欲望、絡み合う時間

「あつーい」

「日焼けしちゃうんだけど」


 結構な距離を歩いた。街から十キロは離れているだろう。それでも夜明けに出発したので、太陽はまだ、真上には届いていない。


 しかしどうだ、この景観は。

 見渡す限り、砂、砂、砂。たまに赤茶けた岩。前世の絵葉書の写真にあるような、まさに砂漠としか言いようのない風景だった。ムスタムの豊かさのせいで忘れそうになるのだが、そこから少し内陸に進めば、すぐさま砂漠になってしまう。市街地とデーツ畑は、あくまで水源があるから維持されているだけなのだ。

 とはいえ、そんな場所にも生命は息づいている。地表は灼熱で、雨の降る一時期を除くと、水がない。しかし、地下にはどうも多少の水気もあるらしい。人形の迷宮から這い出てきたらしいワームどもは、この砂漠の地下で育つ。恐らくは、微生物やそれを食べる小動物などを捕食しながら大きくなるのだろう。

 そんなワームが、更なる餌を求めて、ついに地上に現れる。するとそれを、砂漠種のリザードマンの集団が狩る。たまには逆に食い殺されることもあるらしいが。そして、街を拠点とする人間達とは、三竦みの関係にある。

 そこに時折割り込んでくるのが、赤竜だ。集団で狩りをする彼らは、ワームやリザードマン、そして隊商と、なんでも襲撃する。ただ知能が高いので、軍隊など明らかに手強そうな人間の集団には襲いかかったりしない。砂漠の生態系の頂点に位置するのが、彼らだ。


 要するに、サハリアの砂漠は結構な危険地帯なのだ。街から遠くないので、それでも割合安全ではあるものの、絶対はない。

 そんな中を歩くのに、同行する冒険者達の緩さときたら。


 音をあげ始めたのは、オルファスカとラシュカだった。ザイフスも苦しそうだが、まだ余裕がありそうだ。彼は一番の重装備で、四角い銀色の盾を担いだまま、歩いている。それより身軽なベルはというと、すっぽりケープを被った格好で、表情は窺い知れない。

 見た限り彼らは歩き慣れていない。砂漠を行くのは大変だ。砂に足を取られ、余計に体力を消耗する。水もガブ飲みすべきではない。塩分も失われるから、適度に摂らなくてはいけない。何より、強烈な日差しが最大の危険となる。

 歩き始めた当初、オルファスカは「暑苦しいから」という理由で、ケープとマントの着用を拒んでいた。しかし、日差しの厳しさを実感してから、慌てて羽織った。その後も、こうして無駄口を叩きながら歩いている。だが、口を開けるだけでも余計な水分が外に出ていく。


 こいつら、本当に大丈夫だろうか。

 呆れ果てる俺の横で、ノーラが短く溜息をついた。


 何かあってもいいように、ノーラはピュリスで準備を整えていた。そのうちの一つが冒険者証の取得だった。彼女は現状、ジャスパーの階級にある。身分証として利用できれば十分なので、これで問題なかった。

 しかし、これが俺にとってはまったく不都合だった。つまり、ノーラも人形の迷宮に立ち入ることができるのだ。


 だから、彼女にはここで脱落してもらう。


「あれじゃない?」


 ラシュカが前方を指差す。

 確かに、砂山ばかりの中に枯草の山が突き立っている。よっぽど茎が丈夫なのか、それとも雨が少なくて腐ることがないためか、それらは形を保ったままそこに居残っていた。


「ついたー」


 既にへばっているオルファスカが、重そうに体を引きずりながら前に出る。


「水、あるかな」

「ないときついね」

「体、拭きたいし」


 やっぱり呆れるしかない。ここは街中じゃないんだぞ。

 こんなざまで、俺の依頼をこなせるんだろうか。


 予定では、こうなっている。一応依頼の花は探すのだが、それは形だけだ。俺は仕事のためという理由で少し離れた場所に行き、そこで結果を待つ。一方、この四人組はというと、ノーラを取り囲む。

 強硬手段というやつだ。傷つけるのは厳禁。殺すのも絶対に許さない。だが、脅迫は構わない。もっとも効き目はあんまりなさそうだが。とにかく彼らはノーラを捕縛する。そのまま拉致してピュリスに向かう。

