試練の渡り

 どれくらい歩いたのか、どれほど時間が過ぎたのか。

 あらゆる感覚が狂ってしまった。最初の地点からみて、少しでも上に行けたのか、それとも下に潜ってしまったのか。今思えば、歩数くらい、数えておけばよかったか。時間経過もよくわからない。緊張のためか、空腹感もあまりない。ただ、集中力の枯渇を感じるばかりだ。

 今のところ、幸運にして魔物に出くわしたりはしていない。


「あ……」


 暗がりを進む中、小さな希望を見つけたような気がした。というのも、この深層に滑り落ちてから初めて、人工の構造物を見つけたからだ。


 とはいえ、状態はすこぶる悪かった。

 左右から天井を支える金属製の柱が、等間隔で立ち並んでいる。その柱の間に、梁に相当する部分もあり、一応形は保っている。しかし、見るからに錆びきってしまっており、支柱のいくつかは外れて、横倒しになっている。

 その外側にはセメントのようなもので固めた形跡もあるのだが、これまた壁のあちこちにヒビが入っており、中には土砂が露出しているところもみられる。


 これは、誰が何のために作った設備だろうか?

 人間がここまで攻め込んできた? いや、それはちょっと考えにくい。ここがリザードマン達の領土の中でも最下層に位置するレヴィトゥアの階層よりも深いところにあるのだとすれば、かつての人類は既にリザードマンの領域を占領し、全滅させていなければならない。現実にはそうなっていないので、これは人形の迷宮の魔物側の施設の一部なのだろう。

 しかし、既に長いこと、ろくにメンテナンスもされていない。ここを維持するメリットが失われているのだろう。


 さて、これは思案のしどころだ。

 だとすると、こうした人工物のある方向に進むのは、よいことか、悪いことか。どちらでもある。

 こうした設備の密度が高いほうに近付くなら、今のリザードマンの支配領域にも接近することを意味すると考えられる。あの地下の貯水池しかり、キノコ農園しかり、要するに彼らは古代の遺物を流用して暮らしているからだ。

 今も利用されている領域にまで這い上がることができれば、あとは道なりに上を目指せば、いつかは見知った道にも出られるというものだ。しかし、俺が友好関係を構築できているのはアルマスニンだけ。レヴィトゥアとは交戦中だろうし、あと一つの集団とも面識はない。

 それでも、出口がそちらにある可能性が高いとなれば、やはりここは遭遇と戦闘のリスクをとってでも、そちらに進むしかない。


 にしても……


「ここを通るのか」


 言い聞かせないと、尻込みしそうだ。

 目の前の通路は、前世の子供の頃に遊んだ積み木遊びみたいな状態になっている。一見して、まともに柱が重量を支えているようにみえるが、よく見ればそうでもないとわかる。

 例えば、ある柱などは、土台からすっぽ抜けて天井からぶら下がっている。これは、他の柱と梁で繋がれているからだ。それらの柱もしっかり立っているというより、単にバランスが取れているだけ。表面も錆びているが、きっと中身もスカスカだろう。思い切りぶん殴ったらどんなことになるか、試してみたくもない。


「うわっ」


 少し進んだ先で、ひどく状態の悪い梁があった。真ん中からへし折れて、そこだけ天井が沈みかかっている。大きな圧力がかかっているのだ。ただ、その前後の柱が辛うじて重みを支えてくれているので、崩落せずに済んでいる。

 これが崩れたら、何千トンの衝撃が圧し掛かってくるのか。居心地の悪い不安に蹴飛ばされて、俺は小走りになってそこを通り抜けた。


 こんな場所で戦闘になったら……

 そう考えると、恐怖しかない。窟竜やバジリスクは、崩落に耐えられるだろうか? クロウラーなら、あの巨体から考えても、落盤を苦にするようには見えない。でも俺は違う。開けた場所で、真っ向から戦うのなら、窟竜には勝てるだろう。しかしこの場所で、となれば。


 進むうち、十字路に出た。

 さて、どちらに行くのが正解だろう?


