誓いの残飯

 日没直後の東の空は、まだうっすらと光を残していた。濃淡のある灰色の雲が、夜を迎えるために化粧をした。今日に限っては、いつもの藍色のメイクがやけにおどろおどろしい。風はなかった。湿気の多い空気が、いやでも肌に纏わりつく。


 西の市街地から、俺達はただ、静かに佇むフリンガ城を見上げていた。

 明るい日差しの下、正面から見上げると、それはまるで美しいドレスを纏った貴婦人のように見える。なのにこうして、まさに日が沈もうとする今、下界の暗黒が這い上がってくるこの時間に横から眺めると、まったく別物になってしまう。

 白い壁も、妙に青白い。大きすぎる胸壁は、まるで掌だ。そして突き立つ数々の尖塔は……ああ、悪巧みに長けた魔女の指先ではないか。


 静まり返った空気を伝って、かすかに遠くからの振動が響いてくる。どうやら始めたらしい。

 先陣を切るのは、ヒシタギ家の武人達だ。地元のミュアッソ、コーシュティの民兵を背に、領主の悪逆無道を訴える。彼らは第一の囮だ。ほどなく伯爵の私兵が城門前に殺到して、交戦状態になるだろう。

 だが、第二の刃が繰り出されるのは、もう少し先のこと。


「しつこいとは思うけど……約束は守ってくれ」

「もちろん」


 俺とアドラットがいくら言葉を尽くしても、ノーラもルークも意志を変えなかった。ただ、彼らを同行させることは、必ずしも危険とは限らない。途中まではむしろ、俺の傍にいたほうがいい。アーウィンもまた、正体不明の俺の力を警戒しているだろうから。

 そこで俺は、妥協案を考え出した。ゴーファト殺害を目指すのは、あくまで俺一人。どうせそちらは、アドラットもヤシュルン達もやる仕事だ。誰かが達成すれば済む。しかし、タマリアやオルヴィータを救出するほうはとなると、これは自分でこなすほかない。そして、特に情報が一切ないタマリアについては、またどこかに監禁されている可能性が高い。場合によっては、自力で歩けないほど衰弱していることも考えられる。

 だから、ルークを運搬係に任命した。ノーラが魔術で敵の目をくらませ、そこをみんなが駆け抜ける。救出と脱出、それが彼らの使命だ。

 その後を狙われたら? これは詰め将棋と同じだ。ノーラ達を人質に取られる前に、俺はゴーファトに肉薄する。前世の誰かも言っていた。戦いは常に、攻める側が強いのだ。


 夕方の空は、変化に満ちている。あっという間にフリンガ城は、白さをなくしていく。空はまだ、かすかに明るいのに。魔女の指は黒いシルエットになって、いよいよ俺達を握り潰そうとする。


「そろそろ、か」


 視認はできないが、夜の帳が降りると共に、アドラットが正面の胸壁に上空から降り立つ予定だ。ただ、それはきっとすぐにパッシャに察知される。彼は危険な役回りを引き受けた。彼と互角に戦える闇の戦士達を一人でも多く引き付けて、撤退と反撃を繰り返すことになる。

 そうして第三、第四の毒矢が放たれる。


「本当に行くのか? ……死んでも誰も助けてくれないぞ」

「その言葉、ファルスにそのまま返すわ」


 確かにそうか。一人で乗り込んだら、助けなんてないわけで。

 けれども、苦笑する余裕なんてなかった。


 昨日の夕方、ドロルは城に帰った。計画通りなら、彼は手紙をダヒアの部屋に放り込んだはずだ。しかし、彼が約束を守る保証はない。ヤシュルンは買収に成功したと思っているようだが、ドロルの中の憎悪は、そんなに安っぽくはない。

 一縷の望みをかけるとすれば、それは更なる憎しみにしか見出せない。俺を憎むのと同じか、それ以上にゴーファトを憎んでいれば。彼の肉体に取り返しのつかない傷を残した男を葬り去るには、今、この機会をおいてはない。一方、この俺、ファルスを殺す機会は、まだいくらでもある。


