スーディアの天地を統べるもの
黒い煙が、赤紫色の空に向かってか細く立ち昇っている。離れたところから怒声が聞こえる。火を絶やしてはならないのだ。
狭い領域に押し込められた数百のスーディア兵が、慌しく歩き回っては利用可能な燃料の分量を再確認している。今のところ、シュプンツェを撃退するのに役立つのは、この火だけだ。それも追い払うだけで、打ち倒すには至らない。
何人かが家屋の分解を指揮官に申し出る。燃料を増やしたいのだ。だが、それは却下されたらしい。ナイザには、別の考えがあるようだ。
そして俺は、この禍々しい空を仰いだまま、ぐったりと横たわるばかりだった。
ドロルがシュプンツェに呑まれた件について、どう説明するべきか、少し迷っていた。だが、結局は単純な結論に行き着いた。ありのままを話す。嘘をついて済ませられるなら、それもいいかもしれないが、うまくやり過ごせる自信はなかった。それに、真実を述べないのは、彼らを侮っていることにもなる。既にいくつもの不運を乗り越えて今、この場に立っているこの少年達に、彼の死という現実を受け入れる力がないはずはない。
しかし、そうした考えすら、俺の中の言い訳だったのかもしれない。俺自身、楽になりたかったのではないか。
さすがに、誰もが衝撃を受けていた。
真っ先に自責の念に駆られていたのが、ルークだった。ドロルの中の葛藤に気付いていながら、この悲劇を未然に防げなかった。だが、ルークが引き受けることができるのは痛みだけで、そこに理解は含まれない。責任などなかった。
ノーラは、俺の心配をしてくれた。というのも、俺はこの件について説明するとき、ドロルの悪口を言わなかったからだ。ただ、何をされたか、何を言っていたか。それをありのままに話した。俺の首を絞めながら、涙を流していたことも含めて。だからノーラは、俺がドロルの死に責任を感じていると思ったのだろう。俺は静かに、彼のために祈って欲しいとだけ言った。
タマリアは、憮然としていた。ある意味、一番ひどく打ちのめされていた。自分とドロルと、どれほど違うのかと。それでも、ゴーファトへの怒りは消えることがない。ただ、憎悪の炎はいまや、彼女を内側から焼いていた。
ナイザは、この非常事態において、柔軟な対応を示した。
対立していたはずのヤレルやアドラットとも、即座に共闘すると決めた。要するに、主人だったゴーファトは魔物の餌にされたのだ。そして、手元にいるジャンだけがスザーミィ家の血筋に連なる唯一の継承者だ。突き詰めればゴーファト自身の不行跡が現状を招いたわけで、本人が死亡したと看做せる今、アドラットやヤシュルン、そしてこの俺と敵対する理由はない。また、ワノノマの魔物討伐隊も、敵対していたのはパッシャであってスード伯ではなかったから、溝を広げる意味がない。この先、スーディアをシュプンツェなる魔物から守るために戦うという点でも、使えるものは何でも使うべきという状況からしても、協調以外の選択肢はなかった。
しかし、夜が明けると同時に見慣れたアグリオ市街地が、まるっきり異世界になってしまったというのに。皮肉な話だが、こうなってみると、ゴーファトには見識があった、とせざるを得ない。なぜなら、ナイザを見出したからだ。シュプンツェの拡大はあっという間だったが、ナイザはその僅かな時間の中で、一応の防衛策を発見し、配下の兵士を纏めて抵抗を続けている。判断力もさりながら、精神力でも忠実さでも、賞賛に値する。これだけ見る目のあった人物が、どうしてここまで狂ってしまったのか……シュプンツェに選ばれたがゆえの「運命」なのか。
アドラットも、ナイザの資質を見抜いて適切な対応を取った。俺とその一行を保護すること。それだけでなく、ワノノマの魔物討伐隊やヤシュルン達とも休戦すること。その見返りに、他の誰もがなしえない、空中からの偵察を請け負った。どちらも得する取引だった。
「ファルス殿」
ナイザの低い声が、俺を呼んでいた。
まだ体は重いが、なんとか身を起こす。
