古代の洞穴を辿って

 馬蹄の響きが虚ろな谷底に鳴り渡る。暗い岩山の狭間に踏み込むと、急に冷気のようなものが辺りに満ちてきたようにも感じられる。

 幸いにも今のところ足下は平坦で、馬が歩き続けるのには不都合がない。それでも、この天然の通路がいつ途切れるともわからない。いつでも神経を張り巡らせて、不測の事態に備えていなければ。恐ろしいのは赤竜だけではない。急に足場を見失って転落するかもしれない。逆に頭上から落石があってもおかしくない。

 だが、他にも危険があるような……前世の知識だ。どこかで見聞きしたような……俺も疲れているせいか、まだ気を付けるべき脅威があると思うのだが、それがなんだったのか、どうも思い出せない。


「ここまで来れば、追ってこないと思いませんか」

「思えんな」


 希望的観測を口にするも、ミルークは切って捨てた。


「フマルの連中にも誇りがある。竜に恐れをなして私を逃がしたなどと言われたら、死んでも取り返しがつかない」

「そんなに誇りが大切ですか」


 するとミルークはつと黙って、俺に向き直った。


「そうか、お前はまだ、サハリアという土地を知らんのだな」

「はい?」

「フォレス人の誇りとは意味がまるで違う。ここでは、誇りとは即ち財産だ。生きる糧そのものだ。擲つなど、考えられない」


 まぁ、いい。

 連中が追ってくるのなら、うまく逃げ切るか、こっそり殺すかだ。危険な赤竜の谷で事故死したということにできるのなら、少しくらい強引な手を使っても構うまい。

 それより、今の俺達に必要で、しかもまだはっきりしていない問題がある。


「とにかく」


 この状況をどうやって決着させるか。出口を見つけなくてはいけない。


「これからどうします? 逃げ切るのはできたとしても、その後ですが」

「難しいところだな」


 彼にも考えが浮かばないようだ。


「まず……」


 考えることがよほどたくさんあるのか、頭脳明晰な彼にして、言葉が出てこない。


「最初は、私はジャンヌゥボンで人質になるつもりだった。憎しみを引き受け、辱めを甘んじて受けることで、時間を稼ぎたかった。もちろん、相手も面子だけでは動かない。可能な限りの利益供与もした上での話だが」

「どうやって」

「キジルモクはアルハールの支族だ」


 これでわかった。どうしてアラワーディーなんてド田舎を、彼が目指したのか。

 ジャンヌゥボンを目指して東進中のキジルモク氏族のリーダーに追いついて、その人経由で黒の鉄鎖の盟主、アルハール氏族の長と交渉の機会を持とうとしていたのだ。


「今更無理なんじゃないですか」

「半ばは戦争を避けられないのではと思っていたが、ここまで進んでしまっていたとは」

「むしろ、どうして今更という感じが。もう、相手は動き出してるじゃないですか」


 ミルークは苦々しい顔をして頷いた。


「なんとも情けない話だが……どういうわけか、フィアナコンからの情報が、ティズにも届いてなかったようだ。私が個人的に繋がりを持っていた人物からの連絡で、やっと知らされたという体たらくだ。だが、どうにも奇妙で不自然ではある」


 赤の血盟の情報伝達はどうなっているんだろう。仮想敵国の軍事行動がまるで見えていない。気付いたときには手遅れなんて。

 奇妙と言っているから、これが当たり前ではないはずなのだが。


「ヌクタットの人達も、普通の暮らしをしてましたよ」

「間に合えばだが、今頃は避難を呼びかけているはずだ。ただ、それもギリギリまでは動けない」

「なぜです」

「疑心暗鬼になることで、争いを拡大させかねない。それに、アーズン城はネッキャメル氏族のものだが、ヌクタットはそうでない。指示を素直に受け取ってもらえるとも限らん」


