壊れた祝福
光の差し込むことのない闇の中。ツンとくるカビの臭い。そんな中、俺達はただただ、息を殺していた。
狭い地下室は、ただでさえ湿気でいっぱいだった。そこに合計七人が無理やり体を押し込んでいる。もちろん、もともとここにあったガラクタも詰め込まれたままなので、かなりの狭さ、いや、息苦しさだった。
それでも、頭上を足音が通り過ぎてしばらくすると、思わず溜息が出る。とりあえずは一安心だ。
「じゃあ、様子を」
「待ってください」
弱りきったノーラだが、今、ここで働かなければ自分は役立たずでしかないとわかっている。今一度、気力を振り絞って、短く詠唱する。ややあって、彼女は頷いた。
「大丈夫、近くにはいません」
「よし、じゃあ、開けよう」
頭上の蓋を、アドラットが押し開ける。その向こう側もほぼ暗闇だ。ただでさえスーディアの家屋は窓が狭い。月明かりも、また雲が出てきたせいか、遮られてしまっている。
「プルダヴァーツさんを」
「はい」
俺が足を持ち、アドラットが肩を抱えて、ゆっくりと短い階段を登る。そうして床に横たえた。
「次はルーク君を」
「僕がやります」
命に関わる重傷ということでは、まずプルダヴァーツが深刻な状況といえた。だが、ルークについても、どうも状態がよくない。さっき、俺とニドの争いに割って入った瞬間、さほどの傷でもないのに、いきなり気絶して倒れた。既に胸の傷の止血も済んでいるし、背中の傷も浅かった。にもかかわらず、いまだに意識が戻らない。
「次は……ニド君を」
プルダヴァーツの息子が、黙って肩を貸して、下から這い出てきた。自分の父親を丸焦げにした相手だというのに。
ただ、その表情は思った以上に弱々しかった。ニドの罪を問うのなら、自分の父が犯した罪についても跳ね返ってくる。無論、それは彼自身の罪悪ではないのだが、だとしても身の置き所のなさを感じているのかもしれない。というのも、父が悪事に手を染めて得た利益は、彼自身をも潤してきたからだ。三年前から、彼は明らかに裕福な生活を享受してきた。身をもってわかっているはずだ。
その後から、よろめきながらノーラがよじ登ってきた。
「この状況で薬は……となると」
アドラットはまず、重症であることが明らかなプルダヴァーツから救おうとしていた。しかし、紛争中のアグリオで、どうして火傷に効く薬など見つけられようか。
「水。せめて清潔な水が欲しい。それもなるべく多く。この家にもあれば」
「探してきます」
ノーラがすぐ立ち上がった。
「清潔な布も」
「僕も探します」
プルダヴァーツの息子も、すぐ動き出した。だが俺は、まだニドへの警戒を解かずにいる。アドラットも強者だが、彼一人に何もかもを任せてしまうのは怖い。
「済まないがニド君、君は最後だ」
「おっ、俺に構うな」
全身を強打したニドは、まともに動けない。ただ、今のところは意識もはっきりしているし、致命的な問題はないようにみえる。明らかに重度の火傷を負ったプルダヴァーツと、原因不明の意識喪失に陥ったルークがいる現状では、後回しにせざるを得なかった。
それにしても、彼を連れていくことに躊躇がなかったといえば、嘘になる。さっきまで俺と殺し合いをしていたのだし、プルダヴァーツに深刻な火傷を負わせたのは、他ならぬニドだ。だが、アドラットに迷いはなかった。今は奇妙な休戦状態が維持されている。
「お水、少しならありました。多分、汚くはないと思います」
「ああ、よかった」
「布はこれでいいですか」
頷くと、アドラットは布を水に浸し、絞ってから、プルダヴァーツの火傷した部分にあてた。ろくに薬もない以上、これが精一杯だ。
「さっきの連中はなんだったんですか」
「恐らく、ミュアッソ集落の民兵だろう」
「まだ暴動が続いているんですね」
「ここはスーディアだからね。そう簡単には終わらない」
