そして憎悪に呑まれた

 シュプンツェは、どんな神だったのだろう?


「ね、ねぇ、ファルス」


 かつてシーラは、神は初めから死んでいるようなものだと言った。なら、シュプンツェも元は死んだ何者かが素材になっているのだろうか? とすれば、それはどんな奴だったんだろう? ただ、間違いなく人類じゃない。

 菌類? カビとか? そういう生き物から生まれた神だといわれたら、信じるかもしれない。


「あそこ……ほら、動いてる」


 ノーラが指差す先、向かいの建物にへばりついたシュプンツェの枝は、なおも枝分かれを繰り返していた。枝というより、もはや網だ。チューインガムを思わせるベットリ感で、あらゆるものに纏わりつく。


 そういえば……神は神だけで神なのではなく、そのすべてが血肉……シーラはそんな風にもいっていたっけ。とすると、シュプンツェを産んだ願いというのは、誰のどんな願いだったのか。増殖したい、捕食したい、そんなところだろうか。


「どっ、どうすんだよ、これ……街中、こんなのがあるんじゃ、まともに歩けやしねぇぞ」

「歩かなきゃいい」


 ニドの心配ももっともだが、まだ俺達には運があった。

 頭上から、羽音が聞こえてくる。力強く空気を打つ音だ。

 戸口のすぐ前に降り立つと、青白いグリフォンのシャーヒナはその瞬間に消え去った。残ったのは、アドラットだけだ。


「お待たせ。王子様方にお姫様方」


 こんな異常事態にも、彼は笑顔を絶やさない。


「どうですか」


 俺の問いに、彼は体を揺らしながら答えた。


「ひどいものだね……上から見ると、街の外にまで白い管が広がっている。三つの大きな盆地にも雪崩れ込みつつある。まぁ、それは先行して、住民には避難を呼びかけておいた。できることはそれくらいしかない」

「今更逃げても、出口も触手でいっぱい、ですか」

「そうなるね」


 とすると、やはりなんとしても、ここでシュプンツェを倒さなくてはならない。しかし、ピアシング・ハンドのクールタイムは、少なく見てもあと半日以上、それまで生き延びられるだろうか。


「いい知らせもある。街の南の方で、ナイザが兵を纏めて陣地を作っている。とりあえずは、みんなをそこに送るつもりだ」

「その、シャーヒナでしたっけ? 何人くらい乗れるんですか?」

「私以外だと、もう一人が精一杯だね」


 となると、一人ずつ輸送、か。


「わかりました。助かります」


 最初にノーラが送られた。これは、彼女の経験や性質を考慮してのことだ。ムヴァク子爵をはじめとした有力者を相手にしてきた。話し合いに持ち込むのは得意だろう。

 この後に続いて、タマリアやオルヴィータを送るが、彼女らは自分より身分の高い人物に対してハッキリ物を言うという経験を積んでいない。話がややこしくなりそうな場合に、うまく切り抜けられるのはノーラ以外にいない。


「僕は最後まで残る」


 飛び去ったシャーヒナを見送りながら、俺はそう宣言した。


「次とその次はタマリアとオルヴィータでいいかな」

「もちろん」

「俺もそれでいい」


 ルークとニドは即答したが、うずくまったままのドロルは違った。

 彼は、視線が集まったのに気付いて、やっと声を出した。


「あ、ああ、それでいいと思う」


 少し様子がおかしいと思ったが、あまり気に留めなかった。


「なぁ、扉は開けっ放しにしておいたほうがいいんじゃないか」

「閉じときゃ、触手が入ってこれねぇだろ」

「開けた時、気付かれるだろ」

「あー、なるほどな」


 ここから脱出するのだから、閉め切ったままにするのは得策ではない。どうもシュプンツェは、それ自体では視力すら持たないらしい。もしかすると、思考力さえ、人に寄生してやっと得られるものかもしれない。

 実は、これだけ大量の触手が伸びてきているのに、それはゴーファト本体とは別の物らしいのだ。ピアシング・ハンドが教えてくれている。


------------------------------------------------------

 **・シュプンツェ (--)


・ディバインミクスチャーレプリカ


 空き(--)

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 ゴーファトの肉体に憑いているのが本体で、あとはその複製に過ぎない、といったところか。多分だが、こいつらをいくら倒しても無駄だ。

 中にはこんなのもある。


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 コーザ・シュプンツェ (**)


