オルファスカ達の正体

 今日も今日とて、ムスタムの海は素晴らしい。夕暮れ時の空と海は、藍色と金色のコントラストに彩られている。客室として割り当てられた二階の部屋からは、いつも当たり前のようにこの眺めを楽しむことができる。

 ただ、それも部屋の住人の気分がよければ、だ。


「ごめんなさい」

「謝ってほしいわけじゃない」


 ザイフスがノーラを強姦しようとした。そのきっかけは、俺が彼女の拉致とピュリスへの送還をオルファスカ達に依頼したことにある。

 幸い、被害は服だけで済んだ。しかし、未遂であっても俺の責任は重大だ。


「こんな情けないことになった。僕が悪くないということはない」

「ファルスがそう思うのなら、そうね」


 それにしても、どうしてあんなくだらない思い付きで動いてしまったんだろう?

 自分が何かに操られたんじゃないかとさえ思うのだが、それはあり得ない。俺には精神操作魔術や魅了などの神通力がほとんど効かないのだから。だいたい、俺をそんな手段で支配できるのなら、まず使徒がやっているはずだ。

 なのでこれは、正真正銘、俺自身の判断だったはずだ。何かのせいにはできない。


「でも、私のせいでもあるから」

「なんでそうなる」

「ファルスは私に帰って欲しいんでしょう? 自分で決めて、自分で帰らないでいるんだもの。どうなっても私の自己責任でしょ」


 ノーラは、これだけのことがあったのにもかかわらず、平然としている。にこりともせず、怒り狂ったりもせず。淡々としているように見える。

 だが、これも半ばは、彼女の中の冷徹な計算による。もしここでノーラが取り乱して俺の責任を追及したらどうなる? 俺には「喧嘩別れする」という選択肢が生じ得る。だが、そんな泥仕合には持ち込ませない、というわけだ。

 無論、そこまで気持ちを落ち着けるには、それなりの努力が必要だったことだろう。それでも彼女には十分な時間があった。事件の起きたあの茂みから街に戻るまで、たっぷり三時間は歩いたのだから。


「だけど、わかっただろう? 僕の周囲にいると、ろくでもないことが起きるんだ。だから」

「そうまでして私を追い払って、何をしたいの? 私がいると、そんなに困るの?」


 困る。本当に。

 理由は一つや二つではない。


 人形の迷宮の攻略に成功した場合、俺は永遠に人間の世界に帰ってこない。その時、近くにいると、ノーラまで危険を冒して迷宮に潜ろうとするかもしれない。だが、世界最悪の迷宮に彼女が挑んだところで、結果は明らかだ。俺を救出するなんてできっこないし、逃げきれなければ彼女は死ぬ。

 それだけじゃない。そもそもノーラは使徒に狙われている。俺と関わっているからだ。だが、仮に彼女が物欲に目覚めて、今すぐピュリスに帰って俺の財産を横取りしたらどうだろう? ファルスよりカネを選んだ少女に対してなら、使徒の興味も薄れるはずだ。


「誰かに迷惑をかけるようなつもりはないよ」

「じゃあ、私がいたっていいじゃない」

「よくない。スーディアで何があったか、忘れたのか」

「そうね。あれに比べれば、今日のは大したことなかったわ」

「ノーラ」


 この、妙に覚悟の決まったところが本当に怖い。


 そうだ、怖いのだ。

 俺は恐れている。この世で何が一番恐ろしいか。それは死ぬことではない。


 アーウィンは恐ろしいだろうか? 使徒は怖いか? 怖いと言えば怖いが、なんてことない。奴らにできるのは、俺を殺すことだけだ。熟練の火魔術で、でなければ雷を降らせたり凍りつかせたりして、俺を絶命させる。それは苦痛に満ちた瞬間に違いない。でも、死ぬだけだ。

 だから、奴らがいくら俺を脅迫しても、その恐怖には限度がある。要はやられなければいい。やられたところで、俺が死ぬだけ。永遠の死を望む俺にとっては、さほどの問題でもない。すべての記憶を確実に失って転生するのなら、ある意味、目的は達成されたのと同じだ。またもし、次の転生でも記憶を保っていたら、それこそ絶対に次は生まれない。それさえできなくとも、生まれ変わった先でまた不死を探求すればいい。