 誘拐じゃないかって? その通り。で、そのままでは彼らは犯罪者として逮捕されてしまうので、ノーラを送り返したら、すぐさまムスタムにとって返す。するとそこには、俺が仲買人に預けた大金があるという寸法だ。彼らがノーラの確保に成功し、船で発ったのを確認できたら、俺は黒竜の肉体を取り出して、多少変に見られても構わず叩き売る。その金の受け取り先を、オルファスカ達に指定する。

 それが済み次第、俺は人形の迷宮に向かう。彼らが船で出発してからすぐ黒竜を金に換えて立ち去るので、仮にノーラがピュリスに到着してすぐ俺を追いかけるとしても、ムスタムとの間を往復することになるので、二週間程度のタイムラグができる。それだけあれば、俺は余裕で迷宮に辿り着ける。あとは一人で奥まで潜ればいい。


 距離と時間は、人を諦めさせてくれるものだ。

 例えば宝くじだ。当籤番号のすぐ隣の数字だったら「惜しかった!」と思う。実際には惜しくもなんともない。ハズレはハズレでしかないのに、距離が近いから錯覚する。

 例えば受験だ。合格するのにあと一点、足りなかった。やっぱり「惜しかった!」と思う。でも、その一点がなかったのだ。惜しいも何もない。逆に十点も足りなければ、納得するものだ。

 すぐ傍、手が届く場所で俺が行方不明になった場合、ノーラは無茶をしてでも俺を探し出そうとするかもしれない。しかし、遠く離れたピュリスで知らせを受け取ったとする。既に一ヶ月前にはそうなっていました……さて、どうする?


 今のノーラは、無力な少女だ。確かに、マオ・フーの下で武術の鍛錬に励みはした。しかし、その期間が短かったこともあって、技量としてはベルを除く四人組の連中と大差ない。体格が出来上がってない分だけ、更に弱いとみていい。

 精神操作魔術の力があれば、それでも一方的な展開になるだろう。三、四人くらいなら、すぐに昏倒させられる。残ったベルにしても、攻撃をしのぎ切れさえすればだが、時間をかければどうとでもなる。だが、その能力は既に剥ぎ取ってある。


「あー! あったー! よかった!」

「じゃあ、女子は先に水浴び! ザイフス、テント立てといて」

「あいよ」


 枯れた葦を掻き分け、ちょっとした坂を登りきると、そこにあったのは窪地だった。その一番奥底に、確かに水源があった。本当に小さな泉だ。しかしこれでは、周辺を広く潤すなどできない。せいぜいのところ、リザードマンどもが水を飲みにくる程度だろう。

 ザイフスとベルは、水のある窪地の外側、斜面の西側にテントを立て始めた。といっても、日差しを遮るだけの簡易なものだ。そこに、ここまで運んできたリュックなどを土嚢のように積み上げた。


「じゃ、次はファルス君? あたし達はあがったから、いいわよ」

「いえ、僕は」

「いーから! 汗臭いままじゃ、嫌われるわよ?」


 何を寝惚けたことを……あ、いや、そういうことか?

 ファルスは水浴び中。その隙にノーラを捕縛するとか、そういうシナリオを仕立ててくれているんだろうか。


「ベルさんやザイフスさんは」

「ああ、俺達は、いい」

「じゃあ」

「じゃ、ラシュカは見張りね。ベル、ザイフス、あとノーラちゃん? 三人は生えてる花を探してきて」


 一人、テントの下で涼みながら、女王様らしくそう宣言すると、オルファスカはテントの下に座り込んでしまった。

 自分じゃ汚れ仕事はしませんよ、ってか。


 首を傾げながらも、俺は窪地の底に向かい、手早く服を脱いだ。そして、これまた手早く水浴びをし、体を清めると、また服を着直して、テントの方へと向かった。


「おかえり」

「まだいたんですか」

「そりゃあね。暑いし、動きたくないでしょ」


 一人当たり金貨一万枚の仕事をくれてやったのに、寝そべるだけで報酬を得ようってか。


「失敗したら、どうなるかわかってるんですか」

「だーいじょーぶ。ベルはそれなりの腕利きだし? ここ、砂漠の真ん中よ? 隠れる場所もないし、ぶっちゃけザイフス一人でもなんとでもなるわ」


 そこで気付いた。

 砂漠の真ん中に相応しくない、花の香……この女、香水でもつけているのか?


