安全な人間……

 静かだった。


 視界を得るために松明の光を点すこともなく、ただただ静寂に耳を傾ける。闇の奥底を見つめ続ける。すると感じる。冷たい空気が緩やかに動くのを。

 この空気は、迷宮の通路と同じく、真四角だ。それがその形のままに押し出される。どこかに向かって、いつまでもどこまでも、変わることなく流れ続ける。深い呼吸の、長い長い吐息。いつ終わると知れない。


 つまるところ、この静けさに溶け込むことこそが最も安全な過ごし方でもあったらしい。何かに意識を持っていかれることがないからこそ、足下からのワームの接近にも気付ける。熱源がないからリザードマンにも気取られにくい。サソリの接近だけが危険だが、これは小部屋に篭って入口に布でも被せておけばいい。それくらいは突き破って入り込んでくるだろうが、その物音で見つけることができる。

 まだ、この小部屋に腰を据えてから、何者の襲撃も受けていない。


 ノーラを休ませながら、俺はバクシアの種に触れて念じる。だが、まだだった。もうそろそろ、ピアシング・ハンドのクールタイムが終わるはずなのだが。

 術の効果が切れた左足からは、じんじんと熱っぽい痛みが伝わってくる。これは、地上に戻ったら数日は休まなくてはいけない。


 頭の中であれこれ計算する。

 ごく浅い階層を行き来するだけで、これだけ苦労している。危険のないときは本当に何もないのに、いざ、何かあるとなれば急に大変になる。今のところ、アルジャラードやシュプンツェみたいなとんでもない化け物に遭遇してはいない。それでも、ここの環境が俺を苦しめている。


 もう少しマシな場所ではないかと思っていた。

 もちろんダメな奴もいるだろうが、有能な冒険者もいて、そいつらを手を組むことだってできるんじゃないかと。だが実際には、ほとんどクズばかりだった。この点、アテが外れたとしか言いようがない。


 でも、そんなわけがないのだ。


 涼しくて過ごしやすい地下にいて、他にやることもないおかげか、やっと思考が明晰になってきた気がする。

 今まで俺は、ドゥミェコンの理不尽な部分をたくさん目にしてきた。だが、それだけではこんな拠点など、立ち行かなくなる。なるほど、カネの流れだけでいえば、辻褄は合う。帝都が資金も人員も提供する。それにぶら下がってムスタムから隊商が物資を送って利益を得る。現地にも常駐する冒険者がいて、彼らは帝都のモヤシ青年達にたかって私腹を肥やす。

 しかし、そうして運び込まれた富は、どこに吸い込まれる? 迷宮だ。リザードマンは新人冒険者から奪った鋼の剣で武装し、ワームも人間の肉を食らって大きくなる。


 さて、ここからだ。さっき、彼らと接触するまでとは、認識が変わってきている。

 他の魔物はどうか知らないが、リザードマンには知性があり、仲間の命も大切にしている。ドジを踏んだ身内が首に剣を突き付けられたのを見て、彼らは俺とノーラを逃がす決断をした。この点、被害を顧みずに衝動に駆られて暴れるゴブリンどもとは思考回路がまったく違う。

 人命……蜥蜴命を重視する彼らが、自分達の頭上に、全般的傾向としては敵対的な連中が居座ることを許容し続けるだろうか? もしそうとするなら、なぜだ?


 はっきり言って、リザードマンは強い。誰もが生まれながらの魔法剣士だ。しかも、魔宮の怪物どもと違って、陽光の下を歩けないなんてこともない。むしろ、迷宮の外側は彼らの天下だ。灼熱の砂漠に適応したその肉体は、地上でこそ、より能力を発揮できる。

 階段の崩落と火災を確認するために駆けつけることのできる彼らなら、その階段をいきなり駆け上がって、地上に広がる人間の街に攻め込むのだって不可能ではない。もちろん、そういった不慮の事態が起き得るからこそ、入口付近の大広間には「生贄」が何十人も座り込んでいるのだし、城壁だってあるのだが。


