逃走と誤算

 他と比べる限りにおいては立派な門構え。日干し煉瓦の壁に敷地を囲まれ、中には二階建ての四角い家が聳え立っている。ピュリスに置いたら最もみすぼらしい家屋になること間違いなしだが、ここでは見栄えがする。


「よっ、と」


 既に俺もノーラも疲労困憊していたが、猶予はなかった。無理を押して町長の家まで駆け付けると、早速、門番を眠らせた。そうして脇に座らせ、転がしておく。塀の内側には木の柵のようなものが置いてあった。門扉がないが、これがその代わりなのだろう。引きずってきて、出口を封じる。

 家の中にも人がいる。だが、戦えそうなのはいない。一家の主婦と、町長の母親。それと娘だけ。中年の町長自身とその息子達は、他所に出かけている。


 女しかいない家。それでも普段なら、門番すら不要だろう。サハリア人は、敵には容赦しないが、身内にはどこまでも誠実だ。同じ集落にいる仲間の家に踏み込んで、盗みその他不正な振る舞いをしようものなら、ただでは済まない。だが、それだけではなく、そうした裏切りはこの上なく不名誉なこととされるので、罰があろうとなかろうと考えもしない。

 つまり、門番が置かれているという状況そのものが、既に外部の人間を意識している証拠だ。殊に、このような田舎においては。


 俺とノーラ、それにペルジャラナンは目配せすると、正面から扉を開け、中へと踏み込んだ。目の前には、二階に上がる階段、左右に扉。

 居場所は分かっている。入って右手の婦人部屋。そこに三人集まって刺繍をしている。本当は真っ暗になる前に最後の針仕事を済ませておきたかったらしいが、間に合わなかった。キリが悪いのもあって、彼女らは灯りを点しつつ、しまいまで片付けようとしている。

 そこに遠慮なく足を踏み入れた。


「ハッ!?」

「だ、誰?」


 俺とペルジャラナンは黙って剣を突き出した。


「動くな。騒ぐな。そうすれば殺さない」

「ああ、きゃ」


 それでも、町長の妻らしき中年女性は、声を張り上げようとした。その瞬間、意識を失って床に突っ伏した。


「門番は来ない。大人しくしていてくれ。傷つけたくない」

「お、お前達は何者です……えっ? あ、ああ、リ、リザードマン?」


 だが、バケモノの存在に気付いたところで、老婆も意識を失った。

 一人残された少女は、声も出せずに震えている。


「無益な殺しはしない。お前も殺さない。少し眠れ」


 次の瞬間、彼女もまた、意識を手放して仰向けに転がった。


「ノーラ、記憶は」

「もういじってある。男の三人組だって思ってるはず」


 これでよし。


「地下室は」

「左手の男性部屋に下り階段があるみたい」


 暗い室内を慌ただしく歩き回り、床をまさぐって、やっと鉄格子の蓋を引き開けた。ノーラが差し出した松明の先を俺は握り締め、着火する。

 粗雑な作りの階段を慎重に下りていく。手摺りすらない。こうしてみると、治安のいいサハリアの田舎であっても、ときには牢獄を必要とするらしい。とはいえ、町長の家の地下室ごときでそれが賄えてしまうのだから、なんともお手軽なものだ。

 下まで降りきると、すぐ左手に扉があった。施錠はされていない。


 松明の灯りが、暗い室内をぼんやりと照らした。

 地下室の天井から床までを貫く、やや歪んだ一本の柱。その下に、椅子が置かれている。彼は両手を後ろに縛られ、胸にもまた幾重にも縄に巻かれていた。殴られたらしく、右の頬に軽い腫れがみられる。

 目だけをこちらに向けて、様子を窺う。だが、いつもの連中とは違うとわかると、慌てて身を起こした。


「なぜ来た」

「ろくなことにはなってないだろうと思いましたが」

「すぐ立ち去れ」

「はい、助け出したらそうします」

「馬鹿なことを」


 俺は歩み寄り、彼を拘束する縄を断ち切った。


「さあ、出ましょう」

「この家にいたご婦人方はどうした」

「傷つけてはいません」

「門番は」

「眠らせただけです」

「ならばよい。止むを得んか」


 既に覚悟はしていたのだろう。それでも、状況の変化に彼は柔軟な態度をとった。立ち上がり、すっと背を伸ばす。その仕草だけでも、身分は隠せない。羽が折れても鷹は鷹なのだ。


