迫りくる震動
「逃がすな! 追い詰めろ!」
後ろから声が飛んでくる。
人海戦術で、あらゆる通路に神官戦士を配置して追い詰めてくる。こちらも魔術で身体強化して、全力で下の階層を目指してはいるのだが、今のところ、振り切れていない。こんなにしつこいとは思わなかった。もう地下六階まで降りてきたのに、どうしてまだ追ってくるのか。
このまま、うっかりアルマスニンの集落まで連れていくわけにもいかない。ちゃんと数えたわけではないが、今、オルファスカが掌握している神官戦士の数は、数十人にも達するだろう。彼らの能力が平均的なリザードマンより上ということはないが、この数となると、さすがに犠牲者が出る恐れもある。今後のことを考えると、彼らに疎まれるのは困る。
しかし、だからといって今、人間の世界でお尋ね者になるわけにもいかないし……
ふと、とある通路の脇に、下り階段があるのを見つけた。
これは、どこに繋がっているのだろう?
後ろを振り返る。大勢の足音が遠くから響いてくる。考えている時間はない。
俺はそこを駆け下りた。
降りた先は、一本道だったらしい。
暗い松明の光では、そのことを把握するまでに時間がかかってしまった。思わず舌打ちする。
これでは行方をくらませるのが難しい。
「どっちだ!」
「階段があるぞー!」
もう、このまま突っ走るしかないか。
俺は開き直って、その一本道を走った。
突き当たりまで走り抜くと、そこにも階段があった。しかし、これまでとは少し様子が違う。
地下六階までの壁と床は、土を真四角に掘り抜いて、どうやったのかはわからないが、きれいに固めたものだ。それが、地下七階から先は、アルマスニンの居住域を見てもわかる通り、石材で舗装されている。
ここは、さっきの地下六階から降りた先の一本道、つまり地下七階から、更にもう一つ下の階層に降りる階段だ。しかし、周囲は土の壁のまま。とすると、ここはかつての人間側の領域の名残ということか?
だが、検討している余裕がない。とにかく今、俺は袋のネズミだ。選択肢などない。
その階段も、降りるしかなかった。
一歩踏み入れると、空気がより湿っぽくなった。
これまでと違って、階段の通路が狭い。人一人がやっと通れるくらいの幅で、天井も低い。上の階層の、真四角に掘り抜かれたきれいな通路とは大違いだ。足下のステップも、どことなく頼りない。汚れた黄土色の足場は崩れかけており、ところどころヌルヌルしている。
やたらと長い下り階段を、それでもなんとか降りきった。その先にあったのは、左右に分かれた道だった。
右か、左か。これなら、追手は少なくとも、どっちに俺が逃げたかわからないから、二手に分かれてくれるだろう。
それにしても、落ち着かない場所だった。
天井に松明を向けると、頭上から襤褸切れみたいな何かが垂れ下がっている。苔とか、その残骸みたいなものだろうか? それが水分をたっぷり吸っている。ここはこれまでの階層とは違って、排水も換気も充分ではないらしい。
だからといって、今日明日にも崩落します、というのでもないだろう。今だけやり過ごせればいい。
俺は右に道をとって、走り出した。
しばらく進むと、通路は一本道のまま、右に折れた。それが僅かな距離でもう一度、右折。つまり、来た時と逆方向に走っていることになる。だが、それもすぐ左折に切り替わり、その後、二つの左折があった。いずれも一本道のままだったが。
これは、あれか? 防衛を意識した作りなんだろうか。武器は右手に持つものだから、最初の二回の右折は、この奥から人を送り出したと考えれば、防衛線にしやすいポイントになる。
かなりの距離を進んでから、もう一度だけ、左折があった。
それから少し行くと、急に視界が真っ暗になった。
「これは……」
今までにないほど、濃密な湿気を感じた。
天井が広い。頼りない松明の光が、ほとんど届かない。左右にもかなりの広がりがある。だから壁が照らし出されない。
この大部屋の中に、おずおずと踏み出していく。あちこちに土色の柱があるが、そのいくつかは崩れかけている。また、床にもあちこち、ひび割れやら、大きな凹みなどがある。そういう場所には、天井から落ちてきたような土砂が、まるでクレーターの底みたいに溜まっている。
思うに、人間側が過去、ここまで侵攻したものの、拠点設営に至らず放棄した場所ではなかろうか。どうあれ、あまり安全そうな場所には見えない。
それより、こんな見晴らしのいい場所では、見つけられてしまう。いや、広さもあるし、火を消して気配を殺せば、むしろやり過ごせるのでは……
そんな思考が、物音に中断された。
俺から見て正面方向、つまりこの部屋に入ってきたのとは反対側から、小さな光が点るのが見えた。青白い光が、見る間に広がる。ということは。
すぐ背後からも、足音が迫ってくる。じゃあ、何か? あの左右の通路、どっちを選んでも、どうせこの部屋にしか行き着けなかった? なんてことだ!
