ヌクタット村にて

 自然に目が覚めた。まだ軽い眠気が、まるで蜘蛛の巣の中に突っ込んだみたいに顔に纏わりついている。だが、それが心地よい。

 背中が軽く強張っている。小さな木のベッドは、およそ上質とは言えなかった。布の内側に藁を詰め込んだところに、上下の毛布が一枚ずつあるだけ。肌触りもゴワゴワしていて、快適とは程遠い。だが、これがこの世界の普通なのだ。


 決して広いとは言えない部屋。小さな丸椅子と机があり、その上に陶製の水差しとコップが置かれている。あとは小さなランプか。嘴みたいに先端が突き出た形の、あまり洗練されていない代物だ。他には何もない。足下も壁も、くすんだ色の日干し煉瓦だ。窓にはガラスなんて使っていない。木の枠の向こう側から、朝の光が漏れている。俺はそっと近付き、窓を押し開けてつっかえ棒を当てた。

 外の空気は乾いていた。それでも、うまく説明できないのだが、何かの臭いが風に乗って流れてくる。そこに俺は生活感を見出す。


 ヌクタットは小さな村だ。陸上交易の拠点としての機能はあるが、村人はそれだけで暮らしているのではない。井戸水を頼りに作物を植え、牛に犂を引かせている。僅かながら羊を飼い、毛を刈って毛布や衣服を仕立てる。自給自足が基本の集落なのだ。

 もちろん、それだけでは貧しいので、ジャニブの男達も商売に精を出す。この宿屋の他に、小さいながらも酒場もある。そして、ある程度経験を積んだ男達は、運送業者としてあちこちを放浪する。家にとどまって農地を守るのは、女と子供、それに若い男達だけだ。


 さて、先を急ぐ理由もないが、ここで足を止める必要もない。どうしようか。

 アーズン城までまた別の馬車を雇うという手もある。ここまで来たのはドゥミェコンへの物資搬入を仕事にする男のものだったので、彼はまた、折り返してあちらに向かう。居残り組の女神挺身隊の若者達のために、食糧を運搬するのだ。それが済んだら、今度こそムスタムに引き返す予定らしい。だから、別口で交渉しなければいけない。

 もちろん、歩いて行ってもいい。砂漠を渡る旅ではあるが、今度はそこまで遠くもない。三日か四日もあれば辿り着けるらしい。同じ砂漠地帯でも、ドゥミェコン周辺の極端な乾燥地帯とは異なり、雑草くらいは生えている。水場も点在しているらしいし、足下も固い岩盤が多く、ワームの奇襲を避けやすい安全な道だ。

 そこまで行って空振りだった場合、また数日かけてブスタンまで歩く必要がある。ただ、そこからハリジョンまで歩くのは馬鹿馬鹿しい。その場合は、更に北東方向に進んで、海沿いにあるジャリマコンを目指すべきだろう。ムスタムとハリジョンのちょうど中間あたり、トーキアの対岸にある港湾都市だ。そこから船を手配すれば、苦労は小さい。なお、その街もネッキャメル氏族の支配地ではない。同じく赤の血盟に属するニザーン氏族の領地らしい。


 まぁ、相談して決めればいいことか。

 そう考えて、俺は日除けのローブを頭から被ると、部屋から出た。


「おはよう」


 既にノーラもペルジャラナンも目を覚ましていた。二人は所在なく、朝食用の掘立小屋の下に佇んでいた。ノーラも俺と同じく、フード付きのローブをかぶっている。俺や彼女に限らず、ここにいる人はみんなそうしている。

 オープンテラスといえば聞こえはいいが、見た目は前世の、あの町内会とか学校が立てるテントみたいなのを、木材と藁で拵えたようなお粗末な小屋だ。壁もなく、剥き出しの地面にガタつくテーブルと椅子が置かれているだけ。それでも直射日光を遮ってくれるだけ、ありがたくはあるのだが。

