こちらでもこんにちは
「何もいないみたい。近くには」
「そりゃそうだ」
これで二度目か。但し今回は、本当に探索を始めてはいる。入口だけ見て引き返したりはしなかった。
階段を下りて地下道を通り、入口に屯する無気力な冒険者まがいどもを背にして、薄暗い通路に踏み込んだ。
通路の幅は、かなりある。測ったわけではないが、この辺ではおおよそ三メートルほど。天井までの高さもそれと同じか、少し低いくらいだ。暗い黄土色の床と壁、天井はいずれもカッチリと真四角に刻まれていて、崩れてきそうな気配はない。
空気は冷たかったが、爽快感はない。どことなく澱んでいる。地上よりは湿り気のある微風が、どこかに向かってゆっくりと流れている。それには何かの臭いが紛れ込んでいる。冒険者達の血と汗か、それとも魔物達の屍か。
この道幅では、迷宮の主とされているバジリスクの王や、窟竜などが外に這い出るなどできない。実はしっかり大穴の空いている場所もあって、本来ならそこが迷宮の大通りにあたるという。ただ、現在は人間側の努力によって土砂で埋めてあるらしい。もっとも、いざとなったらそんなバリケードなど役に立たず、大型の怪物が溢れ出して暴れるようだから、気休めに過ぎないのかもしれない。
二人で迷宮の中を歩いているが、今のところ、危険も何もない。すぐ後ろではノーラが松明を捧げ持ってくれている。おかげで視界に困らず、両手も自由だ。もちろんその分、俺には大事な仕事がある。魔物が近寄ってきたら、素早く応戦しなくてはいけない。罠その他の危険にも注意を払う必要がある。
ただ、魔物の接近自体は、これまたノーラが検知してくれる。『意識探知』に引っかかるものがあれば、何であれ報告してくれるのだ。
「それより、さっきの傷は」
「そういえば、もう痛くない」
迷宮に入り、人目のない場所に陣取ってから、俺はよく洗った清潔な刃物で、ノーラの手の甲に小さな傷をつけた。それがどれくらいで治癒するかを確認したかった。
すっと左手を差し上げ、俺に見せる。そこには、傷はおろか、傷跡すら残っていなかった。
「これで確認できた」
あのアビリティ『魔導治癒』の効果は、やはり魔力に依存するのだ。本人の中にある、使用されていない残存魔力が変換されて、傷の治癒に充てられる。推測でしかないが、そう考えるのが妥当だろう。
とすれば、今のノーラには高ランクの魔術核が与えられているから、即死するような重傷を負うのでなければ、または銀やミスリルによって負傷しない限りは、いきなり死んだりはしないということが期待できる。
ただ、過信は禁物だ。猛毒や病気によるダメージにどう作用するかはまだわからない。それにまた、飢餓や脱水症状、暑さや寒さには無力かもしれない。だいたい、どこかに閉じ込められたり、拘束されたりした場合には、これはもう傷がどうとか関係ない。無数にある危険のうち、一つが軽減されたに過ぎないのだ。
「で、こいつも」
念のために、検証すべきことは先にしておく。
シーラのゴブレットを持ち込んできたのだが、案の定だ。迷宮の中では、飲料の増え方が少ない。ここが誰か別の神の管轄下にある場所だという証拠だ。
ともあれ、これでまた一つ、危険がはっきりした。迷宮の中で飢えれば、死ぬ。
「ねぇ」
「どうした」
「この辺、何かいやな臭いがするんだけど」
「ノーラも? やっぱりか」
真四角な通路。迷宮。魔物。どこかには財宝もあるらしい、とくれば。まるでゲームの世界のようなシチュエーションだが、現実はそうそう都合よくできていない。要するに、宝箱を抱えた魔物が迷宮の部屋に腰を据えていたり、倒しやすい敵が一匹でウロウロしていてくれたり、浅い階層には弱い魔物が初心者用に配置されていたり……なんてことはない。
まず、ここまで歩いて、まだ魔物の一匹にも出会っていない。ゲームなら、コボルトなりゴブリンなりが一匹だけで出てきて、わざわざ戦闘訓練の相手をしてくれた上で、殺されたりするのだろう。しかし、ここにはそもそもゴブリンなんかいないし、いてもそいつらは雑魚ではない。かつ、知性もあるので、一人でウロウロするような気違いはいない。
しかも、この迷宮に住まう人型の怪物はといえば、まず砂漠種のリザードマンだ。一対一なら、確実に平均的な人間より強い。もちろん、ゴブリンよりも強いだろう。そいつらが徒党を組んで、組織的に活動しているのだから、取り囲まれたら一巻の終わりだ。事実、連中はそのように行動するらしく、人間側が十分に警戒できていない場合、一気に取り囲まれ、一気に全滅させられるらしい。