 そうした防備が邪魔なら、もっと簡単な方法もある。それこそ、地下の水源を奪ってやればいい。今の俺と同じ作戦だ。そうなれば、人間の側が、わざわざ迷宮内というリザードマンのホームグラウンドで戦わなければいけなくなる。

 ただ、これについては結論を出すのは早すぎるか。誰でも思いつく方法なのにやってないということは、できない理由もあるのかもしれない。


 まだある。あのバンダナ男が言っていたように、人形の迷宮には別の出入口もあるらしい。かなり深いところで、これまたリザードマンの巣を経由する形で、近くの小さなオアシスに繋がっている。ということは、奴らは地上からドゥミェコンに攻め込むのだって不可能ではないのだ。

 それに、街の中に抜け穴があるらしい。アナクにはリザードマン達と内通している疑いもある。でなければ、どうして彼らの言語を知っているのか。彼女は裏口を知っている。それは恐らく、トカゲ達の本拠地に連絡する通路だ。そこを逆に這い上がれば、あっという間にこの街には奴らが溢れかえることになる。

 要するに……


 俺がこれまで見てきた貧弱な防衛力では、リザードマンには勝てない。それどころか、時折発生するというはぐれ赤竜の襲撃なんかにも、まったく対応できない。

 人間側も、たまにはリザードマンと真っ向から戦うことがある。そうなれば、彼らの側に犠牲が出ることだってあるだろう。それなら、一気に地上を制圧してしまって、人間どもを追い出してしまったほうがいい。事実、諸国戦争時代以後、しばらくの間はそうなっていたのだ。

 ということは、リザードマンは人間を押し返したくてもできない。どんな理由か、一つに絞り切れないかもしれないが。例えば、リザードマンにも世界情勢についての知識があり、ドゥミェコン近辺を支配したところで、東西から大国が武力をぶつけてきたらどうしようもないとわかっているとか。

 だが、もっと手近な理由もあるのではないか。恐らく人間側にも、彼らに匹敵する武力があるはずなのだ。


 街に戻ったら、もっと聞き込みをするべきだ。

 多分、俺の知らないことが、まだまだたくさんある。たくさん宿題ができた。そう思おう。


 できれば、もっと人を集めたい。実力があって信用できる誰か。

 思えば、魔宮から生還できたのも、俺一人の力ではなかった。ソフィアが道を照らし、マルトゥラターレが貯水池の通行を助けて、ヘルが鍵をこじ開け、そしてカディムが生き抜くために必要な知識と安全地帯を提供してくれた。

 ここでも、俺にはそういう仲間が必要だ。ノーラは手助けをしてくれようとはするが、彼女だけでは足りない。俺の目的はあくまで不死だが、そのためにやるべきことを形にするなら、平和な時代に三百年もかけて、ついに誰にもなし得なかった最深部の攻略を目指しているのと、事実上違いがない。もっと誰か、本当に頼れる人がいなくては。


 その場合、最大のネックは俺自身だ。

 まさか、迷宮の主によって石像に変えられたいから、なんて言えない……


「おっ」


 どうやら丸一日が経過したらしい。

 やっと『透視』の神通力を身に着けることができた。


「ノーラ、起きて」


 俺はその場で、ぐるりと一周した。水の流れのようなものが見えるのは……あった。斜め上に、煌めく水面が見える。

 ただ、困ったことに神通力の制御がうまくできない。何が問題かというと、透過して見えるものと、すぐ目の前にあるものとの区別がつきにくい。視点が遠くに固定されていると、すぐ目の前にある土の壁をうっかり見逃してしまう。これは慣れるまで訓練しないと、何もないところで一人で壁に顔をぶつけそうだ。

 度重なる魔術の行使で、ノーラもかなり消耗しているようだ。丸一日以上、この真っ暗な迷宮の中で過ごさなくてはいけなかった。居心地の悪さは相当なものだったろう。だが、それもとりあえずは終わりだ。