 ドロルが予定通りに行動しても、その次がどうなるかはわからない。ダヒアやオルヴィータが手紙を見落としたり、監視者に先んじられたりすれば、それで終わりだ。ただ一応、城の兵士に見咎められてもいいように、曖昧な内容しか書いていない。


『いつもの仕事の逆をしてください……暗闇の中で、悪臭の中で、私達はあなたを待ちます』


 オルヴィータの仕事は、ゴミ捨てだ。毎日、そのために大きな木の樽でできたゴミ箱をいくつも運搬しなければならない。ゴミ箱は、外に置きっぱなしにされる。すると、いつもはその手の仕事を引き受ける市民やその奴隷がやってきて、運び去ってくれる。そして、城の外には空の木の樽が取り残される。

 俺達は、その樽の中に身を潜める。手紙を読んで、意味を理解してくれたなら、かつ彼女達が打倒ゴーファトのために立ち上がってくれるのなら。そこまでの条件を満たして、やっと俺達は城内に侵入できる。


 なお、それでも中に入れなかった場合は、俺達は留守番だ。タマリア奪還も断念する。

 本音を言えば、俺一人だけなら、まだなんとか城内に入り込む方法もある。鳥になって中庭に降り立ってもいいのだから。今は季節も夏、剣一本と最低限の衣服だけなら、運搬できなくもない。

 それに、他人の痛みで絶叫するかもしれないルークは、潜入活動には大きなリスクだ……


 ……そうだ。

 思いついて、俺はいきなり自分の顔を自分の手で引っ叩いた。


「何やってるの」


 ノーラが呆れ顔でこちらを見る。だが、俺は構わずルークの様子を確認した。彼はキョトンとしていた。


「何やってんだ?」

「いや、痛くないのか?」

「ん? 全然」


 まさか、俺が相手だと効かない?


「ノーラ、ごめん」

「えっ、ちょっと、まさか」

「ホントごめん」


 ローブの袖を引いて腕を露出し、そこにしっぺを浴びせた。


「いっ」

「ってぇなぁ!」


 やっぱり、こっちだと効き目があるのか。


「悪いけど、これは必要な確認だ。ルーク、中で痛い思いをしても、叫んでくれるなよ」

「わかってるけどさ、ノーラで試すなよ」

「他にいなかったから、しょうがないだろう。生き死にがかかってるんだぞ」


 まず最初のステップからして心配なのだ。俺とノーラ、ルークが生ゴミを捨てるのに使う樽の中に潜む。するとあら不思議、悪臭のキツさが、ルークだけ五割増しになる。本当に笑い事ではないのだ。


「別にいいけど……そろそろじゃない?」


 ノーラが緊張感をみせずにそう促した。俺も黙って頷いた。


 でこぼこの丘を登る。まっすぐ背を立てて歩いたりはせず、身を伏せて、そっと手元足下を確認しながら少しずつ進む。もともと、この西の扉付近は道もまともに整備されていない。真っ暗な中を行かなくてはいけないので、転倒その他のリスクを防ぐためにも、必要なことだ。それに、まっすぐ背を立てていると目立ちやすい。いざとなったら地面にへばりついて視線をかわす狙いもある。

 移動の際のかすかな足音だけが、互いの位置を知らせている。そんな中、俺がいの一番に、西の扉の目の前に辿り着いた。早速、三つの樽の蓋を開ける。静かに詠唱し、自分の筋力を高めておく。それから、触れた手を引き寄せた。

 まず、ノーラを持ち上げて、残飯除けの麻袋で包んでから、樽の中に押し込める。音を立てないよう、そっと蓋をかぶせた。彼女の仕事は、この中で魔術を行使しながら、悪意ある接近を検出することだ。

