砂塵の彼方に去る

 トカゲ事件より二日。

 俺達はいつもの酒場で最後のひと時を過ごしていた。


「辞退すんのかよ」

「ああ。身の丈に合ってない。ムスタムで手続きするつもりだ」


 人形の迷宮という、一千年以上にわたって人間世界を脅かしてきた恐怖の象徴を討った。これは歴史的な偉業だ。キースをはじめとして、俺達のパーティーの記録は帝都に送られる。そこで審査を受けて、冒険者としての更なる昇格について審査される。

 既にエメラルドに達していたキースは、これで事実上の最上級冒険者であるサファイアの階級章を手にすることになるだろう。一応形式的には、この上に支部長のルビー、帝都のギルドの最高幹部が持つオニキス、そして理屈の上では皇帝が兼任するギルドマスターのオパールの階級が存在するが、これらは実際問題、冒険者とはいえない。

 俺も、トパーズへの昇格が確定したばかりだが、追加で昇格が決まりそうだ。あくまで人形の迷宮の主討伐者はキースで、俺はそのフォロワー扱いだが、それでもエメラルドの階級章を与えられるであろうことはほぼ確実らしい。

 だが、同じく昇格が期待できるガッシュは、それを蹴るつもりだという。


「誤解するなよ。この腕を治したら、俺はもっと強くなる。今度はぶっ飛ばしてやるからな」

「ハッ、ならいい」


 まだ上を目指すつもりなんだと、ここで滅多に与えられないエメラルドの階級章を貰って、それを勲章にして生きていくつもりなんかないんだと。そういう前向きな気持ちで辞退するのなら、肯定できるというものだ。


「問題はお前らだよなぁ」


 キースの視線は、ビルムラールやアナク、ノーラに向けられる。


「一応、ノーラとビルムラールさんは、今回の件で二階級特進の可能性があるとかで、受付……支部長代理が書類を用意するそうですが」

「アナクはアメジスト止まりか」

「ふん、構わん。それこそ身の丈に合っている。なにしろ、私はこの街以外、世界を知らないんだからな」


 奇妙なことに、こうした「出世」に、誰も興味を示さなかった。みんなそれぞれ向いている方向にそうした目標がなかった。


「ほいよ、ドライフルーツのケーキだ。暑苦しい砂漠のオアシスの農場で苦しみながら働いた奴隷の汗をたっぷり吸ってるから、うまいぞ」

「オヤジ、それシャレになってねぇから」


 かなり無理やり感のあるアピールに、ガッシュが呆れてみせた。


「もう遠慮する必要なんかないからな」


 だが、店主も後に退く様子は見えなかった。


「今日で閉店だ。迷宮がないも同然じゃ、仕事もありゃしねぇ。それにしても、もうじきここでおっ死ぬかと思ってたのに、まさかまさか、ワハハハ」


 ガッシュの背中を叩きながら、彼は笑った。


「面白いものを見られたからな。これはこれでいい」

「オヤジはどうするんだ」

「そうだな、陸路でワディラム王国に帰るつもりだ。もうカカァもいねぇし、遠い親戚がちょいちょい残ってるだけだが、どっちにしたってここにゃあ住めんからな」


 これからをどうするか。

 実に悩ましい問題だ。


「結局、みんなムスタムですか」

「しょうがねぇだろ」


 キースが足を組み、ふんぞり返る。ビルムラールが真顔で言った。


「まだ、ガッシュさんの火傷には注意が必要ですから。最低でも、ある程度の環境を用意した上で、それなりの医者に引き継ぐまでは、私が診なくては」


 ガッシュは、いったん故郷に帰ることにした。但し、腕が治ってからだ。それまではムスタムでのんびり過ごす予定になっている。

 だからビルムラールは、ガッシュの治療の目処がつくまでは同行するつもりだという。完治するまで一緒にいるわけではないが、まだ放置はできない。


 だが実は、ガッシュの腕はほぼ治りかけているはずだ。

 ケッセンドゥリアンを解放した翌日、ピアシング・ハンドが使用可能になってからすぐ、魔導治癒のアビリティを、続いて魔術核を移植した。既にそれらはこっそり回収済みだが、あれでかなり症状が改善したらしい。


 とにかくそうなると、ビルムラールと一緒に行くつもりのキースとしても、そこまでついていくしかないのだ。


「俺はさっさとワディラム王国に行きてぇんだがなー」

「ちゃんと案内しますから。それに、学院は割と西の方にありますから、船で行ったほうが早いです」


 キースの目的地は、ワディラム王国の都だ。そこには知恵の学院なるものがあって、西方大陸における薬学と魔術の中心地となっている。それぞれの学問分野ごとに塔があり、そこに専門家が集まって日々を研究に費やしているのだとか。