「私はね」


 だが、ノーラは……

 彼女は、最初から俺のすぐ傍で生きようとしている。ただの友人とか、知人の立場にとどまろうとは考えていない。結婚したいのではないかとは思うが、別に形にこだわっているのでもなさそうだ。ましてや、俺の外見や財産、地位が目当てなのでもない。


「ファルスのこと、完璧な人だなんて思ってない。いいところも悪いところもあって当たり前だと思ってる」

「ああ」

「だって、そうじゃない? いいところだけ見せて欲しい、いい思いだけさせて欲しいだなんて、他人事すぎるもの。私は」


 世間の大半の女が求めるのは、しかし、それなのだ。女に愛される秘訣とは、安定して八十点を取ることではない。一瞬でもいいから、百二十点を取ってみせること。いいところだけを見せる。影も見えないくらいに眩い輝きで照らしてやる。そうすれば、いいところだけを見て、いい思いだけをできると思ってしまう。もちろん、それは幻想だ。幻想は、幻滅で終わる。

 いや、女に限るまい。世の人というのは、大抵そんなものだ。友人だなんだといっても、互いにとって都合のいい間だけ、付き合いを重ねる。そしてなんとなく疎遠になる。その程度のものなのだ。心配してるよ、よかったね、涙出ちゃう……全部が全部、口だけではないか。


 だが、ノーラにはそんな考えがない。ないから、俺の醜悪な部分すら直視する。それでもなお、ここにいようとするのだ。

 そして、俺が最も恐れる言葉を、口に出そうとしている。それがわかる。


「私は、ファルスの家族になったつもりで生きていこうって思ってる」


 だからこそ、彼女は裕福な暮らしを捨てて、スーディアの山道を歩いた。今もムスタムにいる。暑苦しい太陽の下で、大変な思いをしながらも歩みを止めようとしない。

 欲しているのは利益ではない。苦楽を、人生を共にすることなのだ。


「だから何があってもファルス一人の責任になんてしない」

「じゃあ、逆にノーラに何かあったら、僕の責任だ」

「私は私、ファルスはファルスでしょ? 私の考え方をファルスに強制するとは一言も言ってない。そんなこと、考えなくていいわ」


 だが、『家族』……これほど恐ろしいものがあるだろうか?


 あの、ティンティナブリア旅行の帰りに夢魔病に苦しめられ、寝込んだ後のこと。俺の心はずっと渇いていた。どこかから愛の手が差し伸べられ、心安らぐ瞬間が一度でもあればと、どこかでずっとそう願っていた。

 その夢は叶った。叶ってしまった。シーラが見せたあの不思議な夢から覚めたとき、俺の手を握っていてくれたのはアイビィだった。


 あの日から、俺は人間になった。

 多少変でも、心の中では俺はアイビィの息子で、彼女は俺の母だった。前世の分もあわせて、生まれて初めて、本当の家族ができたのだ。


 だが、俺と家族になった人間が、どうなった? 思えばリンガ村の実母も、恐らくは義理の父親も、俺の手にかかった。

 やっと気持ちを通い合わせることができたアイビィすら、葬り去っている。だが、あの時はまだ、言い訳できないでもなかった。彼女は自分の意志で死を選んだのだ。それに、背後で使徒が蠢いていることも、当時はよくわかっていなかった。

 今は違う。俺はノーラが狙われていることをよく知っている。そして、それについて俺がどう思うかもよくわかっている。


「家族なら……わかるだろう? 危険な場所に行ってほしくない」

「それは私がファルスに言うことじゃない?」

「僕は、やらなきゃいけないことがあるから、仕方ないんだ」

「じゃあ、私もファルスを連れ帰らないといけないから、仕方ないわね」


 ノーラは、自分の命を人質にとって、俺を脅しているのだ。そんな自覚はないが、俺にとってはそうだ。

 そして俺は……


 ……今度こそ、耐えられない。


 俺を愛する人間が、俺のせいで死ぬ。この苦しみに、もう一度耐える力は、俺にはない。

 他のことなら、まだ我慢できる。ティンティナブラム城で拷問を受けようとも、リンガ村でゴキブリスープを常食しようとも、これに比べればなんてことはない。でも、これだけは無理だ。