「他に仲間はいるのか」

「いません」

「馬は」

「ありません」


 この返答に、彼は一瞬、押し黙った。なんと無鉄砲な真似をしたものだと、呆れてしまったのだろう。囚人を救出するのに、逃走経路もろくに準備しておかないとは。


「やり過ごしてから、ゆっくり逃げればいいんです」


 馬があったところで、まともに乗りこなせるのはミルークだけ。意味がない。

 もっとも、ここで別行動をとるのなら話は別だ。彼を馬に乗せて、遠くに逃がす。俺達はこっそり違う方向に行けばいい。


 敷地を出る頃には、既にとっぷりと日が暮れていた。物の形を見分けるのも難しいほどの闇夜。人のシルエットさえ見分けがつかないほどだ。

 足音を殺しながら、俺達は街道に出る。大通りを西に抜け、町の外れまで歩いた。

 手頃な大きさの岩を見つけると、俺達はそこに背を預けた。


「こんな場所で何をするつもりだ」

「見つからずに済めばいいのなら、ここでいったん、追手をやり過ごします。それからドゥミェコンまで抜けましょう。普通なら追手は北を目指すでしょうから、全然違う方向に逃げてやろうという考えです」

「その前に見つかってしまうぞ」

「それは考えてあります」


 ノーラは黙って頷き、詠唱を始めた。それに気付いたミルークは、息を詰めた。

 彼女が魔術を使いこなせるようになっていることに、大きな驚きをおぼえているようだった。


「これで『人払い』の術がかかりました。捜索にまわせる人数も無限ではありません。めぼしいところに人を送った後なら、いろいろと手薄になるでしょう」


 最初の追手をやり過ごしたら、暗いうちに西を目指す。急ぐ必要はない。ゴブレットさえあれば、食料にも困らないのだから。

 読み通り、そのうち松明を手にした軽装の騎兵が、数人で俺達の脇を駆け抜けていった。すぐそこに潜んでいる俺達にはまったく気付かず、赤竜の谷を左手に見ながら、まっすぐ北へと向かっていく。もう少ししたら、ここを離れて歩き出してもよさそうだ。


 辺りが静かになってしばらく。

 ひんやりとした微風が頬に触れた。頃合いか。


 しかし、そう思ったところで、足音が一つ、近付いてくる。念のための見回りというやつか? なら、こいつをやり過ごしたら、出発しよう。

 俺は岩陰から、そっとそちらを見た。松明を手にした中年の男が、左右に首を向けながら歩き回っている。最後にこちらの岩の裏まで目を通して、それから帰るつもりらしい。踵を返して、まっすぐこちらに向かってきた。

 俺は余裕で待ち構えていた。


 不意に男の足が止まる。

 俺と目が合った。


「いたぞー!」


 一瞬、何が起きたかわからなかった。なぜ? こんな凡庸な、特別な能力も持たないであろう男が、どうして俺達の居場所を看破した?

 まさか、と思い、振り返る。だが、先にやるべきことがあった。思い直して、急いで短く詠唱する。


「ガッ!?」


 男は、突然の激痛に膝を折った。

 駆け寄って鳩尾に、そして後頭部に一撃。これだけで彼は意識を手放した。


「くそっ」


 俺の不注意だ。なんて間抜けなんだ。


「ごめんなさい……」


 ノーラが震える声で、謝罪を口にする。だが、彼女のせいじゃない。

 どれだけ彼女が消耗していたか。四日もかけて砂漠を渡り、そのまま一休みもせず魔術を使い続けて、強引にここまで逃げてきた。わかっていたつもりでわかっていなかった。既にノーラは心身とも限界に達していたのだ。それでうっかり、意識をなくして立ったまま居眠りしてしまったのだ。そのせいで、魔術の効果が切れた。


「僕のせいだ。こうなったら隠れるのは難しい。もう逃げよう」


 だが、程なく馬蹄の響きが迫ってくる。そう多くはない。せいぜい三人か。


「ミルークさん。あの馬を奪いましょう」

「お前達は乗れるのか」

「僕が、なんとか一頭は乗りこなします」


 近付いてくる三人を、はっきり識別できるようになるまで、俺はじっと待ち構えた。

 よし、こいつにしよう。


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 イルキャブ・ヒサン (36)


