招かれざる客への当て馬として

「ふーっ……」


 少なくとも一つだけ、フリュミー家での滞在を決めてよかったことがある。水が貴重なこのサハリアで、自宅に浴槽を備えた家というのは、決して多くない。お湯はまぁ、ぬるま湯だが、日中の暑さを考えれば、むしろこれくらいのほうが心地よい。

 思えば、スーディアから海軍の基地に出るまではほぼ野宿だったし、基地にも一泊しなかったので、ずっと濡れた布で体を拭うばかりだった。こうしてゆったりと入浴できるのは、本当に贅沢なことだと再認識する。そしてこの贅沢を手放せないのが、元日本人の性というものだ。


 時刻は既に夕方に差し掛かっている。浴室は薄暗い。壁際に蝋燭が立てられており、それが透明なガラスの容器に守られている。

 入浴の順序は、俺が最後だ。所詮は個人宅なので、客人用の風呂場なんてない。だから先に家の主人の娘であるサーシャ、続いてノーラ、それから俺だ。最初は身分を考えて、最初に入浴するようハディマが勧めてきたのだが、とにかくお願いして最後にしてもらった。

 まぁ、最後なら気楽なものだ。残ったお湯も使い放題だし、そんなに慌てなくてもいい。


 風呂からあがったら、軽めの夕食が供される。それから少ししたら、寝る時間だ。

 さて、体全体を浴槽内でもう一度揉み解して……


「……ん?」


 ふと、違和感をおぼえた。

 まさか、と思い、その部分に目を向けた。


「あっ……」


 割と愕然とした。

 記憶にある中では二度目だが、少し早いんじゃないか? つまり……第二次性徴の始まりだ。


 俺の肉体はシーラによって改造済みなので、発育も早目なのかもしれない。少なくとも、前世よりは二年も早い。どうあれ、体が健やかに育つのはいいことだ。

 しかし、俺としては複雑な気分だった。俺の心の目は、ひたすら死に向けられているのに。肉体は、否応なく真夏の季節を目指して伸びていこうとする。

 それにまた、焦りもあった。育つということは、老いるということでもある。そうなる前に、俺は不死を手にしなくてはいけない。


 ぬるいお湯を顔に叩きつけ、俺は気持ちを引き戻した。

 時は流れ過ぎていくものだ。受け入れなくては。


「いたーだきますっ」

「はい、いただきます」


 ハディマの仕事は、家事全般にとどまらない。今年で七歳になるサーシャの躾も含まれる。


「では、いただきます」

「いただきます」


 俺もノーラも、年長のお手本ということで、お作法を守らなくてはならない。


 この家の二階の一角がダイニングだった。ディンの性格を思えば理解できるが、彼は視界を遮られたくなかったのだろう。北側にも南側にも、窓が大きく開く。特にこの夕暮れ時の時間には風が通るし、南側に座れば北に広がる内海が見える。今も、暗い灰色と藍色に染まった雲が、黄色と橙色の輪郭に彩られて、黒々とした海の上に横たわっていた。この景色を毎日、娘と楽しみたかったのだろう。

 では、家の南側はというと、視界はあまりない。この灼熱の地域では、日差しはよいものではない。だから、この家の裏庭にはヤシの木が植えられている。日中の直射日光を遮ってくれるのはありがたいが、見晴らしは悪くなる。ただ、どうせこっちにあるのはただの住宅街でしかない。


「おさかなおいしい!」


 サーシャが逆手に持ったフォークを突き立てながら、満面の笑みでそう言う。

 ナギアの妹だが、似ているのは髪型だけ。どこか近寄りがたい冷たい表情を見せる姉と違い、サーシャは天真爛漫そのものだ。多少日焼けした彼女の肌には、真っ白なワンピースがよく似合う。もしナギアが似たような服を着たら、きっと変に浮いてしまうだろう。


「お行儀がよくないですよ」

「うんー」


 だが、あんまり聞いてないようだ。


「ねぇねぇ、ファルスお兄ちゃんも、おいしい?」

「うん、おいしいよ」


 彼女は、二年前に会ったきりの俺のことを、よく覚えていた。きっと、ピュリスを離れてムスタムに向かうという大事件の際に、居合わせたからだ。


「ごめんなさいね、どうにもはしゃいでしまって」

「いえいえ、元気そうでよかったです」

「いつもはもっとおとなしいんですけど」


 母親代わりのハディマは、あえて食事に同席している。身分を考えれば、一歩引いた対応でもいい気はするが、それでは子供が孤独になってしまう。そもそもディンがそういうことにうるさい人ではないのだから、これでまったく問題はなかった。


「心配しなくても大丈夫だと思います。お姉さんのナギアも、小さい頃はそうでもなかったですが、だんだんと成長するうちに立派になりました」

「あらあら……ファルス様は、まるで大人のような話し方をなさるんですね」

「い、いえいえ、まぁ、その」

「ねぇー、お姉ちゃんと会ってきたんでしょ? どうだった?」


 今度は何を話そう?

