煮えた魚と煮え切らない男

「急な来訪にもかかわらず、このような盛大な歓迎、感謝に堪えません」

「いやいや、なになに。ディンのやつが世話になったというのなら、そんな堅苦しい挨拶はいらないよ。さ、席についてくれたまえ」


 その日の夜、早速に俺とノーラはバイローダの邸宅に招かれた。


 海から離れた高台の奥まったところ、広い敷地にフォレス風の庭園が広がる。この灼熱の土地に、水をバカ食いする芝生。花壇には丈の低い草花が並んでいる。これも管理には手間暇を要するだろう。一般に「木モノは枯れない」という。体の表面をリグニンの鎧で守り、大きく育つ樹木は、草より乾燥に強いことが多い。なのにここの庭は、フォレスティアよりフォレスティアらしい。本土の人が好む可憐な花をあえて並べてあるのだ。

 広々とした印象を与えるこの四角い庭に、まっすぐ白亜の邸宅が聳え立つ。これも贅沢そのものだ。内部の造りまではわからないが、表面は真っ白な石材に覆われている。ファサード部分は、何か古代ギリシャの建築物を思わせる石柱が並んでいる。青空の下、真っ白に空間を切り取るこの屋敷は、さぞ映えることだろう。きっと夜間も美しいに違いない。暗闇の中にほのかに浮かび上がる白。どことなく謎めいていて、荘厳でもあり、上品な印象を与える。ただ、俺達が訪ねたのは、そろそろ夕方といった時間帯だった。様々な色が混じり合う頭上は美しかったが、この邸宅にとっては、化粧を落とした直後の顔を見られたようなものだ。


「お邪魔ではありませんでしたか」

「運がよかったよ。今日はたまたま会食もなくてね……普段はなかなかこうはいかない。ああ、ただ、家内は出かけてしまっているし、息子達も不在だが」

「そうなんですね」

「ははは、僕が仕事の日には妻が家にいるんだが、休みになるといつもどこかに出かけてしまう。困ったものだ」


 そう言って笑うバイローダは、弟とはあまり似ていなかった。全体的に均整がとれて、野性味の中に理性を感じさせるディンとは違い、彼は横に広かった。やはりムスタムに腰を据えて安定した暮らしを営んでいると、どうしてもあそこまで引き締まった心身を得るのは難しいのだろう。

 また、ディンよりかなり年上でもある。六、七歳は離れている。筋肉質で、髪も多少白髪が混じる程度だから、まだまだ元気ではある。それでも、この世界で五十歳といえば、もう老境に足を踏み入れているといえる。娘がいれば他所に嫁入りしている頃だし、息子も独立して働いているのが普通だ。

 サーシャの幼さをみて勘違いしそうになるが、ディンの結婚はかなり遅い。三十近くになってやっとランと結婚したのだ。しかし、もともと富裕な家で、しかも長男となれば、跡継ぎを得るためにも早目の結婚をする。年齢的には、そろそろ初孫を期待してもいい時期に差し掛かっている。


「バイローダ様、それもお仕事ですよ。日々の社交がいざという時、お家を支えるんですから」

「そういうことにしてあるけどね。あれはきっと、羽を伸ばしたいんだよ、はっはっは!」


 一つ、弟との共通点が見つかった。よく笑う。

 ただ、やっぱりそこもちょっと違う。ディンの笑顔は、遮るもののない空と海のようだ。しかし、バイローダの表情から見て取れるのは、ある種の老獪さだった。


 ところで、バイローダの妻が外出している理由はわからないが、彼の休日に限って遊びに行くのには、ちゃんとわけがある。夫が仕事で家を離れる場合には、妻が代理を務めなくてはならない。だから、出かけたくても出かけられないのだ。


「だが、本当に運がよかったよ。君らを出迎えるのが僕でね」

「そうおっしゃっていただけると」

「いやいや、運がよかったのは君らだよ。うちの家内ときたらね……もう、キーキーやかましいんだ! 遠くからせっかくお客を招いたというのに、お喋りが止まらない女だからね、きっと君らはくたびれてしまっていたよ! ははは」


