最下層に潜る前の小休止

 波一つ立たない静かな水面が、青白い光にうっすらと照らされている。

 地下七階のアルマスニンの集落で、俺は一人、貯水池の横にぼんやりと座り込んでいた。


 思えば、死に物狂いの撤退だった。窟竜が俺達を付け狙う可能性だってあった。その前に、そもそもレヴィトゥアが俺達を甘く見ていなければ、余計なことをしなければ。少なくとも、あの中の何人かが犠牲になっていた。

 だから、重傷者が一人で済んだというのは、かなりの幸運だ。


 だが、もしもを考えると。

 あそこにいたのが俺一人だったら、勝ち目はなかっただろうか?


 熱線にやられる可能性を別とすれば、あとは何も怖くなかった。腐蝕魔術の能力をとりこんで、剣に『壊死』の魔力を宿らせた状態なら、数秒も要さずレヴィトゥアに接近し、両断することができた。雑兵はすべて『変性毒』で昏倒させられるのだから。誰にも配慮しなければ、俺はもっと戦えたと思う。

 もちろん、ここまで来ることができたのは、周囲の助けがあってのことだ。俺一人の方が強い、なんて考えるのは傲慢だ。ただ、誰も犠牲にしないで済んだのではないか、と思ってしまう。


「こんなところにおいででしたか。アナクさんが食事を持ってきてくれましたよ」

「お疲れさまです」


 血路を切り拓いて、なんとかあの場を抜け出した。リーダー不在のレヴィトゥア陣営は降参するしかなく、俺達は比較的早く、こちらの拠点に引き返すことができた。

 最初はいったん地上まで戻ることも検討していたのだが、それは変更された。ガッシュの火傷の状態が、相当に悪かったからだ。


「どうですか」

「まだなんとも言えません。まさかアダマンタイトの盾を持っていながら、あれだけの火傷を負うなんて」


 盾を捨てたガッシュの左腕の状態を見たビルムラールは、直ちに治療すべきと主張して、一歩も譲らなかった。普段は温厚な彼が、驚くほど強硬に言い張ったのだ。


「だいたい数日から十日ほどではっきりしてきます」

「どうなるんですか」

「皮膚が白くなったり、黒ずんできた場合には、望みは薄いです。痛みを感じなくなりますが、それはよくない兆候とされています」


 拠点に引き返した俺達は、すべてを後回しにして、まずガッシュの左腕を水で冷やした。幸い、ビルムラールには薬の持ち合わせがあった。砂漠種のリザードマンが火魔術を使うという事前情報があったために、熱傷対策としての薬剤を持ち込んでいたのだ。

 この世界、技術水準の割には医療が発達している。アイドゥス師の治療をみても感じたことだが、とにかく迷信の類が少ない。薬剤も技術も不十分ながら、誤った処置をすることが少ないのは救いだ。


「最悪の場合は、腕が病気の原因になることもあります。そうなると、選択肢としては……欲張るのなら、体の他のところから皮膚を移し替えます。ですがこれは難しい。確実に命を守るのであれば、腕を切り落とします」

