虚無の地底

 いったい何が起きたのか、どうなったのか。視界が失われたために周囲を確認することもできず、考える余裕もなかった。ただただ打ち続く浮遊感と衝撃、それに岩や壁が崩落する音ばかりが耳についた。

 一際大きな衝撃の後、ようやく周囲が静かになった。それから、どれくらい時間が経ったか、わからない。

 見上げるが、光は一切なかった。どうやらまっすぐに転落したのでもなさそうだ。クロウラーが掘り抜いた穴を伝って、斜めにずり落ちた。その途中、いくつもの階層をぶち抜きながら。そして、その穴もいまや崩落によって埋められてしまい、まっすぐ登っていける状態にはなさそうだ。


 ここはどこだろう?


 空気はじっとりと湿っていた。それに、風の流れがない。わかるのは、相当に深い階層であろうことくらいか。

 どうしようか少し考えてから、俺は静かに詠唱し、右手に小さな火を点した。


 広がる視界に、まず失望した。

 息絶えたクロウラーの体は、半分埋まっていた。俺が剣を突き刺し、しがみついていた個所から数メートルほど先が、もう完全に土砂に覆われてしまっている。そちらに向かって傾斜があるので、落ちてきた方向にそのまま戻るなら、ここを掘り抜く必要がある。現実的ではなかった。

 ならば、地底に閉じ込められてしまったのか? そう決めつけるのは、まだ早い。


 手の中の火を後方に向ける。クロウラーの体の後ろ半分が、底の見えない泥水の中に浸かって見えなくなっていた。ただ、洞窟の端を通っていけば、なんとか濡れずにその対岸まで歩いて行けそうではある。その向こう側がどうなっているかまでは、この小さな光では見通せない。


 状況を整理するべきだ。


 まず、ここはどこか。人形の迷宮の下層だろうことは間違いない。人間の造った土壁もなく、リザードマン達の居住域にみられるような石の床もない。こういう洞窟が広がっているのは、迷宮の深部であるとアナクが言っていた。

 このクロウラーも、普段はこの辺りを縄張りにしていたのではないか。他に、この領域に居着いている魔物としては、窟竜やバジリスクが存在するものと考えられる。いずれも最悪の怪物だ。

 窟竜なら、少し前に一度、キース達と一緒に倒しはしたが、あんな調子であっさりやれると思うのは危険だろう。あの時は、ノーラが最初の炎の息を防いでくれたのだし、キースの迅速な対応のおかげもあって、素早く立て直しができた。何より、この剣に『壊死』の魔力が宿っていた。

 もし今度、ああいった魔物に俺が一人で遭遇したとなると、その危険は計り知れない。


 では、最大の脅威は、魔物だろうか? 違う。

 俺の手元には、貧弱な装備しかない。剣と軽量な革の鎧。背負い袋には、そう多くの保存食もない。もともとアルマスニンの拠点に戻って待機するつもりだったのだから、大荷物を担いでいたわけではないのだ。つまり、特別な危険に出くわすことがなくても、単にここから脱出できないというだけで、餓死する可能性がある。ここではシーラのゴブレットも力を発揮できない。


 ということは、俺がまずすべきは、出口を探すことだが……


 体を軽く動かし、どこにも異常がないことを確認する。運がよかった。あれだけの高さから滑り落ちてほぼ無傷とは。

 歩ける。まず、これが大事だ。


 しかし、すぐさま次の問題が頭をかすめる。

 魔物がおらず、食料の枯渇も問題にならないのなら、ここは安全か?