「早速見つけた。穴を開けてやろう」


 さほど時間をかけることもなく、俺達はその場所に到着した。十分も歩いていない。

 多分、位置的にはトイレと逆方向にある。ちょうど、あの入口の大広間から見て右手が汚物の大穴だった。左側は突き当たりだとコーザが言っていたが、その壁の向こう側にあるのがこの水道なんじゃないか。或いは、もともとその突き当たりが水道の保守施設だったのかもしれない。

 なんにせよ、あとは穴を開けるだけ、なのだが……


「これは厄介だ」

「どうかしたの?」

「表面は日干し煉瓦、その向こうがモルタル……まではいいんだけど、こいつは驚いたな」


 統一時代の帝都にどれだけ金があったのか。それが窺える代物だった。


「内部の水道管が丸ごとミスリルとは」

「ええっ」

「確かに錆びないし、歪まないし、これ以上の素材はないけど……わかってても、こんなに材料を惜しみなく使えるものかな」


 こうなると、遠慮なしに大穴を開けてしまった場合、完全に補修できなくなってしまい、ドゥミェコンそのものを放棄する結果にも繋がりかねない。

 ただ、言ってみればミスリルの鎧を着ているようなものだから、壊そうとしてもそうそう破壊などできない。リザードマンが穴を開けない理由は、これかもしれない。頑丈過ぎて、破壊できる道具がない。


「じゃあ、どうするの? やっぱり、さっきのリザードマンのところに戻って、通してもらう?」

「それはさすがに難しいんじゃないかな。話が通じないほど頭のおかしい相手ではないけど」


 と口にしながら、俺達を地下に閉じ込めた連中のことを思い出した。酒杯を差し出して頭を下げた俺を蹴倒したドミネールと、その手下どもだ。皮肉な話だが、アレは話が通じない。トカゲ以下ということか。違いない。

 しかし、良識ある蜥蜴人間の皆様も、さすがに自分達の巣を素通りさせてくれるほど友好的とは思えない。戦闘を仕掛けた結果、身内が捕虜になったから、交換条件で見逃してくれただけだ。第一、言葉も通じないのだし。

 それとも何か、地上で干し肉でも買い占めて、地下に持ち込んで貢物として差し出し、頭も下げれば、通行権くらい与えてもらえるんだろうか?


「予定通り、穴を開ける。但し、小さなものにしようと思う」

「できるの?」

「できるよ」


 恐らくだが。

 火魔術を全力で叩き込み続ければ、そのうちに大穴があくだろうか。ただ、そのやり方は取らない。かなり大変だろうというのもあるが、穴のサイズを調整できない問題もあるからだ。なので、あくまで表面の日干し煉瓦とモルタルを吹き飛ばすだけにする。


「ノーラは……あの埋まった通路のところに戻ってて。穴を開けたら、水が漏れ始める。小さな穴だから、そこまでひどいことにはならないと思うけど、最悪、ものすごい勢いで水が出てきて、床が水没するかもしれないから」

「ファルスは?」

「穴を開けたら、大急ぎで階段まで戻るよ。で、しばらく待つ。そのうち、絶対に通路を元通りにしてくれるだろうからね」


 ノーラを一人、崩れた階段のすぐ下に置いてくると、俺はまず、曲がり角に陣取った。詠唱を重ねると、いつものように右手が赤く染まる。今回はほどほどの爆発力でいい。拳大の燃える球体が空中に出現すると、俺はそれを適当に投擲した。

