意味を欲する者、意味を忌む者
「何を言い出すかと思ったら」
ようやく俺がまっすぐ立てるくらいの高さしかない、小さな空洞の中で。
しゃがみ込むアナクを見下ろしながら、俺は唸り声を漏らした。
「もっとマシな考えはないのか」
「案内人の鑑だろう?」
「お前に死なれたら、アルマスニンになんと言われるかな」
彼女は目を細めて俺を見上げ、そのまま黙って俯いた。
「どうしようもない」
「取り返しがつかないとも言うな」
「お前が来なくても、私は死ぬ予定だった。だから、罪悪感なんかいらない」
「なに?」
なんともやけっぱちな口ぶりに、俺は小さな苛立ちをおぼえた。
「レヴィトゥアが、私を食べたいと言ったらしい」
「呆れた奴だ。食欲で攻め込んできたのか」
「いや、私の件はことのついでだ。本当のところ、奴は人間と対決するべきと考えている。だから、もともと私のことも認めていなかったし、私を身内扱いする長老のことも嫌っていた。地上にも攻め込みたがっていた」
まぁ、それはいいか。
何の神を信じているかは知らないが、とにかく奴は、過激派らしい。
「で、黙って殺されるつもりだったのか」
「逃げられそうにもなかった」
「さっきまではな。俺が溝から引っ張り上げただろう。あの後、どうして必死で逃げようとしなかった」
話が核心に及ぶと、彼女は黙りこくった。
「疲れてたんじゃないよな。ずっと寝ていたんだから。腹が減ったのでもない。そうじゃない。やる気がなかったんだ」
俺の追及に、彼女は崩れた岩壁を所在なく眺めるばかりだ。
「なぜだ」
「……理由がなかった」
「なに?」
小さく震えながら、アナクは首だけこちらに向けた。ゆっくりと。
「ファルス、お前はどうしてこんな世界の果てまでやってきた?」
「関係ないだろう、そんなこと」
「お前は、何もかもを持っているくせに」
それを言われると心が痛む。俺は、俺のことを案ずるノーラを放り出して、一人、永遠の死を手にしようとしている。だからこそ、余計にむかっ腹が立った。
「お前だって持ってるだろうが」
声を荒げながら、言い募った。
「確かに、俺と違って身分も財産もないよな。それは認める。だけど長老もその仲間も、お前のことを心配してくれている。地上に戻れば、お前が養ってやってるガキどもだっているんだろうが! 何もないみたいなことを言いやがって」
「意味がない」
ポツリと言った。
「意味がないんだ」
「なんだって」
「ファルス、答えてくれ」
この上なく澄んだ眼差しで、彼女は俺に尋ねた。
「私は何者だ?」
アナク。迷宮都市ドゥミェコンの地下で、リザードマンに育てられた少女。他になんといえばいい?
「長老の……アルマスニンの、娘みたいなものだろう」
「違う」
「じゃあ、なんだ。手下か? 人間の街を見張るための」
「食料だ」
俺は絶句し、すぐに反論した。
「馬鹿か、お前は。食料のためなんかに、お前……外の世界に連れ出してやって欲しいとか、そんなこと言うか!」
「やっぱりそんな話をしていたのか」
「わかってるんなら、尚更だ。食料とか、利用できる人間だとか、そんな風に考えてたら、外の人間に頼ってまで先の話なんて」
「それでも私は、彼らの仲間じゃない」
口元を皮肉に歪めながら、強調するようにして、もう一度言った。
「私は『トカゲ』じゃない」
その口調には、信じがたいことに、侮蔑の思いが込められていた。
「おっ、お前」
「たまたまじゃないか? なぁ、ファルス」
戸惑う俺に、彼女は淡々と、しかし論理的に説明してみせた。
「喩え話をしよう。ファルス、お前はフォレスティアに立派な牧場を持っている。そこには羊がたくさんいる」
「ああ」
「今年も羊の子が生まれた。羊は大きくなるまで育てたら、つぶして肉にする。それを売ってお前は生活している」
だんだんと彼女が何を言わんとしているか、わかってきた。
「だが、お前はたまたまその羊の子を気に入った。だから殺さず、かわいがって育てた。つまり、ペットだ。そのうちに、だんだんと離れがたい気持ちを抱いた。いつしかお前は、人にこう言うようになる。この子はうちの家族みたいなものなんです、と」
黒い瞳が、じっと俺を射貫く。
「その羊は、お前の家族か?」
「それは」
「食料とか商品じゃないと、本当に言い切れるのか? どうなんだ」
その区別は、限りなく曖昧だ。
しかし、実のところ、彼女が感じる疑問は、まったくまっとうなものだ。
例えば前世でも、俺が死ぬ百年から二百年前の世界では、子供は労働力なのが当たり前だった。家族、と名前はついているが、ある意味、家畜も同然だった。その命は支配権をもつ親に管理される。
環境に余裕がない場合、それは思った以上に残酷な形にもなってきた。例えば、江戸時代の日本では、長男は両親と同じ部屋で食事をとり、お代わりも許されたが、次男以下はその外、廊下でそそくさと済ませなくてはならず、当然お代わりなんて論外だった。いわゆる部屋住みというやつだ。長男のスペアだから、勝手に結婚することもできない。これ以上、分け与えられる土地がなかったから。武士もそうだったが、農民にしても、長子がすべてを相続するのが当たり前だった。
では、そういう状況において、次男以下の子供達は、家畜の牛とどう違ったのだろう? しかし、長男が不慮の事故で死んだりすると、彼らは途端に「人間」として扱われる。死んだ兄の代わりに、弟は結婚を許されるようになるのだ。
そんな関係性にも「家族」という呼び名が与えられる。結束して助け合って生きていく。なんとも歪な話だ。
同じ人間同士でも、立場がこれだけ人を隔てる。ましてや種の異なる共同体の中にあって、彼女はどれほどの疎外感を味わってきたのか。
だが、驚くことか?
