長老の願い事

 その通路に入ると、明らかに他とは様子が違っていた。

 どこも暗い黄土色の壁と天井であるのは同じなのだが、だいたいの角には古びた燭台が据えてある。当日はここに火を点す予定だ。着火だけなら彼らのほとんどが魔術でこなせる。ワームから採れる油脂がよく燃えるのだとか。また時折、枝分かれした通路の先が大量の土砂によって埋め潰されている。人間側が大量のスコップを持ち込んで、この地下六階まで大挙して押し寄せてくるとは考えにくいので、この程度でもバリケードとしての役目は果たせる。あとは通れる道だけをまっすぐ歩けば、迷わず関所まで辿り着けるはずだ。


「着いたな」

「こんなところまで、あのガキが降りてこれるもんか? 知ったこっちゃねぇけど」


 それは、仮にここまで辿り着いたのが熟練の冒険者でも、軽く絶望をおぼえる景色だった。


 地下七階に降りる階段の手前に、ちょっとした広さの部屋があった。天井も、ワームが行き来できるくらいには高いので、五メートルほどはある。そこで、ちょっとしたリフォームをしてみたのだ。

 仮にその部屋を上から輪切りにしたら、きっと凹の字のような形に見えるだろう。まっすぐ進んで通路から部屋に立ち入ると、三方から見下ろされる形になる。簡易的な砦だ。石と木材、土をかき集めて無理やり積み上げ、それをビルムラールの土魔術で補強した。二メートル近い高さがある。

 この上に陣取ったリザードマン達が、上から槍を振り下ろしたり、火魔術を放ったりする。一応、真正面に扉はあるのだが、集中攻撃を浴びながらこれを突破するのは至難だろう。それにどうせ、扉の向こう側にも控えがいる。

 ここを突破されたら、アルマスニンらの集落まですぐだ。貯水池も見られてしまうし、運が悪いと裏口まで発見されてしまう。なんとしても守り切る必要がある。


 俺達の顔を見知った門番が、当たり前のように腕を振る。すると、裏で閂を外す音が聞こえ、やがて門が観音開きになる。

 そうして奥に進む。若いリザードマンの案内で、俺達は地下八階の一室に招かれた。


「おっ? なんでぇ、食ってねぇのかよ。何やってんだ。冷めちまうだろが……」


 そこには、俺達が地上から持ち込んださまざまな料理が並べられていた。

 裏口を使わせてもらっている感謝を込めて、人間の世界の料理を知らない彼らのために、あのカマキリ親父の店の料理をここまでテイクアウトしてきたのだ。もちろん善意だけでなく、計算もある。利害関係だけではないですよ、こちらはあなた方に親愛の情を抱いていますよ、というポーズ。

 で、俺達は早速魔物の間引きに出かけたので、これを持ち込んだのは何時間か前だ。当然、リザードマンの仲間と分け合って食べ切ったものだと思っていた。ところが、大半が残されたまま。口に合わなかったのだろうか?


「……あああ、待て待て!」


 アナクの耳打ちに、アルマスニンは手をかざし、料理を加熱……いや、焼き尽くそうとした。それをキースが慌てて止める。


「ったく、どういう神経してんだよ。んな火で焼いたら食えなくなんだろが」

「多分、ワームと同じだと思っている。あれは水っぽいし、寄生虫がついていたりもするから、表面が焦げるまで焼き尽くしてから食べているから」

「人間様の飯はそんなに大雑把にできてねぇんだよ。てめぇ、常識くれぇきっちり教育しとけ」

「無茶を言うな。長老もみんなも、人間の料理を直接見て、食べるのはこれが初めてなんだ」


 人間の世界に興味があるといっても、優先順位はやはり、生存に関わるところからだ。ギルドの方針、それと鋼鉄の剣、革の鎧。こういうものがまず気になるのだろう。逆に料理とか、文化とか、そういったものは、どうしても後回しになる。

 アナクというパイプ役がいても、とてもそこまで手が回らなかった。まだ子供の彼女にはろくな収入がなかったし、あってもスラムで拾った他の子供達を生かすのに遣ってしまう。それにまた、余計なお金があるのなら、その分、地下に住む仲間達のために、良質な武器を用意してもらうほうが重要だったはずだ。