 なんとも面倒な。


「だからこそ、権威が必要なのだ。他の部族にも通じる威光がないと、いざという時に困る」

「それはもうわかりました」


 相手が戦うつもりなら、今からでも方針を転換すべきではないか。


「いったん、アーズン城まで逃げましょう。そこで一族を守っては」

「私は、ティズのところへは、帰れない」

「仲違い、ではないですよね」

「今、引き返せば、私が戦争の理由にされてしまう。恭順の意を示すべく送り出された人質が、我が身可愛さに逃げ帰ったとなれば、責任は誰に降りかかる? これ以上、ティズの立場を悪くすれば、赤の血盟はもとより、ネッキャメル氏族もどうなるかわからん」


 想像に難くない。指摘されてみれば、納得できる話だ。

 ミルークも、まさかここまで黒の鉄鎖が開戦準備を進めているとは思ってもみなかったのだろう。アラワーディーまでやってきて、なおのこと、危機感を強くしたはずだ。しかし、出発前にこれほど状況が切迫していると知っていたら、別の手を考えたのではないか。

 事前の情報収集が行き届かなかったのは、彼が以前と違って、ネッキャメル氏族の幹部ではないからだ。でなければ、こんなへまはしなかっただろう。

 ではティズが調査を怠った? いや、もっと悪い状況も考えられる。彼は求心力を失いつつあるリーダーなのだ。その命令が軽んじられていても不思議はない。

 赤の血盟にはどうも、今はまともに対抗できるだけの力がないらしい。その原因の一部は、ミルーク自身が作った。


「長兄のクリムが病死して、私も一族を捨てて遠くに去った。ティズにはすべてを押し付けてしまった。だが、そのせいでネッキャメルは同盟の指導者としての地位を失った」

「なぜですか」


 この問いに、彼は眉を吊り上げた。何を当たり前のことを尋ねるのかと。


「考えてもみるがいい。正統な後継者である長兄でもなく、先の戦役で名を売った私でもない、本来なら部屋住みの三男坊が……それで他の有力な氏族の長達が、黙って頭を垂れるものか」


 言われてみれば、道理だ。

 同盟の柱たる族長達。彼らはみんな、それぞれの一族の中で、最も尊敬される血筋の年長者なのだ。そこへ年少の、それも立場も本来なら家臣相当でしかないはずの人物がやってきて、今日から皆さんのリーダーです、なんて言っても、誰も相手にしない。

 しかも、そうして盟主の地位を失うことで、ネッキャメル氏族の中でもティズを軽視する人が出てくる。先代の頃には俺達は肩で風を切っていたのに落ちぶれたものだ、いったい誰のせいだ、という話にもなる。してみれば、ティズとしては、族長の地位を保つだけでも精いっぱいだったのではないか。


 なら最初からミルークが役目を放り出さなければよかった。だが、それはそれで難しかったのかもしれない。彼のスキルを覗き見た限りでは、政治家としてはともかく、指揮官としての能力がまるで欠落している。これは、そういった経験を積んでこなかった……いや、避けてきた証拠だ。

 想像に難くない。病弱な兄に代わって有能な弟が全権を掌握したら? 骨肉の争いを避けたいがゆえに、あえてそうした可能性を感じさせる仕事を引き受けようとしなかったのだろう。


「それでも平時なら、あれで何とか収まった。際立った才覚はなかろうとも、頭領としての器量ならあった」

「だから僕に指輪をくれたんですね」

「必要なくなってしまったようだがな」


 だがそれなら、赤の血盟の新たなリーダーが、そういう未熟な幹部を支えてやるべきではないか。


「今はどこが?」

「ニザーンだ。だが、あれは」


 そう言いかけて、彼は舌打ちをした。

 どうやら、ろくでもない人物が盟主になってしまったのだろう。それが態度から伝わった。


「それもこれも、私のせいだ。責める資格はない。それより」

「そうですね。先のことを」


 どうやら黒の鉄鎖は、近々北に向けて大攻勢に出るつもりらしい。そうなる予兆を感じていたからこそ、ミルークは交渉に乗り出そうとした。しかし、時すでに遅く、もはや激突は不可避な状況になりつつある。

