安全な魔物……なんて
ワームを倒した場所から、少し離れたところにある小部屋に、俺とノーラは座って休んでいた。だが、体はともかく、精神的にはまったく休まらない。
松明にも火を点したままだから、リザードマンがその気になれば、簡単にこちらを捕捉できるだろうし、またあのワームが足下から出てこないとも限らない。他にも、油断している隙にサソリに一刺しされることも考えられる。
前後左右上下がすべて危険な空間。そう表現するしかない。
現在の迷宮の生態系において、人間はどの位置にいるのだろう? 底辺はゴキブリ、それを捕食するのがサソリ。その尾を狙うのは人間だ。一方、リザードマンはワームを狩って食べるという。そのワームはというと、さっき体験した通り、人間を餌とみなしているから……
本来、ワームは巨体の割に臆病な生き物なのではないかと思う。鋭い牙は持っているが、あとは大きくて取り回しのきかない体を引きずるばかり。機動力に欠けていて、表皮にも耐久力がまったくない。この剣で切り裂いたときには、まるでジッパーを開いたみたいになっていたが、普通の武器でも簡単に刺し貫けるのだろう。試してはいないが、火魔術にも耐えられない気がする。
だから、自分よりずっと小さな人間を襲う場合でさえ、そっと足下を掘り抜いて、いきなりバクッといく。さっき、チラッと見ただけだが、ワームには鋭敏聴覚のマテリアルがあった。察するに、上の階層にいて、かつ長時間動かずにいる人間を見つけたら、静かに天井を掘り抜くのではないか。
正面から戦えるのなら、これもサソリと同じく、なんてことはない。さっきはノーラが『認識阻害』で攪乱してくれたが、あれがなくても、万全な状態の俺なら、あっさり倒せると思う。
ということは、この人形の迷宮で不意討ちを受けないためには、常に動き続けなくてはいけない。ワームといえども、一瞬で床をぶち抜けるわけではない。大きな音をたててもいいのなら別だが、それでは獲物に気付かれてしまう。歩き回る冒険者には手が出せない。ルングが一ヶ所にとどまるのを嫌ったのも、この辺の経験則があってのことだろう。
リザードマン対策をするのなら、松明もなるべく使わない。火が燃え広がると連中は熱でこちらを感知する。理想をいえば、光魔術で視界を得るべきなのだろう。俺の場合は『暗視』があるから、ノーラにもこれを付与すれば、灯りは不要になるが……
これだけいろいろ持っているのに。何もかもが不足している。
こんな迷宮を、大昔の人間はどうやって攻略したのだろうか? 人海戦術でいけるなら、この辺はなんとでもなる。ワームの奇襲は、すぐ下のフロアを人間側が占領していれば防げる。だから警戒すべきは現在侵攻中のフロアと、その一つ上だけ。各階層を繋ぐ階段のところをしっかり押さえて、効率的な移動ルートを確保しておけば、危険な交戦中エリアで一夜を明かすこともない。安全な階層まで戻って熟睡し、それからまた地下に戻ることができた。
それでもリザードマンは強敵だったし、もっと深いところにいくと、今度はクロウラーが出てくる。ワームと同じような生態だが、こっちは芋虫ではなく、ゴカイやゲジゲジだ。脚がたくさんあり、体の表面には頑丈な外殻を備えている。しかも、更に大きい。そこに窟竜やバジリスクも出没し始めるとなれば、人間側の侵攻が鈍ったのも無理はなかったか。
「痛みはどう?」
「これくらい、なんてことはないよ」
ノーラは周囲に『人払い』と『意識探知』を行使し続けている。平面的に警戒しても不十分とわかって、すぐ下の階層まで対象として。その負担は小さくない。だが、やめてくれとも言えない。
「それより、どうやって上に出るかだ」
さっきの穴は、もう使えない。ワームの死体をリザードマンが発見したらしいからだ。せっかくのご馳走を放っておく手はないようで、遠くからペタペタと連中の足音が聞こえてくる。
にしても、変な足音だ。少し考えて納得する。沼地種にせよ、砂漠種にせよ、普段奴らが歩く足場は不安定だ。沼地はいつもぬかるんでいるし、砂漠も砂が多ければ、やっぱり足が沈み込む。だから、面積の広い、まるでかんじきを履いたみたいな足になっていたほうが都合がいいのだ。そのおかげで、迷宮の中では、どうしたって足音が響いてしまう。もちろん、俺達にとっては好都合だ。