 爆音が通路に響き渡り、表面を覆っていた日干し煉瓦が無数の破片を撒き散らす。それに巻き込まれたくなかったから、俺は物陰に控えていた。

 それが収まると、俺はそのまままっすぐ水道管に近付いていく。案の定、表面の日干し煉瓦やモルタルの層は見事に剥がれていたが、肝心のミスリルの部分は傷一つなかった。


「さぁて」


 今度は身体操作魔術の出番だ。

 とにかく全力で自分の腕力を高める。そして使う道具は、この剣。


「せぇ……のっ!」


 ガツン! と弾き返される。だが、問題ない。

 金属は歪むものだ。途方もなく頑丈なミスリルでさえも、そこは変わらない。金属は固いだけではない。ガラスと違って、撓むのだ。もう一度。


「っつっ!」


 またもや弾き返される。踏ん張ったせいで、左の足首に痛みが走った。

 だが、いけるはずだ。この剣なら折れない。根拠はないが、そういう確信がある。いや、あっさりツルハシさえ断ち切ったのだから、根拠もあるか。もう一度。


「がっ!?」


 これはちょっと考えが甘かったか? 壊れないだろう武器、そして最高水準の身体強化があれば、と思ったが、自信過剰だったかもしれない。

 よくよく考えれば、このミスリルの水道管は、人間なんかよりずっと体が大きく、力も強い魔物からの攻撃にも耐えられなくてはいけない。具体的には、窟竜やクロウラーだ。そうした魔物の暴走を幾度も受け止めて、なお破壊されずに残っているこの施設が、簡単に壊せるはずもなかった。

 いや、だが、これを壊す以外の出口はない。何より、水道を破壊すれば奴らが、この街に寄生するクズどもが降りてくる。奴らを殺さなくては……


 そうだ。

 もうすぐこの剣に血を吸わせてやれるぞ。ふざけた真似をした連中に思い知らせてやれる。

 そう思いつくと、急に全身から、何かが暴発したかのように力が満ち溢れてきた。


「っ……よっし!」


 凹んだ。

 小さな小さな傷だが、今度こそ切っ先がめり込んだ。

 しかし、そうなってくるとこの剣、材質はなんだろう? ミスリルすら傷つけるとなると、普通はもう、アダマンタイトくらいしかない。でもそれなら、魔法を使うたび、俺はもっと不自由な思いをしていたはずで。

 とんでもない値打ちものかもしれない。いや、きっとそうだ。売る気にはなれないが。

 さぁ、もう一度。


「次くらいで、いくな、これ」


 こんなに手間取るくらいなら、腐蝕魔術を使ったほうがよかったか?

 あれならミスリルもへったくれもない。ごく小さな穴を開けるだけなら、あちらのほうが簡単だった。まぁ、いいか。


 ところで、この剣に腐蝕魔術を使ったら、どうなるんだろう? やっぱり、他の物質と同じように溶けて消えてしまうんだろうか。もったいなくて試せないが。

 なにかこう、傷口がガバッと開いてくれるような、都合のいい能力があったらいいのに。局所的な腐蝕というか……

 いや、待てよ? 一つ、試してみてもいいかもしれない。既にそういう術があるのに、俺が見逃していただけじゃないのか?

 まぁいい。もう一度。


「ふんっ……おっ!」


 ガスッ、と手応え。

 切っ先がめり込み、突き抜けた。


「抜いたら……水が飛び出そうだ」


 水の勢いで傷が広がるかもしれない。なんにせよ、犯人だとバレたら大変なので、急いで逃げる。

 すっと切っ先を引き抜くと、想定通り。向かいの土壁を撃ち抜く勢いで、水鉄砲みたいに水が噴射され始めた。


「さ、逃げるか」


 ノーラが身を置く階段の下に落ち着くと、俺はそのまま身を縮めて座り込んだ。見る見るうちに廊下に水が溢れてくる。ただ、フロア全体の面積もあり、開けた穴の小ささもあって、水位はそこまで上がらなかった。なにより、この階層にも「トイレ」がある。他にも大穴があちこちにあるのだ。大洪水とはならず、やがて水の流れは僅かになった。


「よし」


 俺はゆっくりと立ち上がる。すかさずノーラは俺の左側に立って肩を貸す。急がなくていいのなら、傷ついた左足で無理をすることもない。

 穴を開けた給水管のところに戻ると、今もバシャバシャと水が漏れ続けていた。下から水が押し出されてくる仕組みそのものには手を加えていないから、こういう結果になる。幸い、給水管の傷の広がりは、ほとんどなかった。