また、お宝もない。こんなところにお金を落としていく間抜けは、せいぜいのところ、魔物に狩られた人間くらいだろう。お宝がなければ、宝箱もない。もしあっても、数百年の歴史のうちに取りつくされている。どうしてもというのなら、ないこともないが。財宝を貯め込んで人間を誘い込むという噂の、あの窟竜の巣にでも出向けばいい。
要するに、深い階層により強力な魔物が居を構えてはいる。この辺に魔物がいないのは、人間側の勢力が大きいからに違いない。単なる緩衝地帯だから安全なだけだ。
そして、ゲームの世界と違うところがもう一つ。臭いがある。
生理的欲求は誰しもあるものだし、それは魔物達ですら変わらない。だから、まだ直接目にしてはいないが、きっとあちこちに排泄物が散乱しているのだろう。陽光にさらされることのない地下の通路だ。さぞ不衛生に違いない。
そこまで思い至って、俺はふと足を止めた。
さっきの入口の連中。あいつらはどこで用を足しているんだろう? 毎日数時間は中にいないといけない。途中で出てきたら日給を貰い損ねるのだ。ということは、人間用のトイレもあるはずだ。
今回は遠くまで探索するつもりはない。だから、まっすぐ遠くまで行ったりせず、ぐるりと回りこむ形で歩いている。
とすると、実はこっち方面は、人間の活動領域に近いのかもしれない。
「臭いのするほうに行ってみるか」
「……そうね」
不快感を押し殺して、ノーラは短く答えた。
いくつか通路を横断するうちに、臭気は吐き気を催すほどのひどさになっていった。鼻がバカになりそうだ。
だが、こういうところほど注意しなくてはいけない。魔物の異臭にも気付けないだろうし、意識もとにかく臭いに向けられてしまうので、余計に危険になる。
「大丈夫、周囲に気配はないわ」
そうは言われても、俺は視線を上に向けずにはいられない。
糞尿をひっかぶるなんてごめんだからだ。もしかすると、あの先輩冒険者達が、新人への洗礼だといって上から汚物をぶっかけてきたり、なんてこともないとは言えない。
そうこうするうち、遠くから小さな水音が聞こえてきた。
「……あそこか」
げんなりした、とはこういう場合に使う言葉なのだろう。
真四角の通路が途切れ、広い部屋になっていた。そこだけは大穴があいている。上にも下にも。砕かれた岩壁が荒々しい壁面をさらす中、言葉にしたくないものが上からしとしとと滴っている。それは、床に開けられた穴から、更に下の階層へと流れ落ちている。
迷宮の一部は下水、か。魔物達は、これをどう思っているんだろう? 汚しやがって、馬鹿にするな。或いは、むしろ汚物も資源としてありがたがっているのか。
そして、どうやらここがこの最初の階層にとどまる冒険者達の便所でもあるらしい。
「帰ろうか」
「う、ん……?」
返事を仕掛けたノーラが硬直する。
「ね、ねぇ、あそこ。意識の反応」
「なにっ」
鋭く振り返り、剣を抜き放つ。
しかし、赤く暗い松明の光が点すのは狭い範囲だけ。あの不規則な形をした大穴付近には、崩れた岩壁の破片がいくつも転がり、それが物陰を形作っている。何かがいても、はっきりとは見えない。
「ノーラはそのまま。後ろを警戒。僕が確認する」
「わかった」
俺は剣を片手に、そろりそろりと前に進む。
「ギィ!」
「くっ!?」
足元の陰から、黒く平べったい何かが飛び出してくる。それを俺は一薙ぎにした。バシッ、と軽い手応えがある。
「もう一匹!」
何かと思えば。体長五十センチ近いゴキブリだった。
それが汚物と物陰の狭間に隠れて、人が来るのを待ち受けていたのだ。なるほど、排便以上に人が無防備になる瞬間など、そうそうない。
切り払われたゴキブリは、空中で仰向けになりながら、足をバタバタさせつつ、翼を広げようとした。しかしそれもかなわず、暗い穴の中へと落下していく。そこで見てしまった。
一つ下の階層に落下したと思しき誰かの白骨。墜落した衝撃で動けないところを、大勢の巨大ゴキブリに食いつかれて死んだのだろうか。床と天井の汚物にサンドウィッチされながらゴキブリどもの餌に……思いつく限りで、最悪の死に様だ。
「今のはなに?」
「ゴキブリ。でっかいやつ」