「それより、ここ、座ったら?」

「……はい」


 心の中に疑念が満ちてくる。

 どういうことだ? 俺の思い通りに動いているはずだとは思うのだが。ノーラが逆に、こいつらを先んじて買収していたとか? でも、それでどうやって俺をピュリスに連れ帰る? なんだか、どうにも辻褄が合わない気がしてきた。


「暇ねー」

「なら、依頼の花でも探しにいきましょうか」

「それはラシュカがやるからいいわ」

「じゃ、暇なのは仕方ないのでは」

「ねぇ」


 オルファスカの手が、俺の肩にかかる。


「金貨一万枚って、本当? 四人だと、四万枚にもなるんだけど」

「本当ですよ。これくらいなんでもないので……女神に誓ってもいいです。それとも、足りませんか?」

「やっぱりお金持ちなのね」

「運に恵まれたおかげです」


 返事をしながらも、どうにも居心地の悪さを感じていた。何か様子がおかしい。


「まだ十一歳なんだっけ」

「そうですね」

「じゃ、そろそろ大人だ」

「あと四年もすれば、そうですが」


 彼女の髪が顔にかかる。

 それと気付いて、顔を背けた。柔らかい感触が、頬に触れる。


「あん、よけないで」

「なにをっ、やってるんですか」


 俺に圧し掛かりながら、オルファスカは柔らかい体を押し付けてくる。


「そろそろ……いいんじゃない?」

「何がっ」

「わかるわよ、その気持ち」


 頭の中にクエスチョンマークが浮かぶ。俺の気持ちのどこがわかるというんだ?


「いくらお金持ちになっても、それじゃ意味ないものね」

「意味?」

「遊びたいんでしょ」


 遊び? 何を言ってるんだ。


「すぐ傍で奥さん面して束縛する女の子がいたんじゃ、やりづらいもんね。わかる」


 あっ……

 そういう……


 俺の考えが浅かった。ノーラを遠ざけたいという一心で、焦って一手を打った。だから、俺の依頼をどう解釈するかについてまで、考えが及ばなかった。

 彼らからすれば、金貨四万枚は大金だ。その大金を差し出してまで、どうしてノーラを追い払おうとしたのか。理由を考えないはずがなかったのだ。

 そしてオルファスカは、自分にとって理解しやすい理由を考え出した。要するに、ファルスはそろそろ女に興味がある。好き勝手に遊びたい。金はある。しかし、すぐ横に張り付く面倒臭い女がいる……じゃあ、どうすればいい?

 実に彼女らしい解釈だった。


「だからって、どうして僕を」

「んー、まぁ、あれだよ」


 首筋に唇を這わせながら、彼女は言った。


「本当は、あたしが奥さんになれたら一番いいんだけど」

「なにをっ……誰のっ」

「そりゃー王の騎士ファルス君の。将来は王国の官僚? それとも軍司令官? もしかしたらそのうち貴族だよね。しかもすっごいお金持ちときた」


 なんだ? ディンと結婚するって話はどこいった?


「あ、あなたの婚約者は」

「信じてないでしょ、どうせ。信じなくていいよ? 私もさぁ、後からこんなおいしいのが出てくるってわかってたら、もうちょっと待てたんだけどなぁ」


 あまりにあけすけな口ぶりに、俺は言葉すら失った。


「最悪、愛人でもいいんだけどね。たっぷりお金もくれて、ずっと何不自由なく過ごせるなら。やっぱさぁ、小さいくせに歴史ばっかりある貴族の家とかだと、思ったより出費も多いし貧乏だし。それよりは富裕な騎士階級のほうがいいと思わない?」


 こいつ……!