「はい」
「お疲れとは思うが、話し合いには参加していただきたい」
「ただいま参ります」
近くの民家の広間に、椅子が六つ。
上座を占めるのは、ジャンだ。といっても、座っているというより、座らされているといったほうがいいか。カチコチに硬直したまま、動かない。その左脇をナイザ、右脇をヤレルが占める。俺とアドラット、ヤシュルンは下座に座る。
つくづくしっかりしている、と内心、舌打ちした。対応策を真剣に討議したいのも本心だが、それだけではない。シュプンツェという災厄への対処は、ジャンが主導して行いました、という形式をとるためだ。ゴーファトは強者でなければスーディアの主は務まらないと言ったが、ナイザがいれば十分機能するじゃないか。
お飾りのジャンは、俺を一瞥しただけで、後はずっと下を向いていた。たかがお飾り。されどお飾り。今は彼が兵士達を率いる上での大義名分になっている。
「既に簡単には聞き取りが済んではおるが、ファルス殿は、同行していたノーラ、オルヴィータと共に、スード伯が魔物の生贄とされるところを目撃なされた」
「はい」
「その際、ファルス殿はスード伯、つまりゴーファト様の名を呼んで答えるよう要求したが、支離滅裂な返答しか得られず、魔物は怒り狂って襲いかかってきた」
「その通りです」
「事実とすれば、残念ではあるが、閣下は既に生きてはおられない。つまり、これは領都を襲った魔物の討伐作戦である」
今更な話ではあるが、こういう確認は避けては通れない。さもないと、ナイザもジャンも、賊軍になってしまう。
「アドラット殿」
「はい」
「上空からの様子は」
「最寄の三つの盆地はもう、全域にあれが……シュプンツェの分体とおぼしきものが充満しています。夜間のうちに避難を呼びかけはしましたが、逃げ遅れた住民もいることでしょう」
アグリオの市街地も壊滅状態だが、これでスーディアの経済の大半を担う大きな盆地が三つとも大打撃を受けたとわかった。復興は大変だろう。一つ、明るい材料があるとすれば、それは各盆地同士の殺し合いも、これでいったん収まるだろうことだ。
「ヤレル殿」
「うむ」
「ワノノマの魔物討伐隊の別の集団が、スーディアを目指しているとのこと」
「その通り」
「到着はいつ頃か」
「わからぬが……あと数日は」
ヒジリ率いる本隊が到着するのは、まだ先なのか。
ヤレルの配下も、既に何人かは犠牲になっている。しかし、ヤシュルンに比べればまだマシだ。
「ヤシュルン」
「ああ」
「このような状況では、手段は選んでなどいられぬ。タンディラール王への援軍を要請したいが……」
「やりたくないとは言わない。だが、成功を約束はできない」
ヤシュルンはやつれきっていた。一番悲惨なのが彼だろう。仲間は全滅した。
今まで、闇の世界でずっと仕事をしてきた。危険も潜り抜けてきた。しかし、ここまでの非常識な状況には、いまだ遭遇したことなどなかったのだ。
いや、これは俺にとってさえ、初めてといえるほどの危機的状況だ。
シュプンツェは、古代のスーディアの土地神だ。その単純さと知性のなさ、地域に限定される規模感からすると、神というより妖怪といったほうがいいかもしれないが。しかし、その権能の大きさは、異界と化したスーディアを見れば明らかだ。
女神でも龍神でもない神……それは、この世界の常識に照らせば「魔王」ということになる。
ここが異世界と化したといえる根拠ならある。
シーラのゴブレットから得られる飲料の供給が、目に見えて少なくなった。これは、この地域の支配権がシュプンツェにあることを意味している。魔宮の中と同じく、ここも魔境になってしまったのだ。
つまり、仮に俺がシュプンツェに殺されそうになったとしても、シーラの羽衣は届かない。
魔王と直接戦った経験など、誰にもない。最後にそうした存在が倒されたのが千年前だ。
今はとりあえず、焚き火でシュプンツェの触手を防いではいるが、こんなチンケな手段で討伐までこなせるものだろうか?