 俺はそっと長老に歩み寄った。そしてサハリア語で尋ねる。


「お口に合いませんでしたか?」


 すると彼は、いつもの笑っているような表情でシュウシュウと息を漏らした。


「どれも珍しかった、とおっしゃっている」

「珍しい……ですか」


 では、味はイマイチ、と。人間とは味覚が違う。


「これとこれはよかったが、これは味がよくわからなかった、と」


 アナクが指差したのは、香辛料たっぷりのスープと、ニンニクのアヒージョみたいな小皿料理だった。味がわからないといったのは、普通のパンだ。

 もしかして、味が濃くないと何も感じない? 激辛とか、激甘とか、臭いがキツいとか、そういうのが好みなのかもしれない。


「このすぐ上に」


 アルマスニンは頭上を指差した。


「人間の街があることは子供の頃から知っていた。だが、一度も直接見たことはない。若い頃に泉の脇から地上に出て、遠目に眺めただけだ。どんな場所か知りたいと、ずっと思っていた。だからこうしてあちらの食べ物だけでも味わうことができて、本当に嬉しい、と」

「喜んでいただけたのなら」


 本当は俺自身の料理を、と言いたいところだが、この街では叶わないことだ。

 などと残念がっていると、アナクが顔色を変えた。


「えっ? ちょっ、長老……ああ、はい、伝えます」


 アナクが顔を歪めた。


「長老が、親愛のしるしに、この場で食事を共にしたいとおっしゃっている」


 この提案に、俺達は顔を見合わせた。

 ガッシュがすぐに答えた。


「失礼ですが、あまり時間がありませんと伝えてくれるか。呼ばれたときにいないとなると、ギルドの側に脱走を疑われかねない」


 アナクはじろりと彼を睨みつけたが、すぐまた長老に耳打ちした。そうすると、彼は大きく頷いた。


「あまりお時間は取らせません、と」


 これは断らないほうがよさそうだ。

 勧められるままに、俺達は車座になって腰を下ろした。するとすぐ、ボロボロの器が運び込まれた。そこに載っていたのは、原形をとどめたままのナニカだった。


「う……やはり」


 アナクが顔を顰めている。


「これは?」

「こちらのご馳走、だ」


 やたらと大きな肉片だ。ハンドボールくらいの大きさはある。但し白い。表面はところどころ焦げている。なんだか巨大な脂身みたいだ。

 その横に添えられているものも白っぽい。こちらも火を通したように見える。何かの繊維のようにも見えるが……


「まさか、これは」

「ワームの肉と、栽培しているキノコだ」

「にっ、人間が食べても」

「私は小さい頃は、こればかり食べていたが、一応生きているぞ?」


 そういうと、彼女は目の前の皿に、いや、肉塊に手を伸ばし、ワイルドにむしゃぶりついた。うわぁ、手がギトギトになりそう。

 とはいえ、これは歓待だ。手を付けないのは失礼この上ない。それで俺も覚悟を決め、まだ生温かいそれを掴んだ。ベチョッ、と掌に粘着する。

 一口かぶりついた。思っていたより硬い。相当しっかり噛まないと、噛み切れないやつだ。しかも口に含んだ瞬間、何かドブの中に鼻を突っ込んだみたいな臭いがムッとこみ上げてきた。思わず口を離そうとしてしまうが、既に表面を覆う粘着力のある何かで、口の中はベタベタになっていた。

 こうなればせめて一口。全身全霊で食らいつく。やっと一片の肉を食いちぎり、咀嚼した。


「イッ……グッ……」


 俺の横では、ノーラがいきなり仰け反っていた。


「ど、どうした」

「にっ、苦っ、は、鼻が」


 俺が手をベトベトにしているのを見て、肉の方は避けたのだろう。キノコなら、と一口食べたようなのだが、それが実に刺激的な味だったらしい。


「ツーンって鼻とか喉の奥が痛くて、すごく苦くて、すごく辛い……ううっ」

「慣れれば毎日でも食べられる」


 最初の一口で涙目になっている俺達を尻目に、アナクは淡々と平らげていた。なんという逞しさ。

 キースは、辛うじて両方とも一口ずつは食べたらしい。肝心な場面と心得ておとなしくしている。ガッシュはダメだった。酒も苦手だが、極端な味にも弱いらしい。辛さに負けて涙を流している。

 一人、意外にも健闘していたのがビルムラールだった。目を見開いて、少しずつだが休まず食べている。しかし、人間の味覚の限界に達しているようで、頬はほんのりと赤みが差しているし、既にこめかみには汗が滴っている。