「まったく、往生際が悪いったらないわね」
部屋の中央に立ち尽くす俺に、苛立ちのこもった声が叩きつけられる。
「どう? 王の騎士から、殺人犯になった気分は」
「別に、どっちも大して違いなんてない」
「あっはは! そう、そうなのね。想像もしなかったわ」
さて、この大部屋の中、俺の前後に数十人。
こうなれば、素直に捕まるか、それとも殲滅するか。どちらかしかない。だが、大人しく逮捕されても、先はない。公平な裁判を受けられる可能性はないに等しいし、ドミネールの追跡、アナクの救出といった問題にも対処できなくなる。何より、迷宮の奥底で石像になるという俺の最大の目標にも、手が届かなくなる。
とすれば、殺人犯になってでも、ここは抵抗する以外にない。
「信じられない。この人数相手に、まだ逆らう気なの?」
「信じてもらえると思うんですか。無実を訴えて大人しくお縄につけば、公平に裁いてくれるだろうなんて」
「なるほどね。破れかぶれってことなら、わからなくもないけど」
だが、今のところ、命令に従っている神官戦士達を殺すというのは、少しは気が引ける。
いっそ、一気に突撃してオルファスカを討ち取って、そのまま強行突破というのは……
「ん?」
今、グラリと足下が揺らいだ気がした。
「あら、地震?」
とすれば、大変だ。思わず、俺もオルファスカも、その仲間や神官戦士達も、暗い天井を見上げた。崩れかけた柱もある。これが倒壊したり、天井が崩れたりしたら。
「収まったわね」
いや、地震でないとすれば。ワームがすぐ下に……いや。
こんなに大勢がいるのに、臆病なワームが飛び出てくるなんて、考えにくい。
「じゃ、改めて。そこの殺人犯を……えっ、えっ、なに?」
最初は小さく、次第に大きく。
小刻みな震動が真下から伝わってくる。それが視界に映る柱を左右にぶれさせる。これは、まさか……
「走れ!」
俺は叫んだ。
だが、彼らは反応しなかった。できなかった。無理もない。普通の戦士としての能力はあっても、迷宮探索もせず、砂漠での示威行動もしていない。ただ挺身隊の若者達を取り締まるだけなのだから。何が起きるのか、まったく把握できていなかった。
床が破裂した。そう見えた。
そこには、さっきまでなかったもう一つの柱が見えた。但しそいつは節くれだっていて、灰色の表面にはかすかに光沢があった。その頭は天井を支えず、無数の牙が不規則に蠢いていた。奇妙な不快感を醸し出すその金色の足はか細く、それぞれが別個にとりつく場所を探していた。
俺を捕らえようとした数人の神官戦士が、その大きな顎に挟み込まれていた。彼らは、途切れ途切れに悲鳴をあげるばかりだった。
「クロウラー……」
ここはもう地下八階。人形の迷宮においても、相当な深さといえる。
それでも、多くがリザードマンの支配下にあるこの階層に、どうしてこいつが姿を見せたのか。少しして、原因に思い至る。俺達が、ワームを間引きまくったからだ。奴らはもう少し深い階層にも潜んでいる。それが間引きによって浮いたスペースを埋めるため、這い上がってきた。その分、深いところにいたクロウラーにも、餌を探して浮上する必要が生じた。
逃げる? この機に乗じて。どっちを突き破る?