 俺は、人間でいてはいけない。人と人の間にいては。そのことを、あのスーディアで、はっきり思い出した。


「とにかく、私は帰らない。帰るときはファルスと一緒。そう決めてるから」

「僕が帰らなかったら?」

「帰るまで、ついていく」

「行方知れずになったら」

「見つけるまで探す」


 彼女はまっすぐ俺を見た。その黒い瞳は、灼熱のムスタムの太陽よりも激しく俺を焼いた。


 これは、だめだ。彼女は、本当にやる。言った通りにする。何年でも、何十年でも。

 何をしても翻意させることはできない。脅されても屈しない。誘惑にも耳を貸さない。殴られても立ち上がる。もしあの時、ザイフスに強姦されていたとしても、多分、言うことは変わらない。

 恐怖と諦念が、俺を打ちのめした。


 ……じゃあ、どうすればいい?


「それより、ファルス。考えなきゃいけないことがあるわ」


 溜息をついて、俺は話を仕切り直すことに同意した。


「それはわかる。これではっきりした。オルファスカはダメだ。追い出さないといけない」


 正直、それどころではないのだが、これはこれでないがしろにはできない、か。

 時間があったのは、ノーラだけではなかった。俺は俺で、いろいろなことを考えていた。そのうちの一つが、連中の始末だった。


 本当は、やっぱりあの場で皆殺しにしてやりたかった。しかし、やるなら気を付けなくてはいけない。俺が犯人だとバレてはまずいし、そうなると殺し方も選ばなくてはいけない。それに俺達だけムスタムに引き返してきたのだから、そのうちに依頼人が彼らの消息を俺に尋ねることになる。

 といって、苛立ちのままに拳を叩きつけるのは、もっとよくない。何らかの形で報復される可能性があるし、その時の矛先が、俺に向けられるとは限らない。

 だが、慌てなくてもいい。まだ半日しか経っていない。殺すでもなんでも、いくらでも手を打てる。ピアシング・ハンドで一人ずつ行方不明にしてやろうか? だがまず、とりあえずこの件をバイローダに……


 いや、待てよ?

 砂漠のど真ん中で、俺は、はたと思い至ったのだ。


 俺達は連中をおいて帰ってきてしまったが、彼らは今、何を考えているだろう? 俺がバイローダに告げ口するのを恐れているのではないか? ノーラがあとちょっとで強姦されるところでした、あの淫婦は僕にも手を伸ばしてきました……こんな報告があがったら、バイローダも弟との結婚を許すわけがない。

 ただ、それにしては変だ。オルファスカには、俺を誘惑できるだけの何か、確信のようなものでもあったのか? それなりに成功率は高いと思っていただろうが、最悪のケースを考えていなかったとするのは、ちょっと彼女の思考力を侮りすぎていると思う。

 そうじゃない。彼女には、俺の報告を握り潰せるだけの材料がある……?


 一石二鳥のアイディア、というほどのものでもないが、じっくり考えた末の結論だ。


「ノーラ」

「なぁに」

「精神操作魔術の力を返す」


 まず一つ目。

 罪悪感に浸るのも、ここらで終わりにしなくてはならない。はっきり敵にまわった馬鹿者どもが街に帰ってくる。

 どのみち、連中は始末しなくてはいけない。結果的に殺すか殺さないかは二の次として。悪意が明らかになった以上、そして妥協の余地もないのだから、戦わなくてはいけない。戦うのなら、徹底的に、かつ迅速にやるべきだ。

 そろそろ宿に戻っているだろうオルファスカ達の頭の中を覗き見るのには、結局、これが手っ取り早い。とはいえ、だいたい連中の素性など、見当はついているのだが。だから魔術はその確認に用いるだけだ。


 もう一つの目的もある。こちらが本命だ。力さえあれば、ノーラがあんな雑魚どもの手にかかることはない。

 ノーラはどこまでも俺を追ってくる。振り切るのは不可能だ。なら、次善の策は、俺が目的を果たすその日まで、彼女を守り抜くことだ。だが、ずっと傍にいられる保証はない。彼女自身、自衛力を持たなくてはならない。不本意ながら、それしかないのだ。


