沈黙のアラワーディー

 予期せぬ幸運というべきか。それとも、悪意の親切というべきか。

 俺達がヌクタット村に到着した日の夜まで、この辺りには砂嵐が吹き荒れていた。風が吹けば、砂は吹き散らされる。必然、それまでの足跡も消されてしまう。それが今朝からはきれいに止んで、青空が見えていた。だから、真新しい馬の足跡が、消えずに残っている。

 これがまだ、無数の足跡が残されているのであれば、どれがミルークのものか判別できないとして、追跡を断念することもできた。彼には彼の理由や都合があって、ああして俺達を無視して立ち去ったのだ。しかし、現に後を追うことができてしまっている。

 だから、この灼熱の太陽の下、俺達は一日中歩き続けた。大急ぎで宿に引き返し、代金を支払って荷物を引き取り、慌てて出発した。程なく太陽は真上に腰を据え、動き回るのが難しい時間帯に差し掛かった。汗だくになりながら岩陰に隠れ、休憩をとった。

 ろくに保存食の買いだめもできなかったので、今ある手持ちで尽きてしまう。予期しない急な移動になったので、これらを消費するのはリスクになる。俺は迷わずシーラのゴブレットを使うことにした。


 そして今、夕暮れ時になっても、俺達はまだ歩いている。

 砂漠には点々と彼の馬の足跡が残されている。彼は南を目指していた。僅かな荷物で一人、どこへ行こうというのか。どう考えても彼の態度は不自然だった。ただ事ではない。


「ね、ねぇ、ファルス、ちょっと」


 さすがのノーラも、限界らしい。灼熱の大地を、砂に足を取られながら歩き続けたのだ。大の男でも音をあげるところだろう。


「そうだな、休もう」


 俺まで無理をして倒れてしまってはいけない。こういう時に不意討ちを浴びでもしたらどうなるか。余力は絶対に必要だ。

 その点で頼りになる仲間が一人増えたのは、ありがたかった。一番元気なのはペルジャラナンだ。彼にとっては実に快適な環境らしく、暑さをまるで意に介していない。

 しかし、さすがに不眠不休で動き続けるなんてできない。それはミルークも、馬も同じだ。


 適当な岩陰を見つけると、俺達はそこに身を寄せた。足下が固い岩盤であることを確認して、今夜の宿営地と決める。


「落ち着こう。行先はもう、だいたいわかってる」

「えっ?」


 我慢強いノーラといえども、肉体的な疲労は思考力をも萎ませるらしい。だが、歩きながらでも、考える時間ならいくらでもあった。


「あの軽装。遠くまでは行けない。馬だって、水も飼い葉も必要なんだから」

「そうね」

「ある意味、牛や羊よりずっと繊細な動物だ。まさか砂漠の真ん中で乗り潰すつもりでもないだろうから、あの馬で行ける範囲なんて知れている……となると」


 頭上は赤や橙に混じって、次第に藍色が広がりつつある。西日は聳える峡谷に遮られてもう見えない。そんな中、俺は荷物から地図を取り出して広げた。


「ここ。アラワーディー、ここが一番近い町だ」


 赤竜の谷に最も近い場所。そして、そこはもう、赤の血盟の支配地域ではない。


 疑問はいろいろある。

 そんなところになぜ行かなくてはいけないのか? ティズの名代として外交使節の役目を……だが考えにくい。

 黒の鉄鎖側の、手近な大都市が他にある。もっと東側にバタンという、それなりの規模のオアシスがあるのだ。当然、有力者もそちらにいるはずだ。また本当にトップと話したいのなら、南東端にあるジャンヌゥボンまで行くだろうが、わざわざ西回りの街道まで出る必要性がない。一応、もっと南にタフィロンという大規模なオアシスがあるとはいえ、黒の鉄鎖の中核勢力がいるわけではない。要するに、アラワーディーなんて田舎も田舎、方角もデタラメだ。

 一人で旅立ったのは? 周囲には五人くらい、お供がいたが、あれはミルークが追い払ったのだろう。あれらは誰だったのか。

 最後に、ティズはこのことを知っているのか? 昨日の朝までミルークはアーズン城にいた。では、黙って出かけたのか、それとも同意があったのか。同意はないが、無理やり飛び出してきたのか。しかし、追い払われた五人は、普通に考えれば経緯をティズに伝えるのではないか。