「それで、これはファルス殿の同行者などから聞いた話だが……このシュプンツェなる魔物は、人を飲み込むと、目と耳がよくなるというが」
「どうもそうらしいのです。これだけたくさんの触手のようなものが伸びてきてはいますが、そのほとんどは何も見えていません。その証拠に、僕らが家に立て篭もっていても、中に入ってきませんでした。ですが、ご存知の通り、僕が奴らに触れてからは、すぐに建物を押し潰して襲ってきました」
「それは、連中が何も見えていないというほうの説明だな」
「ええ、ですが人を飲み込んだシュプンツェの表面には、人の顔が出てくることがあります。言葉を交わすこともできますし、僕の名前を呼びましたから、こちらが見えているのも間違いありません。ただ、考えていることがまるでデタラメなのですが」
「ふむ」
ナイザは考え込んだ。
「では、どうすればあれらを始末できると思うか」
「確証は何もありませんが、本体を叩けば、或いは」
「それでも、このアグリオを埋め尽くす白い管がいなくならねば、なんとする」
「打つ手がないというだけです。数え切れないくらいいるんですから」
「それももっともではあるな」
ゴーファトに寄生したシュプンツェの本体だけを倒せば、この状況がひっくり返るのか。俺は、その可能性が小さくないとわかっている。ピアシング・ハンドは、ゴーファト以外のシュプンツェはすべてレプリカであるとしている。だから、本体が失われれば、機能を保てないかもしれない。
ただ、このことを説明するのは難しいし、いずれにせよ、推測の域を出ない。
「現在、この陣地には四百名以上の兵がおる。そのうち、特に精鋭を百名選りすぐって、本体の討伐に向かおうと考えておる。意見は」
どの道、ここで燻っていても、事態を打開できない。異論は出なかった。
「では、おのおのご準備を」
体感でおよそ一時間後、時刻にして恐らく昼頃、体調もそこそこ戻ってきた俺は、武器を手に焚き火のゲートの前に立っていた。本体のシュプンツェを攻撃するために、フリンガ城まで進撃する。ノーラは、代わりに自分が行くと言い張ったが、やめさせた。彼女にピアシング・ハンドはないから、本当の意味での見分けはつかない。仮にも神の座を得た存在相手に、精神操作魔術ごときが通用するはずもないから、命の無駄遣いになる。
ナイザ自身にヤレルら魔物討伐隊全員、俺とアドラットもこの攻撃に参加するが、ヤシュルンとジャンは居残り組だ。本当はアドラットも残したかったらしい。ナイザは現状のリスクを正しく認識しているようで、要するにどう足掻いても全滅するかもしれないと考えている。明言はしないが。
問題はその後だ。それでも絶対に生き延びなくてはいけない人間が、彼にとっては二人いる。ジャンと、ヤシュルンまたはアドラットだ。ジャンはスーディアの統治者としての責務があるし、ヤシュルンやアドラットは、最寄の軍事力を頼る上で有用な駒だ。前者は顔繋ぎがスムーズである点、後者は移動手段の安全性がポイントになっている。ただ、それでもアドラットは偵察要員として欠かせないので、攻撃隊に組み込んだ。
「では……ファルス殿、頼めるか」
「お任せください」
当然ながら、シュプンツェは人を好んで襲う。飲み込み、消化して、取り込んで同化して、自分の目と耳、脳として使うらしいからだ。
今、街の一区画に陣取ったナイザ達は、通路に焚き火をしている。それだと建物の上のほうから触手が滑り込んでくるのだが、それは梯子を使うなどして、或いは窓から手を伸ばして、松明で焼き払う。そうやってこちらの生存領域をクリーンに保っている。
要するにシュプンツェは、ここで攻撃を受けたことを知っているので、人がいるらしいと察知して、出入口付近に殺到している。
つまり……ちょうどいい的だ。
ゆっくりじっくり詠唱する。俺の一撃のために左右に道をあけた兵士達から、感嘆の声が漏れる。程なく右腕は赤熱し、赤黒い色が真っ赤に、やがてオレンジ色、白に近い黄色にまで染まっていく。