 まっすぐ行こうとして、すぐ足を止めた。道が下りになっていて、しかも途中から濁った水が溜まっている。深さもわからない。

 いったん引き返して、次は左に道をとった。こちらはより頑丈な石のアーチが連ねられていた。しかし、そのあちこちに亀裂が入っている。


「ああ、これはダメだ」


 あるところで、俺は溜息をついて立ち止まった。

 立派な石のアーチが、ねじ切れてしまっている。ちょうど真ん中のところで地中の圧力に負け、左右から揉み潰されたような格好になっている。当然、その向こう側には土砂が降り注いでおり、道は半ば塞がれていた。

 他より大きな道だから、通り抜けられるのであれば、好ましい場所に出られるのかもしれないが、ここを通過するのはさすがに避けたい。


 となると、残るは右側の道だけとなる。俺は引き返し、まっすぐ進んだ。

 だが、これも正解ではないらしい。進むうち、まず頭上の支柱がなくなった。やがて通路は左右に歪み、上下の起伏も激しくなった。道幅も一定しない。

 それでも念のため、と思って歩いていると、不意に地下の空洞に出た。そこには、不思議と青白い光が差し込んでいた。


 俺は慌てて口を閉じた。ゆっくり呼吸して、一切物音をたてまいとした。


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 <バジリスク> (32)


・マテリアル ミュータントドラゴニュート・フォーム

 (ランク5、男性、225歳)

・マテリアル 神通力・暗視

 (ランク6)

・マテリアル 神通力・怪力

 (ランク2)

・マテリアル 神通力・断食

 (ランク7)

・アビリティ 降伏者の血脈

・アビリティ マナ・コア・腐蝕の魔力

 (ランク7)

・アビリティ マナ・コア・土の魔力

 (ランク7)

・アビリティ 病毒耐性

 (ランク7)

・アビリティ 魔導治癒

・アビリティ 痛覚無効

・アビリティ 自爆

・スキル 腐蝕魔術    7レベル

・スキル 土魔術     7レベル

・スキル 爪牙戦闘    3レベル


 空き(19)

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 思っていたよりずっと小さかった。距離がある上、障害物となる岩陰の向こうにいるので正確に見積もるのは難しいが、だいたい全長二メートルちょっとか。肌の色はうっすら紫がかった灰色で、表面にイボみたいなものがいくつもついている。見た目は鱗のない、大きなトカゲでしかない。

 肉体が、初めて見る呼称になっている。ミュータント、ということは「変異した」ドラゴニュート……竜人間、といったところか?

 しかし、骨格がドラゴンっぽくない。前世の恐竜もそうだし、こちらで見かけた黒竜なんかもそうだが、あいつらはトカゲとはハッキリ区別できる特徴がある。膝だ。人間も、恐竜も、黒竜や窟竜も、少なくとも後ろ足には、まっすぐ伸ばせる膝があった。そういう意味では、リザードマンこそ竜人間だ。

 だが、こいつはトカゲそのもので、膝がなく、這いずって動くヘビやトカゲに類する形状の四肢を備えている。少なくとも、跳躍力は、さほどなさそうだ。ただ、場所によっては想像以上に素早く動けるのかもしれない。


 能力的には、完全に魔力に偏っている。

 体つきも窟竜と比べてかなり貧弱だし、近接戦闘の技能にも乏しい。痛みを感じず、優れた回復能力を持ち、また多少の怪力に恵まれてはいるものの、それだけなら並みの戦士でも立ち向かえる程度の強さしかなさそうだ。

 しかし、こいつの恐ろしいところは、なんといっても石化魔術だ。ただ、そのものズバリの名称のスキルはない。土魔術と腐蝕魔術には優れているが……もしかして、この二つの魔法を同時に行使することで獲物を石に変えているのだろうか?

 他にも気がかりな能力がある。自爆ってなんだ。もしかして、生命の危機に陥ると、爆発でもするんだろうか。ただの燃焼と爆発なら火魔術で食い止めることができるが、多分、そういう意味ではないのだろう。腐蝕魔術の力を使って自滅、汚染を撒き散らす……やりそうだ。これでは、うっかり殺せない。


 断食の神通力が高い水準にあるので、それほど物を食べなくても、空腹を感じたりはしない気がする。しかし、そうなるとこいつらは普段、何を食べているんだろうか。相手を石にしてしまったのでは、さすがに食料にはならないだろうし。してみると案外、この迷宮の下層にいる魔物としては、弱い部類にあたるのかもしれない。クロウラーみたいな大きな魔物が死んだときに、死体に群がったりしていそうだ。

 名前が表示されず、種族名が出るということは、バジリスクに一定以上の知性がなく、また知性を持った存在に命名されてもいないことを意味する。だからといって、普通の動物の本能だけで生きていると考えるのは危険だ。あの「降伏者の血脈」がついている。ということは、こいつはモーン・ナーの種族だ。


 そして、こんな物騒なトカゲが、その天井の高い大広間には、少なくとも三匹はいた。

 恐らくだが、ピアシング・ハンドはまだ、クールタイム中だ。もし使えても、それで始末できるのは一匹だけ。魔法で即死させるとしても、それでやっともう一匹。最後の一匹は、接近戦で倒すか、逃げ切るかしないといけない。

 とてもではないが、ここは通れない。見つけられたら、ここですべてが終わる。俺なら、或いは石化魔術にも耐えられるかもしれないが。


 自分の中の矛盾を感じないわけにはいかなかった。

 すべてを終わらせるために来ているのに、結局、死ぬのが怖いのか?