「私の紹介があれば、教授も受け入れてくれると思いますから」

「おう、そこはしっかり頼むぜ」


 彼の目標は、戦士として更なる研鑽を積むことと決まった。今回の探検を通して、自分はどこまでいっても戦士なのだと再確認したのかもしれない。それでまず、彼が考えたのは、新たな技術を習得することだった。ビルムラールの魔術師としての能力を目の当たりにして、彼もまた、新しく別の魔術を学んでみる気になったのだ。


「問題を起こさないでくださいよ? アナクさんにも迷惑がかかるんですから」

「んあ? 俺のことは俺のこと、アナクはアナクだろが」

「そうは言っても、私の信用にかかわるんですよ」

「それはお前がなんとかすればいいだろ」

「よくないですよ! 巻き込まれたら大変です。私は私で、石化魔術の治療法を研究するために行くんですから」


 ビルムラールに引率されて、アナクもまた、ワディラム王国に向かう。彼女の場合、必要なのはまず教育だ。人間の普通の社会を学びつつ、生きていく術をも身に着ける。しかし、目的はそれだけではない。


「学院に行けば、わかるかも知れんのだろう?」

「その産着ですね。出どころがわかるといいんですが」


 サハリア人の刺繍には、それぞれ出身部族ごと、地域ごとのデザインというものがある。その伝統に従って、アナクの産着の作成者を突き止めるのも、ワディラム行きの大きな目的の一つだ。


「ただ、後のことはくれぐれも頼みたい」


 座ったままだが、彼女は頭を下げた。その視線の先には、老人が座っている。


「もちろんですとも」


 俺達に黒竜のローブや、アダマンタイトの盾を譲ってくれたあの商人だ。


「迷宮を討ち滅ぼし、わしらの無念を晴らしてくれた恩、忘れるわけにはいきませんでな」


 アナクが保護していた少年少女を引き取り、ムスタムで社会に適応させる仕事を担うのが彼だ。俺とノーラが差し出した金貨五万枚に、アナク自身の取り分から金貨四万枚を加えて、その費用に充てる。


「息子や娘が増えたと思って、面倒をみますとも」

「ああ、そうだ、これを」


 俺は手紙をビルムラールに差し出した。


「この件について、ムスタムの有力者とお話しできたほうがいいでしょう。あちらにはバイローダ・フリュミーというフォレス人の顔役の方がいらっしゃいます。ここでの出来事について簡単に記しておきました。きっと力になってくださるでしょう」

「確かに預かりました」


 そんなやり取りに興味をなくしたキースは、スプーンを突っ込んでケーキを食べ始めていた。


「ん、これ、うめぇな」

「奴隷の汗がか」

「最高じゃねぇか」

「ひでぇ」


 アナクの軽口にも怯まないキースに、ガッシュが苦笑いする。

 そこでキースが、ふと視界の端に映った不景気な表情に、文句をつけた。


「お前、そんなマズそうなツラして食うんじゃねぇよ」

「あ、いえ、お、おいしいです」


 なぜかこの場に混じっているコーザが、おずおずと返事をする。


「ご馳走食えるのも今日くらいまでだろ」

「はい」


 人形の迷宮がなくなった以上、女神挺身隊の任務もこれで終わり。他にも世界の辺境はあるが、再派遣の可能性は低いという。


「撤収は決まったんですけど、その……団長が寝込んでしまって。ムスタムに向かって出発できるの、早くて一週間後になりそうで」

「どーすんだ。店とかみんな閉まっちまうだろ」

「なので、最後はもう、配給物資を自炊ですね」

「ま、よかったじゃないか」


 ガッシュが笑顔で言う。


「なんでも、他の世界の辺境とかは、更なる受け入れができる態勢にないとかで、任務自体、終了になるんだろ?」

「は、はい! それは。一応、迷宮攻略に貢献した、という名目で……一足早く、市民権ももらえそう、なんですけど」

「けど、なんだよ?」

「はは……なんだか、なんだか……情けなくって」


 それはそうだ。

 帝都での競争に負けて、それでも帝都の福祉に守られたいからと挺身隊に参加した。そこでカモにされまくった挙句に迷宮に座り込む毎日。自らを鍛えるでもなく、魔物に挑むでもなく。自殺者まで出たのに、訴え出ることさえできなかった。それがオルファスカの仲間の甘言に乗って大事な遺書を手放し、気が大きくなって、勢いで女遊びも覚えて。そんなこんなでキブラの大攻勢を招いてしまった。そこで大勢が殺しあって死んでいく中、コーザはただただ怯えて、泣きながらしゃがみこんでいただけだった。

