神通力というお荷物

 空はどこまでも黒く、星明かりも見当たらない。まるで底なしの穴、この世の深淵のようだ。

 何もかも逆さまになった世界。水が滴るように、炎は上へ上へと火の粉を散らす。それは頭上の底なし穴に向かって吸い込まれていく。そんな世界で、俺とニドもまた、あべこべに立っているのだ。


 いつの間にか、世界は反転していた。


 少なくとも、この世界の俺にとって、彼は幼馴染だったはずだった。リンガ村の惨劇からまもなく、三歳になる前の俺は、幾度となく悪夢に苛まれては悲鳴をあげた。その横で俺を見守ってくれていたのがウィストだった。同じ部屋で三年間、一緒に暮らした。

 もしかしたら、どこかで再会することもあるのでは、と思わないでもなかった。ピュリスの自宅で暮らし始めた最初の年の暮れ、俺は屋上に行き、エキセー地方の収容所のあったほうに椅子を向けて思いを馳せた。だが、時とともに感情は思い出に、思い出はただの記憶へと、少しずつ形を変えていった。

 グルービーの屋敷に招待されたときの、あの戸惑いを、今でも覚えている。俺の中では過去になりかけていたノーラが、いまだに俺に執着していた。彼女の中では、俺はずっと現在のままだったのに。

 アイビィを殺した後、ピュリスまで追いかけてきた彼女を、俺は努めて近付けまいとしていた。なぜだろう? もしかしたら、気付いていたからなのかもしれない。自分がどれほど薄情な奴かということに。

 人は、出会った人の数だけ顔があるという。なら、かつての俺は、どんな顔だった? 今の俺はどんな顔をしているのだろう?


 友人だった人間と、殺しあう。これくらい、なんでもない。

 俺にとって禁忌だったはずなのに、またそこに手を染めようとしている。本当に、何もかもがひっくり返ってしまった。


 だが、前世だって、実はそう違いなどなかったのではないか?

 家族として生まれついたり、同じ学校に通ったり、会社で働いたりして、友人みたいになる。でも、仲良くやれるのは、せいぜい傍にいる間だけだ。死の間際、三十代後半にもなれば、俺は嬉しくない噂話をいくつも耳にしていた。消えない友情などない。誰かの消息を知るのは、幻滅するのと同じことだった。遠くの親戚より近くの他人、とはよく言ったものだ。人と人の愛など、やはりたかが知れている。


 そんな中で、正義の看板を掲げる姿の、なんと滑稽なことか。

 友情、家族愛、愛国心……法律も、常識も、社会の仕組みの何もかもが、この正義に基づいている。空文化した、何の役にも立たない正義に。


 ふっと右腕を打ち振る。

 金属音が短く響いてすぐ途切れた。


「そんな手が通用すると思っているのか」


 ニドの作戦は、まったく古典的だった。

 上から俺を狙って爆発する火球を叩きつけてきた。だが、俺には火魔術の技術があり、これを軽減することができる。回避しながら『消火』することで、ほとんど傷を負わずに済んだ。

 彼の狙いは、その爆発に紛れて身を隠すことだった。そして今、燃え残った柱の影から、黒塗りのナイフが投擲された。予想されていた場所からの攻撃に、俺は何の苦労もなく対応できた。


「チッ」

「理解できないな。これがデクリオンの命令か? ファルスを殺せと……お前ごときにできると思って命令したのか?」

「うるせぇよ」


 もしかすると、ニドの独断かもしれない。どちらにせよ、大きな問題ではない。気をつけるべきは、彼の背後に別の大戦力があるか否か。それだけだ。ただ、多分それもないだろう。


「汚ねぇ奴に成り下がりやがって。そんなにいい思いをしてぇのかよ」

「それはこっちの台詞だ」


 こうやって喋りながら時間稼ぎ。多分、この大威力の『爆炎』は、そう連発もできない。強力だが、やはり扱いには困る神通力らしい。


「パッシャ……組織だったか? 魔王の下僕どもの仲間になって、何ができるっていうんだ」

「はっ! 国王陛下の飼い犬よりはマシだろうが」


 柱の影から、彼は俺への罵倒を繰り返す。


「ゴーファトを殺すためにきたんだろ? そうしないと、ピュリスで金持ち暮らしができなくなるから。意地汚ねぇったらねぇよ」

「前半はその通りだが、後半は全然違うな。俺は金にも身分にも、あまり興味がない」

「ふん、どうだか」


 さて、どうしようか?

 トドメを刺すため、或いは捕まえるために近付く?


