暗黒と驟雨を抜けて

 粘液の雨の降りしきる真夜中。

 反撃の刻を知らせる号砲は、俺の右手から放たれた。


 一瞬の間をあけて、それぞれの家屋から鬨の声があがるのが聞こえた。戸口から、異様な風体の兵士達が転がり出てくる。それはまるで、タリフ・オリムの冒険者達のような格好だった。但し、その装備ときたら、まるで子供の玩具のようにも見えるくらい、貧相だったが。

 シュプンツェに武器は通用しない。だから、槍からは穂先を取り外した。その代わり、可燃物をくくりつけた。

 シュプンツェに防具は意味をなさない。だから脱いだ。しかし、盾は有用だ。直接触れられさえしなければいいので、家の中の窓や扉など、大きな木片を引っぺがして、即席の大盾に仕立てた。

 屋外に転がり出た兵士達は、早速に円陣を組んだ。普段、使っている本物の盾は、横ではなく、上に向けている。外ではなく、内側に使っている。そうして保護しているのは、種火だ。これが消えたら、その円陣は全滅の危機に立たされる。

 要するに、可燃物をつけた槍でシュプンツェを突く。しかし、この雨なので、火もすぐ消える。そうなったらまた、棒の先端を円陣の中心にくべて着火させる。

 それでも兵士として、捨てられないものがあるのだろう。一応、腰の剣だけは全員が提げたままにしている。


 ナイザの声が、雨音にもかかわらず周囲に響き渡る。


「全員外に出たか! これより郊外を目指す! 足を止めずに突っ切るぞ!」


 みんな、元気いっぱいとは程遠い。それでも、ここを乗り切らなくては、生きられない。このキャンプに篭城していても、先はない。援軍が来るのは遥か先。だから、誰一人として、この拠点に居残る人はいない。歩き通せなければ、死ぬだけだ。


「ニド、ヤシュルン」

「おう」

「先導する」


 視界のない夜間だ。場所がわかったからといって、まっすぐ歩ける保証はない。但しそれは、夜目が利かなければの話だ。


「まずは市外に出る! 全員、突撃!」


 体感時間にして、およそ一時間後。俺達はようやく、市内に充満していたシュプンツェの追撃を振り切ることができた。

 犠牲は決して小さくはなかった。ナイザは何度か点呼を繰り返したが、いくつかの部隊が返事をしなかった。五百人弱の兵士がいたところ、ざっとみて二割近くが失われたと推測される。

 これは、装備の差によるところが大きい。不運な部隊は、家の中の大きな扉などを、真っ先に燃料として消費してしまっていたのだ。


 俺は、フードを目深く被り、特に右手を濡らさないように気をつけながら、先頭集団の中央に陣取っていた。というのも、俺の仕事は本体を倒すことだ。兵士達は、棒の先の炎でシュプンツェを撃退すればそれで済むが、俺は奴を殺しきらないといけない。

 もちろん、一人でやり切る必要はない。ニドにも言い含めてある。彼の神通力も、貴重な火力だ。ただ、立場もあるし、連発もできない能力なので、今は温存に徹しているが。

 ピアシング・ハンドでディバインミクスチャーなるものを奪う手も選択肢にはあるが、その前に可能な限りの火魔術を使ってみるべきだ。それに、仮にこの本隊までもが壊滅した場合には、やはり火魔術だけが俺の身を守る武器になる。力を温存する理由がありすぎた。

 残念なことに、ヤレル達ワノノマの武人が用いる水魔術は、粘液の雨にはあまり効果を発揮しなかった。雨除けの魔法があるらしいのだが、使っても粘液は頭上に降り注いでくる。それでアドラットが『矢除け』の魔法で粘液を弾いた。これは効果があったのだが、長時間持続するには、本人の負担が大きすぎた。だから結局、俺の旅の外套は、周囲の人と同じく、粘液でベトベトになってしまった。


 シュプンツェの分体には、感覚はあっても知性はない。人間とみるや捕食しようとはするが、いったん撃退されると、目も耳もないために、ろくに追いかけることもできない。どちらに向かったかをじっくり考えて追跡する、といったことはなかった。

 そのおかげで、今は行軍速度も普通に歩く程度のものになっている。これだけは救いだった。


「ノーラ、方向は」

「近付いてるはず」

「ニド」

「この道だろ? 見えてるぜ。馬車が通れるしっかりした道だが、もうじき途切れるな」


 覚えている。ゴーファトが俺をそこまで案内したから。馬車の道が途切れれば、あとは高原地帯を歩いて、そこからちょっとした登りになる。


 ナイザは、難しい顔をしているに違いない。ニドという名前、そしていかにもな服装、更に『暗視』という神通力。少し前まで、当局を悩ませていた怪盗のことを忘れるはずもない。だが、今はそこにこだわっている場合ではないのだ。