 俺はそっとクロウラーの甲殻を伝って、慎重に足を地面に下ろした。

 そして、澱んだ水の畔に立つ。


 仮にここに投げ出されていたら、どうなっていたか。

 水に濡れるだけ? だったらいいが。もちろん、サバイバルにおいて「濡れる」のはかなりまずいことだ。体が冷えるので、着衣を脱いで乾燥させる必要はある。だが、それだけで済むのなら、まだ幸運なのだ。


 この、透明度ゼロの水。微妙に赤茶けた色をしている。周囲の土壁は、むしろ青みがかって見えるのに。

 いったい何が溶け込んでいるんだろう。有害物質を含んでいる可能性だってある。それにまた、底が見えないので、中にどんな危険物が混じっていても、見分けがつかない。うっかり踏み込んで、鋭い石や金属の破片などに足の裏を切り裂かれる危険もある。そうでなくても、深さがわからない。


 落ち着いて考えるほどに、自分がいかに大きな危険の中に投げ出されたかが、より自覚されてくる。

 迷宮とは、洞窟とは。これほどまでに恐ろしい場所だったのか。


 そしてすぐ、この場にとどまってはいけないと気付く。

 ここはたった今、崩落したばかりの場所だ。つまり、土中の岩や土砂のバランスが取れているとは限らない。何かの拍子に、更なる崩落が起きやすい。

 特にこの水場は危険だ。うっかり落ちたとしよう。底が深かったとして。普通なら、それでも泳いで浮上できる。しかし、何かに引きずり込まれたら?

 この世界だから、そういう魔物がいても不思議ではない。ただ、それ以外にも、単なる物理現象によって同様の危険に見舞われる可能性もある。例えば……この水の底に、更に小さな穴が開いていたら? 崩落の直後だから、あり得る状況だ。クロウラーの胴体は水の底にあるので、更に下に空間があっても不思議はない。すると、それはちょうど洗面台の排水口のような機能を果たす。より狭いところに水が落ちていくので、もしその辺りに引き込まれたら、急激に水圧が変化して、もがいても浮かび上がれなくなる。上から見る分には、少しずつ水位が下がっているだけだから、もしそういう状態になっていても、気付けない。


 俺は、この場を離れて歩き出した。

 しかし、これすら危険な行為かもしれない。


 自分の胸の鼓動が聞こえてきそうだ。

 こうして歩き回ることが、この深層に居を構える魔物達の耳目に触れるという危険もさりながら、その他の脅威にも直面する可能性を高めるものと理解できるからだ。


 まず、落とし穴に注意しなければならない。

 誰かが意図的に掘ったものではない。このクロウラーもそうだが、窟竜も穴掘りが得意らしい。そいつらが自由に土の中を移動して、穴を残す。連中は立体的に移動しても、なんら困らない。だが、俺はただの人間、平面的にしか歩けない。足下によく注意しないと、突然の縦穴に転落することになる。

 それがわかっているから、この手元にある小さな火を絶やさないのだが、これはこれで実はよくない。というのも、ここは通気性の悪い地下だからだ。

 これが上層や中層であれば、設備が生きている。一定の通気性があり、そのため有毒ガスが漏れていても、流されていく。だが、ここにはそんなものはない。寸断された縦穴と通路があるだけで、それがところどころ、地下水によって隔てられている。だから場所によっては、何年も、何十年も、空気がそのままの状態で変化がない。

 よって、深いところでは酸欠を起こす可能性もある。うっかり踏み込んでからでは遅い。といって、酸素の有無を確認するために火種を放り込むというのも、あまりお勧めはできない。引火性のガスがあった場合には、閉鎖空間での爆発に俺自身が巻き込まれる。

 このように諸々考えても、いきなり深い縦穴に転落するリスクを考えれば、それはある程度、妥協しなければならない危険だ。こうなるともう、能力とか対策とかの問題ではない。ただの運試しだ。


 水溜りを避けて、対岸に出た。

 そのまま、不規則な通路は、斜め上の方向に向かっている。道なりに進むと決める。上を目指さなくてはいけない。

 ちょっとした斜面を登り切った先にあったのは、しかし、分かれ道だった。どちらも下り坂。あまり進みたくはない。通路の幅はどちらも同じくらい。目測で直径三メートル前後か。この狭さでは、窟竜が通り抜けられる程度だろう。まだ見たことはないが、バジリスクも通れるかもしれない。