「そんな」

「幸運を祈るのであれば……薬を使いながら、自然と皮膚が再生するのを待ちます。いずれにせよ、あれだけの火傷では、一生消えない痕が残るでしょう」


 傷跡が残るのは、冒険者ならある程度は仕方のないことだ。もっといえば、命だけでも無事だったのだから。

 しかし、俺の戦いに付き合わせたせいで、こんなことになったのだと思うと。


「この話は、ガッシュさんにもしました」

「聞かせたんですか」

「何も知らされない不安と、知った上での不安は違います。私は、すべてを知っていただいた上で、一緒に頑張るべきと考えます」


 冒険者としては頼りないのに、医者としてはなんとも頼もしい。

 本当に、頭が上がらない思いだ。


「あんまり気にしても仕方ないですよ。ファルスさんも全力を尽くされたんです」

「はい」

「とりあえず、お食事でもして、横になってください。患者が増えては困りますからね」


 うっすら光を放つキノコの部屋の横を通る。身を横たえるガッシュのために、一室があてがわれていた。そこには、俺以外の全員が揃っていた。


「待たせやがって。よっしゃ、かんぱーい」


 なんとキースは、地上から酒まで取り寄せたのか。


「な、なにしてるんですか」

「ん? 昼飯兼夕飯兼祝勝会だ。あっさり勝ててよかったな」

「あっさりじゃないような」

「バッカお前、こっちゃ誰もやられてねぇんだぞ。完全勝利だろが」


 そこだけに注目すれば、確かにそうなのだが。


「心配すんな。飲むのはこの一杯だけだ。酔うまで飲んだら、先に行けねぇからな」

「先?」

「最下層に行くんだろが」

「なっ」


 俺は色をなして立ち上がった。


「何を言ってるんですか。ガッシュさんが治るのを待たないんですか」

「そりゃあそいつに訊けよ」


 こともなげにキースは顎をしゃくってガッシュを指し示した。彼はビルムラールに助けられて、上半身を起こした。


「俺が頼んだんだ」

「何を」

「連れていって欲しい」


 俺は目を丸くした。ノーラは難しい顔をして俯いてしまう。


「なぁ、ファルス。今でも信じられないんだ。何百年もの間、誰にも攻略できなかったこの迷宮の、こんな奥深いところで。俺みたいな凡人が必死で戦ってるんだ。こんな景色、見られるとも思わなかった」


 顔色はよくない。だが、表情には落ち着きがあった。


「誘われてからは、もう驚きの連続だ。人間と殺しあわないリザードマン? あり得ないだろ。そんな魔物と仲良くしている人間の少女。それだけじゃない。キースも、お前も、人間離れしてる。俺じゃあ一生かかっても届かないような、とんでもない腕前なのはわかる」

「ガッシュさん」

「おとぎ話みたいなんだ。本当に。夢みたいな世界に、俺のような普通の人間が紛れ込んだ。そんな気分なんだ」


 彼は一呼吸おくと、言った。


「身の丈に合わないのはわかっている。それでも、もう少しだけ、続きを見届けたい。あとちょっとじゃないか。本当に、あとちょっと」

「怪我を治してからでも挑めますよ」

「いいや。さっきビルムラールに聞いたよ。完全に治るのに数ヶ月はかかる。しかも、運が悪ければもう、この腕は切り落とすしかない」


 それを言われると、俺の中では罪悪感が膨れ上がるばかりだ。


「僕が、僕のために声をかけたせいです」

「恨んでなんかない。考えてみてくれ。十年前までこの街にいた魔物討伐隊の戦士達は、命を支払ってもこんな景色は見られなかった。安い。安すぎる。俺は本当についてたよ」


 すると、横からキースが言い添えた。


「俺様はな、止めてやったんだぜ?」

「えっ」

「この後、最下層に行って迷宮の主をブッ殺してくる。うまくいったら、ここで待ってるだけで分け前はくれてやるってな。何にも損しねぇだろ? なのにこのバカ、見てぇ、行きてぇって」

「ははは……キース、だって言ってただろ」

「あ?」

「楽しまなきゃ損だって。俺は楽しんでるよ」


 ガッシュは損得で動いていなかった。信じられないような出来事の連続に、心を動かされていた。だからこそ、自分の力を遥かに超える相手にも立ち向かっていけたのだろう。


「このまま、ここで寝ていたって、腕が治るわけじゃないからな。だったら、ちょっと下まで行って、帰ってくるだけだ」


 本人が決心しているのなら、止めることはできない。またそうすべきでもない。

 仮にこの戦いで片腕を失っても、結果が勝利で終われば、ガッシュにとって悲劇ではなくなる。冒険者という夢にすべてをかけた青春が終わるだけだ。また、たとえ途中で息絶えようとも、それも夢に向かって進んだがゆえだ。前のめりになって倒れるのなら、それも悪くはないだろう。

 だが、俺の本当の目的は……


「あーあー、暗ぇ顔してんじゃねぇ。とにかく食え。おら、お前らも」

「ギィ」


 アナクが調達した骨付き肉に手を伸ばし、ペルジャラナンはその細長い口で食いちぎった。

 確かに、落ち込んでいても仕方ない。


 なお、ペルジャラナンはあの後、うまく逃げ切ったらしい。

 アルマスニンの仲間だとバレるのはすぐだったらしく、通路を駆け下りている間にもう「お前は誰だ」「名前を言え」「こいつが敵だ」などと背中から叫ばれていたのだとか。

 さすがにもう助からないと思ったらしいが、彼には運があった。例の仮設の橋のところで、彼は一足先に下に降りたのだが、続いた敵の集団が大勢でそこに飛び乗った。すると勢いでフックが片方外れ、そのせいでパイプを並べただけの脆い橋は、一気に崩落した。かくして追手を振り切って、地下の空洞に身を潜めることができたのだとか。

