか、その中で野営するなんてな。こんなのは、他の誰にも味わえるものではない。世界中を旅しても」


 そこでいったん、彼は言葉を切った。


「前に話したな。私もあちこち旅をした」

「はい」

「収容所で子供達に聞かせてやっていたのも、その頃の経験だ。今から……十八年前になるか。ブスタンを離れたのは」


 火勢が弱まっていると気付いて、彼は手を伸ばした。木の棒で燃えている木屑を掻き回す。


「どれくらい旅をしていたんですか」

「五年ほどだ。だが、どんなに逃げても、私は私自身からは逃れられなかったのだ」

「逃げた?」


 彼はしばらく、じっと俺を見つめていた。

 それからおもむろに口を開いた。


「ファルス、お前はこれまで、どこを旅した」

「アルディニアとセリパシア、マルカーズ連合国の北をかすめてシモール=フォレスティア、それからスーディアに寄って、ムスタム……人形の迷宮から、アーズン城に行く途中でした」


 俺の返事に、彼は眉を動かした。


「そうなると、大きな街にも立ち寄っただろうな」

「はい? ええと、タリフ・オリム、オプコット、アヴァディリク、それに……レジャヤやパラブワンにも」


 口角が上がる。なんだ? 俺の返事のどこが面白い?


「で、ティズに会ったら、今度はどこへ行くつもりだった」

「もちろん、南方大陸ですよ。大森林に挑みます」

「大旅行だな」


 また彼は笑った。少し皮肉げに。


「どうにも滑稽だ」

「どこがです?」

「前に言ったじゃないか。大森林は虫ケラだらけで体が痒くなりそうだ。砂漠は口の中が砂だらけになる。雪と氷の世界など論外だったな。大都会はというとゴミゴミしていて汚い。やっぱり我が家が一番だと、そうは思わなかったのか? ははは」


 何の話だろう、と思って聞いていたが、やっと記憶が追いついてきた。

 俺の、この世界での三歳の誕生日のこと。今から八年半も前のことじゃないか。


 なんだか、急に時の流れを感じた。

 あの頃の俺は、この世界の人間になりきれていなかったと思う。まだまだ前世に強い親しみというか、繋がりのようなものを感じていた時期だ。


「で、快適な我が家を出てまで、お前は何を探している? よっぽど大事な何かがあるんだろうな?」

「それは」


 少し考えてから、俺はあっさりと口を割った。


「不老不死を探しています」

「不死? なぜだ」


 理由を問われると、俺は言葉に詰まった。だが、あえて言った。


「もう、苦しみたくないからです」


 彼は頷いた。


「では、お前は出口を探しているのだな」


 痛いところを突かれた気がした。

 彼が俺に何を教えたか。


『出口を探すな、入口を探せ』


 なら、俺は今、道に迷っているのか?


「そういうこともある」


 だが、彼は俺の今を否定しなかった。

 落ち着きある仕草で薪を足して、火がまわるのを静かに見つめていた。


「道を誤るのが怖いか」

「えっ」

「何もせずにいれば、間違うこともない。大人しくしていれば、財産も身分もなくさずに済む。考えるのをやめさえすれば……」


 そう言われて、俺はしばらく物思いに沈んだ。


 考えるのをやめる、か。

 前世のことを思い出す。ろくでもない家庭環境もあったし、生活はいつも苦しかった。だが、何が一番つらかったかといえば、やはり家族の不和だった。結果としての貧乏は、努力で乗り越える余地がある。働けばいくらかの金は稼げるし、節約すれば貯金もできる。隙間の時間で勉強だって可能だ。だが、それらの努力は何のためにある? 愛すべきもののない世界は、俺にとって地獄だった。

 そんな悩みがたまに口をついて出ることもあった。すると大抵の助言者は、同じことを言うのだ。


『考えるの、やめちゃえば』


 俺には納得できなかった。すると、彼らは説教すら始める。


『そうやって不幸にばっかり注目してるのって、不幸が好きなんだね』


 そうだろうか。なるほど、自己憐憫という精神的な麻薬に溺れる心理もないとは言えまい。だが、考えるのをやめれば、問題が解決するのか?


 それなら、今すぐお前の眼球を抉り取ってやろう。心配いらない。少し痛いだけだ。今後の生活も不自由にはなるが、考えるのをやめればいい。腹も立たないし、悲しくもないだろう。

 まさかそんな返事を口にするわけにもいかなかったので、俺は黙っていた。だが、考えるのをやめろというのは、そういうことだ。

 犬や猫、猿ならできるかもしれない。なぜなら彼らにとっては、過去も未来もボンヤリとしたものでしかないからだ。いつでも今が当たり前で、それ以上に思うことはない。もちろん、飼い主が怖い顔をして大声で叱りつければ、嫌な記憶は残る。一度躾けられれば、同じ間違いは避けるだろう。だがそういうことではなく、動物というのはとにかくクヨクヨしない。過去と現在を比較しないのだ。

 事故で後ろ足が動かなくなった犬が、飼い主のあてがった車椅子を引きずりながら、今日も元気に散歩していたりする。そして犬は「前足しかない僕は、なんて不幸なんだ」なんて言わない。それより、飼い主が懐からオヤツを取り出すのがわかると、鼻を鳴らして喜ぶ。それが彼らにとっての過去、未来だ。

 これが人間だと、そうはいかない。視力を失ったら、なんと言って嘆くだろう?


