本当の異世界
足下の水溜りを踏み抜く。水音がやけに耳障りだった。
視界はほぼない。雲が分厚くかかっているのか、星明かりすら見えない。市街地は無人に等しい状態で、誰かが照明を点していたりもしない。そんな中を走るのだ。
頼りになるのは、だから、ニドの目だけだ。
「こっちだ、そっちじゃねぇ」
彼以外、何も見えないのに声だけを頼りに走っている。だが、それももう、やめにしなければならないらしい。
「ま、待て」
ルークが声をあげる。
「なんだ」
「誰か……限界だろ、苦しいはず、だ」
俺ではない。ノーラでもない。ニドも鍛えられている。
一番ありそうなのは、長いことろくに運動もできずにいたタマリアか。
「へ、いき」
「無理するな。仕方ない、そこの建物に隠れよう」
ドロルが口を挟んだ。
「いいのか」
「なにが」
「あのバケモノに追いつかれたら、終わりなんだぞ」
一理はある。無理をしてでも逃げ切らなくては。
「走るだけで逃げ切れるっていうならいいけどな」
あの体の大きさだ。
移動能力がどれほどかはわからない。ただ、成長といっていいのかわからないが、伸びるときには一瞬でフリンガ城を突き破るくらいには大きくなれる。下手をすると、あの場所から一切動かずに、枝を伸ばすだけで俺達に追いつけるかもしれない。
「一度休もう。考える時間も必要だ」
俺がそう言うと、ニドは黙って俺達を最寄の宿屋らしき場所に導いた。
建物に入り、ニドが手早くランタンを見つけて灯りを点すと、途端にノーラがいやそうな顔をした。
「ねぇ」
「どうした」
「さっきの水溜り……変だと思ってたけど、なに、これ」
ノーラの黒いブーツと黒いローブには、べっとりと白い粘液のようなものがついていた。
「うわっ、なんだそれ」
「生臭いのです」
「他にもかかってる人がいるかもな。洗い流そう」
全員が同じ部屋で休むのは現実的ではなかったので、三人ずつ個室に入ってもらった。タマリア、オルヴィータ、ノーラで一室、ルーク、ドロル、ニドで一室。残った俺は、見張り役として起きていることにした。一晩中は無理なので、途中からはニドに代わってもらう。
宿屋の戸口に座り込み、外を眺める。
本当に何も見えない。真っ暗だ。ランタンをかざしても、視界はほぼない。ただ、空気の流れは緩やかで、やたらと生臭かった。
あの時、広場前にいた兵士と暴徒は混乱状態に陥った。みんな指揮官の声も聞かずに逃げ去ってしまったのだ。ナイザは必死で手勢をまとめようとしたが、百人も残らなかったのではないか。
ヤレル達は、出現した魔物の様子を観察するために踏みとどまった。逃げるようにと勧めたが、俺からの簡単な説明を聞き終えると、それでもやはり残ると言い張った。今頃は、無事に逃げてくれているといいが。
俺のせい、なんだろうか。
あのゴーファトの変わり果てた姿は、まさに昔話に伝え聞くシュプンツェそのものだった。俺が肉体を奪ったから、彼の中に封印されていたシュプンツェが目を覚ましてしまった。
いや、どの道、そうなっていたのではないか。あのまま儀式が進めば、やはりシュプンツェはゴーファトの肉体から這い出てきただろうから。
だとしても、ピアシング・ハンドの警告を無視してはならなかった。
ゴーファトは、不老不死を得たのだろうか? そうかもしれない。
但し、自らの意識は保てない。俺の問いかけに少しは反応していたが、とにかくすぐに正気をなくしてしまう。特に最後の叫びはなんだ? 俺のことを『使徒』か何かだと勘違いしているようにも聞こえた。
しかし、案外、彼は生きられないのかもしれない。シュプンツェは不死でも、ゴーファトはもともと人間だ。魂の寿命が尽きるまで素材として利用され、彼が失われたら、またシュプンツェが新たな「おのこ」を求めるのかもしれないし。
どちらにせよ、ないものねだりだ。俺としては、ああいうバケモノに成り果てても、一人でひっそりと眠っていられるなら、まったく構わないのだが、どうもシュプンツェなるものは、もっと活動的な奴らしい。
何がまずいかといえば、二つある。一つは、とにかく暴れまわること。ああまで派手に動いたのでは、そのうちヘミュービなんかが気付いて、滅ぼしにくるんじゃないか。もう一つは、それを自分の理性で止められないことだ。
精神は肉体の影響を受ける。ピアシング・ハンドでさまざまな動物の肉体を渡り歩いてきた俺だから、その辺はいやというほど理解している。では、あのシュプンツェの肉体に成り代わってしまったら……
……俺は今、何を考えている?
