第二十七章 自由都市の祝祭

四年ぶりの自由都市

 薄暗い船室から手を伸ばす。扉代わりの革のカーテンを押し開けると、白一色に世界が切り裂かれた。

 目が慣れる前に、まず鼻が変化を察知した。大海の上では感じることのない海辺特有の生臭さ。目的地は近いのだと再認識する。ややあって目を開けると、そこには青空と、うっすらかかる白い雲。その下には四年前に目にした、高野豆腐にネギを添えたようなムスタムの街並みが広がっていた。


 一般の商船を装った海竜兵団の快速船は、気持ちのいい西風を受けてまっすぐ真南へと突っ走った。僅か数日で世界はまったく別のものになってしまう。ほんの少し前までは木々が鬱蒼と茂るスーディアの山中を彷徨っていたのに、ここで目にできる緑といえばヤシの木ばかり。視界を遮るあの隆々たる山並みもなく、空が大きく見えた。


「暑いけど、風が気持ちいいわね」


 間近に迫った目的地を前にして、ノーラは涼しい顔で、そう話しかけてきた。彼女に悪意はないのだが、それで俺の頭の中には、途端にノイズが巻き起こる。言葉にしがたい、説明の難しい不快感が湧き上がってくるのだ。

 俺がタンディラールに注文したのは『俺がサハリアに渡航する』ことだ。ノーラまで同伴させるとは言ってない。だが、結局はこうなってしまった。


 要するに、俺がルアール=スーディアの軍港に辿り着くまで、ノーラはひたすら俺を追いかけた。険しい山道を澱みなく歩き通し、眠るときにも油断せず、俺がこっそり立ち去らないよう注意を払っていた。港に到着してからも、俺は彼女に帰るよう、しつこく要求した。しかし、何度話をしても、彼女の考えは変わらなかった。ファルスが帰るなら私も帰る。帰らないなら、連れ帰るまでついていく。

 だが、彼女の気持ちなど知ったことか。俺は海竜兵団の関係者に話をして、ノーラを乗船させるつもりはないと伝えた。そうして俺だけが船に乗り、いざ出発しようとしたとき、なぜか彼女は波止場に踏み込んできた。門番の兵士を精神操作魔術で混乱させ、追いかけてきたのだ。俺は構わず出発するよう、船長に急き立てたのだが、兵士に槍を向けられたノーラは、甲板に立ち入れないとなると、いきなり海に飛び込み、船の舳先にしがみついた。

 これには、船長も口をあんぐりだ。まさかこんな状態で船出はできない。そこから引き剥がそうとボートを向かわせると、兵士達が次々意識を失って眠り込んでしまう。頑として、ノーラは船にとりついた。まるでスッポンか、じゃなければフジツボだ。しまいには船長も呆れ果て、二人とも乗るか、二人とも降りるか、どちらかにしてくれと俺に告げた。


 この図々しさ。執念深さ。こんな強情な奴は見たことがない。誰に似たんだろう? もしノーラが日本に転生したら、日本語で名前をつけてやりたい。頑子、と。


「ファルスはムスタムに行ったことがあるのよね?」

「ああ」

「私は初めてだけど、家も生えてる木も、ううん、なんだかもう、色合いも空気も匂いも、何もかも違うのね」


 フォレスティアから出たことのない彼女にとっては、新鮮そのものだろう。これがただの旅行だったら、存分に楽しんでほしいところなのだが。


「まぁ、勉強の機会ということなら、それもいい。数日見て回ったら、またピュリスに帰ることだね」

「そうね。ファルスも帰るなら」


 これ、どうすれば帰ってくれるんだろう。

 精神操作魔術を奪って、それで逆に『強制使役』すれば或いは……でも、何かで術が解けた瞬間、絶対にまた俺を追いかけてくる。

 いっそ、俺が嫌われればいいのか? じゃあ、メック船長が遊んだあの店で、夜遊びでもしてやろうか。

 しかし、アグリオで俺の荷物が荒らされたせいで、所持金は金貨三百枚弱しかない。たっぷりあるようで、意外と少ないとみるべきだ。生活費だけなら一年分にもなる大金だが、人形の迷宮では、いろいろと出費がある。例えば、迷宮の道筋に精通した案内人を雇うこともあるだろうから、あんまり無駄遣いはしたくない。