「そんなところに? でも、お仕事かもしれないじゃない」

「まっとうな仕事なら、僕らに挨拶したって問題なかった。先にアーズン城に行け、終わったら帰るからとでも言っておけばいいのに」

「秘密のお仕事ってこと?」

「だったらいいけど」


 どうだろう。こうなってくると、いろいろ雲行きが怪しい。ミルークとティズは歪な関係だ。

 そもそも二人とも長男ではない。当時、赤の血盟で最強の氏族集団だったネッキャメル、その跡継ぎはクリムだった。しかし、病弱だったために子孫を残さず早逝する。すると自然な順番で考えれば、次男のミルークが次の族長になるべきところ、なぜかティズが後継者になった。

 功績? 能力? だが、かつての南北間の紛争で活躍したのはミルークだ。正直、ティズにそこまでの声望があるかというと、疑わしい。といって、今からミルークが復帰するのも難しいだろう。何年もサハリアに帰らず、フォレスティアのエキセー地方に奴隷収容所をこさえて、勝手気儘な隠遁生活を決め込んでいたのだから。


「ティズに排除されるって可能性もある」

「それは……ううん、辻褄が合わない。だったら、私達にはアーズン城に行けとは言わないと思う」

「それもそうか。でもそう考えると、逆にミルークの方がティズを裏切るって可能性もなくなるのか? もし、それで深刻な結果になるのなら、僕らまで巻き込まれて」

「ミルークさんが私達をどう思っているか次第だとは思うけど」


 不確定要素が多すぎて、今の時点ではこれと断定できない。

 しかし、アラワーディーは、黒の鉄鎖の陣営に属する町だ。確か西部地方は、水場の多くはフマル氏族か、その支族が押さえているはず。黒の鉄鎖の中での最大勢力は、南東部に港湾都市を抱えるアルハール氏族だから、どんな形で相手取るにしても、適切な連中とは思えない。


「ファルス、引き返すのも手かもしれない」

「どうしてそう思う」

「ミルークさんが、急に冷たい人になったとは思えないし、お供の人達だって送り返していたわけでしょ? だとしたら、もしかしたらミルークさんは、危ないことに手を突っ込もうとしているのかもしれないから」

「そうだとしたら、僕らは見捨てることになるんじゃないか」

「私達を無視したのは、見捨てて欲しいってことじゃないの」


 それも道理か。彼が自分で選んだことに、俺が横から口出しする権利などない。

 また、俺達のように彼を知る人物が近くにいることで、身元が割れやすくなるリスクもある。その場合、俺達は単に迷惑をかけるだけだ。


 衝動的に俺もノーラも追いかけ始めてしまったが、これでいいのかどうか。確かに、彼の人生は彼のもの、どのような選択であろうとも自由であるべきだ。まして彼は一人前の大人で、それも世間の平均よりずっと優秀な人物なのだから。

 ただ……


「納得したい」


 気持ちはそれでは収まらない。

 申し訳ないとは思う。彼には彼の理由があって、ああしたのだ。しかし、俺には俺の気持ちがある。


「もし、ミルークがこのまま命を落とすようなことになったら、僕はたぶん、一生後悔する。これは我儘だ。仮に彼が死を選ぶのだとしても、せめてちゃんと話して、きれいに別れたい」

「そういうことなら、私も反対はしない」


 俺が理由を述べると、彼女はあっさり頷いた。


「ただ、ノーラは」

「ううん、そこは私も同じ気持ちだから」

「わかった。だけど、ペルジャラナン、これは」

「ギィ」


 ついていくつもりらしい。


「わかった。今夜は交代で休もう」


 翌日も強行軍を続けた。夕方になって、野営の後を見つけた。天然の湧き水のある小さな岩場だ。周辺には、黄緑色の草がまばらに生えていた。恐らく、昨夜のミルークは、ここで休んでいたに違いない。また、こういう場所を知っていたからこそ、一人でアラワーディーを目指せたのだろう。俺達も、遅れを感じつつもここを宿営地と決めた。