暗闇の中、アドラットは辛抱強く、また丁寧に濡れた布をあてがい続ける。燃えた服は無理に脱がさない。火傷ごと、皮膚が剥がれてしまうかもしれないからだ。
こうして手当てを受けている間にも、プルダヴァーツは時折、苦しげに小さな呻き声をあげる。
「ニド君」
「な、んだ」
「僕はこれからルーク君の容態を確認する。その間、この人の様子を見ていてくれ」
「なに」
「君がやるんだ。いいね」
俺は納得した。
アドラットは、なるほど正義の味方らしく、甘い男だ。だが、それだけではなかった。罪は外から問うものではない。本人の内側から、避け難い障害物として立ち塞がるものなのだ。
「ルークは、これは、どうなっているのか、アドラットさん、わかりますか」
よっぽど打ち所が悪かったんだろうか。それとも、極度に神経が敏感だったとか? どうも違う気がする。そもそも頑健そのものの少年だったのだし。
だが、アドラットの表情はというと、どんどん険しくなっていく。
「何かわかるんですか」
「なんとも言えない、が、もしかすると……いや、しかし」
その場に座り込み、彼は考え込んでしまった。
「説明してくれないとわかりませんよ」
「これに似た症状を、昔、見たことがある。いや、症状ではないのだが」
「と言いますと?」
俺もノーラも、顔を寄せて答えを待っている。それでアドラットはやむなく口を開いた。
「彼は神通力に目覚めようとしているのかもしれない」
「えっ」
「ニド君、君は注意を受けたことはあるか」
投げかけられた質問に、ニドはしばらく返事をしなかった。だが、ややあって答えた。
「俺の最初の神通力は、さっき見せた通りだ。誰に教わったもんでもない。ただ、それ以外は……確かに組織では簡単な注意を受けた」
アドラットが頷き、続きを促す。
「神通力の覚醒は、体を作り変えるようなものだと。場合によっては、強い衝撃を受けて意識を失うこともある」
「その通りだ」
初めて聞いた。
神通力の取得が「肉体の再構築」に等しいとは知っていた。だが、神通力を得るのに、また別に何かリスクがあるということなのか? ただ俺は、マオ・フーがどうやってジョイスに新たな力を与えてきたのかについて、何も知らない。しかし、仮に危険や負担がないのなら、どんどん覚醒を繰り返せば、誰もが便利な暮らしを手にできるはずで、そうしないということは、やはりそれなりの問題があるのだろう。
「ついでに言うと、そういう意識の喪失がある場合ってのは、だいたいよくない場合だ」
「よくない? 得られる力が小さいってことか?」
「そうとは限らない。ただ」
その時、すぐ目の前でルークがピクリと動いた。
「ああ、よかった! 目が覚めるみたいだ」
「うむ……」
だが、アドラットの表情は優れなかった。
薄目を開けたばかりのルークが、いきなり苦悶の表情を浮かべたからだ。
「うっ……」
「ルーク?」
「い、いいい、うぎぎ」
「お、おい! しっかりしろ! 傷が痛むのか!」
「ぐあっ、うわっちちち」
だが、俺の質問にも答えることさえできず、ただただ苦しむばかりだ。
その様子に、アドラットは目元を覆った。
いったい、ルークに何が起きた?
------------------------------------------------------
ルーク (13)
・マテリアル ヒューマン・フォーム
(ランク7、男性、13歳)
・マテリアル 神通力・苦痛吸収
(ランク3)
・スキル フォレス語 5レベル
・スキル サハリア語 3レベル
・スキル シュライ語 3レベル
・スキル 商取引 2レベル
・スキル 騎乗 2レベル
・スキル 裁縫 1レベル
空き(6)
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なんだ、これ?