 要するに金目当てか。ディンと結婚したいのもそれ、俺に抱かれたがるのもそれ。このクソビッチが。


「といっても、さ? さすがに歳も離れすぎてるし、いやでしょ? でも、今だったらさ、お互い楽しめそうじゃない?」

「他に理由があるんでしょう?」

「あっはは! うん、あのね、せめて味方して欲しいの」

「味方?」

「うん」


 俺の上に馬乗りになると、彼女は薄い上着をはだけてみせた。真っ白な素肌が露になる。


「ムスタムの名士、ディン・フリュミーの後妻。まぁ、悪くないし、子供も欲しくないから、この辺で手を打つつもりなんだよね。でも、ファルス君は私の邪魔をするつもりなんでしょ?」

「それは」

「だからさ、もういっそ仲間になっちゃえば! ってこと」


 自分の体で快楽を与えて、俺を黙らせようと。むしろ、後押ししてくれる人間を増やそうと。そういう腹積もりか。

 いや、でも。

 ただでさえベルに嫉妬するザイフスが、よくこんな計画に承諾……


「というわけで、ファルス君のはじめて、もらっちゃうね!」


 オルファスカの手が、俺の服の襟元にかかる。

 その時、俺の頭の中を気付きの光が貫いた。


「きゃっ!?」


 反射的に俺は起き上がり、彼女を突き飛ばしていた。

 すぐさま脇にあった剣を拾い上げ、引き抜く。そして走り出そうとして、立ち止まり、振り返る。


「どこだ」

「えっ?」

「死にたくなければ言え! ザイフスはどこに行った!?」


 だが、突然の俺の豹変に、オルファスカは目を丸くするばかりだ。


「くそっ!」


 あてにならないとわかって、俺はテントの下から飛び出した。


「ノーラ!」


 俺は剣を片手に、叫びながら走り出した。

 ザイフスなら、どうするだろう? テントを立てたのはあいつだ。とすると、その近くでとは考えにくい。声が届きにくい場所、となれば、このクレーターのような窪地の反対側だ。


 どうして気付かなかったんだろう。俺がノーラを遠ざけたいと、そればかり考えていたからだ。本当に、どうしてこんなバカな真似をしてしまったんだろう?


 この計画には、穴があった。連中がノーラを連れ去った後、俺にはその状態を確認する手段がない。もちろん、彼らも殺害まではしないだろう。なぜなら彼らは俺が人形の迷宮で世を去るつもりだとはわからないから。それこそ帝都にでも遊びに行くのではないかと、そう推測しているので、ノーラを殺してしまったら、そのうちにバレる。そうなれば、有力者の庇護を受けた少年の報復を恐れなくてはいけない。

 しかし、もっと些細な暴力であれば、きっと発覚しない。


 俺は目を血走らせながら、砂の小山の縁を駆けた。どこだ? どこの茂みにいる?


 この四人組の中で、最もフラストレーションを溜めこんでいたのはザイフスだろう。考えも足りず、目先の色香に迷ってオルファスカに付き従うも、今はまったくいい思いをできていない。彼は女を抱きたくて仕方がないのに、それすらできない。金はオルファスカに吸われるし、いいことなしだ。

 そんな彼が、ささやかな楽しみを享受するくらいは、黙って見逃してやろうと。それとなく手助けしてやる意味もあって、オルファスカは俺を相手に時間稼ぎをしようとした。もちろん、自身の実利のためでもあるが。

 ラシュカも共犯だ。オルファスカの腹積もりを知った上で、俺に声をかけてきた。だが、それだけではない。もし、俺が彼女にだけたっぷり利益を恵んでやったなら、こちら側に寝返っていただろう。そのつもりがあるからこそ、彼女は自分達の内情を俺達に語ったのだ。

