無気力な捕虜

 我ながら現金なものだ。希望あり、となると急に力が湧いてくる。集中力も戻ってきた。

 赤茶けた汚水の通路を抜けてから、進むごとに道の状態は良くなっていった。誰かに利用されているような、生きている施設の雰囲気はないものの、あからさまに崩れている個所がない。これだけでも大きな安心材料だ。

 通路はほぼまっすぐだったが、しばらく進んだところで、また十字路に出た。左右とも頼りない金属の柱が立ち並ぶ古代の通路だが、空気の流れは前方から来ている。俺は迷わず直進した。


 まっすぐの道が、突然暗がりに閉ざされた。つまり、広い空間に出たので、手元の松明の光を照り返さなくなった。

 唐突に足場がなくなり、天井もなくなった。しかし、向かいの壁は見える。だいたい五メートルくらいは離れている。飛び移ることはできない。というのも、向こう側には壁があるだけで、足場がどこにもないからだ。

 目が慣れるのを待って、すぐ下を見た。左右に長く、溝があるような形になっている。こちら、手前側には水の流れもあるようだ。排水溝だろうか。

 では、目の前の壁は? 天井はどうなっているのか? 見上げてみても、視界は真っ暗で、ほとんどわからなかった。ただ、右斜め上の方向に、窓か扉のようなものが見える。なぜそう思ったかというと、四角い蓋のようなところから光が漏れていたからだ。

 光源がある。ということは、あそこはもう、リザードマンの居住域なのだ。ただ、バジリスクの階層とほとんど違いのないところにあるから、恐らくはレヴィトゥアの縄張りだろう。


 いくら俺でも、何十何百というリザードマンに囲まれては、さすがに勝てないし、逃げ切れない。だから、あそこから正面突破する気はないが……

 どうせならもっと観察したい。それに、これは思わぬチャンスかもしれない。もし、あの窓なり扉なりを開けたリザードマンがいたとして。一発で体を奪い取ってやれば、俺はトカゲになりすましてレヴィトゥアの領地をすり抜けられるかもしれない。ただ、メルサック語は話せないし、自分の荷物をどう運ぶかとか、怪しまれないための振る舞いについては、まだまだ考えなくてはいけないが。

 これはいったん引き返して、あの扉の真ん前に行ってみよう。他に何か見つかるかもしれないし。


 通路を辿って元の十字路に戻り、左に折れる。そして、次の十字路でまた左折した。

 溝を前にした行き止まりから、そこを見上げた。ほぼ正面、但しここからかなり高い位置にその扉がある。金属製の扉らしいが、これは多少の錆こそみられるものの、今でも十分機能していそうにみえる。よく見ると、その扉のすぐ下に、何かねじ切れた金属のきれっぱしみたいなものがくっついている。とすると、恐らくこの通路とあの扉は、以前は階段で接続されていたのだろう。それが破損したか、破壊されたかして、今では通行できなくなっている。

 これは驚くにはあたらない。ルーの種族であれ、そこから「新たな神」を迎え入れた今の砂漠種リザードマンであれ、モーン・ナーの種族たるバジリスクは敵なのだ。たとえ更なる攻撃命令を与えられない現状であっても、格別の理由なしにバジリスクはリザードマンを襲い、殺すだろう。積極的に侵攻する理由がないとなれば、拠点を放棄してより安全なところに撤退するのも自然なことだ。


 ここからあそこに這い上がる必要はない。ただ、このリザードマンの住居の外側を歩くようにして、どこか上に繋がる道を見つければ……

 いっそ、いったんここから降りてもいいのではないか? あまり長さはないが、一応、ロープも持ち合わせがある。この溝に沿って歩いてみるとか……ただ、一度降りてしまうと、戻れないか。それに、ロープをどこに括り付ける? この金属の柱か? ひどく錆びついているが、大丈夫か?