苦痛吸収? 響きからして、まったくありがたみがなさそうな神通力だが。
「どこが痛む、ルーク君」
「あああ、体中がっ、で、でも平気、です」
「やせ我慢しなくていい。痛いのはここか? 背中か?」
アドラットは、俺が剣で軽く刺したところにそっと触れた。するとルークは大きく跳ねた。しかし、大声はまずいと心得ているのだろう。歯を食いしばり、そして首を振る。
「痛がってるじゃないか」
「そこ、じゃなくて、ぜ、全部」
「全部?」
「胸、が、焼けるように、痛い、顔もヒリヒリ、する」
まさか。
俺はすぐ近くに横たわるプルダヴァーツに振り返った。さっきより静かになっている。もちろん、生きてはいるのだが、苦しげな呼吸がいつの間にか収まりつつあるように見える。
「ルーク、あとは? 他に痛いところは」
「背中、あと、腰もっ」
その向こう、壁際にもたれたままのニドを、俺はじっと見つめた。
「な、なんだよ」
返事はせず、そっと腰を浮かせて彼に近付き、耳打ちした。
「おい、痛むか」
「なに?」
「さっき、落ちてから、ずっと足腰が痛いはずだ。今はどうだ」
俺の指摘に、ニドは目を丸くした。それは、俺が気付いたことを理解したという顔だった。
「……クソッタレがっ」
「アドラットさん」
俺は立ち上がり、彼に提案した。
「ルークを別の部屋に寝かせましょう。ベッドの上がいい」
すると何かを察してか、彼も頷いた。
「わかった」
「お、俺はいい、です……それより、しゅ、主人を」
「プルダヴァーツさんの世話もする。君より先に手当てを済ませたよ。続きも私がやるから、君はゆっくり眠りなさい」
アドラットがルークを抱きかかえて立ち上がる。ふと不安に駆られて、小走りになって、俺は二人を追いかけた。
俺が部屋に入ったのは、ちょうど奥にある寝台に、ルークを横たえたところだった。
「さぁ、ここで休んで」
「アドラットさん」
やはり、ついさっきより今のほうが、ルークの声に元気がある。
「俺、治ったみたいです。まだ少し痛いけど、もう」
「まだわからない。ぶり返すかもしれないから、今は休んでくれないか」
「少し頭がグラグラするんです。たまに気が遠くなる……だけど、動けますから」
「ルーク」
俺も割って入った。
「今は非常時だ。半病人のままじゃ、逃げるのも難しい。僕達はこれから、プルダヴァーツさんの看病で忙しいんだ。頼むから、休むときにはしっかり休んでくれないか。いざとなったらアドラットさんが何とかする。だから余計なことは気にしないで眠るんだ」
「あ、うん……そう、だな」
「行きましょう」
俺の声にアドラットも頷き、二人して部屋を後にした。
あとは、これといった説明は必要なかった。何も言われなくても、アドラットはプルダヴァーツを、ルークとは反対側の遠くの部屋に運び、息子に手当ての仕方を説明して、戻ってきた。
「待たせたな。ニド君、次は君だ」
「俺はいい。お前らの敵だし、自業自得だ」
相変わらず壁に凭れたまま、ニドは力なく吐き捨てた。
「それより、ルークは」
「ああ」
床に腰を下ろし、アドラットは深い深い溜息をついた。
「さっき、彼は私が買い取った。息子さんのほうと話をしてね」
「はい?」
何を言っているんだ? もちろん、ここを切り抜けたらルークはリンガ商会で引き取って、自由の身にしてやるつもりではある。だが、今は生きるか死ぬかだ。それどころではないだろうに。
「落ち着いて聞いて欲しい」
そう前置きして、アドラットは神通力の現実について、語り始めた。
彼が先代の騎士から伝え聞いた話によると、神通力というのは女神の恩恵を起源とするものだという。
太古の昔、人々は神々と共に暮らしていた。恵み豊かな森があり、人々は自由に果物をもぎ取っては食べ、毎日歌い踊って暮らした。それは平和で幸福な時代だった。だが、世界は彼らにとってさえ完全無欠とはいかなかった。人々には死の運命が付き纏い、老いも病も避けられないものだった。