 闇は深かった。いつでもスーディアの夜は、ただの暗闇ではなかった。何か恐ろしげなものが潜んでいるのではないかと思わせるような不気味さがあったのだ。だが、今夜に限っては、その恐怖の対象そのものが、もはや仮面をかなぐり捨てて、素顔をさらしているかのようだった。吹き付ける生臭い風、降りしきる粘液が、どこまでも俺達の歩みを阻んだ。

 だが、そんな中に、小さな光が見えた。但し、毒々しい赤紫色ではあったが。


「そろそろ夜明けか」


 かつて目にした湖の畔。到着してみると、不思議と粘液の雨は止んだ。

 だが、そこに見慣れない巨塔が聳えていた。本当にそう表現するしかない。人が何十人、手を繋げば囲めるのか。そんな巨木か、塔のようなシルエットが、赤紫色の空を背景に、屹立していた。

 その巨木の根本に、豆粒のような少年達が転がっていた。眠っているのだろうか?


「ふ、ふふ、ふ、ふふふ」


 俺のすぐ横で、ナイザは唇を震わせていた。ピアシング・ハンドがなくとも、これでわからないはずがない。あれが本体なのだと。

 まったく勝ち目がないと思っていた。だが、ここまでやってきた。あとはあれを焼きさえすれば、スーディアの壊滅は防げる。茂みのような髭の下、表情は読み取りにくかったが、歓喜に震えていたのは間違いない。


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 ゴーファト・シュプンツェ (**)


・ディバインミクスチャー(アクティブ)

・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク7、男性、38歳)

・アビリティ 痛覚無効

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル サハリア語  4レベル

・スキル ルイン語   4レベル

・スキル 指揮     5レベル

・スキル 管理     3レベル

・スキル 棒術     6レベル

・スキル 剣術     3レベル

・スキル 弓術     4レベル

・スキル 格闘術    5レベル

・スキル 房中術    3レベル


 空き(**)

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 間違いない。

 あの巨大なシュプンツェが、ゴーファトだ。


 しかし、このでかさはどうだ。黒竜なんか、比べ物にならない。高さは、地上百メートルを軽く超えるんじゃないか。上まで見上げると、首が痛くなる。こんな奴に俺の火魔術がどれだけ通じるだろう?


「やります」

「待たれよ」


 ナイザは部下達に向かって叫んだ。


「燃料の残りはどれだけある」

「はっ! ただいま集めます!」


 スーディア兵は、手際よく班ごとにまだ抱え持っていた燃料を並べ始めた。しかし、その残量の貧弱なこと……フリンガ城を焼いたときほどの資材は既になく、これでは家の二、三軒でも焼くのがせいぜいだった。


「……もうよい」

「はっ」


 俺が奴を焼くのに、少しでも助けになればと思ったのだろう。しかし、これでは。


「アドラット殿、おわかりですな」

「しかし」

「頼まれてくだされ」


 具体的には言わないが、やはり難しさは感じているのだろう。分体のようなサイズならいざ知らず。城を突き破ったときより、更に大きい。これはさすがに誰も想定していない大きさだった。こんな奴に、ちょっとやそっとの魔法が効くものか、と。

 だが、ここまで来さえすれば、俺にはいくらでもやりようがある。


「全力を尽くします」


 まずは火魔術。次は……ピアシング・ハンド。それもうまくいかなければ、あとはこの剣だ。奴はこの武器に反応していた。全力で身体強化した上で、少しずつでも斬りつければ、ダメージを与えられるのではないか。


「ニド」

「ああ。しょうがねぇな」


 彼も進み出た。俺と違って詠唱を重ねる必要はない。その瞬間に強く念じるだけだ。俺が火球をぶつけると同時に、彼も『爆炎』の神通力を使うことになっている。


 生き残った四百人近い人々が、俺達のすることに注目している。そんな中、俺は右手の袖をまくって、じっくりと詠唱を重ねる。炭のように黒くなった右手に、赤みが差し、やがて真っ赤に、橙色に、そして黄色くなる。数分間かけて、力を集めに集めた。


「あの少年達を避難させてください」


 頷いたヤレルが、仲間の武人達と無言で腰を浮かせた。シュプンツェの近くにいたのでは、爆風で火傷を負うかもしれない。

 右手から、小さな光球が生み出される。それは少しずつ大きさを増していった。これまで、ここまで力を凝縮したことはないかもしれない。実戦の中では、そんな時間の余裕はないのが普通だからだ。

 けれども、それができるのも最初の一撃だけ。その後は、接近して火炎放射に切り替える。それでも駄目なら……


「いきます」


 周囲を確認した上で、俺は右手を前方に突き出した。狙うのは、シュプンツェの根元の部分。

 一抱えもあるほどの火球は、子供でも避けられるほどゆっくりと、空中を転がっていった。そしてシュプンツェの幹に触れると、マシュマロのようにひしゃげ、潰れて……


 耳を劈く爆音を辺りに広げた。


「やったか!?」


 後ろから期待に満ちた声がとんでくる。だが、俺はやっぱりな、と溜息をついた。

 爆発は、シュプンツェをえぐりはした。焼かれた部分は黒ずんではいる。しかし、根元全体からするとほんの一部だ。しかも、体全体からすれば、根元はごく僅かな部分を占めるに過ぎない。多分、こいつに急所なんてないだろうから、ダメージとしてみるなら、微々たるものでしかないはずだ。