「なにしてるの? 早くファルスを殺しなさい!」
「撤退! 撤退だ! 急げ!」
神官戦士達も混乱している。個人的には、ここは逃げるべき状況だと思う。殺し合いなんかしている場合じゃない。
広い空間の中で、クロウラーはとぐろを巻きだした。ちょうど部屋の中央にいる俺を取り囲むように。これでは逃げるのが難しい。どちらの出口もクロウラーの胴体に塞がれている。そして都合の悪いことに、いまだピアシング・ハンドはクールタイム中。どうすれば……
脅威の順序を考えろ。今、一番危ないのはクロウラーだ。ワームすら捕食する巨体は、正面からみても直径十メートルくらいはありそうだ。しかも表面は頑丈な甲羅に覆われている。この剣なら切り裂けるかもしれないが、トドメを刺すには至るまい。まだ『壊死』の効果が残っていてくれれば、或いは一発で両断できるかもしれないが、既にかなりの時間が経っている。あてにはできない。
とすると、ここでの最適解は……
俺は、走り出したい衝動をあえて抑え、静かに詠唱を始めた。
節足動物相手に『即死』の魔法が効果を発揮するかどうかは、運次第だ。それでもうまくいけば、これ以上の破壊をもたらさずに決着をつけられる。体の大きさや表皮の固さなど、問題にならない。火魔術などで対抗することも考えたが、この今にも崩落しそうな空間で大爆発なんて、自殺行為だろう。
クロウラーは、暗所に生きる魔物らしく、光より音に反応しているように見える。こういった状況に不慣れな神官戦士達は、悲鳴をあげながら出口に殺到している。そこをクロウラーが追いつき、覆いかぶさって丸飲みにしている。部屋から出たくても、その前には灰色の胴体が横たわっており、金色の脚が辺りを探っている。尻込みするのも無理はない。
詠唱に時間がかかりすぎている。クロウラーが暴れるほどに、足場が不安定になっている気がする。この個体は特に大きいのだろう。まだ体の一部は、出てきた穴の中に嵌ったままだ。
絶叫と混乱の中で、俺はようやく小さな安堵を得た。掌の中の暗い藍色の鏃。そして目標はあまりに大きく、外しようがない。
俺は、それをそっと投擲した。
「やったか?」
障害物となる人間に命中することもなく、それはスッとクロウラーの胴体に吸い込まれていった。その瞬間、そいつは声も上げずに激しくのた打ち回った。
「う、わっ!?」
あまりの震動に、俺はついに立っていることができなくなった。体を支えようとして咄嗟に剣を引き抜き、床に突き立てる。
これは失敗……
だが、これでは印を組んで詠唱し直すなんて無理だ。
そう思った時、不意にクロウラーは動きを止めた。力なく、その場に突っ伏したのだ。
やった……と思ったその時、別の不安が影のように俺を覆った。
後ろに引っ張られるような。滑っていくような。いや、現に滑っている。滑り落ちようとしている。
前方から、あのクロウラーの巨体が横滑りになって迫ってくる。まさか。
最後の大暴れで、底が抜け始めたのだ。
「おっ、うああ!」
何か、どこかに捕まらなくては。
俺は必死に手を伸ばした。衝動的に、すぐ目の前に迫ったクロウラーの甲殻に剣を突き刺した。そして、柄に両手でしがみつく。
恐ろしい浮遊感の後、俺はその甲殻の上に叩きつけられた。かと思うと、また滑り落ちていくような感触が。剣を握り締めたまま、上を見た。微かな光の届くあの広間は、遥か頭上だった。そして俺は、なおも落ちていく。
できることなど何もない。
俺は舌を噛まないよう歯を食いしばり、全力でクロウラーの死体にしがみついた。
次の瞬間、大きな衝撃とともに、視界が暗転した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます