パッシャ、去る
興奮した兵士達の歓声。それに冷水を浴びせかけるような、まばらな拍手が、右手の高台から聞こえてきた。気付いた者から口を噤み、振り返る。やがて集団は完全に沈黙した。
高台の上には、数人の人影があった。俺には、彼らに見覚えがあった。
「見事。見事だった、ファルス」
まず声を発したのは、黒いコートに帽子、この季節に手袋まで外さない優男だった。
「君の力、確かに見せてもらったよ。素晴らしい。神すら打ち倒すとは」
「アーウィン」
ここで現れるとは。いや、逆か。俺達がゴーファトの居場所を探したのだ。彼らは前もってここに陣取っていたのだろう。シュプンツェ本体を、何かに利用できないか、画策していたに違いない。
「これでお前達の目論みは、すべて無になったぞ」
「そうでもない」
代わりに答えたのは、デクリオンだった。
「説明しただろう。我々の目指すところは、女神の支配をいかに撥ね退けるか……その手段を実践するところにあったのだと。こうして実際に古代の神が甦り、地上の秩序を書き換えた。この事実だけで、我々には充分以上の成果なのだから」
「その成果のために、どれだけの犠牲を出した」
「必要な犠牲だよ。世界をよりよくするための」
「勝手なことを」
だが、デクリオンは口角を歪めて笑った。
「だが、思わぬ発見もあったな」
「なに?」
「蘇ったばかりとはいえ、神を封じ込めるほどの力とは……ますます君に興味が湧いた」
こいつらに見られたのは、しかし、どうしようもない。魔宮の剣でもシュプンツェを倒せたかもしれないが、それはあまりにリスキーだった。あの無数の触手相手に接近戦など、したくもない。
ただ、今後はピアシング・ハンドの使用には注意しなければなるまい。特に、パッシャの目がありそうなところでは。
それにしても、自分が高所からものを眺めていると思っている人間は、どうしてこうも冷酷になれるのだろう。観覧車の上からでは、生者と死者の区別など、つかないのだろうか?
アーウィンは、俺の中の苛立ちにも似たこの感情に、まったく頓着していなかった。楽しそうにウァールに話しかける。
「で、腕前はどうだった、ウァール。二度ほど手合わせしただろう」
「太刀筋は鋭かった。百年の鍛錬を重ねた贖罪の民の戦士に優るとも劣らぬほどだ。どうしてこの若さで……と不思議に思わずにはいられん」
「ほう。でも、さっきの魔法は、それに比べると、なんとも貧相だったな。そう思わないか、モート」
黒い肌の巨漢、モートは頷いた。
「あの程度の炎でシュプンツェが消し飛ぶなら」
「勘違いしてはいけないよ」
あれくらいでシュプンツェを倒せるのであれば、自分だってできると、彼はそう思ったのだろう。だが、アーウィンは間違いを正した。
「シュプンツェを倒せたのは、ファルスだからだ。私でも、あそこまで鮮やかにはやれないだろう」
「そこまでの脅威なら、今、ここで」
黒衣に身を包んだ、まるで影のような女、マバディが危険な提案を口にした。だが、アーウィンはやんわりと却下した。
「まぁまぁ、今のところは見逃してやろう。それに彼を相手取るなら、我々も無傷とはいくまいよ」
「お、おれがいる」
浮き出た肋骨、青白い肌、縫い合わされた瞼。色の抜けかけた長髪を振り乱すハイウェジが、そう申し出る。
「並の人間が相手なら、それでもいいけどね……ハイウェジ、君も組織の大事な幹部だ。やすやすと使い捨てるわけにはいかないよ」
彼らの舞台を、四百人からの兵士、それに俺や魔物討伐隊、ヤシュルンやアドラットも見上げている。徐々に理解が追いついてきたのか、俺のすぐ脇に立つナイザやヤレルの表情は、だんだんと険しいものになりつつある。
「さて、ファルス」
ようやく俺に目を向け直したアーウィンが、改めて言った。
「君も目にし、また体験した通り……組織には、世俗の王達では手が届かないほどの知識や技がある。その秘密を知りたくはないか」
「なに」
「はっはっは……遠まわしにすぎたか。要は、仲間にならないかと言っているんだ。ほら、最初に言っただろう? 私は君と友達になりにきたんだ」
「ふざけるな!」
こんな、命をゲームのチップみたいに扱う連中と、どうして一緒にやっていける?