 すぐルークも追いついて、俺の手に掴まる。彼もまた、樽の中に納まった。最後に、俺が飛び上がって、自分で樽の中に入り込む。


 どれほどの時間が過ぎただろうか。あっという間かもしれないし、かなり待ったのかもしれない。こうしてじっとしている間にも、南門前の広場では、ワノノマの武人やアグリオの暴徒達が、伯爵の私兵と戦闘を繰り広げているかと思うと、本当に落ち着かない。それに、ほのかな悪臭が思考の整理整頓を妨げる。


 物音が聞こえた。

 思わず緊張する。吉と出るか、凶と出るか。だが、すぐに静かな安心感に変わった。ノーラが動かないとすれば、これは敵ではない。彼女の警戒を突破できるのはパッシャの幹部の一部にいるが、彼らが俺達の捕縛にまわされたのなら、こんなにグズグズしたりはしないだろう。

 樽に傾きを感じた。少女の腕力で、この大きな樽をそのまま持ち上げるのは無理だ。恐らくは、梃子の原理で台車に載せるのだろう。大きく揺れた後、足下が安定したのを感じた。そのまま、小刻みな揺れが続く。

 空気の流れのない、静かな場所に着いた。外の様子はわからないが、そのまま待ち続ける。それから二回、遠くから音が近付いてきては止まった。


 不意に蓋が取り去られた。

 俺は樽の縁に手をかけ、一気に飛び上がって降り立った。


 そこは、なんとダヒアの私室だった。

 考えてみれば、ここ以外に安心して俺達を連れ込める場所など、あるはずもなかったのだが。しかし、貴婦人の部屋に残飯の樽とは。


 そして目の前には、再会してから初めての笑顔をみせるオルヴィータと、その後ろに立つ男爵夫人がいた。


「よく……」


 俺は、何もかもがうまくいったことに、言葉にしがたい大きな喜びを感じていた。

 それにあのドロルが、密告もせずに本当に手紙を届けてくれた? それが利益目的だったとしても、ただただありがたい。感謝すべきことではないか。


「よく、手を貸してくれた」

「約束したのです」


 小さな声で、彼女は答えた。


「約束?」

「忘れたですか?」


 いつ? 約束らしい約束なんて、記憶にない。ここに来てからはろくに会話もしていないし……


「いつかお城のメイドさんになったら……裏口から残飯くらいは恵んであげるのです!」

「ああ!」


 そうだ、収容所にいた頃。

 一度目のオークション、藍玉の市に出向く前に、彼女が俺に言ったことだ。


 まさか本当に残飯を恵んでもらうことになるとは、思いもしなかった。ただ、食べさせてもらうためではなかったけれども。

 これが運命というものか。


「ようこそおいでくださいました」


 ダヒアは、微笑を浮かべて俺達に対して腰を折った。


「遅くなりまして申し訳ございません。先ほど、兵士が来て、扉を施錠するように、外出はするなと申し付けられておりましたもので」

「そういえば、西口は、どうやって」

「この際ですから、錠前ごと……」


 ソファの前の丈の低いテーブルに、小さな手斧が転がっている。目立たないように、鍵の部分を含め、扉を壊してしまったのだろう。


「そこまでして、発覚したら」

「どの道、ここにいては、私もオルヴィータも長くは生きられないでしょうから」

「じゃあ、せめて少しでも長生きできるように、頑張らせてもらいますよ」


 挨拶もそこそこに、俺達は外に出ようとする。


「お待ちください」

「なんでしょうか」

「少し、お話が」


 足を止めて振り返ると、彼女は俺達の予定を尋ねた。


「これから、どうなさるおつもりですか」

「まず、どこかに閉じ込められているタマリア……昔の知り合いを救出します。それから、僕はゴーファトを討つつもりです」

「まぁ……人助けのほうは結構ですけれど、夫を討つなど、おできになれましょうか」

「ご存じないかもしれませんが、既に彼は、武器も持てないほどの傷を負っています。邪魔さえ入らなければ、確実に」


 驕りでもなんでもない。ゴーファトは強い。だが、一対一で戦えば負けはない。それに、あの手傷だ。全力を出せない状態なら、尚更だ。