 結局、棚ボタで晴れて帝都への凱旋と相成ったわけだが、そこに彼自身の努力や奮闘は、一切含まれていない。


「泣き喚いて他所からせびり取れるもんなんざ、その程度の価値ってこった」


 キースがそっけなく言う。


「本当に欲しけりゃ、てめぇで掴み取るしかねぇ。じゃなきゃ、どこまでいっても満足なんかできゃしねぇよ」

「は、はい」

「ま、首と胴体が繋がってんだ。次があるだけよかったと思うんだな」


 ガッシュが俺に振り向いた。


「でも、お前はピュリスに帰らないのか」

「え、まぁ、はい」

「なんつうか、もう、そんだけ暴れまわったら、十分だと思うけどなぁ……陛下だって、帝都の学園から帰ってきたら、すぐ軍の幹部にしてくれるんじゃないか」

「いや、陛下は怖い人なので、あんまりそういう欲はないですね」


 これは本心だ。

 だいたい、使徒が絡んだせいとはいえ、スーディアであんな神モドキと戦う破目になったのも、もとはといえば、国王陛下の密命あってのこと。もう二度とごめんだ。


「南方大陸に行くつもりってのは聞いてるが、それだってムスタムから船に乗ったほうが早いんじゃないのか」

「ま、まぁその……僕の場合、これがありまして」


 俺が懐から取り出したのは、銀の指輪だった。


「なんだそれ」

「僕が奴隷収容所にいたときに、ミルーク・ネッキャメルからもらったものですよ」


 みんなが怪訝そうな顔をする中、俺は来歴を説明する。


「今は奴隷だけど、もし自由の身になったら、これをもって弟のティズに会いに行け、と言ってくれました。だから、サハリア東部に立ち寄ろうかと思ってるんです」


 説明が終わると、一瞬、みんな黙り込んだが、いきなりキースが笑い出してしまう。


「ブハハハ! お前、バカじゃねぇか! バハハハ!」

「キースさん、そんな言い方」

「だってお前、銀の指輪だろ? なのにお前、腕に何つけてんだよ、黄金の腕輪だろが! ブハハハ!」


 やっぱりそういう意味か、と納得はする。

 もう五年も前のこと、この指輪を初めてイフロースに見られたときの反応を思い出す。明らかに彼は不機嫌そうだった。

 彼からすれば、詐欺にも等しい振る舞いだったに違いない。エンバイオ家の手駒にしようと思ったから金を払って購入したのに、その奴隷にはネッキャメル氏族の指輪がくっついていた。ティズに会え、というのは、つまりそういうことだ。もし俺が自由民になり次第、ティズの下に辿り着いていたら、彼はきっとミルークの意志を受けて、俺に騎士の身分を与えたに違いないのだ。

 タンディラール王の腕輪を貰って正騎士になった後に、従士になるための指輪を手にティズに会う。順番がチグハグだ。


「なので、僕は明日、ヌクタットに向かう馬車に乗って、そこからは歩きでネッキャメル氏族を訪ねるつもりです」

「大丈夫か?」


 ガッシュが真顔で言う。


「あそこも赤竜の谷に近いとこだしな。こっからだとちょうど反対側だけど」

「そうそう襲われたりはしないでしょうし、心配もそこまでは」

「ま、お前だし、滅多なことはないだろうけど」


 チラリとノーラを見る。


「ノーラちゃんの方が心配だな」

「私はまだピュリスには帰れないから」


 スッパリと言い切る。


「ファルスを連れ帰るまでは、私も帰らない。絶対に」

「ひょぉ」


 結局、彼女は二度にわたって死にかけた。窟竜の襲来で上の階から落とされたときと、レヴィトゥアの力魔術で壁に叩きつけられたときだ。保険としての魔導治癒の能力がなかったら、きっと命を落としていただろう。

 本音では、だからもう、連れていきたくはない。だが、帰れと言って帰ってくれるような少女でもない。

 ただ、次の目的地は、平和になりつつあるサハリア東部だ。危険な大森林に挑む前に追い返せるなら、それで十分間に合う。差し当たっては、気軽な旅を楽しめばいいのかもしれない。