俺だって殺す。俺だって奪う。でも、やっぱりこいつらとは、何かが違う。
「残念だね。でも、早めに考えを改めたほうがいい。もう近々、世界のすべては我々の力に抗えなくなるのだから」
「何を根拠に、そんな」
「今日、ここで起きたことをもう忘れたのかい? ここで得た知見があれば、あとはもう時間の問題だ。現在、どの大陸にあるどんな強国であろうとも、遠からず膝を屈するしかなくなる」
確かに、シュプンツェみたいなバケモノを量産されたら、国家なんて簡単に滅ぶだろう。ただ、結局のところ、パッシャはシュプンツェの復活こそ成し遂げたものの、その制御には完全に失敗していたようだが。
では、彼らの言うところは、ただのハッタリか? それとも、それ以上の何かが具体的にあるのか?
「君にはもう少しだけ、考える時間をあげよう。捨ててしまうには惜しいからね……これでいいかな、デクリオン」
「構わない」
勝手なことを。
だが、彼らは次に、ニドに関心を移した。口を開いたのは、デクリオンだった。
「さて、ニド。そろそろままごとには満足したかね」
「なんだと」
「目先の貴族を殺すことにばかり熱中しているようでは、世界を作り変えるなんて、夢のまた夢だ。我々には、もっと遠くを見る目がある。それを学べたのではないかね」
ニドは、黙りこくって拳を握り締めた。肯定も否定もできない。
「どちらにせよ、君がそのまま、黙って人の世界に帰るなんて、許されはしないだろう。賢明な判断を期待するよ」
「待て!」
そこに割り込む声があった。それは、誰もが予想しないところからあがった。
「君は?」
アーウィンが気の抜けた声をあげた。進み出てきた少年に、まるで見覚えがなかったからだ。
けれども、その少年……ルークの目には、はっきりと意志の光が宿っていた。
「お前達だな!」
「何がだい?」
「あんなバケモノを呼び出して、こんなひどいことをしたのは、お前達だろう!」
「ふむ……わかりやすく言うと、そうなるね」
返事をしてから、傍らの仲間に振り向いた。問われる前に、デクリオンは答えた。
「彼はルークだ。ファルスの奴隷時代の仲間で、今も譲渡奴隷の身分だよ」
「ああ、そうだったのか」
納得してから、アーウィンは振り向き、微笑んでみせた。
「それで? ルーク、我々に何を言いたいのかな?」
すぐさま問いが発せられた。
「何のためにこんなことをしたんだ!」
「聞こえてないのかな。世界を作り変えるためだよ」
「そういうことを訊いてるんじゃない! たくさんの人が死んだ! 傷ついた! お前達は、悲しくも苦しくも、なんともないのか!」
当たり前すぎる指摘に、アーウィンは肩をすくめた。残念ながら、論戦は彼の得意分野ではないらしい。
代わってデクリオンが答えた。
「ルーク君、むしろ反対なのだよ。我々は、悲しみを味わい、痛みを味わった末に、ここにいる。この間違った世界を正さなければ、この苦しみは終わらない。奴隷として生きてきた君なら、わかるのではないかね?」
「そうか」
ルークもまた、細かい議論をする少年ではなかった。頷くと、黙って右腕を突き出した。まるで握手を求めるかのように。
「それなら、俺の手を取れ!」
この反応に、パッシャの連中は、目を見合わせた。
もちろん、俺にはわかっている。だが、ルークが神通力に目覚めた事実を、彼らはまだ、把握していない。或いはデクリオンなら、『識別眼』を用いれば、ある程度の推測もできるのだろうが。
「手を取れとは……どういう意味かね」
「いや、デクリオン、私にはわかるよ」
頷くと、アーウィンは両手を広げてみせた。まるで抱擁しようといわんばかりに。
「いいとも、ルーク。君の気持ちは確かに受け取った!」
「なに!?」
「組織は志こそを評価する。才能も実績も、二の次だ。君が我々と手を取り合いたいというのなら、いつでも仲間になれるのだ。さぁ、こちらに来るといい」
恵まれない奴隷の少年がまた一人、組織に救いを求めたのだと、そんな見当違いな解釈をしたのだ。
だが、当然の如くにルークは否定した。
「違う!」
「おや?」
「俺がお前の手を取るんじゃない! お前が俺の手を取れ!」
「どう違うのかな」
ルークは、アーウィンをじっと見据えて言った。