「ただ、こちらにいるノーラとルークは、タマリアを救い出したら、そのまま外に逃れる予定です」

「それでしたら」


 彼女はオルヴィータを指差した。


「この子も連れていってください」

「えっ」

「私としては、計画の成功を願うばかりではありますが、それだけをあてにするわけには参りません。最悪の場合でも、せめてこの子にだけは、助かって欲しいのです」

「ダヒア様! 私だけはいやなのです」


 しかし、ここは彼女の言い分が正しい。仮に俺達が敗北しても、少なくともノーラ達は脱出するのだから、生き延びることができる。

 そして、そういう最悪のケースでは、誰が裏口の扉を壊したかが問題となる。当然、ダヒアは疑われるだろうが、事実が明らかになろうと、余程開き直りでもしない限り、ゴーファトは彼女を殺せない。はっきり王国に反逆する場合は別だろうが、そうでなければ目立ち過ぎてしまう。となれば、責任を取らされるのは誰か?

 要するに、ここにオルヴィータを残しておいても、死ぬ危険性のが高いのだ。


「わかりました。でも、それならダヒア様も一緒においでください」

「いえ」


 首を振ると、彼女は提案した。


「私にあるのは、身分だけです。兵士達は私を侮ろうとも、傷つけることはかないません。この身分を生かして、少しでも人目を惹きつけましょう。皆さんが戦ってらっしゃるのに、私が何もしないでいるなど、耐えられませんから」

「危険です」

「今までもそうでした」


 どうやら覚悟は決まっているらしい。

 俺は頷くと、オルヴィータに声をかけた。


「行こう。時間もない」

「お行きなさい」


 主人に促され、彼女はやっとこちらに歩み寄ってきた。


「くれぐれもご無理はなさらないでください。可能であれば、後で助けに参ります」

「ご武運を」


 俺は大股に踏み出して、扉に手をかけた。


「待って!」


 ノーラが鋭く呼び止める。


「誰かいる」


 泳がせていた、ということか。

 俺は無言で一歩下がり、室内の全員に、後ろに下がるよう促した。ダヒアも、さすがに緊張した面持ちで硬直していた。彼らの様子を確認してから、俺は静かに詠唱を始めた。


 不意にノックが聞こえた。

 俺達は目を見合わせたが、いち早くルークが扉の横に立ち、俺に了承を求めた。

 既に右手は赤熱している。軽い一発なら放り込むことができそうだ。そう判断して、俺は頷いた。


 ルークは冷静だった。そっと静かに扉をまわし、一気に引き開けた。その瞬間、火球を叩きつけようとして……なんとか立ち止まった。

 相手が無防備だったからだ。腰に手を当てたまま、じっとこちらを見据えている。その様子に気付けたから、俺は手を止めることができた。


「随分な歓迎だな? おい」


 すぐに事情なら理解できた。ドロルの帰還の意味を察知できるとしたら、まずニド以外にない。しかも、ドロルが自分で危険を冒すはずはないから、そうなると連絡先はここしかなかった。

 あとは簡単、ただ物陰からずっと見張っていればよかったのだ。


「熱々のをくれてやれるぞ」

「喰らってやるかは、お前ら次第だな」


 黒頭巾の内側から室内をねめ回して、ニドは俺に尋ねた。


「何しに来た」


 言い終えるより早く、ルークが食いついた。


「タマリア達を助けにきた」


 迷いのない一言に、ニドは肩をすくめた。


「その体でか?」

「お前こそ、まだ痛むくせに。わかるぞ」

「ふふふ」


 軽く笑ってみせると、ニドは俺に手振りで「やめろ」と指図した。


「いいだろう、案内してやる」


 まさかの提案に、俺は耳を疑った。


「デクリオンが文句を言うだろうな。いや、それでは済まない」

「問題ない。もう、好きにしていいらしい」


 それはどういう意味……

 だが、俺が頭の中で答えを出す前に、ニドはさっさと背を向けた。


「来いよ。今だけは手を貸してやるさ」

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