「わかった。じゃあ、早速調べるから」

「宿に戻ったかどうかは、僕がそっと確認してくる。それからやって欲しい」


 結局、すべての調査が済んだのは、翌日の夜遅く、寝る直前だった。

 俺の部屋で、昨日の夕方と同じように向かい合いながら、俺もノーラも口元を引き絞って俯いていた。いわゆる「ドン引き」というやつだ。


「想像以上に」

「ひどすぎるわね」


 ノーラに心を読ませる前に俺が推測していた通り、バイローダには、オルファスカとの肉体関係があった。ただ、「あった」とは言っても、実は彼は不倫などしていない。

 彼の記憶を覗き見ると、それがよくわかる。ディンの知り合いを名乗る女に本物のネックレスを見せつけられ、客として夕食に招いた。まぁ、多少は浮ついていたかもしれない。若く美しい女性が笑顔で接してくれるのだ。遠く去った春がまた巡ってきたような錯覚をおぼえたのだろう。しかも、その日も妻は外出中だった、とくれば。

 それで思わず警戒心が緩んだ。その隙をついたオルファスカが、彼の飲む酒に睡眠薬を混ぜた。あとは簡単、眠くなった彼は、何が何だかわからず眠りに落ちる。寝室に入ってから服を脱がしてベッドに横たえ、彼女も裸になって横に寝るだけだ。

 実は恐妻家らしいバイローダは、この出来事にすっかり動転してしまった。だから彼は、最初からオルファスカを追い払いたかった。しかし、自力ではできない。記憶はないが、恐らく自分はやらかしてしまったのだと思っているからだ。


「だから、そもそもバイローダさんに何を言っても無駄だったんだ」

「怖い者なしだったのね」


 では、そんなオルファスカとは何者か?

 帝都出身の女冒険者。これは事実だった。しかし、その実態たるや、ひどいものだった。


 中流家庭出身の彼女は、多少筋がよかったこともあり、十歳から冒険者の道を目指して剣術を学んだ。十五歳になり、帝都にある四つの迷宮に挑むようになった。この時点までは、何の問題もなかった。

 しかし、生まれ持った美貌が進路を歪ませた。剣を振るって汗を流すより、ベッドの上で汗を流すほうが、何倍も効率がよかったのだ。ほどなく安易な道に流れ、剣士としての成長は完全に止まった。一方で、彼女はどんどん色気づいていった。

 十七歳で四大迷宮の第十階層をすべて攻略したのも事実だった。但しそれは、優秀な先輩方に連れて行ってもらえたからだ。もちろん、その仲間達にも「アメ」は与えている。


 たしなめる大人がいなかったわけではない。だが、既に彼女は肩で風を切るようになっていた。美貌が武器になることをしっかり学んでしまった彼女は、更なる成功を求めるようになった。

 もう冒険者の先輩なんかと肌を重ねるのはやめた。それより、もっと「上の男」がいい。具体的には、貴族の息子達だ。留学のためにやってきた彼らに会い、食事を共にする。既に優秀な冒険者という肩書もある。そして、恋の手管にもすっかり長けていた。

 うまくいきかけたことは、何度もあったらしい。のぼせ上がった若い貴公子が、ぜひ私の妻にと望んだことも、数回あった。ただ、いずれも大物ではなかった。地方の小領主の息子では、彼女は納得できなかった。欲望はどんどん膨れ上がり、自分の価値が下がる日が来るなどとは、思いもしなくなっていた。


 それがある時期を境に、風向きが変わり始める。

 二十歳過ぎくらいから、徐々に物事が思い通りにいかなくなり始める。それでも異変は些細なものだった。だが、その一年後には、彼女自身もハッキリと状況が悪化したと自覚するようになった。

 今までは、恋愛の果てに結婚を望む男達がいた。小粒ではあったが、それなりの名家の出ではあった。今は大貴族の息子ともデートするようになった。しかし、立場はといえば、よくて側妾、悪ければ留学中の遊び相手止まり。

 貴族の息子達の人生を冷静に考えてみれば、わかることだった。彼らは帰国後には結婚する。その時、彼らの年齢は十九歳から、せいぜいのところ二十二、三歳ほど。これに比べて、オルファスカは年嵩にすぎた。十七歳の青年が、二十一歳の女性を妻にと望むだろうか? 帰国後すぐにとしても、オルファスカは二十三歳、この世界では「行き遅れ」の一歩手前だ。