「で? その後はどこに行くんだ? 南方大陸っつったって広いだろ」


 残った酒を呷りながら、キースが尋ねる。


「できれば、大森林に行ってみようかと」

「ナシュガズってやつを探すのか」

「それだけではないですが……興味はありますね。いろいろと」


 その奥地にあるという、不老不死の果実。これを手にするために。一番手近な不死への手がかりだ。


「んじゃあ、また顔を合わせるかもな」

「え? キースさん、ワディラム王国に行くんでは?」

「学院とやらで一通りやることやったらよ、オラ、前に言ったろが、俺はキトまでしか見てねぇんだよ。あっちは」


 そうだった。若き日のキースは南方大陸まで旅をして、キト港で南に向かうか、東に向かうかを選んだ。結局、南方大陸の北岸を回って東方大陸南部のワノノマ人居留地を目指した。

 美しい海と豊かな商業資源で知られる『真珠の首飾り』を、彼はまだ、目にしたことがないのだ。


「そん時は、またビルムラールに案内させるつもりなんだがな」

「わっ、私ですかぁっ」

「おう、お前、間抜けだけど案外便利だからな。たっぷり利用させてもらうぜ」


 そんなやり取りをじっと見ながら、静かに淡々と食事をしていたのがペルジャラナンだった。ナイフとフォークの使い方も一回で覚えたらしい。皿の上の食べ物を手掴みすることはなくなった。


「それより」


 俺は彼にそっと振り向いた。


「本当にアナクについていかなくても? 僕と来ても、僕はリザードマンの言葉はわからないし……」

「ギィ」


 いや、ギィとか言われても。


「これはもう、諦めるしかないな、ファルス」


 アナクが笑いながら言う。


「もともと、ペルジャラナンは祖先の歴史に興味があったらしい。だが、自力では海を渡るどころか、人間の港まで行くのも無理だからな。そこでお前がそちらを目指しているとなったら、家畜になってでも行ってみたいという話になるわけだ」

「ギィィ」


 南方大陸の大森林に挑む予定の俺にくっついていけば、海を渡ることができる。世界を知ることができる。そういう理由で、若きリザードマンは長老を見送って、ここに居残っている。