・ディバインミクスチャーレプリカ

・スキル フォレス語  5レベル

・スキル 剣術     3レベル

・スキル 木工     4レベル

・スキル 商取引    5レベル

・スキル 農業     3レベル


 空き(**)

------------------------------------------------------


 哀れ、シュプンツェに飲み込まれた犠牲者の成れの果て、だ。

 例の如く、恐らくは自我もなくし、ひたすらシュプンツェの求める何かのために働かされている。ただただ体を伸ばし、周囲を調べて……おっと、いけない。


「戸口から離れて」

「あっ?」

「そっち。多分、奴は目が見える」

「マジかよ」


 運よく、そのシュプンツェは角を曲がって、通りの向こうに獲物を探しにいってくれた。


「もういい。人間に憑りついた奴は、向こうに行ったよ」

「やべぇったらねぇな、おい」


 ニドが頭を振る。


「じゃ、人間が食われれば食われるほど、シュプンツェって言ったか? このバケモンの目がよくなるって話じゃねぇか」

「目だけじゃない。多分、頭もよくなるし、耳もよくなる」

「うげぇ」


 説明を聞いていたオルヴィータは真っ青な顔をしている。


「怖い、のです」

「大丈夫」


 肩に手をおいたのは、タマリアだった。


「次はディー……今はオルヴィータ? だから逃げるの。兵士達の中なら、よっぽど安全だよ」


 こういうところは、昔と変わっていない気がする。肝の据わったお姉さんだった。本人だって怖くないはずはないのだが。

 ほどなく、俺達の頭上に、またあの羽音が戻ってきた。


「あちらの様子は」

「順調だ。どうも火が有効らしい。薪になるものがある間は、触手も近付けないみたいだ」


 何往復目にアドラットは、陣地の様子をそう伝えてきた。


「最悪、とにかく周囲を燃やしまくって、みんなで遠くまで逃げるって手もあるな。陣地まで辿り着ければ、生き残れる可能性もずっと大きくなる」

「よかった」


 スーディア兵の誰かがやけっぱちになって松明をぶつけでもしたのかもしれないが、それでシュプンツェが怯んだりしたのだろうか。とにかく、有用な発見だ。


「ただ、触れられないことが大事だ。いったん捕まると、べとついて取れない。体から力が抜けて、考えることもできなくなるみたいだ」

「そんな、すぐに取り込まれちゃうわけですか」

「十秒もすれば、本人は声を出すこともできなくなるらしいから、捕まったらとにかく急いで助けを求めないといけない」


 シュプンツェの神としての権能にどんなものがあるかは判然としないものの、やっていることはシンプルそのものだ。捕食。それだけ。それ以外では、策略も思惑も何もない。ある意味、やりやすいといえば、そうなのだが……


「それより、次は誰を」

「じゃあ、ドロルで」

「ルークで」


 この場に残っていたのは、俺とルーク、そしてドロルだった。


「えっと……」


 割れた意見に、アドラットは戸惑いをみせる。


「俺は大丈夫だ。シュプンツェなんか怖くない。だからお前が行け」

「いいよ。ルークは変な神通力のせいで、いろいろつらいんだろ? 先に行って休んだらいい」

「そのおかげでわかるんだよ。ドロル、お前、何か苦しんでないか? やっぱり怖いのか? だったら」

「いいから行けよ!」


 いきなり怒り出したドロルに気圧されて、ルークは後ずさった。


「わ、わかったよ。怒ることないだろ」

「あ、ああ」

「じゃあ」


 時間を無駄遣いできる状況ではない。アドラットは手招きし、ルークもすぐ外に出る。そのまま出現したシャーヒナに跨ると、二人は遠く空の彼方へと舞い上がっていった。


「……なぁ、ファルス」

「ん? どうした?」

「ルークは、他人の痛みを味わう神通力を身につけて、一生、余計な痛みに苦しむことになったんだよな」

「そうだな」

「ニドは、今はうやむやになってるけど、パッシャの一員だ。簡単にはもう、普通の人の暮らしには戻れない」

「それもそうだ」

「タマリアは、このスーディアで滅茶苦茶に穢された。もう、人並みの結婚なんてできないな」

「ああ」


 何を確認しているんだろう?