前世では、多くの家庭がペットを飼っていた。かわいい子犬を抱きしめて「うちの子」という。現実には、まだ幼い子犬を母親から勝手に引き離して、服従を強いているだけなのに。
これでは、強姦しながら「僕らは愛し合っている」などと言うのと、どれほど違うというのか。
彼女は、かわいがられた。かわいがられなくてはならなかった。さもなければ、生き延びられなかったのだから。
一方で、長老に対する敬意や愛情も、恐らくは本物だ。彼女が拾い上げられたのは迷宮の外、砂漠の真ん中で、そこに一人取り残されていたのは、隊商を襲った人間の盗賊どものせいだ。だからアルマスニンらリザードマンは、彼女の親の仇などではない。むしろ、結果論ではあるが、命の恩人なのだ。だからこそ、ややこしいのだが。
本当に、「意味」とは、なんと頼りなく、儚いものなのだろうか。
なのに俺達人間は、この世界にそれが、あたかも自明のものとして存在するのだと、あくまで信じようとする。
「他にも、私には肩書があるな」
自嘲気味に、震える声でアナクは言った。
「西の街区の乱暴者。子供達を集めて悪さし放題なんだと」
「お前が、見捨てられた子供達を守ってやったんじゃないか」
「そういうことになっているな。いや、そうだと私自身、ずっと思っていた」
それが揺るがされた。保護していた少年の死によって。
「あれは、不運な事故だ。お前の言いつけを守らなかった子供が、運悪くドミネールに利用された。だけど、お前が守らなかったら、もっと前に死んでいた。そうじゃないか」
だが、彼女は首を振った。
「ラップスを殺したのは、私の我儘だ」
「どうしてそうなる」
「なぜ私は、前もって地下のリザードマンと子供達を引き合わせなかった? 情報が洩れる? でも、中途半端に隠していたせいで、どうなった?」
悔恨に唇を噛みながら、彼女は一度、言葉を切った。
「そうじゃない。そうじゃない、私には、さもしい考えがあった。多分、そうだ。自分でも気付いてなかっただけで。私だけが迷宮の裏口を知っている。私がいなければ、リザードマン達も地上の事情を知ることができない。私がいなければ、子供達も生きられない……私は、私は」
一滴の涙が、頬を伝った。
「仮初の世界を守るために生きてきた……ただそれだけの、醜い豚だった」
無意味な家畜で食料。それが意味を掴み取らなくてはいけなかった。生きるために。
彼女は、無意識のうちに周囲から必要とされる役割を果たした。それは生きるための必死の努力でもあった。結果、誰からも愛されるためのシステムを構築した。敵もいたが、それは概ね、うまくまわっていた。
だが、愛されるための日々は、彼女を満たしはしなかった。何かが決定的に不足していた。それが彼女を少しずつ蝕んでいった。
少年の死が、そのことを自覚させてしまった。
残酷だ。
ペットとして、システムの中に組み込まれようとすることで生き延びた。
生まれついた世界から学習した彼女が行き着いた生き方、それは自らシステムを作って他者をそこに組み込むことだったのだ。
よろめきながら、アナクは立ち上がった。
「どうして人形の迷宮を目指した、ファルス」
その瞳に浮かんでいるのは、今度は怒りだ。
「お前さえ、お前さえ来なければ! 私は夢の中で生きられた。いつも通りに暮らせばよかった。自分が人にとって誰なのか、リザードマンにとっての何なのか、ごまかしたままでよかった。子供達から頼られる頭目のままでいられた。それがっ」
うっすらと意味のヴェールをかぶったままの世界を剥き出しにしたのは、変化だった。そして、変化をもたらしたのは、紛れもなく俺だ。
「よくも」
彼女は手を振り上げた。
「よくも私を『アナク』と呼んだな!」
叫びながら、俺の頬を打つ。
「そんな奴が、いったいどこにいる! 誰の名前だ!」
その怒りは、まさしく燃え盛る火のようだった。
「よくも奴隷だと言ったな! 家名がないと言わせてくれたな!」
何者でもない。
彼女にとって、その現実を思い出させる以上に残酷なことはなかった。
幻のような意味を作り出して、かろうじて生き延びていたアナクは、果たして甘ったれていたといえるだろうか?