『あのターナーの素晴らしい風景画を眺めることは、もう二度とできないのか』


 見事に人間の言葉だ。これが人の眼差しというものだ。

 彼は、ターナーの絵画を目にして感動した過去を覚えている。そして、残りの人生という未来を想像している。犬や猫より、心の射程距離はずっと長いし、その視界もクリアだ。


 もし、考えるのをやめるべきとすれば、それはその問題が「重力問題」であることを突き止めたときだろう。つまり、地球の重力みたいに、どう頑張っても解消できないものだと納得することだ。

 では、俺の中にあるこの絶望は、重力のようにどうしようもないものなのか。挑むだけ無駄な問題なのか。

 そう決めつけるのは早計ではないか。なるほど、重力そのものはなくせない。だが人類は、努力の末に重力に逆らって空中を飛ぶ手段を手に入れ、ついには地球の重力を振り切って、宇宙空間にまで飛び出した。それもまた、形なき未来を見通す人ゆえにこそ、なし得る業なのだ。


 とはいえ、足掻き続けるのも、確かに苦しい。これで二箇所目だ。聖女の伝説も、人形の迷宮も、俺の求めるものを与えてはくれなかった。残る候補地は大森林の不老の果実、東方大陸の神仙の山、そしてワノノマの姫巫女にまで絞られた。

 だが、特に神仙の山については、あまり期待できないと感じ始めている。もし完全に不死を得た人がいるのなら、アドラットがそれについて言及しただろうから。また、姫巫女については、もし訪ねるとしても最後だ。ヘミュービに殺されかけた俺を、モゥハが見逃すとも思えない。もし龍神が求める秘密を握っていても、こちらに好意的になってくれる気がしない。

 そうなると、大森林での探索が不首尾に終われば、俺が不老不死を手にできる可能性は、もう……


「……この話は、誰にもしたことがない。知っているのはジルとティズだけだ」


 いきなり何を? 思考が中断され、俺はミルークの顔に見入った。


「もう三十三年前か。私が十八歳のとき、妻を娶った」

「ご結婚なさっていたんですか」

「アルハール氏族の娘だ。帝都から帰ったばかりだったが、まぁ、政略結婚だな。否応なしだ。一つ年上の、良くも悪くも高貴な家の娘だった。礼儀正しく物静かで控えめで……どんなに抱きしめても遠くにいるような、そんな女だった」


 三十三年前。つまり、先の南北の紛争が始まる三年前だ。

 ということは、この後に続くのは、どう考えても不幸な出来事に違いない。


「トック男爵領が、真珠の首飾りの利権に食い込んできたのも、この頃だ。フォレスティア王家の威光を笠に着て、南方大陸西岸のティンプー王国の港に割り込んできた」

「戦いには?」

「血の気の多いサハリア人でも、いきなり戦争などしない。だが、こちらの暗黙の譲歩に調子づいた奴らは、更に利益を得ようと、黒の鉄鎖と手を結んだ」


 それが紛争のきっかけだったのか。


「それまで南北でそれぞれ五分五分に利益を分け合っていたところ、トック男爵の側は三分七分でいいと申し出たらしい。アルハール氏族の中でも意見は割れたらしいが、利益を求める連中が先走った。ことあるごとに、ネッキャメルやニザーンの商船が嫌がらせを受けた」

「なんて無謀な」

「もともとウォー家は商人の出だからな。しかし、温厚なワディラム王国のサハリア人しか知らなかったらしい。だが、フォレスティア王家にはまた、別の思惑があった」


 一息つくと、彼は低い声で言った。


「対岸のサハリア人の勢力が力をつけるのは好ましくない。だから互いに争わせたい。だが、だからといって王家自ら首を突っ込むと、自分達まで巻き込まれる。それで新興貴族の出世欲を煽って、こんな真似をしたのだ」


 セニリタート王の前、スイキャスト二世の時代だ。歴代国王の例にもれず、彼も陰謀好きな男だったのだろう。王家という後ろ盾を得たウォー家は図に乗った。


「黒の鉄鎖の側からの度重なる嫌がらせに父は困り果てた。それであちらの体面を傷つけるために、私に離婚を命じた」

「何の意味があるんですか? むしろ人質にしておくべきでは」

「だからこそだ。繰り返された悪意に報復せずにいれば、父は族長としての信望を失う。とはいえ、サハリア人の戦争は悲惨なものになる。だから、表向きにはアルハールなど恐れていないという意思表示のため、本当は人質を返すことで対話を求める意図をもって、そうしたのだ」


 そう言われてみると、好戦的なサハリア人であっても、さすがにトップはいろいろ考えているというべきか。


「たった二年の結婚生活で、妻はジャンヌゥボンに帰された。だが、処女性を重んじる東部サハリア人にとって、これは看過できる侮辱ではなかった。あちらにも、こちらの意図を汲める者がいないわけではなかったのに」


 それで恨まれたのがミルークとは、とばっちりもいいところだが。じゃあ、ジャンヌゥボンに出頭したら、どれだけひどい目に遭うか。


「戦争が本格化したきっかけは、父があちらの手の者に暗殺されたことだ」

「えっ!」

「病床に臥せったままの兄、クリムが当主の座についた。だが、それでは何もかもが立ち行かない。だから私は、部族の主だった者達に協力を求め、ひたすら兄の名代として、赤の血盟を纏める仕事をしなければならなかった」


 こうして四年近く、各地で戦闘が断続的に繰り返された。ときには南方大陸側にも戦場が拡大した。

 この戦いに、ジュサもウェルモルドも参加している。いずれも赤の血盟の傭兵としてだ。


「南北の戦いが決着した一つのきっかけは、ウォー家の当主が死んで、代替わりしたからだ。二代目の男爵は、南方大陸から手を引くと申し出た。それで私は、なんとか戦争を終わらせることができた」

「ひどい話ですね」

「だが、私が本当に誰にも語らなかったのは、この先の話なのだ」

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