それで人々は、なんとか苦痛を軽くしたいと願った。そこから女神は、様々な姿をとるようになった。
「創生の女神のうち、祝福の女神や時空の女神といった化身は、それぞれ初めから深山の奥にて眠りについていた。そして常に一人の女神が生まれ、目を覚ましていた。その女神は、人々の願いを聞き届けると深山に篭り、やはり永遠の眠りについた。その次に現れたのは、また別の姿をした女神の化身だったという」
こうして数々の神通力が生まれた。それらは何れも非常に強い力をもたらすものだった。どんな怪我でもすぐさま治す『治癒』、あらゆる病気や毒物から身を守る『解毒』、欲する限り何でも知り得るという『知識』、世界のどこにでも一瞬で辿り着ける『瞬間移動』……
太古の人々は、これらの神通力を、完璧な形で使いこなした。
「だが、人々は次第に堕落していった。地上では争いごとが増え、龍神の仲裁も間に合わなくなっていった。それで女神は、人々の願いを制限する必要に迫られた。三十六番目の女神が、門番となった」
「門番?」
「数多くの女神の化身が眠る深山が、この時、人々の目から覆い隠された。この場所が、現在でいうところの『天幻仙境』であるといわれている」
人々と女神とが共生する時代が、ここに終わりを告げた。
しかし、魂の願いから生まれた女神が、その使命を放棄することはできなかった。黄金の神代の次に続いたのは、白銀の伝説時代だった。
「女神は人の娘として生まれ、やがて覚醒して願いをかなえると、やはり『天幻仙境』に還っていった。この時代、人々は自由に世界に広がり、それぞれに富と歓楽を求めた。女神はその願いに応じて、知恵と力を惜しみなく与えた。ただそれは、前の時代とは少し違ったものになった」
「と言いますと」
「神代の頃、人々はいつでも満ち足りていた。だが、この時代には人々は自ら富を生み出さなければならなくなった。世界の根源を司る女神がいないのだから、豊穣は約束されていない。そのため、人々が女神に願ったのも、富を増すものが多かった」
具体的には『鍛冶』や『木工』といった技能を実現する神通力が生まれた。そこから派生して、それらの道具を利用した『歌唱』や『舞踊』、『絵画』といった技術まで、神通力の形で与えられた。人々はそれを手本に学んで、独自に技術を磨いていった。
この時代の終わりの頃になると、各地に分かれて暮らす人々は、互いの言葉が通じなくなることもあった。それで『翻訳』の神通力まで生まれた。
総じて平和な時代ではあったが、それでも徐々に世界は危険度を増していた。身を守る必要から、まず『体術』が生まれた。獣の姿に変身する神通力も与えられた。人の心を盗み聞きする『読心』も、この時期に生まれた力だという。
「だが、それでも人々は満足しなかった。やがて人が人を支配する時代がやってきた。清浄なるムーアンの畔にも、壮麗な塔や城郭が並び立った」
その景色は、もしかすると見たことがあるのかもしれない。あくまで夢の中で、だが。
年代ははっきりしないが、遅くとも三千年ほど前には、既にこの古代帝国の時代に差し掛かっていたという。
「この時代、女神は滅多に化身として降臨しなくなった。人々の願いも、次第に悪意に満ちたものとなっていった。暴力を食い止め、相手を押さえ込むための力ではなく、殺すための『剣舞』、何もかもを打ち砕く『破壊』、そうした神通力から身を守る力など、次々と危険な願いが形になっていった」
それでも人々は、神通力を十全に使いこなすことができた。誰もがあらゆる神通力を、いくらでも行使できたのだ。女神は万人に平等だから、それは当然のことだった。
「何もかもが変わってしまったのが、災厄の女神の誕生からだ」