 なんて奴ら……


「あっ」


 案の定、小山の反対側の茂みに、枯草の揺れるのが見えた。ただ、人影は見えない。

 草の丈は人の身長には届かない。ということは、あそこにいる誰かは、立っていない。少なくとも座っている……


「うおおあぁあぁあっ!」


 意味を察して、俺は頭が真っ白になった。

 剣を片手に、声をあげながら突っ走った。


 異変に気付いたザイフスは、身を起こしてこちらを見た。そして慌てて横に転がる大盾を拾い上げる。


「この野郎……あああ死ねぇっ!」


 俺は力任せに剣を横に薙いだ。一瞬の抵抗のあと、紙を裂いたような感触が手に伝わった。

 金属で表面を覆った大盾は、その下半分がきれいに切り落とされていた。


「うおっ!?」

「がああ!」


 技も何もなく、俺は大振りの一撃を上から叩き込もうとした。またもや盾が割れ、ザイフスの手元には、ただの木切れが残るだけだった。

 あまりのことに、彼はその場に尻餅をついた。それがまた、俺の逆上を煽った。というのも、ベルトが外れていたからだ。


「きっさまぁぁあっ!」

「何をしている!」


 横から男の声が突き刺さる。

 見る間に迫り、鋭く剣を打ち込んできた。だが、俺は軽く身を揺らすと、短く剣を跳ね上げた。

 剣の悲鳴のような甲高い音がしたかと思うと、破片がすぐ足下の砂に落ちて突き刺さった。


「なっ、馬鹿な!?」


 手元で折れて短くなった剣を見て、ベルは驚き、後ずさった。


「ちょ、ちょっと! やめなさいよ!」


 後ろからオルファスカが追いついてきた。

 もとはといえば、こいつが……


「きゃっ!?」


 俺は乱暴に腕を振った。その一撃を咄嗟に剣で受け止めた結果は、ベルのそれと変わらなかった。


「あっ……えっ? えぇっ!? お、折れた! ミスリルの剣が!」


 こっちはそれどころじゃない。

 よくもノーラを。こいつらは、皆殺しだ。まずはザイフスから……


「ひっ! ひいぃぃ!」


 俺はもう、言葉を発することさえできず、周りを見ることもできなかった。殺す。殺す。殺す。ズタズタに切り刻む。それしか考えられない。

 腕を振り上げ、真っ二つにしようとした時、後ろから誰かが抱き着いてきた。


「離せ!」

「だめ!」


 邪魔するのなら、殺す……そう思ったところで、やっと我に返った。

 俺を止めようとしたのは、ノーラ自身だったのだ。


 そこでようやく、俺は落ち着いて彼女の状態を確認できた。

 黒いローブの上にかぶっていた白いマントは既に引き裂かれていた。ローブも同じく、真ん中に大穴が開いている。その内側には、うっすら下着まで見える。だが、その向こうはどうやら手付かずのようだった。

 ザイフスの襲撃は、ほぼうまくいっていた。ノーラに襲いかかり、圧し掛かるところまではできた。体格にものを言わせて押し倒し、服を引き裂いた。そうしていよいよ、本懐を遂げようとしたところで、俺に見つかった。

 間一髪、間に合ったのだ。しかし。


「どうしてやめるんだ。こいつらは」

「殺すのはだめ」

「死んで当然だ」


 俺から金を受け取る約束をしておきながら。無傷でピュリスに送れと言ったのに。

 強姦されても、ノーラは何も言い出せないだろうと、彼らはそう踏んでいたのだ。女性本人にとってつらい体験でもあり、しかも自分の価値を下げかねない。今はファルスの婚約者みたいに振舞っているが、その地位から転げ落ちるかもしれない。とすれば、下種の考えでは「黙っていたほうが得」ということになる。

 顔を殴られたくらいなら表沙汰になるが、強姦されてしまえば何も言えなくなる。そういう計算だったのだ。


「ちっ、違うのよ! そんなつもりじゃ」

「わかってたんだな」


 誰から殺そう。

 とりあえず、邪魔になりそうなベルから始末すれば……


「ファルスのせいでしょ」


 だが、俺の横でノーラが静かに言った。


「なに?」

「私を襲えといったのは、ファルスでしょ。だったらファルスのせいじゃない」

「違う! 俺はノーラを送り返せと言ったんだ!」

「でも、こうなったでしょ」


 何も言い返せない。

 焦るあまりとはいえ、あまりに思慮不足だった。


「襲われた私がやめてって言ってるのよ。聞けないの」


 ドス黒い溶岩が、喉から溢れ出ようとしていた。これを飲み下すには血がいる。人間の血が。

 だが、道理は、残念ながらノーラにある。俺は腕を下ろした。


 どうしてこんな判断をしてしまったんだろう?

 自分でも、自分がわからない。こんなクズどもが利用できるはずもないと、わかっていたんじゃないのか? なのに、何かに後押しされるかのように、狂った考えにとりつかれてしまった。

 正気じゃなかった。それは確かだ。


「……帰ろう」

「うん」


 怒り狂い、自己嫌悪に落ち込む俺とは違って、ノーラは既に落ち着いていた。俺を責めたりもしなかった。

 歯噛みしながらも、俺は剣を鞘に戻し、踵を返すしかなかった。

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