 彼の言葉遣いの中に、俺は彼なりの配慮を感じ取った。

 まだまだこれからの、大人になりかけの少年少女と、人生の締めくくりが近い初老の男との付き合いだ。こちらが身を固くするのではないかと気にかけてくれているのがわかる。


 ほどなく果汁を絞ったジュースが供された。


「今日はお酒はなしだ。まだ君らは飲まないほうがいいだろう」

「はい」

「はは、私も若い頃はガブ飲みしたものだが、さすがにこの歳になるとな、体に堪える。付き合いでもなければ飲まなくなるよ。じゃ、乾杯!」


 彼はあくまで楽しげだった。しかし、内心はどうだろう?

 ハディマがわざわざここまで駆け付けて、この会食をセッティングしたのだ。つまり、今日の議題は『押しかけ嫁撃退作戦』だ。


「ところでファルス君は、どうしてムスタムまで来たのかね」

「はい、人形の迷宮を目指しています」

「なんと、そりゃあいけないね」

「そんなによくないですか」


 スープを飲む手を止めて、バイローダは真顔になり、椅子に背を預けて言った。


「あんな場所に行きたがるなんて……ムスタムからも、たまにあちらを目指すのがいるがね」

「確か、あそこも世界の辺境の一つでしょう? ムーアン大沼沢とか、大森林みたいに」

「ギシアン・チーレムが命じた開拓事業だな。その通り、人形の迷宮も、最下層までの攻略と迷宮の破壊を目的とすべき場所ではある」

「僕は騎士の腕輪も授かりましたが、冒険者でもあります。目指すのは自然なことでしょう」


 すると彼は首を振った。


「君は外国から来たから、あそこのことを知らんのだ。多分、恐ろしい魔物がいる危険な迷宮だと、そんな程度の認識なんだろう?」

「え? ええ、まぁ、相当に危ない場所だとは聞いてます。手強い怪物もたくさんいるとか」

「それだけのことなら、まだいいんだがね……誰か、ピュリスにはムスタム出身の人はいなかったのかね」


 思い出してみる。いた。


「いました」

「なんと言っていた?」

「ええと……彼女は、『戦争より危ないところ』だと」

「その通りだよ」


 溜息をつきながら、バイローダは言った。


「正直、戦争に行くのと、迷宮に行くのと、どっちがいいかわからんな。いいや、戦争のがきっとマシだろう」

「そんなに危ないんですか」

「戦争ならね、相手は人間だけだ。でも人形の迷宮では、そこに魔物が加わる」

「はい?」


 なんだか、人間が主で、魔物が従みたいな。

 いやいや、迷宮の魔物と戦いに行く場所だろうに。


「その顔は、やっぱりわかってないな。あそこはね……ムスタムの人間からすると、世界のゴミ箱だよ」

「ひどい表現ですね」

「本当のことだからな。人生に絶望した人間が、日々をやり過ごすための場所になってしまっている。いや、あそこに行った人間が人生に絶望するのかな? どっちでも同じようなものだ。ギルドは帝都からカネをもらってあそこを維持しているが、あの街にいるのは死にかけばかりだ。功名を求める若い冒険者が、勇敢に魔物と戦って死ぬというのならいいのだがね。現実はそんなきれいなものじゃない。一番危ないのは人間だよ」

「人間がどうして」

「迷宮の中は、無法地帯だからな」


 それでわかった。

 なるほど、とんでもない場所だ。魔物にいつ殺されてもおかしくない場所であれば、冒険者の死因なんて問われない。思えば、ムーアンでも似たようなところはあった。広大な沼沢地では、足場の奪い合いが起こりかねなかった。命に直結するから、最悪の場合は安全地帯を確保するための殺し合いにまで発展する。ただ、そういう最悪の事態を避けるために、彼らは狩場を分け合っていたが。