「オルヴィータも、まぁ……大事にしてくれていたダヒア様に死なれて、不幸になったといえるか」

「お前は何の話をしているんだ」

「ただの確認だよ」


 名前が挙がっていないのは、俺とノーラと……ドロル自身だ。


「ノーラは、やっぱりお前のことが好きなんだろう?」

「そう……らしい」

「らしいじゃないだろう。こんなところまで追いかけてくるくらいだ。よっぽど大事なんだな。命懸けだろうに」

「確かに、な。こんな怖い思いまでして……」


 それを思うと、申し訳なくなってくる。俺なんか放り出して幸せになってくれればいいのに。


「……でも、今は不幸でもやり直せる。言っただろう? ピュリスに来れば、あれもこれもかなえてやれる」

「本当かな」

「正直、お前がオルヴィータに手紙を届けてくれるなんて、信じられなかった。だけど、おかげでタマリアは救い出せた。運が悪くてダヒア様は亡くなったけど、どの道、僕達が侵入できなければ、オルヴィータも一緒に死んでたはずなんだ。礼はするよ」


 するとドロルは、ぎこちなく床に座り込んで、手を広げてみせた。


「それで? その先には何があるんだ?」

「まずはヤシュルンからキッチリ金貨三万枚、もらっておけよ。そうしたらピュリスでムヴァク閣下の接遇担当さ。高給取りで楽な仕事だ。銀の腕輪も目の前だし、悪くないだろう?」


 そう言われて、彼はまた、深い思考の海に沈んだようだった。

 だが、ややあって彼は立ち上がり、建物の奥へと歩いていった。


「おい、どうした」

「いや、ファルス、この窓を見てくれないか」


 廊下の突き当たりにかかっていたのは、この地方ではありきたりな木窓だった。例によって、さほどの大きさもない。


「これがどうかしたのか」

「開けてみてくれ」


 いきなりなんだろうと思いながら、俺は上方向に窓を開き、正面を見ると……


「うわっ、こんなところにまで」


 その瞬間、ドン、と背中を突き飛ばされた。


「わ!?」


 窓の向こうには、シュプンツェの伸ばされた枝があった。そこに俺は両手を突っ込んでしまったのだ。白い管は柔らかく湿っていた。これであっさり手首まで埋まってしまった。


「な、何を」

「これで、これで帳尻が合うな! やっと……やってやった! ゴーファトも死んだ! ファルスが死ねば、ノーラも不幸になる! みんな不幸だ! どうだ、どうだっ!」


 どういうつもり……いや、冷静になれ。問答している場合じゃない。

 対応策ならさっき聞いたばかりだ。冷静に詠唱する。手の中に火を……


「今しかない。お前のことだ。ここでやらなきゃ……どうせ死ぬんだろうけどな。こんなバケモノから逃げられるわけがない。だが、そうはいくか。お前は、お前だけは、この手で……!」


 だが、詠唱を進める途中で気が遠くなってくる。膝に力が入らず、壁に突っ伏してしまう。生命力そのものが吸われているかのようだ。

 しっかりしろ。最後まで……


「誰も逃げられないんだ。もう、おしまいだ! だったら、最後にっ……」


 手の中に、熱が篭る。粘着する何かがボロッと崩れ、俺は床の上に仰向けに転がった。

 助かった。飲み込まれずには済んだ。だが、まるで全力疾走した後みたいに全身が疲れ切ってしまっている。


「なっ!? なんで!」


 ドロルは、俺が火魔術を使うところを見たことがなかった。だから、シュプンツェの拘束を逃れる可能性があると気付けなかった。今回は、そのおかげで命拾い……


「く、くそっ! どうせもう、退けないんだ!」


 ……とはいかなかった。

 力なく床の上に横たわる俺に圧し掛かると、ドロルは首を絞め始めた。だが、ほぼ力尽きている俺は、ろくに殴り返すことすらできない。


「死ね! ファルス、死ねぇっ!」

「ぐっ……! な、なぜ」


 俺には理解できなかった。なぜ、今になっていきなり俺を殺そうとするのか。最初から俺に協力せず、オルヴィータに手紙を渡さないというならいざ知らず。

 理由付けはできなくもない。一度は俺に協力して、信用させてから裏切ろうと考えていたのか。或いは、ヤシュルン達との約束を当てにしつつ、俺の方はドサクサに紛れて殺せばお咎めなしで済むと思ったのか。或いは、先にゴーファトを始末したかったからなのか。単に迷っていただけなのか。

 だが、それにしても……


「お前には、お前にはわからないだろうな」


 なかなか死なない俺に、焦りながらもドロルは必死で首を絞め上げる。殺しの経験がないのだろう。どうやって締めればいいかをよくわかっていない。俺は苦しいが、このままでは死ぬまでにかなりかかりそうだ。


「いつかお前を殺してやる……それだけが、俺の心の支えだったんだ……なのに、お前なんかの世話になって……ゴーファトを殺すのだって……結局、俺は」


 その時、予期しないものが俺の頬を打った。

 生温かい、滴る……涙?