 もしかして、人間の食べ物を残しておいたのは、このためか? 俺達がこちらの料理を食べられなかった場合でも、一緒に食べるという形式を保つために。


 何にせよ、申し訳ないが、いくらなんでもこれ以上は食べられない。泣きそうな顔をして、俺は粘液まみれの手を宙に浮かせていた。

 すると、アルマスニンはゆっくりと立ち上がり、杖をつきながら俺を差し招いた。手を洗いたいのだろう? と言わんばかりにこちらを指差して。


「長老」


 腰を浮かせかけたアナクを見ると、彼は片手をあげて制止した。そうして、俺だけを伴って暗い通路の向こうへと彷徨い出ていく。

 少し離れた部屋は真っ暗だったが、長老が片手をかざすとオレンジ色の火が視界を照らした。水を溜めた器があり、その横にはコップに水。やけに手際がいい。

 内心、首を傾げつつも俺は手を洗い、水を口に含んで飲み干した。まだ変な臭いとかベタつきは残るが、なんとか落ち着いた。それを見届けると、彼はまた俺を手招きして、すぐ隣の部屋へと誘った。


 そこには、人間が使うような椅子とテーブルがあった。どちらもかなり古びていて、ガタがきていたが。インクの壺と質の悪い紙がいくらか。ペンもある。

 それと察して、俺は彼の向かいに立った。身振りで座るようにと勧められたので、俺はそのまま従った。


 やっぱりそうだった。俺と話そうとしていたのだ。それもアナク抜きで。歓迎の宴はその口実だ。


『まず、感謝を』


 アルマスニンの字は、かなり汚かった。しかもところどころ不正確だ。その上、紙を節約しているのか、小さな文字で書きなぐるので、薄暗い光の下では判読するのが難しい。


『あなたは、我々の世界を変えてくれる』

「そんな」


 俺はただ、一人で地の底を目指していただけだったのに。

 長老に悪気はない。だが、彼の好意と賞賛が、今は煩わしくてならなかった。


『いずれお礼はしたい。今は時間がない』

「はい」


 どうやら本題だ。要求がなければ、こうして俺を呼び出す必要だってない。


『アナクを連れて行って欲しい』

「はい?」


 一瞬、思考停止した。

 連れていく。どこへ?


 先のことなど、何も考えていなかった。俺に未来はない。

 迷宮を荒らす馬鹿な人間どもを体よく追い払う。それで落ち着いたら、これまで通り、裏口から深部を目指す。バジリスクの王に出会って石になる。終わり。


『アナクから聞いている。ファルスの剣の冴えは、人のものとも思われないと』

「そんなことを言ってましたか」


 紙を擦るペン先の音で我に返った。

 気をつけないと。サハリア語でゆっくり話さないと、長老には聞き取れまい。


『こういう話は、これが初めてだ。外の人間に、アナクが初めて興味を持った』


 今までは、裏口ビジネスはしても、それきりの関係だったのだろう。だいたい、ワームより先には進めないのだし、多くの冒険者は、すぐこの街を去ったはずだ。


『我々とアナクの関係を見抜いたのも、あなただけだ』

「それは……」

『アナクももうすぐ大人になる。ここには人間の男がいない。人間の世界で連れ合いを探さなければならない。それは私にはできない。この街にとどまっていては、先がない』

「ですが、あの、長老?」


 何かやたらと期待されているようだが、俺はそれには応えられない。


「僕はこの後、地下のバジリスクの王に挑むんですよ。生きて帰れる保証もありません」

『レヴィトゥアが通すまい』

「であれば、倒してでも行きます」

『無駄に死んでもらいたくはない』


 長老は、本当にわけがわからないというように、首を振った。


『我々は毎日この薄暗い穴蔵の中で暮らしている。こんな場所の何が楽しいのかわからない。人間なら、砂漠を渡り、海を渡ってどこにでも行ける。それなのにどうして命を粗末にしたがるのか』


 命。粗末。

 単語がいちいち俺の心に突き刺さる。


 永遠に眠るという目標は、命をドブに捨てる行為だろうか。では、生きるというのは、それほど素晴らしいことか。


 確かに、今日のアルマスニンのように、見たこともない食べ物を口にする日は、喜ばしい。初めて歩く街並みから晴れ渡った空を見上げれば、すがすがしい。真新しい衣服に袖を通すと、身も心も改まるような気がする。そこだけ切り取ってみれば、人生ほど素敵なものはない。