 他の客はいなかった。もともと客が少なかったのだろうが、普通の商人ならば朝早く起きて、涼しいうちに距離を稼ぐ。こんなにのんびり目を覚ます間抜けはいない。

 ただ、それにしても周囲の目には戸惑いがあった。食事を出そうとする女将さんらしき中年女性は、こちらをまじまじと見つめるばかりで、手が遊んでいる。どうしてリザードマンがこんな場所でおとなしく寛いでいるのかと。


「朝食を三人分、ください。宿代に含まれていますよね?」

「ああ、ええ」


 要求を受けて、彼女は俺の顔と奥にいるトカゲを見比べた。


「三人分? あれは」

「人間と同じものを出してくれればいいです。僕らが近くにいれば、絶対に暴れません」


 彼女はぎこちなく頷くと、すぐ別の建物の奥へと引っ込んでいった。


「今朝は何が食べられるかしら」

「奮発したからね。僕の予想では、麦の乳粥に羊肉を煮込んだのが入ってる」

「どうしてわかるの?」

「匂いかな」


 厨房には匂いがつきものだ。ましてやここには、ノイズになるものが少ない。だから、どんな調理をしているかが一発でわかる。料理は五感でするものだ。加熱されて色の変わる食材、フライパンの音、どれも大事な情報源だ。


「座ろう」


 そうして三人、のんびり座って待っていると果たして、さっきの中年女性がトレイを手に、近付いてくる。


「ほら、当たった」

「よくわかるわね」

「なんだろうね。なんとなくなんだけど、わかるようになる」


 神経がそこまで通っているような感覚、とでもいえばいいのか。とにかく、わかるものはわかる。


「ああ、そのまま。スプーンも使えます」


 ペルジャラナンに配膳するのに戸惑った彼女に、俺は言った。席を立つ。


「本当に安全です。ほら」


 俺は手を伸ばして、彼の頭に触れた。ひんやりした鱗の手触りが気持ちいい。


「ひっ」

「ほら、おとなしい。触ってみますか」

「えっ」

「大丈夫、何も起きませんよ」


 それで彼女はおずおずと手を伸ばして、彼の頭に触れてみた。


「ギィ」


 ペルジャラナンは口をカパカパ開け閉めして、彼女をつぶらな瞳で見上げている。


「あらやだ、かわいいかも」

「でしょう?」

「うちにも欲しいね」

「譲れませんよ。売り物じゃありません」

「じゃ、見せ物かい? ははは」


 笑いながら、彼女は肘で俺を小突き、手を振ると、厨房へと引き返した。


「食べよう。僕らにはおいしいと思うけど」


 ワームや地下のキノコほど刺激的な味わいは期待できないだろうが。


「いい村ね」


 ゆっくり食べながら、彼女は後ろを振り返る。まばらに家が建ち並び、その向こうには細切れの農地が見える。牛がのんびりと歩く。この辺はかなり暑いが、それでも今は藍玉の月、一応秋だ。そろそろ冬小麦の種蒔きの準備が始まっている。


「ピュリスほどには栄えていないよ」

「いいじゃない。別に私は、こういうところで暮らすのもいいと思ってるのよ」

「毎朝、水汲みに出かけなきゃいけないよ。それも何度も」

「村の中に水場があるんだもの、恵まれてると思うわ」


 それもそうだ。本当に暮らすのが難しい地域だと、そもそも水を汲むのが数時間もかかる重労働だったりする。

 少し想像してしまった。粗末な服を着て肩に桶や瓶を担いで歩く大人のノーラの姿。ピンと背筋を伸ばしている。そうでないと重いものを運べないから。けれども、そんな姿が妙に似合っているように思われた。

 女の子に対する感想としては少しどうかと思うのだが、ノーラには本当にそちらのほうがしっくりくる。逆に煌びやかなドレスを着せようとすると、どうしてもイメージが纏まらない。ちぐはぐになってしまう。