 その後は、しかし、バジリスクの群れやら窟竜の集団やらが行き来するので、しゃがみ込んだまま、一歩も動けずにいた。最終的にアルマスニン側が地下を制圧した後、探しに来てくれて、やっと無事に帰ってくることができたのだ。


「メリハリは大事だぜ、ファルス」

「おっしゃる通りです」


 確かに、切り替えは大切だ。

 これは万事にいえることだ。ケジメともいう。自分の中のオンオフをスイッチできない人間は、何かにつけ先がない。全力で努力すべき時にも怠けてしまうし、めいいっぱい楽しむべき瞬間にも余計なことが頭に入ってきて熱中できない。そして無駄にダラダラと時間を使うので、貴重な休憩時間も削ってしまう。

 そこがわかればなんでもできるとは言わないが、できない奴が一流になった例なんて、見たことがない。現実には、超一流の人々でさえ、ものすごく高いコストを支払ってでも、よりよい切り替えをするべく努力していたりするものだ。


 ……今、いらないことを思い出した。キースがウィーにフラレたとき、どうやって気分転換したんだっけ。ああいう切り替えは真似したくない。


「俺達が通ったあの通路な」


 キースも同じように骨付き肉にむしゃぶりつきながら、話し始めた。


「逆方向に降りていくと、下層の広い空洞に出るらしいぜ」

「そうなんですか」

「一応、あのすぐ下がレヴィトゥアの、ま、防衛線ってやつか? 城壁みたいなのがあって、そこの内側を降りると、もう最下層付近だ。最近じゃあ、野郎が窟竜を従えてたっつうんで、バジリスクも滅多に寄ってこなくなったんだとよ」


 確かに、毒に耐性のある窟竜なら、バジリスクの自爆によっても即死はしない。それでも後々、じわじわと蝕まれてはいくのだろうが。ただ、どうも元々、竜の肉体というのは非常に頑丈なものらしいし、そうなるとバジリスクにとっては手強い相手なのかもしれない。


「だから、今のうちならまだ、邪魔されねぇで一気に最下層まで行けるかもしれねぇって話だ。こんな機会、逃す手はねぇだろ」

「なるほど」


 グズグズしていたら、せっかくレヴィトゥアが追い払ってくれていたバジリスクが、安全を再確認して、その最下層付近の城壁の下まで戻ってきてしまう。そうなってからでは、また大変な苦労をして道を切り拓かなくてはいけない。


「それにしても」


 アナクが口を挟んだ。


「竜を従えるとは、信じられない話だな」

「俺も初めて見た。いったい誰に習ったんだか」


 そこが疑問だった。教師は誰だ?


「レヴィトゥアは、この迷宮で生まれ育ったんじゃないのか、アナク」

「生まれたのはここだが、外に出ていた時期もあるんじゃないか……え?」


 ペルジャラナンがシュウシュウと耳打ちした。


「二十年? そんなに?」


 レヴィトゥアは、どうも幼少期に一度、この迷宮から出されていたらしい。二十年近く砂漠を放浪して戻ってきた。その間、何をしていたかは、あまりよく知られていない。


「サハリアから出たとは思えないが」

「海を渡れるとは思えないものね」


 それはそうなのだが、やっぱり変だ。


「キースさん、魔獣を使役する技術って、東方大陸が起源なんですよね」

「ん? ああ、そうだ」

「東方大陸には、もう一つ、不思議なものがあったと思いますが」

「なんだそれ」

「精霊、です」


 一瞬、みんな黙ってしまった。


「ハァ? 何言ってんだお前」

「いえ、僕もよくは知らないんですけど」


 実際には、ピアシング・ハンドを通して、レヴィトゥアが精霊の力を得ていたらしいことがわかっている。それを説明できないのがもどかしい。


「でも、あの火魔術。どう考えても僕の知ってる威力じゃないんですよ」

「そらお前、お前がどんだけ器用でも、世の中にゃあもっと上がいんだろがよ」

「いえ、僕より上がいるのは知ってます。でも、ものすごい火魔術を使うのを見たことがあるんですよ。スーディアで」


 ノーラも無言で頷いた。


「今回のあの魔法は、威力だけなら多分ですが、僕の知っているその魔術師にも勝っていたと思います。でも、そんなのあり得ないというか」

「ふーん、それで精霊のおかげじゃねぇかって?」

「はい」


 バリバリと針金みたいな髪の毛を掻き毟りながら、キースは唸り声をあげた。


「わっかんねぇなぁ……んなもん、見たことねぇしよ」

「文献では目にしたことがありますね」


 ビルムラールが言った。


「精霊の民というものが、東方大陸には存在したそうです」

「ええ、僕も読んだことがあります」

「精霊は、少なくともギシアン・チーレムの世界統一前から、東方大陸の各地で見られていたそうです。人々はこれを神のように崇拝していたのだとか。ただ、女神教はこれを禁じたので、長らく山岳地帯や、東方大陸の中央砂漠で信仰されました」