「俺に任せろ!」


 ニドももはや出し惜しみはしない。

 両手を前に突き出し、内なる怒りを解放した。


「吹っ飛べ! ゴーファトのクソ野郎!」


 俺が放ったより激しい火柱が、彼の両腕から真横に噴き出る。それがシュプンツェの根本に突き刺さり、焦げて灰色になった破片を散らばらせていく。

 俺も負けじと、更に詠唱を重ね、第二、第三の火球をそこにぶつけた。


「ぐっ……」


 思ったより早く、ニドが膝をついた。大きな威力を得られる分、持続はできない能力なのだ。俺も大威力の火球を連発したせいで、もう余力はあまりない。

 だが、こうまでして焼けたのは、根本の部分の、およそ一割ほどだった。いまだにシュプンツェは反撃すらしてこない。それがまた、ダメージの小ささを物語っているかのようだった。

 倒しきれない。それがよくわかった。


「ニド! 立て! もう一度、もう一度だけやってくれ!」

「くそっ……たれっ」


 だが、それでも焼き続ける。こうなると目的はまた、別になってくる。次の武器、ピアシング・ハンドの行使をごまかすための煙幕として、役立ってもらう。

 俺は根元のすぐ傍まで駆け寄り、右手を掲げて、左右に炎を噴射し続けた。しかし、表面は黒く焦げても、燃え上がったりはしない。それでも、奴は反応した。

 幹から、か細い触手がいくつも、ニュルリと顔を出す。俺の攻撃に、やっと対策し始めたらしい。どうやら、頃合か。


 シュプンツェそのものを、奪う……


 ピアシング・ハンドを行使するとき固有の、あの浮遊感。

 ただの人間や動物、スキルやマテリアルを奪うのとは違う、圧倒的な質量。

 だが、警告はなかった。


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 (自分自身) (12)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク9)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク4)

・マテリアル プルシャ・フォーム

 (ランク9+、男性、11歳、アクティブ)

・マテリアル ラプター・フォーム

 (ランク7、オス、14歳)

・ディバインミクスチャー

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル 身体操作魔術 9レベル+

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 剣術     9レベル+

・スキル 格闘術    9レベル+

・スキル 隠密     5レベル

・スキル 料理     6レベル


 空き(0)

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 奪えた!

 アルジャラードのときのように、すり抜けていく、なんてことは……ない!

 自分の掌を凝視しながら、俺は首尾よく片付いたことに、強い喜びを感じていた。と同時に、言い知れない不安も感じた。この気持ち悪いシュプンツェを自分の中に置いておいたら、何が起きるかわかったものじゃない。

 すぐさま手元のバクシアの種に手を触れて、自分の外に追い出した。


 では、ゴーファトは?

 はっとして顔をあげる。そこに突風が吹き寄せた。


 ほとんど目を開けていられなかった。けれども、途切れ途切れに見えたのは、巨木のような肉体が、まるで綿菓子のようになって千切れ飛んでいくさまだった。頭上の赤紫色は少しずつ薄れていき、どんよりとした鈍色へと移り変わっていく。

 大風が通り過ぎていくまでの間、膝をついて耐えていた。けれども、ふと風が止んだので、俺は顔を庇う手を下ろして、前を見た。


 それは、夜明け前の湖畔だった。

 遠く峰々の端にはうっすらと金色の輪郭線が浮かび上がりつつある。夜の名残か、頭上にはまだ、濃淡のある灰色の雲が群れをなしていた。湖面にはさざなみ一つ立たず、遠くの山々の長い影を映しこんでいた。

 湖の中央に取り残された折れた古木は、まるでシュプンツェの彫像のようだった。昔、こんな奴がいましたよ、と語りだしそうな顔をしていた。

 畔には、いつか見た、あの細長い岩があり、その上には動かないままの全裸のゴーファトが横たわっていた。この騒動の主犯ということを忘れ、眺めてみると、これも絵画の一部のようだった。よく鍛えられた肉体は美しいといえた。それがきれいに岩のベッドの上に収まっていた。


 いつも通りのスーディアの朝。未曾有の危機は去ったのだ。

 澄み切った朝の空気を吸い込むと、それが実感できた。


 背後から、歓声が聞こえていた。大勢が足を踏み鳴らしながら、殺到する。


「バンザーイ! バンザーイ!」

「やったぞ! 助かったんだ!」


 生き残ることができたその喜びに、兵士達は諸手を挙げて天を仰いだ。

 俺はそれでようやく、ほっと息をついた。


 その時だった。

 視界の隅、右手の高台の上に、奴らの姿が見えたのは。

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