 右手には、相変わらず黒々と聳える岩山が見えた。だんだんと赤竜の谷に近付いている気がする。夜になると、遠くからフクロウの群れが鳴くような、奇妙な声が聞こえてきた。


「ギィィー」


 それを聞いたペルジャラナンが、初めて意思表示をした。

 ノーラが彼の心の声を聴いて、俺に伝えた。


「赤竜が鳴いてるって」

「あんなホー、ホーって鳴き方なんだ」

「普段は違うみたい。長老がいうには、ああいう鳴き方をするときは、何か悪いことが起きる前兆だって」


 確かに、耳にしているだけで不安になりそうな声ではあるが……


「ありがとう。気を付ける」

「ギィ」


 といっても、できることなどなさそうだが。だいたい、俺達の行先はアラワーディーで、ミルークともう一度会って話をしたいだけだ。

 仮に興奮した赤竜がアラワーディーに殺到したら、逃げるしかない。一匹、二匹なら始末できるだろうが、奴らは群れで獲物を狩るという。なるべく近付きたくはない。


 俺達が地平線上にアラワーディーの影を認めたのは、それから二日後の夕方だった。

 町とはいうものの、規模としてはヌクタットより少し大きいくらいか。ただ、ここはあのドゥミェコンとジャンヌゥボンの間を繋ぐ街道上にある宿場町なので、街の中心には幅広の舗装された道路がある。高野豆腐のような家々がまばらに建ち並んでいるが、農地は街道から遠いところに纏まっている。時間帯のせいか、ほとんど人通りがない。

 城塞のようなものはない。ただ、街道の脇に広場がある。足下は日干し煉瓦で埋め尽くされているが、多分、ワーム除けに、地下には岩でも埋め込んであるはずだ。問題は、そこに無数の幕屋が建ち並んでいることだ。


 ドゥミェコンを長らく維持してきた黒の鉄鎖なのだから、こうした宿営地があるのは不思議でも何でもない。ただ、キジルモク氏族の傭兵団がドゥミェコンを発ったのは、俺達が立ち去るよりずっと前だった。大人数での移動で足が遅いとしても、いまだにこんな場所にとどまっている理由がない。そろそろジャンヌゥボンに到着していてもいい頃だろうに。

 そこまで考えたとき、ふと違和感をおぼえた。ここにあるのは「テント」じゃない。「幕屋」だ。つまり、フォレス人を含む雑多な傭兵団が使うような普通のテントではない。どれもこれも同じようなデザインや装飾の、いかにもサハリア風の幕屋なのだ。いくつかの木の棒で天井を支え、そこに布をかぶせる。外から見ると、丸い形をしていて、天辺がふっくらとしている。


 こいつらは一体……


 心の中に穏やかならざるものを感じたとき、幕屋から一人のサハリア人が出てきた。よく日焼けした、目つきの鋭い壮年の男。それがじっと俺を見た。

 兵士? しかし、傭兵にしては、どうもおかしい。ピアシング・ハンドで確認した限りでも、まず、習得済みの言語がサハリア語しかない。それに動物使役のスキルが高い。どちらかというと、遊牧民そのもののような印象がある。


「ファルス」


 背中から囁かれて、はっとして目を逸らす。何事もなかったかのようにして、俺はただ歩き去った。宿、宿屋はどこかな、と探すふりをしながら。

 あれはヤバかった。目つきが、まるで敵を睨みつけるような。


「ギィ?」


 いや、ペルジャラナンのせいじゃない。あの男は、俺を見ていた。というか、リザードマンがいることに気付いてすらいなかった。夕暮れ時で、シルエットしか見えていなかったのだろう。

 この街は、異様だ。何か正常な状態にない。


 こんな場所に、ミルークが一人で?


「ノーラ」

「なぁに」

「時間がない。誰でもいい。近くにいる人の心を調べて。ミルークを見たって人を一刻も早く」

「わかった」


 物陰に落ち着くと、彼女は丁寧に詠唱を始めた。まず意識を拾い集め、それから一人ずつの精神に入り込む。

 こうしているうちにも、日が沈んでいく。気が気ではなかった。俺達が到着するより二日は前に、ここまで辿り着いているはずなのだ。


「そんな」


 彼女が急に詠唱をやめ、顔をあげた。


「どうした? 見つかったのか」

「落ち着いてね。ミルー……あの人は今」

「うん」

「町長の家の地下室にいる」

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