ふと、アイドゥス師の言葉を思い出す。人は月の光がなければ夜道を歩くことさえできないのだと。
では、アナクはどうだろう。迷宮の闇の中でしか生きられなかった彼女に、月の光は届かない。無から借り物の恩恵を与えあって意味を構築して生きられるならいい。では、そこから漏れてしまった人は、どうやって生きていけばいいのだろう。
俺は魔宮で正義を殺した。正義とは即ち、この世界の一切を意味づけるものだ。
かくして俺は、地図も羅針盤もない世界に放り出された。そのことをスーディアで思い知らされた。
そして今、俺は迷宮の奥深くで、無意味の苦しみを訴える彼女に裁かれている。
なのに、俺には答えの持ち合わせがない。あるなら、迷宮の奥で石になる必要なんてないのだから。
俺自身、直視などしたくない。だが、そいつは徐々に眼前に迫りつつある。この世界からすべての意味が剥ぎ取られたら、そこに残るものはなんだろう? 日の光に照らされた俺自身の姿は、どんなだろう?
だから、今の俺にできるのは、とりあえずの傷口に薬を塗り、絆創膏を貼るだけだ。
俺は静かに右腕を伸ばし、思い切り彼女の頬を打った。
「アウッ!」
一発で、彼女は吹っ飛ばされて尻餅をついた。
「意味がない、か」
内心から噴き出る黒い靄のようなものが、俺の口からついて出た。
「じゃあ、あったら幸せなのか? 自分が何者なのか、決まっていれば」
「なに」
「俺は、『生まれる前から』何者かが決まっていたぞ。初めからだ」
他の人間とは違う。俺は自分で生まれると決めてこの世界に転生した。その限りにおいて、俺には最初から「意味」が付随している。佐伯陽だった頃の俺が、いつまでもいつまでも、亡霊のように纏わりつく。
笑うしかない。じゃあ俺は、ずっと今まで無意味な意味とやらに苦しめられてきたのか。
「お前は、家名もわからない、親の顔も知らないんだよな」
「そうだ」
「俺は、俺の両親の顔を知っている」
「それがどうした」
「二人とも、俺が殺した」
あまりのことに、彼女は絶句した。
「な、なんで」
「殺されそうになった。だから殺した」
これでは、俺を羨むなんてできない。意味のある世界に生きるはずのファルス。その意味は、かくも血に塗れていた。
「貴族の家に引き取られてから、俺の母親代わりになってくれた人がいた。いつもふざけてばかりだったけど、とにかく明るい人だった」
「まさか」
「殺した」
今度こそ、アナクは言葉をなくした。
こんなものが薬になるとは思えない。ただ、これが俺の誠意だ。
今まで、アナクに同じ目線でぶつかってきた誰かはいなかったんじゃないか。怒りに怒りをぶつけるような、そんな対等な関係は、多分なかった。長老をはじめとしたリザードマン達にとってはマスコットだったのだし、地上では子供達のボスか、でなければ薄汚れたかっぱらいだった。見下されるか、頼られるかしかなかったのだ。
それは途方もない孤独だったに違いない。誰の素顔も見せてもらえない、そんな年月を過ごしてきたのだ。
そんな誠意に意味はあるのか? わからない。わからない。意味なんて無意味だから。
「それが本当なら、お前は、お前は人でなしだ」
「そうだ」
思わずそう言ってしまってから、彼女はありありと後悔した。
そしてすぐ、気付いた。
「じゃあお前は……いったい何しに人形の迷宮に来たんだ。それも最下層なんて」
「見逃してくれ」
自ら人でなしと認める俺が、金や名誉のために迷宮に挑んでいるはずもない。
恵まれた少年ファルスの正体を、彼女は垣間見つつある。
「俺は呪われている。これ以上、誰も不幸にしたくない。誰の不幸も見たくない。うまくいくかはわからない。だから、黙って見逃してくれ」
俺は、しゃがみ込んだままの彼女に手を差し伸べた。
「すまない……だけど」
引き起こしながら、俺は言った。
「俺もお前も、死ぬのはここじゃない」
立ち上がった彼女は、神妙な表情で俺を見つめた。だが、その瞳に熱が戻ってくる。俺の手を潰れるくらいに固く握る。
「ああ」
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