「少し待って、トカゲどもがいなくなったら、そっと歩き始めよう。ここは危険すぎる」
「うん」
ここの階層はまずい。サソリの階層はまだ人間側の縄張りだが、ワームを狩る場所となれば、明らかにリザードマンの側に主導権がある。
しばらくして、あのペタペタという足音が聞こえなくなった。
「行こう」
俺は立ち上がった。左足がズキンと痛む。だが、足を引きずって弱点をさらすわけにはいかない。どこから見られているか、わかったものではない。手早く詠唱して『苦痛軽減』の術を用いたが、本当はあまりやりたくはなかった。捻挫そのものが治るわけではないので、無理をすればするほど悪化する。
それでもとにかく、一つ上の階層に進める階段を見つけないと。ただ、さっきの大穴を這い上がれば、その辺はショートカットできる。とりあえず、そこまで戻ってみた。
松明の光に照らされたワームの死骸は、ぺしゃんこになっていた。表皮のすぐ内側にはドロドロした液体がある。その内側には筋肉があったのだろうが、その部分が丸ごと抜き取られてしまったようだ。残されたのは皮と牙だけ。既にゴキブリが数匹、纏わりついている。
「ロープを出そう。うまくいくかわからないけど」
鳥には化けられない。今、怪鳥の肉体は種の中。ピアシング・ハンドもクールタイム中で、そもそも次に『透視』を取り込むために待っているのだから、使いようがない。だから上の階層の何かにロープを引っ掛けて、まず一人が上に這い上がる。ただ、真四角に掘り抜かれた土壁だから、どうにもならない気もする。
「だめね」
「ああ」
何度かロープを上の階層まで投擲した。何かに引っかかってくれるよう、先端にはナイフを括り付けてある。だが、何にも引っかからず、下まで滑り落ちてくるだけだ。
「これ以上は無駄か。長居はよくない。動こう」
「待って」
念のため、周囲を探知してから、次の行動に出ようというのだろう。
「どうした?」
「これ、まさか」
まさか、ということは、確定だ。
「取り囲まれたか」
「ごめんなさい」
「ノーラのせいじゃない」
かなり遠巻きにしていたのだろう。それが徐々に包囲網を狭めてきた。
どれだけ警戒していても、こちらには松明もあれば、体温もある。熱源を感知できる連中からすれば、隠れようがない獲物なのだ。
「切り抜ける。ノーラは、逃げられそうなら先行して」
「そんなの」
「僕は、一人ならそうそうやられない。囲まれてもなんとでもなる。だけど」
途中で言葉が途切れる。
あの足音が四方から聞こえてきたからだ。
もしかすると。見抜かれていたのかもしれない。
リザードマンは、もともと人間だ。知性がある。切り裂かれたワームの死体を見て、彼らはどう思ったか? 特に、人間が欲しがる討伐証明部位が切り取られているとすれば。それにワームは、餌が手に入るのでもなければ、迷宮に大穴を開けたりしない。十中八九、上の階層にいた人間をワームが襲って、返り討ちにされたのだと判断できる。
ただ、探し回っても俺達を見つけることができなかった。『人払い』の効果はやっぱりあって、直接に俺達を認識するのは難しかった。しかし、それでも彼らの中にある「誰かいるはず」という認識そのものは、まったく手付かずだったのだ。
彼らにとって、人間は重要な資源だ。迷宮の中では自作できない革の鎧や鋼鉄の剣を持ち込んでくれる。食料にもなる。
ワームの頭が力なく突っ伏すこの広間には、四方向すべてに通路がある。どこも黒一色、常人には見通せない闇が広がっている。そこから、人に似た影がいくつも現れた。俺達を見ても、すぐに襲いかかったりはしない。冷静に観察しながら、黙って部屋の壁際に立つ。そうして、後続の仲間に場所を譲る。
その様子に、俺は冷や汗が滲むのを感じた。こちらを侮って、欲望のままに跳びかかってくるかと思いきや、ゴブリンとは全然違う。この落ち着きようが恐ろしい。
リザードマンも、本来はルーの種族だ。では、彼らはいったい、人間であった頃のどんな機能を犠牲にして、その力を得たのだろうか? 名前が二つ見えないということは、既に霊樹との繋がりは絶たれているはずなのだから。
「ギィ」
「シュッ、シューッ」
「ギェゥ」
何事か話し合っている。意味は不明だが、想像ならつく。
本当にこいつらだけか? ワームを殺したのが子供二人? 他にまだ、隠れているんじゃないのか?