 ならば引き返してティズの助力を、と言いたいところだが、ここでその兄が一族の下に戻っても、混乱を招くばかり。事実上、ミルークにできることはほぼない。


「私一人の身の上のことであれば、今更惜しくもなんともない。だがせめて、お前達を無駄死にさせたくない」

「僕らはそうそう死にません。なんでしたら、やっぱりアーズン城まで行きましょう」

「行ってどうする」

「ティズさんの横で力を振るいます。手強いとわかれば、相手も交渉を受け入れてくれるかもしれません」


 一度、武力衝突が起きてからでは、なかなか収まらない。

 その前に、ティズには物凄い力があるんだと、とんでもない手駒が下についているんだと知らせてやる。


「巻き込みたくはない」

「何を言ってるんですか」

「サハリア人の恨みに終わりはない。もうお前はフォレスティア王の腕輪があるのだから、ティズのことも忘れて帰るがいい」

「ミルークさんはどうするんですか」


 暗い谷間に振り返り、続きを口にした。


「ここを抜けだしたら、なんとか東を目指す」

「まだ交渉するつもりなんですか」

「今のキジルモクの長は、私が捕虜にしたことがある」


 先の戦争で縁を結んだ相手だという。


「手ずから縄を解き、乳とパンを勧めて敬意を払った。彼がそのことを忘れていなければ、中継ぎくらいはしてくれるだろう」

「でも、アルハールの族長には、相手にしてもらえるんですか」

「下位の族長の言葉であっても、盟主たるもの軽々に斥けることはできない。アルカンに会うことさえできれば、面会まではなんとかなる。問題はその先だが」


 目下の人間にも面子がある。

 それを踏みにじると、今度は自分の足下が危うくなる。それがサハリアという土地なのだ。


「目算は」

「せいぜい一割だな」


 それでもうまくいって一割。駄目なら死ぬか捕虜になるだけ。だとしてもやるつもりだという。


「だけど、どうしてそこまで平和にこだわるんですか」


 今も俺達は追われている。あっちはやる気満々だというのに。

 だが、彼は瞑目して、静かに言った。


「……もし、ハリジョンにあるティズの邸宅に行くことがあったら、奥の間を見せてもらうがいい。そこに私達の心がある」

「それはどういう」


 会話が途切れた。

 背後の谷間から物音が聞こえてきたからだ。


 ミルークは、奪った馬の背にあった弓を取り上げると、矢も番えずに大きく引き絞った。そして二度、三度と弓弦を震わせた。すると、近付く足音が急に止んだ。

 うまい。実際に相手を傷つけず、牽制だけで足止めした。彼が弓の名手であることは、敵側にも知られているのだ。


 それから彼は、音もたてずにそっと馬から降りた。俺達もそれに従う。

 歩いていくのなら、とノーラが荷物から松明を取り出すが、彼はそれを遮った。そして唐突に指先を口の中に突っ込むと、人差し指を突き立てた。


 意味が分かった。まず、視界の利かないこんな場所で、速度に頼って逃げ切るのは不可能だ。そして今は闇夜、ほとんど光も差し込まない場所にいる。こんなところで松明に火を点したら、いい的だ。

 といって、馬を降りるのでは、人間の鈍い視覚では、なかなか危険な高低差に気付けない。そこで彼は指先を湿した。空気の流れが下からあればそちらから、上から吹き降ろす場合でも反対側から流れてくる。空間がなければ風が通ることはないので、足を踏み外さずに済む。

 ミルークは、馬の轡を取りながら、前に立った。俺達も同じようにして、後ろに続いた。


 それから間もなく、彼は立ち止まった。無言で俺の背中に手を伸ばし、荷物をまさぐった。取り出したのはロープで、彼はそれに手早く結び目を作り、俺達に握らせた。そこまで済むと、俺の手からも手綱を奪い取り、馬を急き立てて先へと走らせてしまう。