程なく各地に魔王が出現し、人間同士の争いも激しくなった。神通力の発現は抑制され、これまでのようには役立たなくなってしまった。
「完全な形では、もはや神通力が与えられることはない。今の時代のほとんどの力は、どこか歪んでいる」
「そうなんですか? でも、僕の知り合いのジョイスって人も、今ではそんなに不自由はないみたいですが」
「彼は、ここで話に聞いた限りでは、かなり危ういところを潜り抜けたようだね」
神通力の覚醒は、彫刻のようなものだ。素材となる石の中に、既に完成像が埋まっている。その人自身の魂の形があり、それに沿って丁寧に余計なものを削り落としていく。するとやっと、本人ならではの力に目覚めることができる。
しかし、その工程を乱暴にこなすと、歪な形になってしまう危険もある。
「目が真っ赤になってしまったというが、これこそまさに、副作用ともいうべきものなんだ。神通力は、魂の形といっていい。一歩間違えば、そのジョイス君は、失明していてもおかしくはなかった」
理解できる話ではある。そもそも、そんなに簡単に覚醒できて、あっさり使えるようなものであれば、みんなとっくに活用しているはずだ。しかし現実には、どこにスイッチがあるかもわからず、そのスイッチにしても、よほど気をつけて押すのでないと、本人に消えない傷跡を残してしまうのだ。
「正常とされる範囲の神通力であってさえも、実は不完全だ。例えばこの私の」
そう言いながら、アドラットは腕を伸ばす。すると次の瞬間には、鈍く輝く剣がその手の中にあった。
「剣を生み出す神通力だが、これも実は『物体作成』という力が歪んでしまって、不完全な形でしか機能しない結果なのだ。幸い、この力に副作用はないが」
「お話はわかりましたが」
ということは、だ。
ルークが目覚めた神通力というのは……
「ああ……肝心のところだが、私の読みでは、ルーク君の目覚めた力というのは、『読心』の派生形ではないかとみている。実は、似たような例を一度、神仙の山で目にしたことがある」
「人の心を読む、ですか?」
「但し、それがひどく歪になったものだ。つまり、人の考えていることがはっきりと読み取れるわけではない。しかし」
一度、言葉を切って、躊躇う様子をみせながらも、結局は最後まで言い切った。
「他者の『痛み』だけは吸い取ってしまう。本人は、わけもわからないのに、ただただひたすら痛む。苦しむ。ただそれだけで、見返りは何もない」
「けど、俺の痛みは減った……ような気がするけどな?」
「そうだ。だが、本人には不幸にしかならない。想像できるか」
アドラットは首を振り、悲しみを露にしながら続けた。
「痛みという痛みを吸い取るんだ。例えば、ルークが街中で商売をしている。そこへ風邪をひいた人が通りかかったら、どうなる? 怒り狂った人がいたら。悲しんでいる人、悩んでいる人、いや、それどころか、脚に痛みを感じる馬、これから首を切られる鶏、この誰も彼もが痛みの半分をルークに背負わせる。まともに生きていけると思うのか」
それは、想像するだに地獄でしかない。縁もゆかりもない人が目の前を通り過ぎる。たったそれだけで、痛みが降りかかってくるかもしれない。誰か、人以外の動物にせよ、意識のある何者かが近くを通過するだけで、予期しない激痛に見舞われる危険性がある。しかも事前の説明もなければ、納得できる条件もない。すべてを一方的に押し付けられる。
そんな体になったら、まず街中では暮らせない。自然豊かな山奥も駄目だ。動物がたくさんいる。自宅の庭でバッタがカマキリの餌食になるたびに、ルークは叫び声をあげなくてはいけない。となると、せいぜい砂漠のど真ん中か、リント平原の北のほう、贖罪の民すらいない僻地に一人で生きるか、どちらかしかない。しかも、自分で狩りをすると、その都度、死ぬほど苦しい思いをするので、誰かに養ってもらわなくてはいけない。