 それにどうせ、ノーラも察するだろうし。これはわざと遊んでるフリをして、自分を遠ざけようとしているんだ、と。バレる嘘をついても仕方がない。


 溜息一つ。

 どうしようもない、か。今のところは。


 気付くと、遠くに見えていたムスタムの街並みが、もう目前に迫っていた。


「ファルスって、いつの間に勉強したの?」


 労せず現地の言葉を操る俺に、ノーラは目を丸くした。


 日除けのテントが立ち並ぶ商業地区。古びた木の棒に、目の粗い分厚い布が被せてあるだけの代物だ。そこに椅子やテーブルが並べられ、僅かなスペースにも簡易食堂や商店が並んでいる。

 足下は真四角の石材で舗装されているが、長い間、メンテナンスされていないのか、あちこちデコボコができている。それで困らない。ここはフォレスティアではない。馬車なんて滅多に通らないのだ。駱駝ですら珍しい。荷物の多くは人力で運搬される。

 狭い街路には露天商が座り込み、大勢の人が行き交っている。その人種も様々だ。日焼けしたフォレス人の水夫、サハリア人の商店主、道端にしゃがみ込む色黒のシュライ人といった具合だ。ただ、ルイン人はほとんど見かけないが。

 人にぶつからないよう、うまく流れを掻き分けながら、俺は街の奥を目指した。物売りがしつこく話しかけてくるので、俺は交渉に応じる代わり、道を尋ねた。パンを売るサハリア人の少年は、肩をすくめて一方を指差した。


「ありがとう」

「今、なんて言ったの?」

「サハリア語で、ありがとうって言っただけだよ」


 買ったばかりの丸いパンをノーラに手渡しながら、俺はまた前を向いた。


 数日間の船旅の間に、俺は自分の能力を入れ替えていた。


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 (自分自身) (12)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク9)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク4)

・マテリアル プルシャ・フォーム

 (ランク9+、男性、11歳、アクティブ)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル サハリア語  5レベル

・スキル 身体操作魔術 9レベル+

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 剣術     9レベル+

・スキル 格闘術    9レベル+

・スキル 隠密     5レベル

・スキル 料理     6レベル


 空き(1)

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 とりあえず鳥に化ける必要性は薄いので、枠を空けてある。代わりにサハリア語を入れておいた。おかげで会話には不自由しない。

 なお、ゴーファトから奪い取ったシュプンツェのディバインミクスチャーは……バクシアの種の一つに保管してある。今のところ、動き出す気配はない。恐らくだが、そのままでは肉体的にアクティブにはなれないのだろう。しかし、そうなると、もし種が破損したりなどした場合には、シュプンツェが復活する可能性もある。だからこれは、とんでもない危険物だ。

 もっとも、その廃棄先はもう決まっている。人形の迷宮の最深部まで行けば、あとはどうとでもなる。誰もこんなもの回収しないし、できないだろう。俺と一緒に、永遠に眠り続ければいい。


「これから、言葉の通じない外国を旅することになる。ノーラ、だから今のうちに」

「慣れておけということね、わかったわ」


 言葉が通じないくらい、なんでもないと。じゃあ、次の洗礼を浴びせてやる。

 頭で考えて解決できる問題も、世の中には多い。だが、直感的なモノ、体感的なモノというのは、直接精神に響いてくるものだ。


「そろそろ昼だし、何か食べようか」

「さっきのパンは?」

「小腹がすいたら食べたらいい。ここの料理はきっと口に合わないだろうから」

「なんでも食べるけど」

「じゃ、そこの商店で」


 外国というのは、目新しくて楽しいだけではないのだ。それをまず、思い知らせてやる。

 俺達がテントの下の古びた椅子に腰かけると、スカーフを被った中年女性が近付いてきた。


「いらっしゃい」

「あれと同じものを二つ」


 離れたテーブルの上には、いつか見たのとそっくりな定食が置かれていた。主食と思しき白い何物かと、黄色い野菜炒め。それに飲み物として、ここでは色の濃いお茶のようなものが供されていた。あの主食もどきは、多分、穀類をすり潰して粉にしたものに、水を加えたものだろう。少しだけ粘りがある。