「行けばわかる。見るだけ見たら、さっさと帰ってくることだな」

「はい」


 そうして雑談を切り上げる頃、テーブルには真っ赤な魚の姿煮が供された。

 濃い味のソースが皿の底に溜まっている。一方で、上からはレモンソースのようなものがかけられている。塩味と酸味のコントラストが期待できそうな、素敵な一皿だ。


「ムスタム自慢の海の魚だよ。もっともピュリスに住んでいた君には珍しくもないか」

「いえ、本当においしそうです」


 そろそろ切り出さないといけない。

 本音をいえば、オルファスカなんてどうでもいいのだが。俺は部外者だし、ディンが帰国したら、きっと事実が明らかになる。彼はバカな男ではないし、仮に万が一、色に目がくらんだとしても、自己責任だ。いちいち首を突っ込むまでもない。

 更に言えば、面倒臭いというのもある。俺は少しだけここで休養したら、すぐさま人形の迷宮を目指すつもりなのだ。そんな俺が、どうしていちいちこんなところで人間関係に悩まなくてはいけないのか。


「ところで、これはお手伝いのハディマさんからのお話なのですが」

「ああ、聞いているよ」


 バイローダは、途端に難しい顔をした。


「本当のところ、私も悩ましく思ってはいるのだがね」

「はい」

「しかし、あのオルファスカという女が持っていたネックレスは、どう見てもディンのものなんだ。それだけは確かだ」


 数年間に渡って、弟の私物を管理してきた彼だ。見間違うはずもない。


「彼女はここにも来たよ。で、お兄様には後押しをお願いします、と」

「後押し?」

「ディンが帰国したら、自分を……つまりオルファスカを妻にせよと、口添えして欲しいと」


 はて? 変な言い方だ。

 違うだろう? 俺が彼女で、帝都でディンと出会って恋に落ちたのだとしたら。バイローダには、こう言う。私はあの人と結婚したいので、お兄様も認めてください、と。ディンが自分と結婚したいのは大前提だからだ。それがどうして、相手の兄の口添えなんかを必要とするんだろう。説得すべき対象はディン本人ではなく、彼の周囲の人々ではないか。


「相手にする必要がありますか?」

「だが、さっきも言った通り、彼女は本物のネックレスを持っている。あれはディンが与えたのではないかね。とすると、こちらから認めない、とも言いにくくてね」


 なんとも煮え切らない。さっきまでの陽気さも影をひそめて、難しい顔になってしまった。


「バイローダ様が彼女を弟の妻、つまりは一家の一員として招き入れるかどうかは、ご自身でご判断いただいてよいことではないでしょうか。なんといってもフリュミー家の家長はあなたなのですし」

「ああ、しかし、その、なんというかな。帝都の人間は、そういう論理を嫌うんだ。家父長制度がどうとか」

「であれば、そもそもバイローダ様が認める、認めないなんて関係ない話でしょう。反対されようがどうだろうが、独立した個人であるディン様が自由に選ぶ。バイローダ様の後押しなんて、あってもなくても同じ。そういう理屈じゃないですか」

「そう、そうだとも、その通りなんだがね」


 この歯切れの悪さは、どうしたことだろう?


「いや、ファルス君、誤解してもらいたくはないのだが、その、だね……僕もディンの妻に、彼女が相応しいと思っているわけではないのだよ」


 常識的な意見に、俺は少し安心した。


「僕も、見た限りそう感じました。短い時間のうちに、少しお話しただけですが、礼儀作法もなっていませんし、それになにより、サーシャちゃんにも好かれていません。あれで新しい母親の役割をこなせるものでしょうか」

「う、うん、そうだね。ただ、追い出すにも名目が欲しいところで……だから、ここは手助けをお願いしたいという気持ちはあってね」

「手助け?」

「言葉は悪いが、あら探しをして欲しいんだ。はっきりそれと指摘できることが表沙汰になれば、僕も強く出られるからね」


 なんという弱腰。

 ムスタムの名門の家長が、一介の冒険者を相手に、どうしてここまで。何か別の思惑とか事情があるのでは……


「たかが食いっぱぐれた冒険者崩れじゃないですか。出て行けと言えば済むのでは」

「いや、あれでなかなかの連中らしくてな。なんでも、既にアメジストの階級に達しているらしい」

「アメジスト!?」


 あの低能ぶりで?