 貯水池も無傷だから、その気になれば、バケツでも放り込んで水を汲めば、水の供給がゼロになったりはしない。ただ、それでは労力が大きくなりすぎるし、街の周縁部に給水するシステムは動かなくなるから、このままにはしておけないだろう。絶対に降りてくる。


「この水、きれいかな」

「さぁ」

「多分、大丈夫だと思う。せっかくだから飲んでおくよ。ああ、水筒にも詰めないとね」


 余所者には水を惜しむこの街に対する、せめてもの意趣返し。そんな気持ちもあって、俺はたらふく水を飲み、手持ちの水筒にもたっぷりと水を詰め込んだ。


 俺が穴を開けてから二時間ほど過ぎただろうか。

 暗い廊下の向こうに、黒い人影が見えた。


「あーっ、こっちですよー! 早く来てください!」


 俺はわざとらしく声をあげた。


「やっぱり穴が開いてやがる」

「どういうこった」


 いかつい男達が大股に歩み寄ってくる。その中には、あのバンダナの男もいた。こいつらは、あのドミネールの手下どもだ。

 本当に、待ちかねていた。彼らの姿を見るだけで、体中がムズムズしてくる。


「やぁ、昨日ぶりですね。いやもう、一昨日かな?」

「てめぇは……!」


 彼は、水道管を背にした俺を前に、表情を強張らせた。


「大変な一日でしたよ」

「てめぇが開けやがったのか」

「冗談はよしてください」


 俺はニヤケながら言ってやった。


「昨日、上の階に戻る階段が壊されたでしょう? どうしてあんなことをしたんです?」

「緊急事態だ。魔物が下から攻めてくると報告を受けて、慌てて爆破したってだけだ」

「逆ですよ。あれでリザードマンが気付いて、この階層まで上がってきたんですから」

「デタラメ言ってんじゃねぇよ」

「本当ですよ。なんなら今度、試してみればいいじゃないですか」


 そう言われると、もう何とも言い返せない。誰だって迷宮に閉じ込められたくなんかない。


「それで、誰もいないもんだから暴れまわって、結果がこれですよ」

「嘘をつけ」

「他にどう説明できるんですか」

「てめぇが上に行きてぇからって、こいつをぶっ壊したんだろうが」


 それ、言っていいのか?

 その事実を指摘するとなれば、それはそのまま、こいつらが俺に嫌がらせをするために階段を爆破したことも認めなきゃいけなくなるんだが。


「そんなこと、できるわけないでしょう? 見てくださいよ、この金属の部分……青みがかった銀色、これはミスリルです。こんなのをぶち抜ける道具が、どこにあるんですか」

「くっ」


 限りなく疑わしい。だが、できるわけがないとも思う。

 だが、こいつらの感想とか意見とか、そんなものはもう、どうでもいい。なんといっても、これからはお楽しみの時間なのだから。


「いやぁ、本当に怖いですね、リザードマンは」

「お前、どういう」

「今もこの階層で、冒険者を待ち伏せしているかもしれません。そのために、水道を壊したのだとしたら?」


 という言い訳を、俺は地上でもすることになるだろう。

 僕とノーラは臆病だから、物陰で見ていただけでした、誰も助けられませんでした、と泣きながら……今度こそ、泣きながら訴えてやろう。

 というわけで、そろそろサッパリさせてもらおうか。


 だが、そんな腹積もりのわからないバンダナの男は、左右を見回した。他の連中もそうしている。そんな間抜け面を見ながら、俺はそっと腰の剣に手を添えた。

 その手に、柔らかいノーラの手が重ねられる。


 この期に及んで何を、と俺は睨みつけたが、彼女は首を振った。


「誰か来る」


 それで思考が追いついた。いるのは、ここのヌシ達だけではない。

 関係ない第三者が居合わせると、大変にまずいことになる。しかし、それはあり得ることだった。というのも、これは水道の補修だから。穴の開いた個所を急いで埋め合わせなくてはいけない。そして、彼ら冒険者達は、修理屋なんかではない。金属加工に長けた誰かが応急措置をする、その場所を確保し、防衛するために駆けつけたに過ぎない。