一言でいって、絶望だ。
「私はこれを『壊れた神通力』と呼んでいる」
「そんな、ルークは……騎士になりたいって言っていたのに」
「冗談にもほどがある。騎士? 身分としての騎士なら結構だが、もし武器をとって戦うとなったら……わかるだろう? 倒したばかりの相手の痛みが、半分自分に跳ね返ってくる。そればかりか、戦場で乱戦になろうものなら」
救いがあるとすれば、ルークの『苦痛吸収』のランクが、そこまで高くはないことか。だとしても、およそ日常生活を送れるような代物ではない。
「だけど、どうしてルークはそんな力に目覚めてしまったんですか」
「要因はいくつか考えられるが、一つには本人が願ったからだろう」
「願うだけ? そんなにお手軽に目覚めるものなんですか」
「いや」
アドラットは目を伏せて、若干の躊躇いをみせながら言った。
「普通は、願いに加えて、特定の動作や状況を作り出す。例えば、水の中でも溺れずに呼吸できるようになりたいというのなら、本人は願うだけでなく、水中に放り込まれ、実際に息もできないようにする」
「死ぬかもしれないじゃないですか」
「そうだ。現代の神通力の獲得は、必ずしも安全なものではない。しかも、こういう状況を作ったからといって、誰もが覚醒できるわけではない。だから普通は、二つの補助手段を同時に使う」
そう言うと、アドラットはまず自分の目を指差した。
「私は習得できなかったが、神通力の中には『識別眼』というものがある。色や形で、相手が持っている能力や、神通力の素質などをうっすらと垣間見ることができるんだ。指導者は、これで希望者の素質を判断する。どう足掻いても覚醒できそうにない神通力なら、本人に諦めるよう説得することになるだろう」
なるほど、合理的だ。無闇に危険なやり方で覚醒を促すばかりでは、害悪が大きいだけだ。
この能力があればこそ、マオ・フーはジョイスの師たり得たのだし、デクリオンもまた、組織の部下達の能力を伸ばすことができた。というより、パッシャの場合、『識別眼』の有無がリーダーの条件なのかもしれないが。
「もう一つは」
「神器だ」
「神器?」
するとアドラットは、俺の剣を指差した。
「その剣は、どこで手に入れた」
「えっ……」
答えに窮したが、ぼかして答えることにした。
「セリパシアの、とある迷宮の中です」
「してみるとそれは、何らかの神性を帯びた道具か、大昔の職工が作ったものかもしれない」
確かに、この剣の異常な切れ味については、思うところがないでもない。しかし、まさか神器とは。
「これは、そんなすごいものなんですか」
「すごい、と言っていいかはわからない。そもそも今、神器という言葉を使ったが、その意味するところは非常に広い。極端な話、神仙の山に篭る職工達が作ったものも、神器に分類されることがある」
「意外と垣根が低いんですね」
彼は少し考えるようにしてから、やっと言葉を見つけて返してきた。
「要するに……魔法と神通力は、ある意味、とても近い関係にあって……この世の理に干渉する力を有したものが神器ということなんだ。だから、本当に広い意味でいうなら、私の、この首飾り……風魔術の触媒も、神器といえなくもない」
「それがあると、神通力に覚醒しやすくなるんですか?」
「普通、この手の指導者は、神通力の覚醒に適した道具を作る。普通の魔法の触媒にはならないものだ。南方大陸の武人達は、それを代々受け継いでいたりもする。それがない場合には、触媒の役目を果たす薬剤に頼ることもある。ただ、何れの手段を用いるにせよ、本来は秘中の秘だ」
してみると、マオ・フーも、俺には教えなかったが、そういう道具を所持していたのかもしれない。
「あれがそうだったのか」
ニドも頷いた。
「俺も、組織に入ってから、そういう道具らしいものに触れさせられたことがある。説明はされなかったが」
