光明と暗黒の道
いつものように、雲の多い夕暮れだった。夢見るような色合いと言えなくもない。橙色に、朱色に……灰色を挟んで、急に藍色になる。かと思えば、空のどこかにはポツンといつもの青色が少しだけ残っていたりする。
今日最後の陽光を浴びて、今こそ燦然と輝く東の山々とは違い、俺が目を向ける南西方向の峰は、その起伏にあわせて複雑な模様を描きつつ、長く暗い影を落としていた。それはどこかで見たような、何かに似ている気さえする独特の雰囲気があった。俺は一体何を思い出したのだろうと考えてみると、それは横から見た夕闇の中のフリンガ城だった。魔女の爪のような尖塔……あれで大地を引っ掻いてついたのが、この陰翳なのだ。
腑に落ちた。俺の旅路は祝福などされていない。呪われているのだ。さぁ、次は何が待ち構えているのだろうか。
「どっちを向いてるの」
「別に」
後ろからノーラの声が突き刺さる。
俺は、旅を続けなくてはいけない。次の目的地は、サハリアの中央にある、人形の迷宮だ。やっとあの場所を目指せる。ノーラは、俺がピュリスに帰るものだと考えている。だが、今こそはっきりさせなくてはいけない。
「大丈夫? 重くない?」
「平気なのです」
離れた場所で、タマリアがオルヴィータを気遣っている。背負うものの量が多すぎやしないかと……だが、この中で一番、体力的に弱っているのはタマリア自身だ。
「じゃあ、俺がその分、背負ってやるよ」
ルークが笑顔で言う。
「い、いいよ。大丈夫」
「ごまかしても、疲れたらわかるからな!」
俺が使徒と真夜中の密談を済ませ、また寝床に戻ったその日の朝、ニドはいなくなっていた。彼はどこを目指したのだろうか。いずれにせよ、居場所など、どこにもない。買い取られた先では、覚醒した神通力で主人を焼き殺して逃げた。ここスーディアでも放火を繰り返し、ついには組織すら裏切ってしまった。
考えても仕方がない、か。こうなってはもう、見つけられるものでもない。
「ルーク、いいのです?」
「うん? 何が?」
「その……痛いのがわかるの、消してもらわなくてもいいのです?」
この問題は、今が最後のチャンスだ。
それで俺は振り返り、草地をゆっくりと踏みしめながら、歩み寄った。
「ルーク」
「おう」
「こんな機会は二度とないぞ。その神通力を消さなくていいのか」
「やめてくれよ。俺は気に入ってるんだ」
そう言うと、彼は本当に嬉しそうに笑ってみせた。それが本人の意志なら、仕方がない。
ゴーファトが彼方に歩き去ってから、三日。
ようやくアグリオは復興の兆しをみせつつある。
ジャンは、いやナイザはジャンの名前で代替わりを宣言した。この通告は、どの盆地の勢力にも、概ね好意的に受け取られた。いつもの世代交代の儀式もないままの一方的な決定であるにもかかわらず、だ。
晩年のゴーファトは、暴虐が過ぎた。苛烈な重税もさりながら、家に美少年ありとなれば、すぐさま供出を命じたりもした。それは、どの盆地の出身者に対してもそうだった。それでいて心変わりも早かった。寵愛を受けているからと調子に乗ると、すぐさま痛い思いをしなければならなかった。だから彼は、既に疎まれていたのだ。
市内の戦闘状態が収まった……というよりは継続できなくなったこと。また、支配者の交代が名目的にこれに対する協力を可能とするようになったので、各盆地からはアグリオに物資が流れ込んだ。無論、シュプンツェの襲撃を受けたのは、三つの盆地も同様ではあるのだが、人的被害はずっと小さかった。また、シュプンツェは人間だけに興味があったため、貯蔵されていた小麦などは一切無傷で済んでいた。