「くそっ」


 事情を呑み込んで、俺は小さく吐き捨てた。

 無関係の職人まで殺すというのは、さすがにまずい。第一、それでは本当にこの拠点から人間が一掃されてしまう。俺の探索にも不都合だ。

 一応、俺の計画も、まるきり的外れではなかったのだが。逆に修理屋は冒険者ではない。破損個所の特定とそこに至るまでのルートの安全確保が先だろうから、やってくるとしても、まだ先だろうと見込んでいた。しかし、水漏れが起きているのが比較的浅い階層だったのもあって、そうした諸々をすっ飛ばしたのだろう。


 最初に駆けつけたドミネールの取り巻きどもに続いて、また数人が水の張った迷宮の床を踏みしめてくるのが聞こえた。なんと驚いたことに、女の話声も聞こえる。緊張感のない口調だが、狭い場所で反響して、何を喋っているかはよくわからない。

 それがすぐ近くまでやってきた。


「だからね、こんなところまで私が来るなんて必要は……」

「えっ」

「えっ?」


 その声には聞き覚えがあった。顔にも見覚えがあった。

 だが、なぜこんなところに?


「な、なんでよ!?」

「どうしてここに?」


 いたのは、あのオルファスカとその仲間達だった。ただ、ラシュカの姿が見えなかったが。

 必然、敵意に満ちた視線が交わされる。


「どうしても何も、私達は上位の階級の冒険者だから、緊急事態ともなれば召集されるのよ。おかしくないでしょ?」

「僕も、ここにいるのは当たり前です。以前、言いましたよね。目的地は人形の迷宮だって」


 なんてことだ。クズばかりの街に、また一人、いや三人もクズが追加された。いい加減にしてくれ。


「ちょっといいかね」


 その後ろから、年配の男性がオルファスカ達を掻き分けながら出てきた。それと、助手らしき若い男も二人。


「ああ、こいつはいかんなぁ」

「ミスリルですからねー、材料が……」

「前後から鋲を打って、無理やり締め付けるとかしないとダメかな……溶接は」

「その前に水を抜かんといかんじゃろ」


 修繕方法について、彼らは話し合っていた。

 そこへ、更なる増援がやってきたらしい。最重要拠点の防衛だから、無理もないが……


「おーい」


 野太い声が響く。足音からして、重そうだ。胸板の厚い、見るからに逞しそうな男が先頭を歩いている。太っているのではなく、装備のせいでそう見える。身に着けているのは赤銅色の分厚い鎧だ。それに大きな盾と、重そうなハンマーを携えている。


「あっ」


 ノーラが何か気付いて、声をあげた。

 まさか、知り合い?


「こっちです!」


 そして、あろうことか手を挙げて呼びかけさえし始めた。


「おう!」


 イキのいい声が返ってくる。歩調を早め、床に張った水を撥ね飛ばしながら、すぐここまでやってきた。


「大丈夫か。何かやることは……ん?」

「お久しぶりです」


 そう言うと、ノーラは帽子を取って深々と頭を下げた。

 俺はというと、目を丸くして立ち尽くすばかりだ。


「あ、あの……もしかして」

「お、お前ら」


 これまた見知った顔だった。


「ガッシュ、さん?」

「ファルス、と……まさか、ノーラちゃん?」


 ピュリスにいた冒険者の、あの居酒屋の常連客だったガッシュ。そういえば、彼はサハリアに行くと宣言していたっけ。

 しかし、まさかこんなところにいたなんて。


 驚きから我に返ると、彼はガラリと表情を変えた。まるで急に空が晴れ渡ったかのようだった。


「はーっはっはっは! こんなところで会えるとは思わなかったぜ!」


 そうして、俺とノーラを乱暴に抱きしめた。

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