 それでも、俺は下に視線を向けた。

 そこに、見慣れない塊が見えた。


「アナク……?」


 思いがけない幸運に、俺は息を呑んだ。

 声をかけると、黒くうずくまったそれは、のっそりと身を起こした。やっぱりそうだ。目で見て顔かたちをはっきり区別できるわけではない。ただ、認識さえできれば、ピアシング・ハンドは見間違えない。


 やっぱり、ここはレヴィトゥアの縄張りのすぐ外側なのだ。

 そして彼女は、この溝に下ろされた。ということは、ここからどこかに出られるようにはできていない。簡易的な牢獄として利用しているのだから。深さはざっと十メートルほどはある。垂直なこの壁には手掛かりがない。助けがなければ脱出は困難だろう。


 暗闇の中から、双眸だけが静かに光を照り返す。

 意識はあるようだ。しかし、騒ぎ立てるでもない。声をあげるのが危険だから? 身振りで救いを求めるのでもない。どうにも違和感があった。

 なんにせよ、助け出すのが先。詳しい話は後。俺は背負い袋からロープを取り出し、二か所に結び目を作ってから、手短に詠唱して身体強化を施した。それからロープの先端を溝に垂らした。彼女はそれをじっと見ていたが、やがて無言でロープを掴んだ。


「引くぞ」


 登攀には結構な力がいる。だから、衰弱しているであろう彼女にはただ、結び目のところに手を引っ掛けてもらえばいい。あとは俺が力で引っ張り上げる。


 転がされたまま、赤く燃える松明の横を、彼女の薄汚れた靴が踏みつけた。

 俺自身が遭難中である以上、救出したと胸を張って言えるわけではないが、ひとまず合流を果たしたのは、前進だ。


「ここを離れよう」


 アナクは黙って頷いた。


 逃げるといっても、道がわかるのでもない。さっきの水溜りの向こうにはバジリスクもいる。だから、俺達にできるのは、扉の前の通路を抜けて、左に曲がることだった。せめて物陰に隠れて、すぐに発見されないようにする。


「どうしてお前はここにいる」


 心なしか、元気がない。だが、彼女はやっとここで口をきいた。


「助けに来たと言いたいところだが、そうじゃない。話せば長くなるが、クロウラーが這い上がってきて、床が抜けた。それでここまで落ちてきた」

「ドミネールは」

「済まない。まだ見つけられていない。それどころか、俺自身、オルファスカに追われている」


 彼女は、怒り狂うでもなく、改めて失望するでもなく、遠い目をして壁に凭れた。


「捕まるわけにはいかない。とりあえず、どこかに逃げたい。道はわかるか」

「ここまで降りてきたことはない。はっきりとは案内できない。ただ」


 彼女は左右の道を見比べた。


「あの扉に向かって左側……あちらには進めないと思ったほうがいい。歩いてきた方向から考えると、レヴィトゥアの仲間が暮らしている区画があるはずだ」

「じゃあ、右か」

「あの壁と溝に沿って歩けば、どこかで途切れるところがあると思う。そこで何とか上に行ける階段を見つければ」


 俺は頷き、前に立って歩き出そうとして、すぐ立ち止まった。


「アナク」

「なんだ」

「腹は減ってないか?」

「いきなりどうした」

「水は。飲ませてもらえてたのか」

「いいや。何もない」

「だったら」

「いいから行け。ここを離れてからだ」


 彼女らしい応答ではあるのだが、どうにも引っかかる。

 確かに、ここでのんびり座ってランチタイム、というわけにはいかない。だからといって、消耗したまま連れ歩くのも好ましくない。食べるのも食べないのも、どっちもありの判断だ。

 しかし、彼女の言葉に滲むニュアンスは、どうもそういう選択の結果ではないように思われる。


 しばらく進むと、リザードマンの棲み処を横に見ながらのこの道は、土砂崩れによって埋め潰されていた。進めるのは、右か、左か。右に進むと、さっきのバジリスクの群れがいた空洞に近付くことになる。俺達は左折した。