「一つくらい、俺だって……自分で」


 ドロルは泣いていた。


「俺だって……俺だってな、普通に暮らしたかったんだ……ただ、畑を耕して、奥さん子供を養って、普通の、普通の……ただの農民でよかったのに」

「ド、ロル、ま、だ」

「いいや、おしまいだ! おしまいなんだよ! 俺は片端もので親殺しだ! 許せなかった。許せなかったんだ……」


 ぐちゃぐちゃに泣きながら。すべてを告白する。これから殺す相手に。

 もしかすると、そうでもなければ本当の気持ちを口にするなど、できなかったのかもしれない。


「想像できるか。憎んで憎んで憎みぬいた相手に縋って生きる。その惨めさが。最初は、俺を苛め抜いた母親に。次は俺をオカマにしたゴーファトに。で、その次はお前か! それで、汚い人殺し、情けない乞食に成り下がって……貴族の召使? 金持ちになる? 騎士の腕輪? 憧れるよ。だけどな! そんな暮らし、全部全部嘘じゃないか!」


 未来がある。

 そのなんと空しいことか。未来は運命に縛られている。運命とは、過去のことなのだ。


「どうしたってもう、手遅れなんだ……俺は、許せなかった、許されなかった。お前を殺す。殺せなければ、殺される。殺しても……だからもう」


 自分が何を手放したのか。わからないほど愚かではない。それでも、過去と繋がる未来を思うと、耐え難い痛みをおぼえるのだろう。

 財産も、地位も、名誉さえも。彼の人としての尊厳を取り戻す役には立たないだろうから。


「畜生……もうおしまいだ……どうせもう、だったら……」


 アドラットが戻ってこなければ、俺はこのまま、縊り殺されてしまう。

 いや、このダメージは肉体に対するものではないか? なら、鳥に化ければ……


 そう思いついたところだった。

 背中を預ける床が、グラリと揺れた。


「はっ!?」


 さっき、俺がシュプンツェに手を突っ込んだせいだ。それは火魔術を使って何とか逃れたものの、これでバケモノの側は、そこに人がいる事実を知った。だから……

 周囲から、ミシミシと軋みをあげるのが聞こえる。それがある瞬間、大きな破砕音に変わった。


「うおわぁっ!?」


 ドロルは悲鳴をあげた。足下の支えがなくなる衝撃ゆえに、俺の首に回していた手まで放してしまった。俺は俺で、落ちるに身を任せるしかなかった。結果、背中をひどく打ち付けてしまった。

 シュプンツェがその気になれば、建造物を捻り潰すことさえ可能らしい。今、知りたい知識ではなかった。とはいえ、そのおかげでドロルに絞め殺されずに済んだ。


 瓦礫の中で、赤紫色の空を見上げるしかできない。まだ手足が自由に動かない。第一、さっきまで首を絞められていて、これでは息を継ぐのが精一杯だ。

 だが、ドロルの追撃はなかった。その代わり、彼の悲鳴が聞こえた。


「うわっ、よせっ、やめろ、まだ俺は」


 見えてはいないが、何が起きたかならわかる。シュプンツェに捕まったのだ。


「畜生っ! うう、あああ!」


 その時、頭上に羽音が響いた。

 やっとアドラットが戻ってきたのだ。


「ファルス! 何があった!」


 シャーヒナを急降下させて、アドラットは俺のすぐ脇に飛び降りた。


「しっかりしろ! さあ、掴まれ!」


 俺にそんな余力がないことを悟ると、彼は力ずくで俺を抱え込んだ。

 その時に、俺は見た。見てしまった。


 真っ白な管に下半身を飲み込まれたドロルが、目を血走らせて叫ぶ姿……


「ノールッ! 死ね、ノールッ! 死ね死ねしねシネシネシネアァーッ!」


 ……見る見るうちに、彼の皮膚が色を失い、白一色に染まっていく。シュプンツェに取り込まれながら、なおも俺への憎悪を吐き散らす。


「彼はもう駄目だ! シャーヒナ、飛ぶぞ!」


 地を這いながら俺を罵り続けるドロルをおいて、シャーヒナは舞い上がった。

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