アドラットも頷き返して、続けた。
「ただ、神通力の覚醒には、正しい神器を正しく用いる必要がある。使用者も、正しい意図をもっていなければならない。そうでなければ……」
だとしたら。
ルークの置かれた状況は、最悪だった。願いがあり、神器となり得る道具もあった。そして、たまたま覚醒の条件を満たしてしまった。
ただ、それ自体はもう、どうしようもない。問題は、これからのことだ。
「でも、じゃあ」
恐ろしい結論に行き着いて、俺は自分の声が震えるのを感じた。
「アドラットさん、あなた、何しにルークを買い取ったんですか」
「聞かないでくれ」
「神仙の山で、似たような人を見たと言いましたよね。その方は一体、どうなさったんですか。いいえ」
唾を飲み込み、俺はついに言った。
「……その方は、生きておいでなのですか」
重苦しい沈黙が場を覆った。
ややあって、彼は答えた。
「しばらくしてから、自ら命を絶った」
つまりはそういうことだ。
ルークの未来には、夢も希望もない。ただただ、ひたすらに痛みばかりが理不尽に降りかかる。そんな思いをさせるくらいなら……
「待ってください」
だが、悲観することはない。
「僕なら、治せるかもしれません」
こういう時こそ、ピアシング・ハンドの出番じゃないか。ルークから、その壊れた神通力を引っこ抜く。その辺の雑草にでも放り込む。それでおしまいだ。
「君は何を言っているんだ」
「冗談でも何でもありません。実は神通力を消すという秘薬を、一つだけ持っています」
「馬鹿な。そんな話、聞いた事もない」
「ええ、でも、多分本当です」
アドラットの目が疑惑に見開かれる。
「なるほどな。聞いたこともない魔法のゴブレットも持っている。それに、その剣だって、普通の品ではないようだ。君には、常識外れの何かがあるのかもしれない」
「え、ええ」
「だが、今の言葉は矛盾している。でまかせもいいところだ」
「どうしてそう思うんですか」
すると彼は、指を一本立てて、矛盾点を鋭く指摘した。
「一つだけしかない秘薬だと言ったが、実際に使ったことはあるのか」
「あっ」
「ないだろう。一つしかないんだから。だいたい、神通力を消さなきゃいけない状況に立ち会ったことが、これまであったのか? あれば、私が今したような説明を、わざわざ聞く必要なんてなかった。なぜなら、もうとっくに知っているはずのことばかりだから」
「うっ」
「使ったことはなくても、買った時に誰かがそう言っていた? だとすると、そんな与太話に縋ってルークの苦しみを長引かせるのか?」
本当は、与太話でもなんでもない。薬というのは嘘だが。今すぐ救ってやれるのに。
「実はそんな薬なんてないんだろう。わかっている。君はそこまでひどい奴じゃない。私が彼に何をしようとしているかを悟って、ただ食い止めようとしているだけなんだ」
「ち、違います」
「いいや、そうだ。だが、それが却って本人を不幸にすることだってある。もちろん、それで君を責めたりはしない。汚れた仕事はすべて、大人が引き受ければいいことだ」
そんな。
だが、ピアシング・ハンドについて知られるわけにはいかない。なら、ここでもう、強引にルークの神通力を消してしまおうか。それであとは、ひたすらにしらばっくれる。不審に思われはするだろう。だが、ルークが無駄死にするよりはいい。
「い、いや、でも、結論を急ぐことはないでしょう」
「こうしている今も、争いの続くスーディアの苦痛を吸い取ってるんだぞ。よかれと思って」
「あっ!」
いきなりノーラが大きな声を出した。
その視線の突き刺さる先には……半開きの扉があった。
「……チッ、クソクソクソクソ」
ニドが悪態をつく。
「ル、ルーク」
俺も、さすがに言葉が続かない。全部聞かれていたのか。
彼の命に関わる重大な話だっただけに、俺もアドラットも、思わず熱が入ってしまった。そのせいで、注意が散漫になった。