にしても、魔宮といい、ここといい。俺は何かとゴキブリに縁があるらしい。最初の相手がこれとは。
「用を足そうとして、足を滑らせたか、ゴキブリどもに引っ張り込まれたか。それとも……とにかく、死体があったよ」
「見なくて済んでよかったかも」
「シャレにならないな」
呆れつつ、ほっと息をつきつつ。俺はまた、そろそろと後ずさって、ノーラの横にまで戻ってきた。
「ここじゃあトイレも命懸けだ」
「笑えない」
さすがのノーラも、この惨状には顔色をなくしていた。
「とりあえず、また引き揚げよう。やっぱり、最初は案内人がいたほうがいいかもしれないし」
「うん」
もっとも、案内人がどれだけ信用できるか、わかったものではないが。ノーラが心の中を監視すれば、多少はマシだろう。
それとこの剣、あとでしっかり拭っておこう。さすがに不潔すぎる。
それから俺達は、揃って迷宮の外に出た。
せいぜいのところ、一時間くらいしか中にいなかったらしい。当然、日給もなし。ひどい臭いだったのもあって、食欲もわかなかった。短時間だったのにもかかわらず、警戒しながらの探索だったためか、どっと疲れたような気がした。
迷宮の外に出て、まるで天井の取れた塔、筒の底に立った時には、本当にほっとした。しかし、それもすぐに掻き乱されることになる。
手続きをして、塔のような城壁の外に一歩出ると、そこは入ったときとは打って変わって、物々しい雰囲気に包まれていた。
見れば、ボロを着た髭ボサボサの浮浪者みたいな男が、左右から軽装の兵士達によって羽交い絞めにされていた。それを地元の冒険者達、それにいつも無気力なままに迷宮の入口に座り込んでいる連中が、遠巻きにして見つめている。
「動くな! おとなしくしろ!」
「ひっ! ひぃぃっ!?」
捕らえられた男は、顔を真っ赤にして目から涙を流していた。傍から見ると、いじめられているようにしか見えない。
「何があったんですか」
近くにいた若い冒険者らしい男に声をかけると、一度、面倒そうに顔を背けたが、仕方ない、といった様子で溜息をつくと、短く答えてくれた。
「泥棒だ」
「泥棒?」
「パンと水を盗んだらしい。だから自警団に捕まった」
生きていくにも困って、か。この街でなら、それもありそうなことだった。
「ここじゃあ、自警団は強い力を持ってるからな。絶対に逆らうなよ? 長生きしたきゃな」
「ありがとうございます」
「はっ」
忠告への感謝に、彼は顔を背けて応えた。
「どうなるんですか」
「あん?」
「あの人は」
「ふん」
肩をすくめると、彼は吐き捨てた。
「ここから出られて、よかったんじゃねぇの」
「えっ」
「代金を払えなきゃ、犯罪奴隷だ。他所に売り飛ばされて、それでしまいさ」
だが、それはそれで過酷な労働生活が待っているし、将来への夢希望など、どこにもなかろうに。
しかし、この拠点にとどまる限り、高い物価と迷宮の魔物に悩まされ続けることになる。どちらがマシなのか、簡単には答えられそうにない。
両脇を固められて、ついに観念したのか、男はがっくりと項垂れた。だが、次の瞬間、弾かれたようにのけぞると、大声で喚き始めた。
「う……うわぁあっ! いやだ! 帰りてぇ! 帰してくれよぉ!」
「こらっ」
「黙れ! 動くな! おとなしく歩け!」
だが、彼は暴発する感情のままに叫び続けた。
「帰る! 家に! 家に帰してくれっ! 海の見える俺の、俺のぉっ……」
「くっ、うるさい!」
自警団の男達が駆け寄ると、彼の鳩尾に拳を打ち込んだ。それで声が続かず、彼は息を詰まらせる。それでも、なんとか抜け出そうともがき続けていた。
脇に立っていた無気力そうな別の若い男が、ぼそりと呟いた。
「帰れるものなら、俺だって帰りたいさ」
そのまま俯くと、泣き出しそうな顔をして、そっと立ち去っていった。
俺とノーラは、ただ黙って立ち尽くしていた。騒ぎを見物していた連中は一人、また一人といなくなり、やがて代わり映えのしないいつも通りが戻ってくる。昼下がりのこの時間、案内人稼業の冒険者達もお休みだ。日除けの布越しにもなお空間を圧する陽光の威圧ゆえに、世界は沈黙を強いられる。
この街はいったい何なんだろう?
ここで何が起きているのか?
釈然としない思いを抱えたまま、俺とノーラは宿に向かって歩き出した。
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