 怖い。どれだけ死線を潜り抜けても、死ぬのは怖い。誰だってそうだろう。だが、俺はとっくに覚悟していたはずじゃないか。何がそんなに怖い?


 とにかく、そうなると選択肢がない。あえてどれかを選ぶとすれば、やるべきは……

 やはり、正面のルートを取るしかない。左の道は崩落寸前だ。それに、奥まで道が通じている保証もない。右の道は、バジリスクがいなくなれば通れる。だが、いなくなるのを待つとしても、近くで彼らを監視し続けるのも危険だ。発見されたら、きっとすぐさま戦闘になるだろう。

 水の中を歩くのは怖い。例によって、透明度ゼロの赤茶けた水溜りだ。深さもわからない。だが、他に進める先がない。


 通路を進み、水辺に立った。

 左右には、錆びた金属の柱が林立している。緩やかな下り坂の向こうは、澱んだ不潔な水でいっぱいだ。


 やっぱりやめようか、とも思う。待つことで状況を改善できるかもしれない。空腹をこらえつつ、静かに時を過ごす。ピアシング・ハンドのクールタイムが終われば、バジリスクから断食の神通力を奪える。そうなれば、長期戦になっても大丈夫だ。数日かけて、なるべく安全なルートを開拓すれば……


 でも、それは駄目だ。

 俺は意を決して、水の中に踏み込んだ。


 俺は、少なくとも一度は、地上に戻らなくてはいけない。

 アナクを救出する。アナクの身内を保護する。これを怠るのは、裏切りも同然だ。

 ドミネールを始末する。これをしないと、善意で俺に手を貸してくれたガッシュ達の立場がなくなる。魔物と結託して人間側を裏切ったとされれば、彼らの人生はおしまいだ。

 何より、このまま俺が行方不明になったり、帰還が遅れたりしたら……ノーラが何をするかわからない。


 水は案外深かった。ゆっくり、ゆっくり、短い歩幅で足下を確かめながら進む。膝のところまで水に浸かってしまったが、まだ下があるらしい。

 いざという時のため、装備は身に着けたままだ。なるべく濡らしたくないもの……ポーチを外すと、肩にかけた。


 こうしていても、目に浮かぶ。

 俺が行方不明になったと知ったときのノーラが、どんな顔をするか。何を決断するか。命の危険も顧みず、この危険極まりない迷宮の下層めがけてやってくる。

 それが怖い。今、俺が味わっている恐怖を、彼女もまた、味わうのだ。


 スーディアで、使徒は俺に言った。人の世の出来事にいちいち関わりあうこと、それこそ無意味なのだと。

 では、永遠の死を手にするべく迷宮の奥に潜る俺は? この目標、この努力もまた、無意味なのか?


 腰まで水が届いた。

 この深さになると、もう俊敏には動けない。掻き分けられた水が音をたてる。それが煩わしかった。バジリスクの耳に入っているかもしれない。

 振り向くのが怖い。後ろにいるかもしれない。いや、確かめなくては。確かめて何になる?


 汗が頬を伝うのがわかった。

 荒くなりかけていた呼吸を抑え、強張った体をなんとか半回転させる。


 そこには、何もいなかった。


 走り出したい。今のうちに。

 それを必死で自制する。危険は背後にだけあるのではない。

 縋りたい。横の壁に手をついて休みたくなる。

 それもいけない。水没と乾燥を繰り返したここの金属柱は、きっとどこよりも脆い。


 俺は何者だろう?

 生き死にがかかった今、俺は何を選び取り、何を捨てたのか。

 その問いも、選択も……しかし、あるがままの危険を直視する緊張の中で、次第に意識の外へと追いやられていく。

 ただ無心に、前を目指していた。


 足下に変化を感じた。下りが平坦に、平坦が昇りに。

 静かな安心が、不安の海の中に小さく浮かび上がる。


 逸る気持ちを抑えながら、俺はあえてゆっくりと歩いた。そうしてやっと、汚水のプールを抜けた。

 左右には相変わらず、錆びた金属の柱が立ち並んでいる。だが、心なしか、左右の壁の崩れも少ないようにみえる。この奥には何があるのか。


 濡れたせいだろうか。

 空気の冷たさを感じる。立ち止まっていても、体が冷えていく。それでわかった。

 ごく僅かだが、空気の流れがある。


 正しい方向に進みつつあるのだ。

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