 その道も、しばらくして途切れ、広い空洞の下に出た。


「あれは?」


 なぜか、さっきのバジリスクのいた場所もそうなのだが、ここも岩の一部が青白く発光している。


「ここの迷宮の深部には、光魔術の触媒があるらしい。見たことはないか。『閃光』に使う」

「ああ」

「詠唱や打撃などによって刺激を与えることで、発光するらしいが、ここでは時間をかけてそれが押し潰されると聞いた。もっとも、潰されたせいで光っているのか、迷宮自身の魔力で光っているのかはわからない。長老が言っていた」


 なかなか神秘的で美しい景色だが……


「気をつけろ。これがあるということは、近くにバジリスクもいる」

「なんでわかる」

「迷宮の最深部に近いということだ。私も、この辺りには一度しか来たことがない。レヴィトゥア派のリザードマンも、理由がなければ近付かない場所だ」


 危険な場所だというのは承知している。

 問題は、どうやって上を目指すかだ。


「上に行く道はあるのか」

「わからない」

「この辺りに来たって」

「言い方が悪かった。こんな風に石が輝く領域に踏み込んだことはある。この場所は知らない」


 単に事実を述べているだけなのだろう。

 しかし、それにしては……


 ……どこか、投げやりに聞こえる。


 そもそも危険だと言いながら、俺達は広い空洞の下を堂々と歩いている。これでもし、バジリスクに出くわしたら、どうするつもりなんだろう?

 疲れている? いや、さっきまでしゃがみこんでいたのだから、それはない。実は空腹だけど我慢している? そうでもない気がする。足手纏いになるくらいなら、干し肉くらい、食ってくれたほうがいい。恐れている? だったら、俺を先行させるとか、何か対策を取ればいい。それすら考えられない……にしては、妙に落ち着いている。


「アナク」

「なんだ」

「なるべく壁際を歩こう。いざという時、身を隠す場所があったほうがいい」

「そうだな」


 やっぱりおかしい。

 どうしてしまったんだ、こいつは。


「早く上に戻らないとな」

「どうした」

「レヴィトゥアが攻め込んできているかもしれない。俺もあそこに仲間を残しているし、長老達だっている」

「ああ」

「ドミネールも捕まえないと」

「ああ」


 生返事だ。


「お前、どうした」


 俺は立ち止まり、睨みつけた。


「どうもしない……」


 俺の顔色の変化に気付いたらしい。

 アナクは黙り、そっと後ろを確認した。


 岩肌の色とあまり区別がつかないが、うっすら紫色なのでそれとわかる。

 俺達の背後、洞穴の暗がりから、はっきりとこちらを見つめる姿。バジリスクだ。


「走るぞ!」


 あれは相手にしてはいけない怪物だ。倒すだけならできるだろうが、殺した瞬間、恐らくは猛毒に汚染されることになる。


「どうした、走れ!」


 動き出さない彼女に気付いて、俺は乱暴に手を握り、無理やり引っ張った。

 そうして後ろをちらっと見る。


 まさしくトカゲらしく、胴体を這いずり、左右に首を振りながら、しかし思った以上の速さで追いかけてくる。

 くそっ、卑怯そのものだ。こちらはあれを倒せないのに、あちらはこちらを攻撃できるなんて。

 まだ、目測だが距離は二十メートルほど開いている。なら、火魔術で……いや。自爆の範囲がわからない。遮蔽物のないこんなところで、しかも大爆発なんてしたら、壁や天井が崩落するかも。まったくどうしたらいいんだ。


「わっ!?」


 急に足下が悪くなった。固い地面が柔らかくなったような。それだけじゃない。靴底にガムでもくっついたかのようにベトベトする。踏ん張って走るには滑りやすく、足を持ち上げるには引っかかりがある。もしかして……

 背後のバジリスクとの距離は、残り十五メートルほどに縮まっていた。


 土魔術だ。こういう使い方もできるのか。

 だとすると、ここはまずい。地の利はあちらにある。


 ピシッ、と頭上で小さな音がした。

 反射的にアナクを引き寄せ、横っ飛びする。と同時に、大きな岩の塊がすぐ横をすり抜けて落下した。


 あちらは魔術を使い放題だ。このフィールド自体が、奴の武器だ。なのにこちらは、崩落や自爆が怖くて、下手に手を出せない。

 ただ、一つだけ、想定外なことがある。バジリスクのくせに、石化魔術を使ってこない?