 意外と根強い信者がいたらしい。


「じゃあ、世界統一後にも残ってたのね」

「はい、そうです。諸国戦争期には、中央砂漠の北東部に砦を築いて暴れまわった魔獣使いがいたといいます。女性だったそうですよ」

「へぇ」


 そんな詳しいことまでは、俺も知らなかった。

 やっぱり名家の出身だと、いろいろとマニアックな本にも手が届いたんだろうか。


「ですが、そういった目立つ勢力は次第に攻め滅ぼされまして。山奥とか砂漠に暮らしていた精霊の民も、結局は帰順するようにと説得されて、今から二百年も前には、そういう砂漠をさすらう精霊の民というのは、いなくなったそうです」


 ということは、それがレヴィトゥアの師になった可能性はなさそう、か。

 でも、では誰がレヴィトゥアに精霊の力を貸し与えたのだろうか。


「ま、魔獣使役の技術自体は、マルカーズ連合国にまで伝わってるわけだからな。知ってる奴ぁ知ってるってもんだ。珍しいけどな」

「キースさん、問題は誰がどうやってレヴィトゥアに教えたか、ですよ」

「ああん? んなもん、わかるかよ。ブッ殺しちまったんだからよ」


 お話ししたら、教えてくれたんだろうか。無理だろうな。


「む……だが」


 アナクが顎に指をあてて、何やら考え込んでいた。


「どうした?」

「奴が最期に呟いていた」


 最期?

 窟竜が制御を外れて暴れ出した後、キースは隙をついてレヴィトゥアを討った。だが、奴は即死せずに床に昏倒し、しばらく呻きながら這いずっていた。


「私を前に引っ張り出したときには、こう言っていた……卑しい人間の分際で、我ら竜人の仲間を気取るとは、なんとも不遜、と」

「竜人? やっぱり自分達を竜だと考えていたんだ」

「もちろんだ。リザードマンというのは、トカゲ人間という意味らしいな。人間の世界でそう呼ぶのが普通だから、長老もその言葉を聞き流しているが、本来はあまりいい顔をされないぞ」


 まぁ、トカゲと竜では、そうだろう。


「それで、こうも言っていた。我らが神は、人という人を滅ぼさずにはおかない。聖なる戦いのときがきたならば、我々竜人は、必ずや神の定めに従って剣をとるであろう、とか」

「物騒だな」


 ガッシュが肩をすくめる。


「奴は私を生贄にして、その肉を長老に食わせるつもりだったらしい。人間と馴れ合うな、殺せ、と」

「うへぇ」

「それで?」


 続きを促すと、アナクは何を喋っていたかを思い出した。


「キースに斬られた後は、本当に神に祈っていた」

「助けてくれとか?」

「それが少し違ってな……」


 レヴィトゥアは、単に救いを求めたのではなかった。


『私をお選びになったのではなかったのですか! 導きに従って十余年も技を修めたのは主のためでした! それなのにどうして人間などをお選びになられたのですか!』


 そして最後に、


『祝福を取り除くとは……』


 その続きは、もう聞き取れなかったらしい。


「お前の言う精霊の力というのが本当にあったかどうかはわからんが、祝福を取り除くとは言っていたからな。裏を返せば、奴は祝福されていて、それを実感できていた。そう考えることもできなくはない」


 では、精霊の力は、また誰かに回収されてしまったとみるべきか。

 しかし、ピアシング・ハンドで奪い取ろうとした時の、あの気持ち悪さはなんだったんだろう。得体のしれない黒い根のようなものが、体の中に食い込んでくるようだった。


「終わったことを考えてもしょうがねぇぜ」

「そうだな。レヴィトゥアは死んだ。次は迷宮の主だ」

「ガッシュ。ひと眠りしたら、俺達は出かけるぜ。行くか?」

「もちろんだ」


 話はついた。

 これから仮眠をとったら……


 もしかすると、これが俺の人生の終わりになるのかもしれない。

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