なるべく広い範囲を巻き込む一撃を。手の中に生まれたハンドボール大の火球を、そっと投擲する。それは思ったよりゆっくりと飛来し、シュプンツェの白い管の先端に触れた瞬間、激しく炸裂した。
「いまだ! 突き抜けろ!」
ナイザの号令が下る。開かれた道を駆け抜けながら、兵士達は左右の触手に松明の火を押し付ける。案内役も兼ねる俺は、ナイザに遅れまいと歩調を速めた。
「御身は他をもって代え難い」
ヤレルが言った。
「一切に構わず、我が身を守られよ。お助け申す」
「ありがとうございます」
彼らの中で、火魔術を行使できるのはいない。今、この状況で魔物討伐隊の使命を果たすためには、俺に助力するのが一番だと、そうヤレルは判断したようだ。
いったんシュプンツェの包囲網を脱してからは、攻撃の密度は目に見えて下がった。俺の推測通り、シュプンツェには視覚や聴覚がないか、あってもごく僅かなものしかない。味覚や嗅覚はあるかもしれないが、それだって特別に鋭敏というのでもないだろう。確かなのは触角だけ。
そして、連日の争乱のおかげで、アグリオ市街地は無人に近かった。シュプンツェに吸収された人間の数は、思った以上に少ない。だから、俺達はほとんど発見されずに前進できている。しかも……
「進路、迂回せよ! 前方、触手多数!」
……上空からアドラットが危険を回避させるよう、ナビゲートまでしているのだ。順調だった。
フリンガ城まで道半ばといったところで、いきなり予期しないことが起きた。
赤黒い空の一角に、見たこともない青白い光球が出現したのだ。気付いて、ナイザは一度、停止を命じた。アドラットは地上に短く呼びかけ、調査すると言ってそちらに向かって飛ぼうとした。その時。
分厚い柱のような光の奔流が、すぐ下の地面に叩きつけられた。轟音に爆風が巻き起こり、シャーヒナは空中で何度もひっくり返った。飛来する瓦や木片などから身を守ろうと、俺達は身を屈めた。
しばらくして、ようやく俺達は立ち上がった。幸い、アドラットも無事で、兵士達の中にも大きな傷を負った者はいなかった。しかし、何が起きたのか?
「ファルス殿、これは何事か」
「ナイザ様、いくらなんでも、僕だってすべてを知っているわけでは」
「そうだったな」
少し思案してから、今度はヤレルに声をかけた。
「ヤレル殿」
「なにかな」
「あの光の柱が落ちた辺りを調べてみようと思う。いかがか」
「異論はござらん」
それで決まった。
兵士達は怖気づいていたが、ナイザは前進を命じた。
はっきりさせないわけにはいかないのだ。これがシュプンツェの力によるものかどうか。そして、どれだけの破壊力があるのか。自分達も、あの光の奔流にさらされたりはしないのか。脅威を調べるのも、任務のうちだ。
しばらくして、俺達は現場に到着した。
光の柱が突き立った場所は、ものの見事にクレーターになっていた。そればかりか、あらゆるものが蒸発したらしい。黒々とした土以外、ほとんど何も残っていない。しかも、それ以外の場所にはほとんど傷すらついていない。
中に立ち入ろうとして、いまだにクレーターの内部が高熱を発しているらしいことがわかった。
「僕が行きます」
「しかし」
「火魔術で『防熱』してみます。それで駄目なら、諦めましょう」
丁寧に詠唱を重ねてから踏み込んだ。多少の熱さは感じるものの、なんとか歩くことができた。しかし、本当に何もない。
街の一区画が丸ごと破壊された。本当にそれだけだ。しかし、これは誰がやったのか。シュプンツェではない気がするが……
「おっ」
何もない、高熱ゆえにガラス状になった土の中に、唯一の異物を発見した。それは……黒い金属製の杖の残骸だった。
「これは、アダマンタイト……!?」
折れにくく、熱にも強く、もちろん魔法も弾くという、この上なく強固な素材。それがアダマンタイトだ。しかも、贖罪の民が用いるそれは、純度も高い。それが溶けかけている!?