「くそっ、そういうことか」


 石に変えてしまったら、さすがのバジリスクとて、食べられないのだろう。つまり、一方的に狩り殺す相手だと見下されているのだ。

 だが、そうそう思い通りになってたまるか。あと少し進んだ先に、小さな岩の狭間が見える。あそこに滑り込めば、まだ体の小さい俺とアナクなら通り抜けられるだろうが、バジリスクには難しいだろう。


「ギシャゥ」


 後ろで苛立ちのようなものを感じさせる声が聞こえた。

 いや、これは。


「はっ、伏せろ!」


 俺は慌ててアナクを抱き寄せて、右手の壁に向かって転がり込んだ。その直後、激しい震動と衝突音が感覚を占領した。

 これまでにないほどの質量の岩が砕けて、頭上から降り注いできたのだ。このままでは逃げられてしまうと察して、無理やり俺達を殺そうとした。


 だが、不幸中の幸いとでもいおうか。

 俺達が転がり込んだ壁際というのは、ちょうどテーブルの下のような岩棚になっていた。突き出た頑丈の岩の真下だったおかげで、崩落の直撃を受けずに済んだのだ。

 一方で、出口も塞がれてしまった。かなり大規模な落盤になったらしく、俺達は隙間もない岩のポケットの中に取り残された形となった。


 俺達を取り囲んでいる岩は、いくつかは青白く光っていた。おかげで薄暗くはあっても、松明なしにお互いの顔を見ることもできる。

 その灯りを頼りに周囲を見回してみたが、出口はどこにも見当たらなかった。


「怪我はないか」


 この崩れた土砂。掘り返すのは大変そうだ。或いは身体強化して思い切り大きな岩を蹴飛ばすとか。そうしたらもっと崩れてくる? そうしたら、また一歩下がる。隙間ができたら飛び出ればいい。

 しかし、問題はそこではない。


「いる、な」


 アナクが、どことなく皮肉のこもった口調でそう呟いた。

 まだ奴が俺達を諦めてはいないということだ。しかも、俺達がまだ生きていると認識している。


 姿は見えない。だが、恐らくこの外側で、腹這いになりながら俺達が出てくるのを待ち構えている。バジリスクには断食の神通力がある。俺達が餓死するまで待ってから、その死骸を食らってもいいのだ。

 土魔術が使えるなら、これくらいの落石など、掘り抜くくらいはできそうに思われる。だが、それはしてこない。多分、接近戦に自信がないからだ。まかり間違って窮鼠猫を噛む、なんてことになったら。だからじっと待つ。


 あと一歩だった。さっき逃げ込もうとした、あの狭い岩の狭間。多分、上へとよじ登れる道筋もあった。あそこまで逃げきれていれば。距離にして、二十メートルもなかった。

 こうなってしまっては、もう戦いは避けられない。だが、戦っても、負ければ死ぬし、勝っても自爆に巻き込まれる。


「ファルス」

「なんだ」

「バジリスクはああ見えて、小食だ」

「そう、らしいな」


 こんな時に何を?


「奴らは一匹仕留めれば満足する。昔、リザードマンが犠牲になったときも、深追いはしてこなかったらしい」


 何を言わんとしているか、さすがにわからなかったら嘘だ。


「私が先にここから出れば、お前は逃げられる」

「アナク」

「そうしろ」


 それは、彼女自身が死を選ぶという意志表明だった。


 アナクを発見してからの違和感。

 その正体がようやくわかったような気がした。

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