おかげで今、俺達の荷物の中には、当面の食料がしっかり詰まっている。
「こんな時間だが」
アドラットは、俺の顔を盗み見ながら、歯切れ悪く言った。
「そろそろ行かなくてはいけない。余所者が長居していいことはないし、復興の邪魔にもなるからね」
彼にだけは言ってある。俺は一人で南を目指すつもりだと。
ピュリスに残された人々のためのお勤めも、これで終わったのだから。
決着は、ついていた。
あの朝から二日後、ゴーファトは郊外の崖の下で発見された。全裸のまま、遺体になっていた。その顔には、苦悶の表情が浮かんでいたという。
彼は、「穢れ」を洗い流すことも、忘れることも、考え方を変えることもできなかった。誰も彼に赦免を与えなかった。そして、どんなに自分で自分を痛めつけても、肉体は苦痛を訴えない。罰を受け付けない。そうして、決して癒されない思いの中で荒れ狂い、ついに自ら命を絶ってしまった。
兵士達の手で回収されたその遺体は、手早く密葬された。一応、スザーミィ家代々の墓地に納められはしたらしい。
「大変な思いはしたけど」
ノーラは、旅が終わったかのように総括した。
「あとは帰るだけね。ね、ファルス。ピュリスの自宅で、のんびり暮らすといいわ」
含みのある言い方だ。既に何かを察しているのかもしれない。
「アドラットさん、これからどうしますか」
「どうって……範囲の広すぎる質問だな」
「ああ、済みません。つまり、三人の身の振り方ですが」
ルークはアドラットが買い取った。オルヴィータはもともと自由の身だ。タマリアは……実は、別に正式に解放されたわけでもない。犯罪奴隷のままなのだ。それが今、この混乱の最中に放置されているだけのこと。だから、うまいこと対応を考えなくてはいけない。昨夜、どうしようかと相談を持ちかけたのだ。
「まず、二人については難しいことはない」
ルークは解放すれば済むし、オルヴィータも、いまや身寄りも何もない。簡単だった。
「ノーラ君が管理している商会に預ければ、あとは万事よろしくやってくれるだろう。ただ、ルーク君に関しては、東方大陸までついてきてもらうことになるかもしれない」
「やっぱり神通力が」
「大都市の中で暮らすなんて、正気の沙汰とも思えないからね。人里離れた場所、近くに動物や虫が寄ってこない空間……一応、心当たりがないでもない」
要は、まともに日常生活を送れないようなら、隔離すると言っている。だが、それが彼のためではある、か。
「問題は」
視線を受けて、タマリアは頷いた。
「私のしたことは……」
「そういう意味じゃないよ」
タマリアは、昨日の昼にゴーファトの死を知って、初めて動揺をみせた。やってしまったのだ、と。
彼女は、ゴーファトを直接殺しはしなかった。けれども、それと同じくらい、いやそれ以上に残酷なことをしたという自覚ならあった。思う存分汚してやった……それで、彼女の中の復讐心は、納得してしまっていた。あの時、逆上したゴーファトに絞め殺されようとも、不満などなかっただろう。
だが、生き残ってしまった。そして、苦しみぬいたゴーファトは、無残な死を遂げた。それによって、彼女の中の何かが終わったのは間違いない。もう、元通りの「人」には戻れない。正気に返った自分が、狂気の中にいた自分を思い返す。そうしてまた、自身も免罪され得ないのだと悟った。
今、彼女はかつての姿を取り戻してはいない。ずっと無口で、笑顔をみせることもない。人を呪わば穴二つ、彼女は自分自身のひまわりのような笑顔を、墓地に葬ってしまったのだ。
いつの日か、タマリアが人生を取り戻す日はくるのだろうか?