・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク5、男性、36歳)

・スキル サハリア語  5レベル

・スキル 槍術     4レベル

・スキル 弓術     5レベル

・スキル 格闘術    3レベル

・スキル 騎乗     6レベル

・スキル 動物使役   4レベル

・スキル 農業     3レベル

・スキル 料理     1レベル


 空き(28)

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 接近を待つ間に、俺の掌の中には黄緑色の鏃が浮かび上がり、高速回転していた。それを投擲すると、真ん中を走っていたイルキャブは急に体を硬直させて、そのまま馬の背からずり落ちた。

 残る二人はそれを横目で確認すると、身をすぼめて馬の首の向こうに身を隠す。見えず、聞こえなかったが、飛び道具の存在を察したのだろう。


「あの馬を」

「できれば殺すな」


 残り二人も、俺が片付ける。そう思って前に出たところ、更にもう一人が意識を失って落馬した。ノーラが眠らせたのだろう。そこへペルジャラナンが駆け寄り、鳩尾を思い切り踏みつけ、引き起こして後頭部を強打した。

 あと一人にも、逃げる時間は与えない。


「ぎゃあっ!」


 予想外の激痛に、彼は悲鳴をあげた。俺は跳躍して彼を馬上から蹴落とすと、そのままの勢いで自ら鞍から飛び降りて、彼の腹を踏みつけた。

 ターバンごと頭を両腕の間に挟み込むと、何度か急いで詠唱した。割れるような頭痛の中で、そいつもまた、意識を手放した。


「ノーラと乗ってください。ペルジャラナン、こっちだ」


 知識も経験もないが、スキルだけは今、奪った。


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 (自分自身) (12)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク9)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク7)

・マテリアル プルシャ・フォーム

 (ランク9+、男性、11歳)

・マテリアル プラント・フォーム

 (ランク5、無性、1歳)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル サハリア語  5レベル

・スキル 身体操作魔術 9レベル+

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 剣術     9レベル+

・スキル 格闘術    9レベル+

・スキル 騎乗     6レベル

・スキル 料理     6レベル


 空き(0)

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 言葉もなく、俺達はすぐさま馬に跨り、西に向かって走り出した。

 だが、ミルークは俺達に振り返って言う。


「どうする」

「どうするとは」

「こちらは二人乗りだ。じきに追いつかれる」

「手加減なしで追手を倒していいのなら、なんとでもします」


 こんな砂漠の真ん中だ。少しくらい腐蝕魔術で追跡者を溶かし尽くしたところで、実害もさほどあるまい。ただ、ノーラがそこまで思い切れるかどうかの問題はあるが……

 あんなグロテスクな死に様を目にしたら、きっとトラウマになる。だが、今はそんなことを言っている場合でもない。


「できればやめてくれ。私が命を差し出す意味がなくなる」

「やっぱり死ぬつもりだったんですね」

「そうではない。ただ、死ぬだろうとは思っていた」

「同じことじゃないですか」


 しばらく沈黙してから、彼は少しだけ説明した。


「私が人質になって終わりにするつもりだった」

「人質?」

「特にアルハール氏族は、私に個人的な恨みがある」


 恨み。サハリア人にとっては、軽くない言葉だ。

 すると、事情が少し見えてきた。ミルークは、いわゆる報復攻撃を未然に防ぐために、自分の首を差し出そうとしていたのだ。


「それで収まるならいいですが、とてもそんな風には見えませんでしたよ」


 俺は多少の苛立ちをこめながら言った。


「街にどれだけの兵士……兵士じゃないですね、あれ。周辺の遊牧民じゃないんですか」

「フマルだな。弓と剣に優れた、勇ましい氏族だ」

「ドゥミェコンからも傭兵がいなくなっていました。あれって、結局」


 ミルークがどう出ようと、黒の鉄鎖は報復攻撃に出るつもりだったんじゃないのか。


「それでも、説得しなければならん」

「相手がやるつもりでもですか」

「今の赤の血盟では、黒の鉄鎖には勝てない」


 先の紛争の当事者だった彼は、現状をそのように判断していた。


「最後の大規模な戦いは、三十年も前だ。あの四年にも渡る戦争で、赤の血盟は有利なままに戦いを終結させることができた。なぜそれができたかといえば、こちらは結束していたのに、あちらは内紛だらけだったからだ。それはフマルにしてもそうだった」