 俺が王都のホテルでぐったりしているところに駆けつけて、ゴミみたいな手紙を始末する手伝いをしてくれたこと? 会員制秘密交際クラブ『セクサーモ』の招待状をピラピラさせた件とか。


「うん、すっごく大人びてたよ。お嬢様のお世話係として、どこに出しても恥ずかしくないくらいになってた」

「へぇー」


 サーシャのこの質問、実は三度目だ。

 しかし、他に話題がない。無理もない。サーシャと俺の接点は、あったようであんまりなかった。近くにはいたが、年齢差もあって、話をする機会自体がほとんどなかったのだから。

 見れば手元は落ち着きなく、彼女自身、うっすらとネタに困っているのが態度に出ている。ただ、じゃあ俺との会話を切り上げたいとか、客人の相手だから何か捻り出そうとか、そういうのとは少し違う。いつもはハディマと二人きりで過ごしている中に、俺やノーラという来客があった。それが嬉しくないわけではない。

 だから、どんな話をされても、俺も笑顔で接する。うん、ここはやっぱり大人の対応だ。


「じゃあ、こっちのお姉さんは覚えてる?」

「んー……ノーラちゃん」

「これ、サーシャ様」

「いいのよ」


 ピュリスにいたときには接点がなかった。だから、覚えたのはついさっきだ。

 ノーラも、どちらかというとナギアと同じように、近寄りがたい雰囲気を醸し出すタイプだ。親しみやすさより、何か迫力のようなものが滲み出てしまう。それでも、根が冷たい人間ではないので、ここはなるべく優しげな態度をみせようとしているようだ。


「ねぇ、サーシャちゃん」

「うん、なぁに!」

「いつもはどんな風に遊んでるの?」

「んー、んーとねぇ、泳ぐの!」


 泳ぐ?

 そういえば、まだ七歳なのに、サーシャには既に2レベルの水泳スキルがある。でも、海で?


「どこで泳いでるの?」

「海!」

「あ、危なくない?」

「平気ー」


 すると、ハディマは軽く頭を抱えてしまった。


「目を離すとすぐ家を飛び出してしまって……探し回ると、そのうちに誰かが教えてくれるんです。お宅の娘さんが港で泳いでるよ、って」

「ははは」


 なんとまぁ、元気なこと。


「向こう見ずなところは、お父さんに似たんですね。活発でいいことじゃないですか」

「ええ、でも、私としては気が気でなくて」

「そうですね。万一がありますから」


 そうしてサーシャに向き直る。


「これからは、ちゃんと大人の人に見てもらってる場所で遊ぼうね」

「うん!」


 返事だけは元気いっぱいだが、これは多分、また勝手に抜け出して泳ぐんだろうな。

 こればかりは、どうしようもない。


 入浴したおかげか、翌朝は心地よい目覚めを迎えることができた。

 窓を開けると、晴れ渡った空の下、広がる内海が視界に入る。起きたその時からして、もうスッキリ快適だ。


 この家では、客室も二階だ。これにはいくつも理由があるような気がする。

 まず、サーシャはまだ幼い。高所に一人置いておくと、どんな事故を起こすかわからない。だから居室は一階だ。では、ディン自身の部屋は? ごく狭苦しい部屋が、一階の隅にあるという。実に彼らしい。滅多に帰宅しない船乗りには、家長の立派な部屋なんて必要ない。そもそも船乗りというのは、狭い空間でやっていける人種でもある。

 だから、来客には一番快適な場所を提供することにしたのだろう。


 ただ、それだけではないような気もしてきた。

 なにせ空き部屋が多すぎる。俺とノーラに一室ずつ、別々に用意してもらった。しかも、家具を慌てて持ち込んだのでもない。最初から備え付けで、その日のうちに利用可能な状態だった。主人も妻もいないから、社交もへったくれもないのに、来客用の部屋にそれだけコストをかける意味があるだろうか?