「ただ、法的にはいろいろ厳しいから……大丈夫、ファルス君、私にはあてがある」
「どうするんですか」
「ピュリスからうまいこと当局をごまかして、船に乗せる。いったん国外に出たらもう、こっちのものだ。奴隷身分も、帝都に出てしまえば関係ない。あそこは、悪いところもたくさんあるけど、女一人でも生きていける街という意味では、都合がいい。落ち着いて暮らしていけるようになるまでは、面倒をみるよ」
帝都は多くの移民を受け入れている。その制度を利用しない手はない、か。
「そこまでさせてしまうのは」
「なに、大きいも小さいもない。百人を救うのは使命でも、一人なら足手纏いだなんてのは、騎士のいうことじゃあないからね」
これでよかったんだろうか。俺は最善を尽くしたといえるのか。
あの、アーウィンの去り際の言葉が、今でも耳に突き刺さっている。
『忘れたのかい? 自分で言ってたじゃないか……「身の回りの人を守りたいだけ」だって。よかったね。周りの人は無事だよ。周りの人達だけは』
タマリアがゴーファトを殺したのだとすれば、俺はそれに加担した。最後に彼が殺害すら懇願した時、俺は聞き入れずに無視した。彼女の罪は、俺の罪でもある。
ドロルを死に追いやったのは、俺だ。死んで当然の奴だった? そうかもしれない。彼の心は、憎悪に捻じ曲がっていた。だが、彼の精神に、他にどんな栄養が与えられたというのか。一見、好意的な俺の提案は、彼の顔に屈辱の泥を擦りこんだだけだった。
あとは、生き残った。あれだけの事態が起きたのに、ルークも、オルヴィータも、タマリアも、ノーラも。俺の希望通りだ。まさしく、俺は力で我儘を通した。ゴーファトがしてきたように、俺も結局は、自分の欲望のままに振舞った。
違うと言い張るか? 誰の目にも明らかな結果に顔を背けて?
ただ、それでも一つ、少しでも善良であろうとするならば。
俺という災厄から、世界を遠ざけることだ。
「どうして今、そんな話をする必要があるのよ」
ノーラが噛み付いた。会話の流れで察したらしい。
覚悟は必要だが、ここで言い切らねばならない。
「ノーラ、僕はまだ帰れない」
「王様の命令はこなしたでしょ」
「次にやるべきことがある。だから、このまま南に向かう。先にピュリスに帰ってて欲しい」
目を見て、俺は強い口調で言った。
彼女もまた、真正面から俺を見据えた。
「そう」
頷くと、彼女は身を翻し、アドラットに歩み寄って何かを手渡した。
「この手紙があれば、商会のほうへは話が通ります。お手数をおかけして申し訳ありませんが、お任せしてしまってよろしいでしょうか」
「ノーラ」
「ファルス、あなたが帰らないなら、私も帰らない」
やっぱりこうなった。
「まだわからないのか。僕が行くところには、危険が付き纏う。今回、たまたま命を拾ったからって、次も助かる保証なんてないんだぞ」
「それはファルスも一緒でしょ」
「僕は、僕のせいでそうなるんだ。ノーラまで付き合う義理はない」
「そう。義理じゃないわ。私がそうしたいから、そうするのよ」
いっそ、本気でぶん殴ったほうがいいんだろうか? 無駄だ。この場で足の骨をへし折っても、なんだかんだ追いかけてくる気がする。いったい、何を食わせたらこんなに頑固な娘に育つんだ。
「じゃあ、ノーラも旅を続けるの?」
タマリアが尋ねた。
「うん、ファルスがどこかにいっちゃったから」
「ファルスなら、ここにいるじゃない」
「体はここにいる。だけど、心はどこか遠くにいっちゃったから……だから、見つけて連れ戻すの。絶対に」
「そっか」
すると、はじめてタマリアが静かに微笑んだ。
「ノーラは……変わらないんだね」
ルークが大股に歩み寄ってきた。彼は、この場の空気にそぐわず、全身から騒がしさを発散していた。
「なぁ、ファルス。じゃあ、今度はどこへ行くんだ」
「ムスタムへ。それから、人形の迷宮を目指す」
「おぉっ! すげぇ!」
強い男に憧れる少年そのままの感想だ。年相応といえばその通りで、微笑ましくはある。
「お前、メチャクチャ強かったもんな」
そうでもない。むしろ、ルークのほうがずっと強いんじゃないか。そう思わされたことが、何度もある。
「俺はわかるぞ! 男だもんな! やめろって言われてやめられるもんか! 行ってこいよ!」
「ああ」
「でも、そうなると、俺もじっとしてられないな」
振り返ると、彼はアドラットに話しかけた。
「なぁ、アドラットさん」
「なんだい」
「俺、強くなりたい」
この無邪気な要求に、アドラットは真剣な表情を浮かべて身構えた。
「君は何を言っているのか、わかっているのか」