「ルーク、大丈夫だ。そんな神通力もどきは、すぐ治せる。ピュリスには、リンガ商会の倉庫にはな、想像もつかないくらいに珍しいものがたくさんある。王様でさえ手に入れられないサハリア産の貴重な薬もあるから、そんなものはすぐ」
「わかった」
だが、彼は俺の発言を遮った。
「ファルスが言うんなら、多分、本当だろう」
「ルーク君!」
アドラットは振り返り、腰を浮かしかける。
「この……どうしてこんなに痛いのか、理由がわからなくてモヤモヤしてた。話を聞いて、スッキリしたよ」
誰もが黙りこくっている中、彼は俺達を見回しながら、じっくりと何かを考えていた。
そして、トボトボと前に出て、いきなり手を伸ばし、アドラットの手を握った。
「うっ」
「や、やめなさい」
振り払おうとする彼の手を、ルークはあくまで握り締めた。
「ずっと気持ちが落ち着かなかった。重苦しくて、悲しくて、不安で……この苦しみは、そうか。アドラットさん、あなたの気持ちだったんですね」
正義の騎士が、罪のない子供の命を奪おうというのだ。それが本人のためとはいえ、その罪悪感は計り知れない。その感情が漏れ出し、ルークを苛んでいた。
そのことを確かめると、今度は広間を横切って、壁際にもたれたままのニドのすぐ前に立った。
「なんだよ、オイ」
するとルークは、迷いなく彼の手を取った。
「やめろ! 離せ、バカ!」
「ぐっ……」
いったい、彼は何をやっているんだ? 悩んでいる人、怪我人……そんなものに触れば、痛みは倍増するというのに。
「そうか、そうなのか」
だが、ルークは一人で頷いている。
それから立ち上がると、奥の部屋に行こうとする。そちらには、上半身に火傷を負ったプルダヴァーツがいる。
「やめなさい!」
ついにアドラットは立ち上がった。俺もそうした。
「ルーク、そんな神通力は無意味で役立たずだ。すぐ消してしまおう」
「やめてくれ」
静かな声で、思いもしない一言が返される。
そして彼は、黙って扉を開け、部屋の中に踏み込んでいく。
「あ……」
部屋の中にはベッドと机、椅子がある。大きさからすると、夫婦の寝室だったのかもしれない。横たわるプルダヴァーツを見守る息子は、そこで涙ぐんでいた。
ルークは黙って手を差し伸べて、まず息子の肩を抱いた。それから、苦しげに小さく呻き声をあげるプルダヴァーツの手を取った。
「ぐうっ!」
「ルーク!」
もう、黙ってみていられない。こいつは何をやっているんだ。
肩を掴んで引き剥がそうとする。だが、ルークはあくまでベッドの下にしゃがみこみ、握った手を離そうとしない。
「馬鹿なことはやめろ! そんなことしても、火傷まで治せるわけじゃないんだぞ!」
「い、痛みは減らせる」
「その分、お前が痛むんだろうが! 無駄なんだよ!」
だが、ルークは首を振った。そうして俺に懇願した。
「た、頼む」
「なんだ」
「無意味なんかじゃない……このままにしておいてくれ……俺は……俺は、こんな痛みなんかに負けたりなんか、しない……フグッ!?」
その瞬間、激痛が彼を襲ったのだろう。あまりの衝撃ゆえに、彼は意識を手放した。
誰も何も言えなかった。
そこへ、最後にふらりとニドが部屋に踏み込んだ。身を起こしてなんとか歩くのが精一杯という様子で。
「俺は、帰る」
「どこへ」
「組織の下へ」
結局は、俺達の敵でい続けるということか。だが、この場で殺したら、ルークがまた、どんな苦痛に見舞われるか。
「ルークが目を覚ましたら、伝えておいてくれ」
「何を」
「借りが一つできた。必ず返す、と」
それだけ言うと、ニドは背を向けた。
そして体を引き摺りながら、いずこかへと消えていった。
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