「俺が、お前らを人の世界に連れ戻してやる! 痛みも苦しみも、全部引き受けてやる! だから、こっちへ来い!」
この宣言に、場は静まり返った。
だが、しばらくの沈黙の後に広がったのは、嘲笑だった。
「ふふっ、ふははははっ、何を言い出すかと思ったら!」
「身の程を弁えぬとは恐ろしい」
「彼の目は今まで何を見ていたのか」
だが、そんな侮蔑を浴びながら、なおもルークは手を突き出していた。その後ろから、アドラットが優しく肩に手を触れた。
「話は終わったか」
怒りの限界に達した男が一人。ナイザだ。
槍を杖代わりに突きたてながら、彼は進み出た。
「要するに、貴様らがスーディアを荒らした張本人だと、そういうことだな」
「有効活用させてもらったと言い換えて欲しいけどね」
「たわけが! このまま見逃すと思うてか! 者ども! 何をボサッとしておる! 腰の剣を抜け!」
槍の穂先を向け、彼は配下の兵士達に号令した。
「奴らはパッシャだ! 捕虜などいらん! 殺せ! 決して逃がすな!」
ここまで生き残った兵士達だ。指揮官の命令には敏感に反応した。無言で剣を引き抜き、高台の下へと一気に殺到する。
それを目にしながら、俺はハッとした。
「い、いけません! ナイザ様、おやめください!」
だが、次々兵士達が俺達の横を駆けていく。その騒がしさもあり、ナイザ自身、怒りで何も耳に入らないようだった。
「仕方がないな」
アーウィンは、ごくリラックスした様子でそう言うと、ゆったりと腰の剣を引き抜いた。
「まずい!」
危険を直感した俺は、数歩前に出た。だがもう、何かするには遅すぎる。
アーウィンは左腕を突き出した。そこには金色の腕輪が嵌められており、そこに四色の宝石が輝いていた。その腕輪がひとりでに回転する。赤い宝石のところに、刀身が重ねられた。
直感した俺は、その場で慌てて印を組み、短く詠唱する。それが精一杯だった。
青白く輝くアーウィンの剣が、軽く一振りされた。
それだけだった。
熱風が、津波のように吹き寄せた。
あまりの勢いに転がされ、慌てて起き上がる。そこで目にしたものは、文字通りの地獄絵図だった。
高台の真下に駆けつけた四百人からの兵士が、一人残らず火達磨になっていた。頭から足の爪先まで、まるでガソリンをかぶったかのように分厚い炎に包まれていた。そのまま、苦悶の声をあげながら数歩彷徨い、瞬く間に消し炭になって次々横たわる。
一瞬だった。こんなに簡単に、数百もの兵が殺された。それをしたアーウィンは、汗一つかいていない。
不安のあまり、俺はすぐ後ろを振り返った。
俺が印を組んだ場所を起点に、扇形の範囲だけが守られていた。足元の砂の色まで違っていた。
ナイザは膝をつき、ジャンは腰を抜かしてへたりこんでいた。ヤレル達はなんとか水魔術で被害を防いでいた。激痛に巻き込まれたルークは意識を手放し、アドラットに抱きかかえられている。その後ろにいたニドやノーラ、タマリアやオルヴィータは、幸いにも無傷で済んだ。
やっぱり、そうだった。
アーウィンはこれまで、その能力に相応しいだけの動きを見せたりはしなかった。だから俺は、能力こそあっても実際には機能しないのかも、と思ったりもした。そんなことはなかった。本気を出せば、一人で軍隊を相手取れる。それだけの力があったのだ。
「おやおや……ファルス、どうやら君の希望通りになったようだよ」
「な、なにが?」
「忘れたのかい? 自分で言ってたじゃないか……『身の回りの人を守りたいだけ』だって。よかったね。周りの人は無事だよ。周りの人達だけは」
皮肉が利きすぎていた。少なくとも、大勢の死を目の当たりにした俺にとっては。
彼らは、せっかく生き残ったのに。シュプンツェの絶望から解放されたばかりだったというのに。
「さて、後始末も済んだし、そろそろ我々は失礼しよう。いいかな、デクリオン」
「そうしよう。ではファルス君、また会う時を楽しみにしている」
この一言を合図に、パッシャの戦士達は互いに身を寄せ合った。
「では、これで」
軽い調子でアーウィンが敬礼する。と同時に、彼らの姿は一瞬にして掻き消えた。
スーディアの地に消えない傷跡を残したパッシャの戦士達は、こうして姿をくらましたのだ。
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