 だが、プライドが邪魔をした。運よく小粒な貴公子を手に入れても、そんなところで妥協するなんて、とブレーキがかかってしまう。

 もう一つ、覚悟がなかったのもある。なまじ貴族達と付き合うようになったせいで、余計な知恵がついてしまった。今は帝都で気儘な暮らしをしているが、田舎貴族の嫁にでもなろうものなら、意外とつましい生活に、窮屈なしきたりだらけの日々が待っている。そのことを考えると、どうしても踏み切れなかった。

 とはいえ、そうした田舎貴族の息子が彼女を見初めてくれるのは、まさにその身分であればこそだったのだが。大貴族の嫡男が、まさか背景に何の権力もない女を正妻にできるだろうか。でも、そんな事情など、彼女の知ったことではなかった。欲望の対象としてしか見ていなかったので、そういった都合には無頓着だったのだ。


 しかし、決定的に彼女の足を引っ張ったのは、これまでの行いだった。肩で風を切る立場になってから、他人の気持ちを踏みにじることも多くなった。それが恨みを招き、いつしか悪い噂がついてまわるようになった。そのため、帝都にとどまり続けるのは、彼女にとって耐えがたいものになっていった。

 二十二歳からの一年間は、彼女にとっては暗黒の時期だった。坂を転がり落ちるように何もかもが悪化していった。もはや貴公子とのデートすら難しくなりつつあった。付き合う人間のレベルもどんどん落ちていった。本当に優秀な冒険者は、彼女を相手にしなくなった。だから、ザイフスみたいな雑魚でも、使うしかなかった。


 こうしてみると、実のところ、彼女を冒険者と呼べたのは、最初の一年間だけだった。そのあとの人生は、娼婦のそれだ。実際、ベッドを共にした相手は、少なく見積もっても数百人に達していたのだから。


 それでもどうにか起死回生の一手をと、彼女はそう考えていた。

 そこでたまたま、南方大陸ブームが起きた。その流行に合わせるように、危険な南洋航海を乗り切ったディンが現れた。フレンドリーなナイスミドルと出会った彼女は、これだ、と心を決める。

 なぜなら、ディンは最高の条件を兼ね備えていたからだ。貴族ではないが、貴族の血筋ではある。帝都に縁がないのもポイントだ。実家はムスタムにあるが、既に独立しており、兄の命令を受け付ける必要もあまりない。年嵩だが、その分早く死んでくれるし、親の世話や介護などもない。裕福で、しかもディンは船乗りだから、家を留守にすることが多い。コブ付きではあるものの、三人の子供のうち、二人は外国にいる。幼い末娘がいるだけだ。出産する気がない彼女としては、ある意味、ちょうどよかった。


 しかし、ディンは愚かな男ではなかった。ちょっとした仕草の一つで勘違いする男達を相手取ってきた彼女としては、あまりに手強かったのだ。彼は礼儀正しいだけでなく、かつ気さくで、だらしなくもなかった。酒もあまり口にしなかったし、色香に迷うこともなかった。

 思い余って彼女は、古典的な手を使うことにした。真剣な気持ちを装って愛の告白をする。オルファスカの人生を知らないディンを動かすには、これが一番いい。確かにそれは最善の一手ではあった。


『僕には何をおいても守るべき娘がいる。娘より僕自身の人生を優先することはできない。だから、あなたの思いには応えられない』


 何も知らないディンは、彼女が真面目に愛を告げたのだと考えて、可能な限り誠実な返事をした。深々と頭を下げ、はっきりと拒否したのだ。


 まさか貴族ですらない中年男相手に正面切って戦いを挑んで、こうも手ひどく惨敗するとは思わなかった。というより、美貌以上に愛情や誠意に価値を置く男というものを知らなかった。

 だが、例によってプライドをズタズタにされた彼女は、思い余って乱暴な作戦に出た。仲間を使ってディンを引き付けているうちに、彼の荷物を漁った。そして彼が大切にしていたあのネックレスを盗み出した。


 ちなみに、なぜ彼女がサーシャに嫌われるようになったかというと、表裏のある態度をみせたからだ。

 既に明らかなように、サーシャは元気いっぱいの子供で、泥だらけになりながら海辺で遊んだりもする。ひと泳ぎして、薄汚れた格好で家に戻ったところで、オルファスカと出会ったのだ。その時、この少女の素性を知らない彼女は、冷たい視線と悪意に満ちた罵声を浴びせた。帝都で身に着けた、あの居丈高な態度が自然と出てしまったのだ。