 どちらを選んでも大差ない。左の道を選んでゆっくりと下りて行く。見ると、天井がやけに低く、どんどん道幅が狭まっているようだった。


 もしやと思い、俺は荷物から紙片を引っ張り出して丸め、松明の火を移して投げ込んでみた。

 小さくバウンドしながら転がり……俺から僅か数メートル離れているだけの床の上で止まった。それから大きく明滅したかと思うと、不意に光が消えた。


 どっと冷や汗が流れる。

 早速これだ。


 こちらには進めない。引き返して、右側の横穴を進んだ。

 頼りない松明の光が、壁を赤く照らす。もともとの色合いのせいもあって、やけに何もかもが黒ずんで見える。


 数歩進んだところで、背後からドーンと大きな音が響いてきた。ビクッと身を震わせる。

 ああ、さっきのところだ。クロウラーと一緒に滑り落ちてきた場所。やっぱり不安定だったんだ。あのまま、あそこにとどまっていたら、落盤に巻き込まれていた。

 気が付くと、指先が冷たくなっていた。汗でじっとり濡れている。呼吸も荒くなっていた。冷静さを保っているつもりが、できていない。


 足下にコツンと何かが当たった。俺はゆっくりと下を見る。

 錆びた剣だった。鞘に収まったまま、完全に劣化してしまっている。

 直接触らないほうがいいかと思い、足で柄を抑えて、鞘を抜いてみようとした。だが、完全に中まで錆びきってしまっているのか、その程度ではまったく引き剥がせなかった。


 では、近くに死体が? いや、これはきっと大昔のものだ。何百年前だろう? 本人はとっくに魔物の餌になってしまっているはずだ。

 そう思って、前方に視界を向けたとき、異物に気付いた。


 崩れかけた生首。

 但し、見事に石化している。


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 ゴル・オルム(35)


・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (破損)

・スキル フォレス語  5レベル

・スキル サハリア語  4レベル

・スキル 剣術     5レベル

・スキル 盾術     4レベル

・スキル 農業     3レベル

・スキル 料理     1レベル

・スキル 裁縫     1レベル


 空き(28)

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 顔面の一部がないので判断は難しいが、随分と若々しい顔立ちだ。しかし、ピアシング・ハンドが指し示す限りにおいては、既に中年に達していたらしい。

 胴体は残っていないが、多分、石にされた後、完全に砕けてしまったのだろう。それでも彼は、まだ死んでいない。

 いったいどういう状態なんだろう。眼球も石、脳も石なのだから、見たり考えたりはできない気がするが、理屈でそう決めつけても的外れかもしれない。ただ、わかったのは、とにかく彼は大昔に石になったまま、今もこの迷宮の片隅で生きているということだ。

 材料が他にないので、なんとも判断はできない。これが迷宮の主によるものか、普通のバジリスクにやられたものか、区別できないのだ。


 これは、一つの可能性だ。

 石になってから、体を粉々にされても、転生はしない。無限の死を手にできる見通しが立ってきたのは、素直に喜ばしいことだ。


 いっそ、このまままっすぐバジリスクを探して石になってみるか?

 そういう誘惑はある。

 だが、今の俺はただの行方不明者だ。そうなると、ノーラが希望を捨ててくれないかもしれない。


 いや、そんなことに思い悩むのに、どんな「意味」がある?


 少なくとも、この空間には意味がない。何の意味もなく、ただ死と生が無造作に並べられている。

 それが本来の、真実の世界というものではないか。


 これではいけない。

 雑念に心を持っていかれたままでは、なすべきことをなし得まい。


 通路の端まで歩き通した。その向こうに、また登りの斜面が見えた。

 砂利を踏みしめながら、俺は無心にそこを登っていった。

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