 だが、それは闇の中に差し込んだ一筋の月光、星明りに過ぎないのではないか。現実には、長い長い時を過ごす間、ずっと黒い雲が頭上にかかっている。

 ここに根を張ろうと構えた新居も、いつしか埃に塗れる。染み一つない上着も、いつしかくたびれた布切れになる。愛し合って結ばれたはずの妻や夫も、見慣れてしまえばいないも同然で、生まれた時にはあれほど喜んだ我が子でも、気付けば泣き声にすら苛立ちをおぼえる。

 そんな目先の退廃から目を逸らそうと、人は何かをする。酒に溺れたり、時折旅に出かけて心の洗濯をしたり、読書に逃避したり。だが、無駄なことだ。


 人生とは、要するに砂漠の真ん中に立たされることだ。

 そうして、次から次へとコップの水を飲み干していく。喉を潤す一時は、まさに天にも昇らんほど。けれどもすぐに灼熱の大地に身を焼かれ、全身から汗を噴きだす。するとまた、水を飲みたくなる。そうやって手の届くところの水を全部飲み干したら、あとはどうしようもなく干からびていくだけ。


「お言葉ですが、長老。アナクはあの若さで、もう大人以上です」


 頭の中を占める絶望の霧を追い払いながら、俺は努めて論理的な意見を述べようとした。


「あの貧しさですよ。一人で生きるだけでも大変なのに、同じ街の貧しい子供達を拾って守っているんです。僕があれこれ手出しをするまでもなく、とっくに強く賢くなっていますよ」

『アナクは我々と似ている』


 眉根を寄せた俺に構わず、長老は端的に書き表した。


『強いが脆い』

「脆い?」


 そうだろうか?

 比較対象が俺なら、そうと言えるかもしれない。だが、仮にアナクをフォレスティアに連れ帰ったらどうなるだろう。最初は慣れない土地で苦労するだろうが、ちょっとやそっとのシゴキではへこたれまい。マオ・フーあたりに預けたら、きっといい生徒に育つはずだ。


「まさか、そんなことはないでしょう。長老はご存じないかもしれませんが、アナクは地上ではものすごく貧しい暮らしをしています。人間の基準では、そうなのです。でも、それでもたくさんの孤児を抱えて、逞しく生き抜いているんですよ」

『あの子は決して弱音を吐かない』


 ハッとした。

 俺達に対してだけでなく、リザードマンにもそうなのか。とすれば……


 これは異常なことだ。アナクは相当に歪な精神状態にあるのではないか。

 案外いるものだ。傷ついているのに、平気なふりをする。それがある日、いきなり限界に達して、自分を壊してしまう。

 普通の人間なら、いやなことの一つや二つ、あるものだ。酒で頭をボケさせながら道理の通らない愚痴を吐き散らし、その場限りで鬱憤を晴らす。そんなのは、食事の後の排泄のようなもので、好ましくはないにせよ、あって当たり前のものだ。

 それが出てこない。じっと溜め込んでいる。その負荷が、見えない場所に蓄積しているとしたら?


『あの子は怒らない。怒ったふりはする。盗みを働いた子供を殴ったりもする。なのに悲しそうな顔一つしない』


 ある種の緊張が持続していればこそだろう。それはある。リザードマンのスパイをずっと続けているのだから。だが、それだけか?


 或いは感情のぶつけ方を知らないだけなのか?

 もし、積もり積もった思いが暴発したら、どうなってしまうのだろう?


 彼女の中では、いろんな感情が未処理のままだ。怒りも、悲しみも、欲望も、もしかしたら愛情さえも。

 皮肉なことに、それゆえに彼女は西の街区のボスになれた。感情を見せず、沈黙の中で使命に邁進するからこそ。


『私達では、心を教えてあげられない。苦しみも喜びも、何もかもが平坦で、どう言い表したらいいかを知らないから。だから、手遅れになる前にアナクを人間の世界に戻してやりたい』


 そうした危なっかしい部分に、長老は勘付いている。だからこそ、俺にこうして話を持ちかけた。

 アナクが同席していたら、なるほど、こんな話はできない。余計な心配だ、と言われておしまいだろう。それに、自分を守り育ててくれた養い親に義理立てもする。


『すぐには答えられないのは承知している。考えてみて欲しい』

「わかりました」


 俺は俯いて、暗い声でそう答えるしかなかった。

 長老は頷くと、筆談に使った紙を摘まみ上げ、その場で燃やしてしまった。

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