 信じられない。あれではせいぜいのところ、よくてアクアマリンだろう。いや、オルファスカやラシュカについて言えば、せいぜいガーネット相当の実力しかない。中級冒険者になるには、もう一つ山を越えないと、どう考えても力不足だ。具体的に考えればわかる。ときに魔法も使うゴブリンの集団と戦うのに、あの女達が足手纏いにならないはずがない。


「アメジストともなれば、それなりの評価はされるものだ。エスタ=フォレスティアでも、軍団兵の追加募集の際には、高位の冒険者が選ばれることもあるからね。そうそう見下せる相手でもないみたいなんだよ」

「全員がアメジストなんですか?」

「ああ、そう聞いている」


 まさか。どんな基準なんだ。

 ベルとかいうやつが頑張った? いや、でも彼は個人ではそこまで辿り着けるだけの実力があるが、仲間全員を引っ張り上げるには力不足だ。


 誰か嘘をついているとか、何かあるんじゃないのか?

 いっそ、精神操作魔術で全部確認してやろうか。ただ、ノーラに「人の心を勝手にいじくるなんて」と口実を設けて能力を奪った手前、それもやりにくいが。

 じゃあ、暴力で片付けるか? フリュミー家が後ろ盾になるなら、連中をぶちのめしたところで後腐れもあるまい。あの程度の未熟者が相手なら、四対一でも楽勝だし。


 ……そこまで頑張る必要もないか。それより、俺には優先すべきことが他にある。


「別に、無茶をして欲しいわけじゃない……ああ、その、だから、しばらくはディンの家でのんびりして、気付いたことがあったら騒ぎ立ててくれれば、それでいいんだよ」

「僕は、でも、目的が」

「タダとは言わない。そうだな、ピュリスには君の商会があるらしいじゃないか。ここは一つ、いい条件での取引をしないか。そうそう、ムスタムの有力者との顔繫ぎも必要だろう。私が声をかけるから、せっかくだし、会合に来ないかね」


 興味ない。

 これから人形の迷宮で人生を終えようとしているのに、金の話なんか……


「悪くないお話だと思います」


 返事をしたのは俺ではなく、ずっと沈黙していたノーラだった。


「そう? そうかね? そう言ってもらえると嬉しいんだがね」

「ピュリスはムスタムの真向かいにありますから、これを機会によいお付き合いをさせていただけるなら、願ってもないことですし、それに」


 今度は俺の方を向いて、彼女は続けた。


「お知り合いの方が、困ってらっしゃるのよ。別に命懸けで戦えというのでもなし、少しゆっくりするだけの話じゃない」


 ノーラにはノーラの思惑がある。

 彼女は、俺を人形の迷宮には行かせたくないのだ。こうしていろんな出来事に足を取られ、いつの間にかピュリスに送り返される。そんな未来を導くために、バイローダの提案を利用しようとしている。

 こんなの、全部無視して……いや、待てよ。


「そうですね。僕もディン様にはお世話になっていますし」


 逆に、ノーラを追い払うのに利用できないか?

 商会のお偉いさんとの付き合いでもよし、オルファスカやその取り巻きを利用するでもよし。ノーラが一時的にせよ、俺から離れてピュリスあたりに行ってしまえば、俺は堂々と南を目指せる。


「お役に立てるかどうかはお約束できませんが、少しくらいでしたら」

「そうかね! いや、これはよかった。僕も心配でね」


 俺の承諾に、バイローダは前のめりになって喜んでみせた。

 こうして三者三様、それぞれ違った思惑の果てに、俺のムスタムでの滞在が決まってしまった。

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