ピアシング・ハンドでシュプンツェを奪ったらどうか?
不死を得るためではなく、倒すためにだ。神話の化け物を、普通の人間の普通の努力なんかで倒せるような気がしない。
ディバインミクスチャーを奪っても、俺がすぐさまあの怪物に成り果てることはないと思う。どういうわけか、シュプンツェはゴーファトの内側にありながら、主導権を自力では得られなかったのだ。ならば、俺がシュプンツェの肉体兼魂を利用しようとしない限り、ああなることはないのではないか。
一方で、それで俺が不老不死を目指すのは、あまりにリスキーだ。それこそ世界中を敵に回して戦い続けることになるのではないか。
しかし、それはそれとして、やはりピアシング・ハンドを使うしかないのではないか。あんなバケモノに、普通の魔法や武器が通用するだろうか? 心臓だってないだろうし、『即死』の魔法なんて効くとも思えない。そうしてみると、最終手段としてのシュプンツェ奪取という作戦が実行可能になるまで、あと一日弱はかかる。それまで奴に捕まらず、逃げ切る必要がある。
それにしても、ゴーファトの肉体にあんな怪物が潜んでいるとは。
しかし、それもあの碑文の内容を思い返せば、辻褄が合わないでもないか。
『大地の流れと、身の流れ
もし大地の流れを断つ者あれば、その身を献じよ
八は四
四は二
二は一
選ばれし清らのおのこ
時を継いで新たなり、古きを捨てて新たなり
死してなお、とこしえに生きよ』
シュプンツェを殺したのは、ギシアン・チーレムだとされている。それが事実かどうかはわからないが、とにかく、神の力を得た英雄でもなければ、あんなものは倒せないだろう。多分、これが「大地の流れを断つ者」に該当するのだろう。
そういえばゴーファトも言っていた。昔はスーディアには川があったが、この千年の間に涸れ果ててしまった、と。流れを断たれて、シュプンツェの祝福が去ったからに違いない。
しかし、シュプンツェは、ただ殺すだけでは死なない神だった。自分の複製を用意する能力も有していたからだ。
八は四、四は二、二は一……これは、血縁のことを指しているのではないか? かつて人々は、シュプンツェがもたらした川の「流れ」から「魚」を掴み取って食べたという。その魚というのが、あの時、ゴーファトを俺が消した直後に出現した白い管みたいな奴のことだとしたら、どうだろう?
シュプンツェは、人々に食料を供給しつつ、自分自身の復活のための種子を埋め込んでいたことになる。人はシュプンツェを喰らい、シュプンツェも人を喰らう。そして共存共栄……昔話そのままではないか。
もともとあった八つの因子が、交合と出産によって交じり合い、四つにまで集約される。それが二つに、最後にゴーファトの父母のところで合流した。
するとゴーファトは、「選ばれしおのこ」として、特殊な性質を身につけて生まれた。痛みを感じない肉体、覚えたはずもない魔術の才能がそれだ。しかし、それは表面的な現象でしかない。
ゴーファトの、あの異常な嗜好はどうだ。人間を好んで喰らい、女性には性欲どころか嫌悪感しか抱かず、残虐で……あまりにシュプンツェと似通っていた。精神は肉体の影響を受ける。ならば、ゴーファトの肉体は、シュプンツェ復活の前段階として、それに相応しい影響を本人に与えていたといえる。
特に、女性を遠ざけることには二重の意味がある。シュプンツェがそれを嫌うというだけではない。もし、血を継いで因子を引き渡すとするならば、パーツが揃った状態の「おのこ」には、そのままシュプンツェ復活のための鍵になってもらわねばならない。次世代に引き渡してもらっては困るのだ。
もしかすると、過去にも因子が揃った誰かはいたのかもしれない。だが、シュプンツェはここ千年間、復活しなかった。最後の儀式が行われなかったからだ。それをさせないために、女神神殿はシュプンツェの祠を封印し、その知識を抹殺していた。
あの時、シュプンツェは俺の、この剣に反応していた。確かに、この剣で触手を払いのけたときに激昂していた。とすれば、この剣でなら、奴にダメージを与えることもできるかもしれない。
だが、多分それでは決定打にならない。倒せても、いつかは復活してしまう。完全に息の根を止めるには……やはり、ピアシング・ハンドで奴を吸い取り、それをどこかに封印する。