 ところが、それが標的の娘と知った途端、気持ち悪い猫撫で声で擦り寄ってきたのだ。サーシャはこの豹変に激しい嫌悪感を抱いたらしい。


「ゲスすぎる」

「なりふり構わずね。でも、仲間も似たり寄ったりよ」


 ザイフスは、彼女の美貌に夢中になっていて、五年ほど前から付き纏っていた。だが、願いかなって傍においてもらえたのは、そのずっと後、二年前だ。下り坂の日々を過ごすオルファスカにとっては、ちょうどいい相手だったのだろう。

 しかし、ベルが仲間になってからは、ほとんど肉体関係を持つことができなくなった。彼に勝負を挑んだこともあったのだが、無残に敗北を喫してからは、彼女を諦めることもできず、さりとてベルを超えることもできずで、鬱々とした日々を過ごしていた。


 ベルの心を読むのはやめておいた。能力が高めであったので、魔術核を取り込む前の状態では、万が一を避けなくてはいけなかった。

 しかし、代わりにバイローダの召使の記憶を調べた。あの日、ラシュカが俺達に話しかけていた頃、ベルはバイローダに会っていた。彼の目的も金だった。オルファスカとの肉体関係を仄めかして脅迫していたのだ。恐らくは彼の独断なのだろうが、やっぱりろくでもない。


 ラシュカは、まだ完全に落ち目になる前にオルファスカに接近した。当時のラシュカは、査定が甘く難易度も低い帝都のギルドにおいてさえ、ガーネットを卒業できずにいた。もっとも、それが実力相応でもあったが。そして彼女もまた、オルファスカ同様に自分の肉体を餌にしていた。そうまでしても、所詮、ラシュカは平凡な女だ。目に見えての成功は得られず、いつも華やかなオルファスカを妬んでいた。

 ただ、事実上、オルファスカの手下になったことには、意味がないでもなかった。声かけ一つで手伝ってくれる男がやってきて、彼女はあっさりアメジストに昇格できた。

 そんな三人組のところにベルがやってきた。ベルは早速、オルファスカと寝たが、ラシュカも彼をベッドに誘った。どちらも同じ男に抱かれ、互いにそのことを知ってはいたが、優越感に満ちたオルファスカの顔を見ては、内心にドス黒い嫉妬が渦巻いた。

 得られるだけのものを得てやろう、オルファスカも他の連中も利用できるだけ利用して、最後は自分が得するように動こう。それが彼女の考えだった。


 ちなみに、ザイフスはベルが両方と寝ていることを知っていた。なのにラシュカでさえ自分の相手をしないので、もっとドス黒い思いに囚われていた。その屈折した欲望が、ちょうど昨日、ノーラにぶちまけられようとしていたのだ。


「なにそれ……」

「ドロッドロね。さすがにこれは」


 ノーラは苦笑しながら絶句した。


「帝都の連中って、みんなこんなのばっかか」


 俺も言葉が出ない。


「やっぱり殺したほうがいいんじゃないのか。ゴミすぎる」

「それはやめて」

「生かしておいても、この先もいいことなんかないぞ」

「それでもやめて。ファルスのためにならない」

「誰にとってもいいことしかないだろう」


 ノーラは首を振った。


「ファルスが人を殺せば、使徒が喜ぶわ。パッシャが嬉しがるわ。そう思わない?」


 その指摘は、的を得ていた。

 使徒が俺に「褒美」として与えたあの魔道具。あれだけの破壊力を持った兵器をなぜ与えたのか。更なる殺戮に邁進せよとの思いからではないか。


「あんなひどい人達の思い通りになっていいの? 今、この場で、相手に殺されそうになっているわけでもないのに? 私の知ってるファルスは、そんな無意味なことはしない」


 そこまで言うのなら……


「でも、どうする。こんなクズがフリュミーさんの妻になるなんて、いくらなんでも」

「うん、そこは食い止めたいところね」

「どうしたらいい?」

「殺す以外で、うまく追い払うことはできないかしら?」


 それはそうだが、いい考えはないものだろうか?


「名案はないの?」

「ないわ」


 すると、ノーラはすこしおどけて、言ってみせた。


「ほら、あの人達を私だと思って追い払う方法を考えてみて。きっと素敵な思い付きが見つかるわ」


 俺は苦い表情を浮かべるばかりだった。

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