 しかし、俺の旅はそんな気楽なものでもないのだが……


 下を向いて右手に嵌められた指輪を見る。赤い宝石が飾られた、古い品だ。

 アルマスニンからのプレゼントを受け取った身の上としては、すげなく拒絶するのも憚られた。


「っと、そろそろか」


 別の酒場にアナクの保護していた子供達を預けてある。そちらでも食事をとらせているが、あまり放置しておくわけにもいかない。

 ムスタムまでは、俺とノーラ、ペルジャラナン以外は全員、一緒に行くことになっている。


「見送ります」


 俺は席を立った。


 昼下がりの太陽の下、風が少し吹いていた。足下の固い砂岩の大地の上に、目の細かな黄色い塵が舞う。

 騒ぎ立てる子供達も、今は幌付きの馬車の中だ。一応、物資輸送の冒険者が護衛についている。帰路には積み荷がないので、代わりに乗せてもらった。


「それにしても」


 汚れの取れない白い陣羽織をはためかせながら、キースが俺に言った。


「お前とはよくよく縁があるな? どういうわけだか知んねぇが」

「お互い、まだ命があって、運がいいと思います」

「ハッ! 違ぇねぇ。どっちか死んでても不思議はなかったからな」


 本当に。内乱の時も、その前の誘拐事件の時も。紙一重でどちらかが死んでいた。


「けどまぁ、それがつまんねぇってこたぁあるぜ?」

「えっ」

「まだ俺ぁお前の本気を見てねぇからよ。どっかで出し惜しみなしの全力を見てみてぇもんだ」

「僕は嫌ですよ、冗談じゃないです」

「ハッ」


 手を振りながら、彼は背を向けた。


「じゃあな」


 ガッシュとビルムラールも、俺に手を振って馬車の後ろに乗り込んでいく。

 それを見送りながら、アナクが俺に詰め寄ってきた。


「屈辱だったぞ、ファルス」

「いきなりどうした」

「忘れたのか? それともとぼけているのか?」


 彼女の顔には、獰猛な笑みが浮かんでいた。


「私は今まで、いつでも誰かに頼られてきた。いや、頼らせてきた。お前だってそうだった。違うか?」


 そうだ。迷宮に挑みたくて困っていた俺に、金次第で裏口を案内してやると。つまり、アナクに頼っていた。

 人に自分を頼らせて、主導権を手にする。彼女はそうやって生きてきた。この砂漠の街で、アナクは貧しくとも強者だった。


「なのに、あの時、私は初めて……」


 そこで彼女は言い澱んだ。

 バジリスクによって生き埋めにされたときのことだ。あんなに感情を露わにして、人を頼ったことなど、これまで一度としてなかったのだろう。その年齢になるまで、ずっと。


「これでは収まりがつかん」

「どうしろっていうんだ」

「どうもしなくていい。だが私は、物乞いにはならない。欲しいものは自分の力で手に入れる。奴隷にはならない。やるべきことは自分で決める。何であろうとも」


 黒い瞳で、それこそ砂漠の太陽のような瞳で、彼女は俺を焼き尽くそうとした。そこには途方もなく苛烈な魂が宿っているかのようだった。

 アナクを何かに喩えるとしたら、何が一番しっくりくるだろう? 迷うことはない。灼熱の砂漠に君臨する赤竜。これ以外にあるだろうか。


「首を洗って待っていろ。だが、まずは私が人間になってから。すべてはそれからだ」


 背を向けながら、彼女は言った。


「それまでは、勝手に死んでくれるなよ」


 それだけで、彼女は後ろを振り向きもせず、馬車に乗り込んだ。

 全員を収容したと確認した冒険者が、合図をして声をあげる。駱駝が鞭の音でノロノロと走り出す。ガタゴトと揺れながら木の車輪は砂塵を巻き上げて、見る間に遠くへと走り去っていった。やがて風が強くなり、大きく砂埃を巻き上げると、もう何も見えなくなってしまった。


「みんな、行っちゃったわね」


 後ろからノーラの声が聞こえた。


「ああ」

「ねぇファルス」


 じわりと不安が心の中に広がる。


「ファルスはこの旅で、何をしたいのかしら」

「別に、なんでもいいだろう。僕は僕のしたいようにするだけなんだから」

「そうね」


 既に彼女は気付きかかっている。俺には、人に言えない目的があるのだと。


「それで? 次はどこに行くの?」

「言った通りだよ。ヌクタットに出て、そこからネッキャメル氏族のティズを訪ねる」

「そう。じゃあ、私もご挨拶しないとね」


 そしてまたもや、ちょっとやそっとでノーラを振り切るのは無理だと思い知らされた。

 まったく、何をどうやったらこんなに強情な娘に仕上がるんだろうか。


「見送りも済んだ。僕らも今夜までは泊まりだ。宿で休もう」

「ねぇ」


 声をかけられて、足を止めた。


「目当てのものは、なかったのね」


 図星をつかれて、言葉が出ない。


「でも、無駄足だったのかしら」

「何が言いたい」

「私は、ここに来てよかったと思う」


 ノーラはまっすぐに俺を見つめてそう言った。


「気付いてないのか、気にならないのかはわからないけど……少なくとも、みんなは救われたと思う。ファルスの手が届いたところには、光が差したんだって」


 ガッシュは、心ならず傭兵団に属していたが、冒険者としての夢を叶えた。

 ビルムラールは、目的だった石化魔術を目の当たりにして、次の目標を見つけた。

 キースは、自分の生き方を見つめ直して、更なる鍛錬を志した。

 アルマスニンはレヴィトゥアの脅威を退け、迷宮に留まる義務からも解放された。

 アナクは、背負っていた子供達に未来を与え、自らも人間になる道を歩みだした。

 コーザ達も救われた。女神挺身隊がこの地にやってくることは二度とない。

 そして一千年以上、迷宮に囚われていたケッセンドゥリアンは、やっと自由になることができた。


 けれども……


「たまたまだ」


 俺は、自分の手をじっと見つめる。

 この手で、また大勢の人を殺した。喜びながら、楽しみながら殺した。まるで子供が砂場の砂山を蹴散らすようにして殺した。

 俺と関わる人々が光の下へと立ち返っていくのに、なぜか俺自身は、どんどん深い闇の中へと迷い込んでいくかのようだ。


 この旅路に、帰り道はあるのだろうか?

 舞い散る砂塵のような我が身の儚さに、ふとそんな思いに駆られてしまう。


「次はどんな街を見られるのかしらね」


 これからどこか楽しいところに行こうとしているかのように、彼女はそう言った。


「また暑苦しくて砂だらけのところだよ。残念だったね」

「いいじゃない。ねぇ、キースさんの言う通りだわ」


 俺の背中を軽く叩きながら、ノーラは言った。


「楽しまなきゃ損よ」

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