 程なくして、二人分の昼食がお盆の上に載せられて、テーブルまで運ばれてきた。


「ノーラ、外国では、その土地のものを食べるしかないんだ」

「それはそうじゃない?」

「サハリアや南方大陸では、こういうものが出てくる」


 それで彼女は、皿に目を落とした。


「合わせられるかどうかだね。自分を」

「いただきます」


 そう言いながら、彼女は木匙を手に取った。そして一口……すぐに軽く困ったような顔になる。

 わかる。おいしくはない。といってまずいのとも違う。よくわからない味。野菜炒めも食べる。強すぎる香りに、味の印象がとんでいく。


「じゃあ、僕も食べるとするか」


 もっとも、俺にとってもおいしいものではないのだが。これが当たり前、という顔をして一口。なに、そのうち慣れるだろう。


「今日はこれからどうするの?」

「食べたら宿をとる。それだけ。あとは手足を伸ばして寝るだけだよ」

「さっき、道を尋ねてたみたいだけど」

「ああ。翡翠の魚亭って宿があってね。知ってるところだから、今夜はそこで休むつもりだ」


 今夜の予定はたてられても、今後の計画はまるで見えてこない。

 ノーラを追い返す。俺は一人で人形の迷宮に行く。どうやって?


「知ってるって、前に泊まったことがあるの?」

「前に話したと思うけど。ディン・フリュミーっていう、エンバイオ家に仕えていた船乗りが連れてきてくれたんだ。でも」

「でも、なに?」

「いや、いい宿ではあるけど、期待しすぎないことだね。ここはピュリスじゃない。あそこほど水が豊富なところなんて、滅多にない。特にサハリアではね」


 ここから先の旅は、更に過酷なものになる。灼熱の大地、不足する水、そして見知らぬ人々、聞き慣れない言葉。


「入浴だって、まずできないと思ったほうがいい。濡れた布で体を拭うことができれば御の字だ」

「旅先だもの、仕方ないわ」


 今は割り切れても、だんだんと辛くなってくるはずだ。

 でも、その程度の追い詰め方で、果たしてノーラの心が折れるだろうか?


 本当にノイジーだ。急に左右の雑踏が耳に押し寄せてくるかのようだった。どうにかスッキリできる方法はないものだろうか。

 それでも、目的地はもうすぐそこだ。あとは南に陸路を進めば、確実に迷宮に辿り着ける。道を阻む権力者もいない。やっとまっすぐ目指すところに向かって歩けるのだ。


 味のしない白い塊を、色の濃いお茶で流し込んだ。


「じゃ、行こうか」


 そう言いながら、俺は慌ただしく席を立った。


 再び雑踏の中に身を置く。

 港町ということではピュリスと同じなのに、ムスタムはいろいろと違う。この混み合う様子は、どちらかというとタリフ・オリムの繁華街を思わせる。整然と広い道幅を確保されたピュリスと違って、こちらにはまっすぐの道がほとんどない。どんな道も狭く、曲がりくねっている。例外は、海から離れた高級住宅地と、そこの大通りだけだ。

 人々も違う。人種や服装が違うだけではない。振る舞いが違うのだ。ムスタムの人は遠慮をしない。大声で客引きをする。怒鳴りもする。気付いてもらえなければ、身を乗り出して腕を振り回す。

 テントが思い思いの場所に突き立つ市場の領域を抜けて、宿屋の多い地区に入っても、道の狭さは相変わらずだった。黄土色の建物が好き勝手な場所に突き立っていて、その狭間に陽光が差している。先の見通せない隘路の中に浮かび上がるその光は、薄暗い建物の背中の陰と一緒になって、鮮烈なコントラストを生み出していた。


 フォレスティアとは違う。また、似通った文化を持つルイン人の世界とも違う。

 この異国情緒は、ここまで来ないと味わえない。


 俺も、心の中がこんな状態でなければ、もっと楽しめたのかもしれない。いや、今も楽しもうとしている。自然と楽しむのでなく、あえて目を楽しませようと意識しているのだ。せめてもの、この世の見納めなのだからと。

 明るい陽光の下、自由に歩き回る俺だが、その心の一部は、今もスーディアに置き去りになっているのかもしれない。うまく言葉にできないが、何かが俺の心の奥底に、深い爪痕を残していった。目に見えない荷物が、俺の肩を重くしていた。


 本当に……どうすればいい?


「ここだよ」

「悪くないわ」

「無駄遣いはできないから、雑魚寝部屋になるけど、それでも?」

「野宿よりましでしょ」


 そう宣言すると、ノーラは俺より先に、宿屋の中へと踏み込んでいった。

 その背中を見送りつつも、自問自答は止まらない。


 どうすればって何を?

 何もかもを。

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