 馬は失いたくないところだったが、この際やむを得なかった。というのも、俺達はミルークが見つけた小さな横穴に潜り込んでいるからだ。しかし、空気の流れが続いているので、向こう側に出ることもできそうではある。フマルの民兵は、きっと騒々しく走り去る馬の方を追いかけることだろう。それで少しは時間が稼げる。


 横穴に入り込んだ俺達は、その場にとどまらず、奥を目指した。うまくやりすごせるならいいが、フマルの側にも索敵に長けた偵察兵がいないとも限らない。完全に真っ暗な中、なかなか先には進めないながらも、先頭を行くミルークは、這いずりながら出口を探した。

 ネッキャメルの貴種に相応しからぬその姿に、俺は罪悪感を抱いた。彼が今、奮闘しているのは誰のためか。もちろん、ここを首尾よく抜けて、ジャンヌゥボンを目指すためでもあるのだが、何より俺達を逃がすため、サハリア人同士の争いに関わらせまいと願っているからだ。


 少し進んだところで、背後から大勢の足音が響き渡るのが聞こえてきた。何事か、声を張り上げているのも聞こえた。

 そうだ、彼らは追跡する側。だから、多少目立っても構わない。松明を手にして、大声で連絡を取り合うこともできる。赤竜が出る場所なので、多少の遠慮はするだろうが。


 俺はノーラの肩を軽く叩いた。

 振り向いた彼女は、頷き、なるべく静かに詠唱する。この場所に『人払い』をかける。

 こちらのアドバンテージは、まさしく彼らの優位の裏返しだ。彼らが追う側だと思って強気でいる限り、こちらもそちらの騒がしさに便乗できる。

 ただ、魔法も万能ではない。時間が経てば、そのうちこの狭い通路が未調査であることは知られてしまう。だから、もっと先に進んで身を潜める必要がある。しかし、それができるかというと、これもいくつかの理由から難しい。


「ミルークさん」

「ファルス、声を」

「今は大丈夫です、ノーラが魔法で人払いしていますから」

「長く持つと思うな。こんな浅い場所の通り道など、すぐ人が入ってくる」

「だから今のうちに……」


 俺は、後ろにいる二人にも視線を向けながら、考えを述べた。


「さっきもそうでしたが、ノーラはもう限界です」

「私は平気」

「そんなわけない。さっき、意識が途切れたじゃないか」


 事実を指摘されると、彼女は俯いた。


「僕のせいです。ミルークさんを追いかけようと言ったのは、僕ですから」

「それはもういい。それより、休ませたいということか」

「何かいい考えがあれば、と」

「ギィ」


 ペルジャラナンが声をあげた。


「何か考えが」

「ギィィ」

「えっと……」


 急いで詠唱して、意識を彼に同調したノーラが、代わりに説明する。


「この横穴は、大昔の祖先が作ったものなんですって」

「なに?」


 ミルークは軽く驚いているが、俺達は既に知っている。アルマスニンらリザードマンの祖先は、元はと言えば、人形の迷宮に立ち向かうために派遣された戦士達だった。その彼らにとっての拠点が、かつては湖だったこの赤竜の谷なのだ。だから、ここは昔、リザードマン達の住居だった。後から赤竜がやってきて、棲み処を奪うまでは。


「地表近くにはもう水場はないけど、地下深く潜ればまだ水があるかもしれない。日差しも凌げる」

「隠れられるということか」

「見つけられるかどうかはわからないけど、大昔の目印があればわかると言ってるわ。古い文字とか標識があるからって」


 俺達には、見分けがつかない。ただの洞穴にしか見えないのだが……


「それは、もう見たのか」

「ギィ」

「この洞窟にもあったみたい。入口のほうに」


 俺とミルークは、暗がりの中で目を見合わせた。

 彼は頷いた。


「賭けてみよう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る