できるかどうかはわからない。だが、やってみる値打ちはあるのではないか。
俺は扉を閉じた。外を見張る意味がない。何も見えないのだから。
それから、それぞれの様子を確認しようと、部屋を訪れた。
「まだ寝てなかったのか」
女子部屋にノックすると、返事があった。それで扉を開くと、三人ともまだ起きていた。
「眠れないのです」
オルヴィータがか細い声で答える。
怖いというだけではないのだろう。彼女の場合、主人であったダヒアを救いたいという気持ちもあったはずで、その目的はもはや達成不可能になってしまった。気力が萎えてしまっている。
「怖いのはわかる。だけど、そのために僕が見張りに立っている。何かあったら起こすから」
「怖くなんてない」
暗く低い声が、俺の言葉を遮った。タマリアだ。
「ねぇ、結局、あれは何なの? あれがゴーファト?」
「みたい、だね」
「じゃあ、こういうこと? もともとバケモノみたいな奴が、ついにとうとう本当のバケモノに成り果てて、これからは好き勝手に人を殺し続けるのね。あとちょっとで殺せると思ったのに、これでもう、どうしようもなくなったわ」
「タマリア」
俺は首を振った。
「さすがにこれだけのことになったら、誰もほっとかない。国王陛下も手間を惜しまず大軍を送りつけるだろう。そのうち、あれは討伐される」
「そのうち? 誰かが倒してくれる? そんなことに期待するの? じゃあ、私は? 私達はどうなるの?」
「だから今は、頑張って逃げるんだ」
部屋が真っ暗なせいで、彼女の顔は見えない。そのほうがよかった。
あの明るく朗らかな彼女が、こんなにも……垂れ流される憎悪は、誰をも気疲れさせる。
「何をしても無駄なんじゃないかしら」
「そんなことはない。生き延びれば未来がある」
「未来? ねぇ、ファルス、未来なんかに意味はあるの?」
俺は口ごもってしまった。
他ならぬ俺自身が、未来を閉ざすために旅をしているのだから。
「私ね、わかっちゃったのよ」
「何を」
「運命って、なんだと思う?」
「それは……よく、変えられない出来事のことをいう言葉だ。どうしようもないこと、避けられないこと……でも、そんなの幻想だよ」
「ううん、確かにあるわ」
地の底から世界を呪う声が、運命の何たるかを語りだした。
「運命というのはね……過去のことなのよ。過去は誰にも変えられないでしょう? そしてどんな未来だって、過去なしにはありえないの。私がどんな目に遭うのかも、何を欲しがるかも、何ができて何ができないかも、過去が決めている。私の言ってること、おかしい?」
おかしくは……ない。
過去は改変できない。これは、知られている限りでは事実だ。例外はない。
人が何を望むかは、過去による。子供の頃、テレビでワールドカップを見た少年が、サッカー選手に憧れる。サッカーがない世界に生まれた子供なら、そんな夢は抱かない。
今、何ができるかは、過去に何を積み重ねたかによる。俺がアツアツのグラタンを客に供することができるのは、それまで何度となく料理の練習を積み重ねてきたからだ。
但し、これには抜け落ちている点がある。
人は全知ではない。つまり、過去のすべてを知っているわけではない。
「タマリアの言う通りだとして、でもタマリアは、運命のすべてを知っているわけではないよね?」
「ほとんどは知ってるつもりよ」
「そう、ほとんどだ。全部じゃない」
全部知っているのなら、今、ここに俺がいることの重要性を無視するなどできまい。ゴーファトは自分達で殺せるかもしれない。自分の人生も、それこそ肉体ごと入れ替えてやり直せる。ここで生き残りさえすれば、何ならタマリアは、どこかの貴族の令嬢に成り代わることさえ夢ではないのだ。
「何が欲しい?」
「なに?」
「だから、ここを生き延びたら、タマリアは何が欲しい? それを教えて欲しいんだ」
復讐を遂げても、これでは彼女は抜け殻になってしまう。命はあっても、殺されたようなものではないか。
「ゴーファトの首」
「それ以外で」
「なら、何もいらない」
「よく考えて」
少し考えてから、彼女はやっと口を開いた。
「……そうね、じゃあ、途轍もなく上等なお食事会一回で許してあげるわ」
「それはいいね。何を揃えればいい?」