 当然、ニドもそれが普通の選択だとわかっている。周囲が燃え盛っている今、そして居場所も明らかである以上、彼の投擲技術も、黒塗りのナイフも、そこまで有効な武器にはなり得ない。今の攻防で、小さなナイフを叩き落とすだけの技量がこちらにあるのは理解したはずだ。


 ということは、つまり……


「ドスケベ野郎が」

「スケベ? どうしてここでそんな話になる」

「ハハッ、知らねぇとでも思ってんのかよ。お前がずっと女を侍らせてたことくらい、とっくに知れ渡ってんだ。ピュリスにいる間中、あの富豪のグルービーが用立てた美女と毎日一緒にお風呂たぁ、随分と早熟なこった」


 どこでそんな尾鰭がついたんだろうか?

 だが、心を乱されないように保って、俺はこの時間を活用する。


「グルービーの屋敷でも、随分ともてなしてもらったんだろ? んで、奴が死んだら、ドナまで引き取って手元で養殖……あとで食おうって算段か。さすがはピュリスの変態王、いやはや、恐れ入るね!」

「言いたいことはそれだけか」


 準備が済んだので、俺はやっと一歩を踏み出した。


「いいや」


 わかりやすい。戦いの駆け引きを知らなかった昔の俺ならともかく、今の俺には通用しない。


「ここでくたばれ!」


 素早く柱の影から飛び出たウィストが、手をかざす。俺は避けようとして横に飛び退くが、奴はお構いなしだった。

 橙色の光が足下に集まって、球形をなす。その瞬間、俺は跳躍した。


「はっはぁ! 落ちろぉ……へあっ!?」


 常人の跳躍であれば、避けられなかったに違いない。だが、既に身体強化を済ませていた俺にとっては、建物の支柱の外側にまで飛び降りることも難しくなかった。

 ニドが放った火球は炸裂し、木造の床をぶち抜いた。その下に何があるかはわからないが……

 こうして、ホテルの東棟の一角は、真ん中からくり貫かれ、三階から上の外壁がポツンと残るだけの状態になってしまった。


「どうした!」


 地面の上に降り立った俺は、まだ上に取り残されたままのニドに声をかける。


「俺を殺すんだろう! 降りてきて戦え!」

「ちっ、この野郎」


 だが、ニドは生身の人間だ。魔術で強化されてもいない。三階からそのまま飛び降りたのでは、大怪我は避けられない。


「そら、いくぞ」


 手元に小さな火球を作り出し、俺は軽く投擲した。


「わっ!? くっ! ぬあっ!」


 大方、下のフロアに何か、危険な罠でも仕掛けておいたのだろう。そこに自分が落下したのでは助からない。だから、ほとんど縁だけになった三階の壁際で、必死に俺の攻撃を避けなくてはいけなくなった。


「畜生、待ってろ!」


 既に熟練の域に達した身のこなしではあるが、所詮は手がかり、足がかりを伝って下に降りるというだけのこと。俺はじっと動きを見て、彼が窓枠に手をかけたところを狙い撃ちした。


「あ、ひゃっ!?」


 目に見える火の球が飛んできたなら、ニドも上手に避けたかもしれない。だが残念、これは『四肢麻痺』だ。目に見えない魔法の矢が、彼の右手を突き刺した。途端に力が抜けて、滑り落ちる。


「うわああっ!」


 そのまま、無様に下の植え込みの上に落下した。といっても、そこは既に植え込みと呼べる状態ではなかった。さっきの奇襲の最初のところでニドが自分で屋根ごと吹っ飛ばしたので、その残骸も散らばっている。


「うっ、ぐっ……」

「焦りすぎなんだよ」

「な、なんだと」


 やることなすこと見え透いている。

 だいたいからして、パッシャが俺を本気で殺すつもりなら、ニドなんかに任せたりはしない。いや、ニドでは囮にすらならない。だから彼は、組織の命令によるのではなく、暴走してことに及んだのだ。或いは、ここで使い捨てるつもりで命令したか。

 どちらにせよ、その理由なら、おおよそ察しがつく。


「その炎、抑えが利かないんだろ」

「うっ」

「神通力っていうのは、新しい手足が生えるのと同じだからな。そのつもりがなくても暴発する。とりわけ、お前の場合は」


 主人となった貴族から、毎日のように焼き鏝をあてられて虐待された。その痛み、怒りが神通力の覚醒を促したとすれば。

 衝動的な怒りが炎の形をとるのだ。感情を完璧に制御できる人間などいない。ましてや、彼のように憎しみを背負っていれば、尚更。そして、何かのきっかけで気持ちが揺れ動けば、それだけで神通力は暴れ狂う。


 扱いにくいのは、神通力だけではない。ニド自体が、パッシャにとっては厄介なモノだった。

 なるほど、その復讐心は組織の目標とも合致するようにみえる。しかし、では、先日のあの処刑騒ぎについては、本人はどう思っていたか。

 あそこに並べられたのはタマリアやルークといった、被害者の側の人間だった。そして、あの場の戦いに、ニドはまったく参加していなかった。パッシャとしてもあんな形で俺を呼びつけることには、もしかすると賛成などしていなかったのかもしれないが……それでも、彼らはゴーファトを守る立場をとった。