「で、どうするかなんだけど」

「うん」

「今日の午後にでも歩いて出発するか、馬車を探すか。明日また考えるか」

「別に私はどれでもいいけど」


 そう、彼女にこだわりはない。俺にも。

 今はのんびりした時間を過ごせている。それなりには快適だ。少なくとも、ドゥミェコンのあのタコ壺生活に比べたら、雲泥の差なのだから。


 ……少し、気持ちを緩めてもいいか。


「一日くらい、ボーっとしようか。馬車の中じゃ寛げなかったし」

「そうね」


 思えば、張り詰めっぱなしだった。考えてみればとんでもない一年だ。年明けは魔宮の奥底。そこから命懸けで脱出したかと思えば、いつ毒に侵されるともわからない沼地で冒険者稼業に勤しんで。それが終わったかと思いきや、いきなり敵国の王宮だ。密命を受けたスーディアではバケモノ相手になんとか生き延びて、ムスタムでは少し休んだものの、そのまま人形の迷宮に挑戦。

 アーズン城でティズに会うとなれば、こちらもそれなりの礼儀が求められる。体は休まっても、緊張は解れまい。そう考えると、一日サボるというのは、実にいい考えだと思われた。


「馬に乗れればなぁ」


 徒歩で行けば三日はかかるアーズン城だが、馬に乗れるなら一日で行ける。

 サハリア東部は、優れた馬の産地とされている。だが、馬だけではない。言わずと知れた駱駝、騾馬などの他、珍しいところでは走竜なるものも存在する。乗り物に恵まれる分、乗り手の方も数多く、優秀だ。

 ただ、馬は持っていないし、ここで買い取るのも難しいだろう。レンタルで乗り捨てできるのでもなし、そもそも俺達には騎乗のスキルもない。

 高速移動だけなら、鳥に化けるのが一番速い。しかし、これでは荷物を運べない。黒竜の体に神通力まで使えば、それなりには飛べるだろうが、目立ちすぎるし、飛ぶことに向いてなさそうな体でもあるから、速度もあんまり期待できない。第一、今は俺一人の旅でもなくなっている。

 当面は必要ないか。南方大陸の奥地、大森林に入ったら、馬で速度を稼げるなんてこともなさそうだし。


「じゃあ、今日はのんびり散歩かしらね」

「それがよさそうだ」


 歩き回るなら、今のうちだ。もう少しすると、太陽が真上から照りつけてくるだろう。秋とはいえ、ティンティナブリアの初夏くらいには暑い。

 食事を済ませると、俺達は立ち上がった。


 静かな村だった。

 朝の早い時間に外での作業を済ませた女達は、窓も扉も開け放したまま、家の中での作業に従事している。覗き放題なので少し目を向けてみたら、少女と太った母親が、ずっと綿を糸に紡ぐという、果てしない作業に取りかかっていた。綿にとりついている種を取り除こうとして、少女が躍起になっていた。

 遠くでは、成人したての若者が、声を掛け合いながら牛を追っている。俺達が立ち止まってじっと見つめていると、誰かがペルジャラナンに気付いて指差した。だが暇ではないらしく、俺達が落ち着いていて無害であるとわかると、何事か言い合いながら、すぐ関心を他に向けた。

 村の外側の掘立小屋では、髭もすっかり白くなった老人が、木槌で木の車輪の仕上げをしている。新品を作っているようには見えないから、修理だろうか。二、三度打つたびに車輪を水平に持ち上げて、目で確認している。

 道の脇、小さなスペースにも畑がある。青々とした韮。この時期に収穫もされずにあるところを見ると、まだ一年目だろうか。


 ゆったりとした時間の流れ。もちろんみんな忙しくしているのだが、俺達だけは旅人の特権を享受している。彼らには彼らの苦労があるのだろう。

 それでも、こういう暮らしも悪くないと思う。貧しいけれどもみんな平等に貧しい村。仕事はいつもついて回るし、自由だって限られている。だけど居場所がなくなることもない。自分の中には、富貴を求める気持ちはさほどなく、むしろ村人の安息にこそ羨望をおぼえてしまう。