 理由に思い至ると、朝から物悲しい気持ちになった。


 万が一、ルードとナギアがフォレスティアで困窮した場合、いつでも引き取れるように。


 もうルードはエンバイオ家の家宰になるのだし、ナギアも立派に独立してリリアーナの側近に収まっている。父のところには戻ってこないだろう。

 思えば離婚前は、海に出てばかりで家族とゆっくり過ごす機会があまりなかった。時間は巻き戻せない。それでも、もし叶うのなら……

 そういった機会があったとき、もしサーシャともども兄の家の居候だったとしたら、何もしてやれない。だから、わざわざ自分の家を用意したのだ。


 ただ、それはそれとして、この快適さは好ましい。

 ここに呼ばれたときにはどうしようかと思ったが、案外、過ごしやすい。これなら数日ほど滞在して、適当にお祭りでも見物して、それから迷宮を目指してもいいかもしれない。この世の見納めなのだから。

 そう思いながら、妙に冴えた頭で窓辺から庭先を見下ろした。


「おや?」


 こんな朝っぱらから来客?

 出入口にいる、あの庭師の男が、何やら話し込んでいる。相手は……四人もいる。二人の男と、同じく二人の女。全員若い。武器を携帯しているが、装備に一貫性がないから、傭兵か冒険者だろう。

 何事かと思って手元の剣を引き寄せるが、どうも彼らの表情に緊張感がない。荒事にはなりそうにないとわかって、俺はひとまず武器をまた脇によけた。


 ベッドから起き上がり、手早く着替えた。

 そうして階下へと降りていく。


「おはようございます」

「あ、あっ、おはようございます」


 ハディマの声には、キレがなかった。何があった?


 大きく開かれた正面の玄関。その向こうは、緑の芝生に覆われた明るい世界だ。そこに四人の来客が、黒い影を落としながら踏み込んでくる。

 先頭に立っているのは、女だった。若いだけでなく、顔立ちも整っている。セミロングのサラサラヘア。重さを感じさせない黒髪だが、顔立ちはどちらかというとフォレス人に近い。印象的なのは自信に満ちた眼差し。それに、冒険者らしい外見の割に、肌がやたらと白かった。


「おはよう」


 遠慮も何もない様子で、その女は踏み込んできた。家主の許可など必要ない、と言わんばかりに。


「おはようございます、サロペス様」

「その呼び方はよしてって言ったでしょ。いいのよ、オルファって呼んでも」

「とんでもございません」


 あくまで他人行儀なハディマと、やけに馴れ馴れしいこの女。

 なんだろう、この気持ち悪い空気は。


「あ、おっはよー、サーシャ」


 足下にいる少女に気付いて、彼女は挨拶した。


 しかし、サーシャの表情ときたら。

 昨夜、俺やノーラに笑顔で纏わりついてきたのとはまったく別人になっていた。仏頂面で、目が死んでいる。ついでに口調まで余所行きときた。


「おはようございます、オルファスカさん」

「やぁねぇ、もう。カタいわよ、カタいカタい! ね、サーシャ」


 そうやって声をかけながら、このオルファスカなる女とその仲間達は、ズカズカと家の中に入り込んだ。


「あら、こちらは?」


 彼女の視線が、俺とノーラに突き刺さる。


「こちらはエスタ=フォレスティア王国よりお越しのファルス様とおっしゃいます。主人と昔、ご縁があったお方ということで」

「ふーん」


 蛇を思わせる目で俺をじっと見る。

 ピンときた。これは人を見る目ではない。年下の少年を見る目でもない。男を値踏みする目だ。


「そう、よろしくね」


 だが、自分と年齢が離れすぎていることで興味をなくしたのか、彼女はあっさりと身を引いた。


「ハディマさん、今日も忙しいでしょ。私があれこれ片付けてあげるからね」


 まるでここは私の家よと言っているかのような態度。抗弁しようと顔をあげるハディマだったが、すぐにまた俯いてしまう。

 なぜなら、オルファスカの手には、鈍く光るネックレスがあったからだ。金の碇をデザインしたもので、そこにサファイアが嵌め込まれている。その品にどんな力や意味があるのかはわからないが、とにかくそれで、この家の人間は沈黙した。


「さ、じゃあ、何からしようかしらね」


 誰にも遮られることなく、オルファスカは家の奥へと踏み込んでいく。

 俺はその後姿を見送りながら、確信した。


 ハディマが俺とノーラを招いたのは、この女をなんとかしたいからなのだと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る