どんな出力で魔法を放ったら、こんなことになるのか。ただ、これでわかった。犠牲者は、パッシャのウァールか、さもなければ、あのいけすかないマペイジィだ。どちらであっても、こんな強烈な一撃を浴びたのだとしたら、生きているはずがない。
しかし、そうなると誰が攻撃したかが気になるところだ。シュプンツェである可能性は限りなく低い。もしアーウィンがやったのなら、殺されたのはマペイジィで確定だ。しかし、これができそうな奴が、スーディアにはもう一人いる。
靴の裏に焼けそうな痛みを感じ始めて、俺は引き返した。
「どうだった」
「確たることは言えませんが、シュプンツェの仕業ではないと考えます」
「根拠は」
「特定の誰かを狙った攻撃とみられます。現場に溶けかかったアダマンタイトの杖がありました」
「なに!」
非常識な報告に、ナイザは目を険しくさせた。
「パッシャの幹部か、それ以外か……ただ、シュプンツェにこれができるくらいなら、最初からやっているはずですし」
「ふむ……考えても仕方ないか。では、先へ進もう」
もう一人。その場合も、犠牲者としての第一候補はマペイジィだ。
やったのは……使徒。
だが、それはそれとして、今の俺達の行動には妨害も支援もない。どう転んでも構わないと考えて、静観しているのだろうか。
ファサードが倒壊したフリンガ城を前にして、俺は呻き声をあげた。
あの晩、天井を突き破ったゴーファトのシュプンツェは、どこにも見当たらなかったからだ。小型化したのか? しかし、そんなメリットがどこにある? 移動した? 何のために? どこに行こうとしている?
シュプンツェの行動原理がわからない。
「どれが本体なのだ」
ナイザは容赦なく尋ねてくる。今もフリンガ城の窓という窓から、白い管が突き出ているからだ。
「ざっと見た限りでは、本体はいないようです……」
非常に口にしにくい一言だったが、嘘は言えない。
「見えていないだけということはないか」
「そうかもしれません」
「ならば、試してもよかろう」
まさか、地下室まで降りていって、本当にシュプンツェの本体がいないか、確かめろとでも?
しかし、彼はもっと合理的だった。
「手筈通り、油をかけよ。城ごと焼き払う!」
なんとも思い切った決断だ。主人たるスード伯の居城だというのに。
まぁ、どうせ城郭は半壊しているし、中に生存者も残ってはいないだろう。金銀なら、溶けて形を失うだけなら財産としての価値は残る。宝石や織物などは駄目になってしまうかもしれないが、そこはもう、惜しんでいる場合でもない。
スーディア兵は、実に手際よく動いた。松明を掲げながら小走りに城を半周し、可燃物を設置していく。手分けをして、誰かが壁面に油を浴びせると、別の誰かが槍の穂先の松明で頭上の触手からの攻撃に備える。数分もしないうちに、準備が整った。
「では、ファルス殿」
「わかりました」
再び詠唱を重ね、火球を可能な限り、城にぶち込んだ。期待通り、可燃物に着火して、城は全体が燃え上がった。
多数のシュプンツェが内部に潜んでいたのだろう。あの、調子外れのファンファーレのようなものが、途切れ途切れに聞こえた。
「これで片付いた保証はない。一度、陣地に撤退する」
それがいいと思った。仮にも魔王に相当する存在が、こんなにあっさり倒せるとも思えないから。
俺達が陣地に帰りついた時、それは起きた。
「あっ」
何かの滴が、俺の頬を打った。
「むう、雨か」
ナイザは赤紫色の空を、忌々しげに睨みつけた。
想定していなかったわけではないらしい。だからこそ、家屋をすべて取り壊して燃料にするという部下の提案を蹴ったのだ。いざという時の避難所がなくなってしまうから。だから、彼に戸惑いはなかった。
「慌てるな! 先の命令通り、対処せよ! 各自、最寄の建造物に退避! 雨があがるまで、屋内で火を点せ!」
しかし、この命令に、悲鳴に近い報告が返ってきた。
「隊長! これは雨ではありません!」
「なんだと!」
「白くて、ネバネバした……こ、これは」
シュプンツェの粘液だった。だが、それは紛れもなく頭上から、赤紫色の空から降り注いできている。
考えてみれば、無理もないのか。シュプンツェは土地の神だ。この地域の天候すら支配する。シュプンツェならではのやり方で、だが。
「いいから退避せよ! 急げ!」
俺とナイザ、それにヤレル達は、手近にある大きな屋敷へと転がり込んだ。
しかし、この先の展望は何もなかった。この雨モドキの粘液は、シュプンツェが降らせている。俺達の持つ燃料には限りがあるが、恐らく粘液の雨には、終わりなどない。
最善を尽くしているつもりだった。だが、あまりに楽観的すぎたのではないか。相手は魔王だった。どんなに下等にみえても、その権能は人間の想像を絶するものがある。
こうして俺達の生存は、文字通り、風前の灯となった。
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