「ノーラ」
滴る汗を感じながら、俺は単純な作戦を伝える。
「襲ってきたら、最初にかかってきたほうを突き破る。後ろをみないで、すり抜けてくれ。すぐ追いつく」
「わかった」
この期に及んで「ファルスが逃げないなら私も」とか言い出したら困っていたが、それはなかった。自分が足手纏いになってはならないと理解はしているようだ。
囲みさえ突破すれば、あとは俺が立ち塞がれば。倒すより、撃退すること、追撃を諦めさせることに重点をおけばいい。
「ギィー」
誰かが話を纏めたらしい。間延びする声に従って、連中は距離を詰めてきた。
「くるぞっ」
その時、先走った一匹が深くしゃがみこんだ。直後、人間ではあり得ない格好でいきなりカエルのように跳ねた。尻尾の力も生かして高く跳躍したのだと、思考が追いつく。
「行けっ!」
俺は叫んだ。
真上から切っ先が迫る。受け止めようとして、上空のリザードマンの尻尾が横に薙ぎ払われるのに気付く。
「ハッ!」
俺もその場で跳び上がる。剣を剣で払いながら、残った左の拳を、リザードマンの横っ面に叩きつけた。そのまま俺は着地し、そいつは床に落下した。
なんて技を使うんだ、このトカゲは。並みの人間相手なら必殺だ。
通常の剣術で、相手の頭より高く跳んで真下に剣を突き刺すなんて、そんな大技はまずあり得ない。そもそもそんな跳躍力を普通の人間は持ち得ないし、もしできたとしても、隙が大きすぎる。白昼堂々の接近戦でそんな曲芸をやらかしても、あっさり見切られるのがオチだ。しかし、ここは薄暗い迷宮だ。地下三階ともなれば、外からの光は一切届かない。そんな空間で、いきなり目の前から敵が消えるのだ。
おまけに、迎撃態勢をとった人間相手には、尻尾でのビンタをお見舞いする。横ざまに構えて相手の刺突を受け止めようとしているところへ、いきなり意識外の一撃を受けるのだ。その状態で真上からの一撃を避けきれるだろうか?
「走れ!」
いまやカエルのようにひっくり返って白い腹をさらすリザードマンの首に剣を添えながら、俺はようやく前を見た。だが……
無理だった。ノーラは二匹のリザードマンに行く手を遮られ、一度に剣を叩きつけられていた。いつも手にしている黒い杖で受け止めるも、突撃の勢いは完全に殺されてしまっていた。
「くっ」
やっぱり無理だったか。精神操作魔術の力があっても、この状況では大きな力を発揮できない。さっきまでのように『人払い』を行使している間は敵の目を欺けもするが、一度に多数の敵に囲まれてしまったのでは。
それでも、俺は助かるかもしれない。奴らには、俺を倒しきるだけの決定力はない。だが……
「ギィ」
「ギィギィ」
「シィッ」
前後から、短いやり取りが聞こえる。
一斉に跳びかかってくるのだろうか。やってみろ。こうなったら、力尽きるまで戦うだけだ。
だが、急に静かになった。
「……えっ?」
相変わらず、四方をリザードマンが塞いでいる。だが、彼らは動きを止め、こちらを指差している。いや、俺ではなく、俺が首に剣を添えた仲間をだ。
「な、なに?」
「シュッ、シィッ、シャァッ」
「なんだって?」
俺に向かって忙しく指差し、また足下の仲間を指し示す。
解放しろと言っているのか? 襲いかかってきておいて?
「ふざけるな。だったら俺達を逃がせ」
言葉が通じているのかいないのか。だが、奴らは互いに囁きあっていた。シュウシュウと、まるで風船から空気が抜けるような声で。
やがて、四方の道のうち、一方が開かれた。ノーラが通り抜けようとしたのとは、反対側だ。
「ノーラ」
「……うん」
人質交換、か?
仲間を殺させないために、俺達を逃がす?
「先に行って、早く」
案の定、ノーラが囲みを抜けて通路に出ても、誰も邪魔しなかった。
彼女が離れたところに立ったのを確認すると、俺はゆっくりと剣を引いた。今度こそ、襲われるのだろうか、と思いながら。
「シッ、シッ」
しかし、リザードマンは手を振りながら、ノーラのいるほうを指差した。お前も行けと、これはもう、そういう意味にしか受け取れない。
逃がしてくれるのか。
意外だった。
危険ではあるものの、交渉の余地がある連中だったとは。これがゴブリンなら、仲間が殺されてもお構いなしだろうに。
「シャッ、シッ、ギッ!」
俺が囲みを抜けると、ほぼすべてのリザードマンが、俺達の行く方向に指を向けた。あっちに行けと、そう言っているように思われた。俺は頷き、まっすぐ進むことにした。
「うそ、だろ……?」
しばらく行った先にあったのは、登り階段だったのだ。
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