 そのことに、ニドが不満を抱かなかった? そんなはずがない。こうやって先走って俺を殺そうとするくらいだ。かなりのところ、鬱憤が溜まっていたに違いない。

 力を与えてみはしたが、思った以上に、この少年は「きかん坊」だった。能力上の問題も相俟って、組織は早々に見切りをつけつつあるのかもしれない。そして彼もまた、それを察している、か。


「大方、組織もお前を持て余していたんだろう。そんな力がオマケについてきたんじゃ、到底、隠密の真似事もできやしないしな」

「こ、の、野郎」

「待ってろ。今、楽にしてやる」


 俺は剣を手に、ゆっくりと近付いていく。

 その時、雲間から月の光が差し込んだ。

 手にした剣が、銀色に輝いた。思わずその輝きに見入ってしまう。


 ……ああ!


 そうだ。

 やることは一つ。

 この剣を、まっすぐ心臓に突き立てること。それだけ。


 その憎悪は供物とするに相応しい。

 お前も無念の亡者達の群れに加わるがいい。


 それでこそ『時計の針』も、動きを止めるというものだ……


 急に頭の中が、真っ白な光に満たされた。

 説明のできない高揚感に導かれて、俺は夢遊病者のようなおぼつかない足取りで、前へ前へと進んでいった。


 ついに俺はニドの前に立った。

 彼は高所から墜落した衝撃から、まだ立ち直れていなかった。輝く剣を手にした俺を前にしても、立ち上がるでもなく、獲物を構えるでもなかった。

 どこかぼんやりしたまま、俺は無言で剣を掲げた。


「ま、待て! 待て、ファルス!」


 どこか遠くから声が聞こえる。

 手が勝手に動く。


「う、うおお」

「死ねっ!」


 視界に粗末な服を着た少年が大の字になって割り込むのと、その向こうにいた黒衣のニドが腕を突き出すのと、ほとんど同時だった。

 そして、俺の剣がごく軽い手応えを伝えてくるのも……


「ファルス!」


 少女の声で我に返る。

 俺は今、何を……


 ハッとして剣を引き抜く。

 突き刺したのはニドの胸ではなかった。トドメを刺そうとした俺を止めるために、割って入ったルークの胸。


「あ……!」


 状況を悟って、顔から血の気が引いていく気がした。どれくらい刺した?

 咄嗟に剣の切っ先を確認する。血に塗れているのは、ほんの一センチくらい。ごく浅い。

 ただ、その時、銀色に輝く剣を目にした。さっきはあれほど美しく、優しく輝いているように見えたのに、今は目を焼く。心にざらつく何かを擦り付けてくる。急に吐き気のようなものを感じた。


 それでも、とにかく傷は浅かった。なのにルークはなぜか、よろめき倒れた。


「ルーク!」

「なんだと……ち、畜生!」


 自分の体の上に倒れたルークに、ニドは必死で手を伸ばす。それはそうだ。なぜなら、背中側にも黒いナイフが刺さっていたからだ。ただ、さほどの深さではないようだ。ニドは弱り切っており、投擲の際に十分な力を込められなかったのだろう。これもルークが倒れこむと同時に、瓦礫の上に転がった。


 足音が迫ってくる。

 振り返ると、そこには必死の形相のアドラットが立っていた。


「なんてことだ!」

「ど、どうして」


 ルークがどうしてここまで戻ってきたんだ。連れて行ったんじゃなかったのか。


「済まない。逃げる途中で暴徒に鉢合わせた」

「そんな、ノーラがいたのに」

「話は後だ」


 アドラットは、倒れたままのルークの傍にしゃがみこんだ。


「ルーク、起きろ、ルーク! 返事をしろ!」

「お、おい、冗談きついぜ……お、俺がやったのかよ」


 俺を殺すのには躊躇のなかったニドが、傷つけるつもりもない相手にやらかしたことで、こんなにも取り乱していた。

 一方、アドラットからは安堵の吐息が漏れる。


「前後に傷はあるが、どちらも深くない。ニドといったな。君のナイフも、深いところには届いてはいない。大丈夫だ」


 それはよかった。

 しかし、だとしたらどうしてルークは目を覚まさない?


「ごめんなさい、私のせいで」

「君は悪くない!」


 大方、ノーラがバテて、精神操作魔術による安全確保にしくじったのだろう。ここまで連続して魔法を使い続けた経験がなかったから、ペース配分がわからなかったのだ。傍目にも消耗しているのがよくわかる。

 少し離れたところには、地面の上に横たわる傷だらけのプルダヴァーツと、その息子がいた。


「とにかく」


 周囲を見回しながら、アドラットは言った。


「このまま、ここに留まるのはまずい。さっきの爆発で人が集まりつつある」


 彼は立ち上がり、意識を取り戻さないルークを俺に預けた。


「全員、撤収だ。隠れ家まで急げ!」

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