「何があったんですか」

「ククバンは、フマルの支族だった」


 そういえば、アネロスは言っていたっけ。

 年の離れた兄がいた。ある日、同族が攻め込んできて、その兄を殺した。彼が剣士の道を志したのは、その時に素晴らしい剣技を目にしたからだ。


「二十七年前、長引く南北の争いに疲れ果てたククバン氏族が、戦争からの離脱を求めた。元々折り合いが悪かったのもあって、疑念を抱いたフマルが、ついに彼らの街を焼き討ちにした」

「その話は、少し聞いたことがあります」

「誰に?」

「アネロス本人に」

「そうか」


 すると彼は、ちょうど九歳の頃に、故郷を失っていることになる。


「それから七年間、ククバンの生き残りがフマルの奴隷として酷使されていた。だが、アネロスが悪名を馳せたのは、この後からの三年間だった」

「二年かけて仇を殺したと言ってました」

「そうだ。一時はタフィロンの城市を制圧するところまでいったらしい。だが結局、数には勝てなかった」


 そんなのはわかりきっていたことだ。そもそもアネロスは、剣に酔っていた。まともな指揮官なら、いかに戦争を始めて、またいかにそれを終結させるかを考える。常識的には、一通りの仇を討ち、同族の身分回復を実現したら、もう戦う理由はなくなる。だが、彼にはそんなの関係なかったのだろう。見境なく殺しまくっていたのでは、当然の結末だった。


「ちょうど私がブスタンを後にして、放浪の旅に出た時期のことだった。本当に、あの戦争を煽ったフォレスティア王家の罪は軽くない」


 少し話が逸れた。


「要するに、各地の氏族が互いに牽制しあいながら、個別に赤の血盟と戦っているようなものだった。逆にこちらは、互いの利権を譲り合って助け合った。ブスタンのデーツも、ハリジョンまで運ばずともよかった。ニザーンが手を貸してくれた。最寄りのジャリマコンで出荷できたのは大きかった。あれでこちらは武器や薬に不自由せずに済んだ」


 グルービーも、この時期に大きな儲けをあげたのだ。危険を冒して海賊だらけのジャリマコンに渡航して、薬を売りまくった。今から考えると、もうすぐ二十歳という若さで、よくもそこまで思い切れたものだ。

 一方、同じく若年のミルークも、この時期に大いに活躍したはずだ。氏族集団の首魁は彼の父や兄だったが、バランサーとして機能したのは彼だった。商人から傭兵まで、とにかくいろんな人に会い、利害を調整した。彼がジュサやウェルモルドと面識をもったのも、この戦争においてだった。


「だが、いまや状況は逆転している。膿を出し切ったと言ったほうがいい。フマルも反抗的なククバンを完全に滅ぼしたし、アルハールも捲土重来を期して、ポロルカ王国やトゥワタリ王国との繋がりを強め、いまや強力な魔術兵を擁するに至った。それに引き換え、こちらは」


 そこで彼は言葉を切った。

 背後からの追跡に気付いたからだ。


「まずいな。やはり気付かれた。このままでは追いつかれる」

「一気に片付けてやりましょう」

「それは困る。これ以上、ティズの立場を悪くしたくはない」

「命より、弟の立場が大切なんですか」

「そうだ」


 迷いもせず、彼は言い切った。


「選択肢がある」

「はい」

「一つは、私が逃げるのをやめること。お前達だけなら、見逃してもらえるだろう。まだ誰も殺していないのだから」

「もう一つは」


 しばらく沈黙してから、彼はやっと言った。


「右手に折れる。つまり」

「赤竜の谷に隠れる?」

「そうだ」


 俺も少し考えた。


「行きましょう」

「正気か」

「逃げ切れるかもしれないのなら」


 今は議論している場合ではない。ミルークは黙って馬首を返して、北へと向き直った。

 ペルジャラナンの忠告が一瞬、頭をかすめる。だが、他にどうしようもないではないか。


 胸の奥に渦巻く無形の恐怖が、俺を捉える。不吉な予感が、微風のように漣のように寄せてくる。

 そして俺達の眼前には巨大な峡谷が聳え立っていた。それは闇夜の下でなお暗く、地を這う俺達を圧倒するばかりだった。

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