 小さな村でしかないので、見るべきものも、すぐおしまいになる。

 まぁ、これからはだんだん暑くなる。日差しも厳しいから、日中は日陰で休んで、午後にまた軽く散歩したら、それで今日はお休みか。


 そう思って、すっかり緩んだ気持ちで村の外れまでやってきたところだった。


 馬蹄の響きが耳朶を打ち、集団が横を駆け抜けていく。はっとして振り返るが、一見して身なりが違う。村人のものではない。腰には曲刀を佩き、衣服も色とりどりに染められている。頭にはターバンのようなものを巻いている。それが五人ほど、馬に乗って村の外へと走り出していったのだ。

 何事かと思い、彼らがやってきた方向に目を向ける。するとそこには、一頭の馬と背の高い男が立っていた。

 暑さにくたびれた葉の少ない樹木と、古い日干し煉瓦の家。田舎のありがちな景色を背にしながらも、その人物の存在は空間の意味をまるで違ったものにしてしまう。清華とでも言おうか、ありふれた風景すら、彼がいるだけで不思議と調和のとれた一幅の水墨画のように見える。

 赤い長衣、細長い髭、そして印象的な眼差し。一目で高貴な人物とわかろう姿だ。それに、馬もなかなかだ。一回り大きく、よく肥えている。毛並みも色艶も良い。


 いや、しかし、そんなことは問題ではない。

 その人物に、俺は確かに見覚えがあった。


 だが、自分の目が信じられず、思わず歩み寄る。二度、三度と見直す。だが、間違いなかった。


「ミルーク、さん?」


 他人の空似ではない。確かに彼だと、ピアシング・ハンドが告げている。

 彼は、俺とノーラを見比べた。それから、やや怪訝そうな顔で、おとなしくしているペルジャラナンにも目を向けた。


「お前達は誰だ?」


 頭を一打ちされたような気がした。覚えていない? いや、見分けがつかないのだろう。五年も経ったのだ。


「ファルスです。いえ、あの、収容所にいたノールとドナ」

「何のことかわからないな」


 俺達の自己紹介を遮るように、彼は高圧的な口調でそう言った。


「それでファルスとやら。お前達はどこから来た。どこへ行くつもりだ」

「何を言っているんですか。僕はあなたに言われて、ここまで来たんです。ムスタムから人形の迷宮に行った帰りに、ティズ・ネッキャメルを訪ねようと」

「そうか」


 彼は瞑目して頷いた。


「アーズン城なら、ここから北東に三日も歩けば辿り着けよう。ティズもそこにいる」


 回答がおかしい。明らかにわざとだ。


 やっぱり彼はミルークだ。そして、俺達が誰かもわかっている。

 最初、彼の拒絶に、俺は戸惑った。忘れたはずはない。あえて無視しようとしている。では、それはなぜ?

 もしそれが政治的な理由によるのなら……つまり、俺がタンディラールの腕輪を受け取ったことを問題視しているのだとすれば、ティズの居場所なんて教えない。行くべきではないと言うだろう。或いは俺に向かって罵倒や叱責を浴びせるとか。だから、彼はその辺を気にしているのではない。

 だいたいからして、彼がミルークでないのなら、どうしてティズの居場所がわかる? そこにいると断言している。つまり、見てきたからだ。彼も昨日、このヌクタット村にやってきた。その馬に乗って。出発の朝まで、ティズが城にいたと知っている。


「さっきの方々は、お供の方々ですよね? どうしてあなたを一人おいて、去ってしまったんですか」


 それには答えず、彼は俺達の間を割って、押しのけて通った。


「悪いが行くところがある。お前達も無事、旅を終えられるといいな」


 何も言うつもりはないらしい。といって、心を簡単に読み取れるほど、能力が低いのでもない。

 しかし、ミルークほど身分のある人物が、どうしてたった一人で。それに、どこに行こうというのだろう?


 鮮やかな身のこなしで馬上に跨ると、彼は軽く手綱を引いた。それだけで察した馬は、すぐさま駆け出した。


 呆然としてそれを見送った俺達だったが、黙ってノーラと目を見合わせた。

 言葉を交わしもせず、俺達は宿に向かって一目散に駆け出した。

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