「給仕には皇帝陛下、お酌をするのは魔王、あとは私の椅子代わりに女神がいれば、いうことないわ」
さすがにそれは、無理だ。
「無理でしょ? そういうこと」
彼女の絶望は、あまりに深すぎた。
「私が許すなんて、無理なのよ」
「どうして」
「私が馬鹿なことをしたせいで、養父が死んだのよ? それを勝手に許してどうするのよ。悪いのは私も同じ」
確かに、第三者が勝手に許せといっても、これだけは譲れないだろう。
「聞いてるよ、その話は。でも、亡くなった本人は、タマリアが自分を粗末にしてまで復讐にこだわるのを、喜んでくれるのかな」
「やめて。それでもなんでも、私にはこれしかないの。ゴーファトが……奴が絶望して、苦しみながら死ぬところを見なくちゃ、死んでも死ねない」
議論しても、意味もないし、終わりもない、か。
「わかった。その話はあとにしよう。でも、寝て欲しい。体力がなければ、逃げることも、復讐もできない」
「そうね」
「あと、ノーラ、ちょっといい?」
「うん」
部屋の外に彼女を連れ出してから、俺はして欲しいことを伝えた。
「今は夜で視界がないから、外がどうなっているかもわからない。だけど、あのバケモノが何もせずにいるとは思えないんだ。それで、もうこうなったら敵も味方もない。できたら『意識探知』で生き残っている人を少しでも多く見つけて、なるべく協力して行動したいんだ」
「わかった」
「ああ、今すぐじゃない。ゆっくり休んで、明日の朝にやればいいから」
伝えるべきことを伝えたので、俺も男子部屋に入ってニドを起こし、休みを取った。
思いのほか、疲れていたのだろう。眠れるわけがないと思いながら、しっかり熟睡してしまっていた。
「……ファルス、ファルス!」
目を閉じて僅かしか経っていない気がするのに、ルークに肩を揺さぶられて起きる。だが、既に明るくなっていたらしい。
「そっ、外が」
「外が? どうかしたのか?」
「見てくれ!」
それで俺は重い体を引っ張りあげて立ち上がり、宿屋の玄関まで出ていった。
そこから垣間見えたのは、文字通りの異世界だった。
空は赤紫色だった。何か頭上に霞でもかかっているかのようだ。美しい朝焼けなんてものじゃない。どこも均一に、毒々しい色合いに染まっている。雲の陰も見えるが、不自然に格子状になっているのが気にかかる。
地上はもっと悲惨だった。あの白い管みたいな奴が、一晩かけてアグリオ中を這い回ったらしい。向かいの建物にも、平べったく潰れた白い奴が、あちこち建物に体を引っ掛けながら、延々と彼方まで触手を伸ばしている。その途中、ところどころに大きな房がある。何が入っているかは言うまでもない。這い出ようとしたままの姿勢で動かなくなったのが、透けて見えているからだ。
足下の道路は、水浸しだった。水といっても、透明なそれではない。白濁した、言葉にしがたい臭気を放つそれだ。どこから染み出したのか、そういう水溜りがいくつもある。そこに小さな魚らしきものがピチャピチャ跳ねていた。
徐々に、けれどもあるところで急激に、根源的な恐怖が俺の胸を打った。
これが「神」というものなのか。
この世界のありようを決める力。それがこれほどまでに重大なものだとは。
シュプンツェが目覚めただけで、スーディアは別世界になった。ただ、強大な魔物を討伐するのとはわけが違う。
だが、よくよく思い出してみれば、俺にとっては初めてのことではない。以前に見た、シーラの『招神異境』、あれも別世界だった。神がそこにいるだけで、世界のルールが変わってしまうのだ。
それともう一つ。
俺は今まで、あまりに異形な神を目にしたことがなかった。シーラは獣の姿にもなれるが、人型になることもあった。ヘミュービは龍神だったが、俺のよく知る動物の特徴を備えた肉体をもっていた。そしてどちらも、俺に対する好悪の感情の違いはあれ、知性があり、理性があった。
シュプンツェはまったく違う。感情の仕組みも、知性のありようも、多分、まったく相容れない。シーラのようなわかりやすいルール……流血を憎む……など、シュプンツェにはない。
どうしてこんなものが存在する?
俺は異世界に転生したのに、やっと初めて本当の異世界を目の当たりにしたのだ。
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