「わかってる」
「馬鹿な考えは捨てなさい。今の君は、人の何倍も痛みを感じる存在だ。誰よりも弱いといって差し支えない。現に、あの湖の畔で何が起きた? 大勢の兵士が犠牲になったのに巻き込まれて、君は完全に倒れてしまったじゃないか」
「だったら、尚更、強くなりたいんだ」
アドラットは、一瞬、俺に視線を向けてから、またルークに言った。
「強さを夢見るのはわかる。だが、それは危険と隣り合わせだ。わざわざ向いていないことをする必要が、どこにある。私自身も剣を振るうが、暴力なんて、どこまでいっても下劣なものだ」
「俺は誰かを殴るために強くなりたいんじゃない」
だが、ルークの意志は、はっきりしていた。
「結局、俺は何もできなかった。痛みを吸い取る神通力だといわれて、嬉しかった。これでやっと誰かの役に立てる。痛みを肩代わりしてやれるんだって。だけど、全然そんなことにはならなかった」
彼はここでやっと、苦々しい顔をみせた。拳を作り、俯いて。それでも、思いを語るのをやめなかった。
「俺は、ニドを救えなかった。結局あいつは、一人で何もかもを抱え込んで、出て行っちまった。ドロルの苦しみもわかってた。なのに死なせちまった。パッシャの連中にも手を伸ばした。だけど、笑われただけだった。その後、大勢の兵士が殺された。何もできなかったんだ。なんでそうなる? 俺が弱いからだ」
ルークの願いは、純粋で、そして明らかだった。
彼が目指す道とは……
「誰の手も放さない。誰の声も聞き逃さない。何一つ、置いていったりはしない。そういう強さが欲しいんだ、俺は」
アドラットは、目の前の少年の宣言を真剣に、しかし苦痛に満ちた表情で見つめている。
「だが、君自身の幸せが犠牲になる」
「違う。それが俺の幸せなんだ」
ルークは目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。
そして、震える唇で、その言葉を口にした。
「我が骸は荒野に……」
「やめなさい。それを口にしたら、君はもう」
「……我が魂は天上に」
それでも、誓いはなされた。そしてもう、取り消すことはできない。
「宣言した以上、君はもう、普通の世界には戻れない。君の命は、既に捧げられた」
「心より望むところです」
さっきまでは、対等に言葉を交わしていた。だが、これからは女神の騎士の下で、その道を往く。だから、ルークは丁寧に身を折った。
「ファルス」
彼はまた、俺に振り返って言った。
「今度こそ約束だ。俺は強くなる。いつか、本当の騎士になってみせる。その日まで……競争だ。お前にも負けないぞ。きっとだ!」
生きるべき道を見つけた彼のなんと輝かしいことか。
闇の中に佇む俺には、眩しすぎた。
「……ああ」
これで話は終わった。
夜の闇がアグリオを覆う前に、それぞれ、次の宿営地まで進まなくてはならない。
「では、最後にけじめをつけましょうか」
アドラットは、俺に歩み寄って軽く肩を叩いた。
「何のけじめです?」
「おぉ! あなた様にお仕えすると申し上げたのに、もうお忘れですか! ですが、どうやらあなたの下では出世は望めないようですね!」
俺は脱力した。
今更、何の話をしているのかと。
「そういうわけですので、お暇をいただきます! ファルス様、ごきげんよう!」
そう言って、優雅に身を折る。
「最後の最後は冗談ですか」
「それですよ、ファルス様」
正義を求める騎士、アドラット。だが、もともとは陽気な冗談好きの青年だったのかもしれない。
「時には肩の力を抜いてみてください。でないと、周りが見えなくなることがある。私は、あなたが一番心配なのですよ」
と言いながら、横目でノーラを盗み見た。
「もっとも、頼りになる人がいるようですけどね。はは、新しいお供に席を奪われてしまいました!」
「あのですね……」
溜息一つ。けれども、ノーラはというと、すっかりすまし顔だ。
「ではでは、ファルス君、それにノーラ君! 女神の導きがあれば、また!」
「アドラットさんも、お気をつけて」
「じゃあな!」
「では、ファルス、またなのです」
そうして彼らは、光り輝く東の彼方へと歩き去っていく。俺は背を向けた。
視界に映るのは、ますます闇を色濃く刻んだ西の峡谷だった。
「行くのね」
「帰ってくれ」
「ファルスのいるところが、私の帰る場所よ」
舌打ちするしかなかった。
俺は彼女に振り返りもせず、聳え立つ暗がりに向けて、また一歩を踏み出した。
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